さて本稿の序章では、近代医学の導入に遅れた中国で日清戦争後に日本学習ブームが高まった際、日本の近代医学に学ぶ風潮が生じたことを紹介した。一九〇〇年以後、すなわち同仁会が設立された後もその動きはなお続いていた。
『中外医学文化交流史』[1]によると、一九〇七年に訪日した清政府の大臣が文部省との会談で「五校特約協定」を締結した。この協定により一九〇八年から十五年間、仙台医学専門学校(現東北大医学部)で毎年十名の中国学生を受け入れることが合意され、実際に三年間協定通りに実施されている。他方、一九〇五年から一九三九年の三十四年間に日本の医学専門学校二十三校を卒業した中国留学生は計四百十四人に達し、同期間の留日卒業生の三・五%を占めていた。ただこの数字には大学医薬学部の卒業生は含まれていない。ちなみに同仁会の一九三〇年の統計は、日本の全医歯薬校の中国出身者を計千百六人としている[2]。
留日医学生らは日本で医薬学術団体を設立し、また学術書も出版するなど活発な活動を行っている[3]。たとえば千葉医学専門学校の留学生は一九〇六年に「中国医薬学会」を設立して『医薬学報』誌を、金沢医学専門学校の留学生は「中国国民衛生会」を一九〇七年春設立して『衛生世界』を、神戸の留学生は「中国精神研究会」を組織して一九一七年に鮑芳洲主編の『精神雑誌』を出版した。また東京薬学専門学校・東京帝国大学薬学科・千葉医学専門学校薬学科などの留学生は一九〇七年に「中華薬学会」を設立し、一九〇九年東京の明楽園で第一回年会を開き、王煥文を会長に選出。その会で『日本薬学雑誌』に倣った薬学雑誌の刊行を決め、一九一七年四月に「東京留日中華薬学会」の名義と汪聖陶・施明などの編集で『中華薬学会雑誌』を一年二回刊行した。この「中華薬学会」の活動は中国に波及し、中国薬学の発展に貢献した。
帰国留日医学生も積極的に学術団体を設立した。うち最も影響があったのは湯爾和・侯希民が一九一五年八月に設立した「中華民国医学会」で、『中華民国医学雑誌』を刊行している[3]。帰国した留日医学生は教育界・病院・研究所・政府の衛生部門で活躍し、『同仁医学』の「民国医界名士録」には日本の卒業者四十六名が記録されている[4]。
ところで、清政府も日本医学の学習に熱心だった。たとえば一九〇九年四月から六月まで丁福保を日本へ医学考察に派遣し、彼は中国医学と西洋近代医学の双方に精通したので、中国伝統医学の継承・発展には西洋近代医学との融合が必要という、いわゆる「中西合作」の考えを中国で最初に唱えた。また一九一四年までに計六十八書の日本医薬書を翻訳して『丁氏医学叢書』として編集、これには日本の漢方著作も七書含まれている。当『叢書』はローマ万国博覧会の最優等秀賞を獲得し、日本からは大陸文化賞が送られた[5]。一方、中国に招聘された日本人教師のうち、医学教育従事者は一九〇九年段階で約五十名おり、全日本人教師の一〇%を占めている[6]。
『中国近現代科学技術史』第十二篇[7]によると、辛亥革命後の一九一二年、北京に国立北京医学専門学校が設立されている。同年には浙江医学専門学校(杭州)・江蘇医学専門学校(蘇州)、一九一六年に省立直隷医学専門学校(保定)、一九二一年に江西公立医学専門学校(南昌)、一九二四年に湖北医学専門学校(武昌)が設立された。以上の六校は北洋軍医学堂と同様、すべて北洋政府が日本の明治政府の方式に倣って開設した政府管轄の医学校である。それゆえこれら医学校は医学教育制度も日本式で、日本人や留日帰国生を教員に採用、教材も日本書の訳本だったので、欧米の教会医学校と対峙する状況になっていた。
さらに日本の医療への信頼も高かった。第三代同仁会副会長の入沢達吉は同仁会設立の当時、中国の官僚に診察を依頼された事情を次のように回想している[8]。
両江総督の周馥といふ人の令息学海といふ人が病気なので、領事から外務省を経て文部省へ依頼になって、それで診察に行くやうな事になった。(中略)…上海で数時間船を待つ時間があった内に、領事からの依頼で、盛宣懐といふ人が病気で、是非診療して呉れと頼まれた。肺が悪いといふ病気で日本へ転地療養を進めた。(中略)…総督から是非数日滞在して、いろいろ医事衛生のことに付て尋ねたい。此息子さんが自分は官吏であるけれども、非常に医事の事に熱心であって、自分が出版した医者の書物が六十巻もあるから、是は遣物として進上するから、日本へ持って帰って呉といふ話でありました。
日本で医学を学んだ魯迅も、上海で日本人居住者が多い虹口区に住んだため、日本人医師を自分と家族の主治医とすることが多かった。『魯迅日記』に記載された日本の医療関係者は二十六人にのぼる[10]。中国では欧米宣教師が西洋近代医学の普及を熱心に行っていたが、明治維新後の日本の近代医学も注目され、多くの留日学生が医学を選択している。その中には帰国後、医学領域で頭角を現した人も少なくない。清政府とその後の北洋政府も日本の医学教育体制を模倣したのである。
要するに日中の関係がどうであろうと、民間にも政府にも日本医学を導入する状況があり、また日本の医療・医学を信頼・歓迎する人々もいた。同仁会の医療文化活動により、日本の医学・医療が中国に受容される下地はあったといえるだろう。
一九〇七年十二月十二日 清国答礼大使として来朝中の清国溥倫貝子殿下を名誉推戴員に奉請、随員李清芬外四名を有功特別賛助員に推薦す、殿下は本会の趣旨を喜び、金四百圓を下賜あらせらる。
一九〇八年一月 来朝中の清国視察使達寿を有功特別賛助員に、随員諸氏を特別賛助員に推薦す。
一九〇八年三月 清国両広総督端方氏銀一千圓を寄付せらる。
一九〇八年九月 有功特別賛助員盛宣懐氏より金百圓を寄付せらる、尚唐紹儀氏を有功特別賛助員に推薦す、同氏より金五百圓を寄付せらる。
一方、同仁会病院は中国人にどのように受け入れられたのか。以下の活動事例が参考になるだろう。
さて一九二二年八月、北京日華同仁病院で、ある患者を診察して細菌検査した結果、真性コレラ菌が発見された。病院はすぐに内外の新聞を通じて公衆衛生上の注意を喚起するとともに、「ワクチン」の無料注射を広告、日本と中国の医師にも病院細菌室特製の「ワクチン」を無料で供給した。この活動は中国官民の感謝と称賛を博し、排日の先鋒だった『北京晨報』すら「コレラの流行を未然に防ぎえたのは全く日華同仁病院の恩恵なり」と評価したという[16]。
一九二七年の漢口四三事件のとき、同仁会漢口病院の石井薬局長は街で総労働組合に拉致・監禁された。そこで病院に勤務していた中国人が組合に行き、当人は同仁会の医師なので穏便に願いたいと申し入れたところ、急に態度を一変して遂には同氏に小児の病気診察を乞うに至った。さらに事件のあと、毎日数名の中国人患者が万難を排して立ち入り禁止の租界内に入り、同院の治療を願ったという[17]。
なお同仁会北京病院の医師で後に一九三三年に院長になった塩沢七晟は、魯迅の母親の魯瑞も診察したことがある[18]。いずれも同仁会の診療への信頼を十分に窺わせよう。
(前略)…同地には外にドイツ人の海軍側の野戦病院のやうなものがあるが、之は官軍側のみに向っての救護である。それから日本の海軍の方の病院のごときものも一つあるが、其等はどれも同仁病院の広大にして完備せるには遠く及ばない。(中略)…それ故病傷者中の少し階級の高い将軍達は、自ら求めて同仁病院へ入院を依頼して来るといふ有り様である(以下略)。
あるいは一九二五年秋に始まった第三次奉直戦が済南に及んだとき、同仁会済南病院の牧野院長は日本赤十字社に資金供給を交渉。一二月一七日に三千五百円の支出を受けた後、同院の付属慈恵診療所を日本赤十字救護所の名義で開放し、診療薬価は全部無料にして収容患者の食費と特別処置費を前記の補助金から支出した。これはかなり内外に好感を与え、陸軍中将の徐鴻賓は済南病院に「仁民愛物」の扁額を寄贈し厚く謝意を表わしたという[22]。
以上のごとく、中国内戦に際して同仁会は軍の傷病者や戦火に苦しむ庶民に種々の救護活動を行っており、むろん好評を博さなかったはずはない。
同仁会の雑誌では以下の記録がある。『同仁医学』の一九三〇年新年号には、北平大学教授・日本医学博士の湯爾和、広州特別市衛生局長・フランス医学博士の何熾昌、南京特別市衛生局長・ドイツ医学博士の胡定安、北平陸軍軍医学校教官兼付属院長の陣輝・漢口特別市衛生局長の李博仁が賀詞を寄せている。一九三一年の同誌新年号では日中医界名士の「賀詞交歓会」が開かれ、中国から四十六人、日本から二十六人の賀詞が載る。また一九三二年の同仁会創立三十周年に際し、駐日公使の章作賓と前駐日公使の王栄宝、中国留日学生監督の劉燧昌など九人が『同仁医学』(第五巻五号)に祝詞を送り、一九三六年の『同仁』創刊十周年では湯爾和、満州医科大学教授の閻徳潤、天津市立結核療養所長の侯希民など十一人が『同仁』(第十巻十号)に祝詞を送っている。
同仁会は書籍も刊行した。一九二七年五月に華文医薬学書刊行会を開設し、日本の著名な医薬学書を中国語に訳して出版したのである。総計で四十一書に及び、多くは同仁会評議員でもあった北平大学教授の湯爾和とその門下の業績だった。たとえば湯爾和の翻訳は二書、校訳は十四書、息子の湯器の翻訳は二書、北平大学学長と湯の門下ら北平大学教師の翻訳は九書もある[23]。この北平大学を前身とする今の北京医科大学の図書館には、うち十七書が所蔵されている[24]。それらの序文を見ると、左記のように日本で版を重ねた書の中国訳が多いので、みな良質な書だったことが分かる。
『婦科学』第二版 『児科学』第三版また奥付によると、以下の書は翻訳版も再版されていた。
『泌尿器科学』第四版 『皮膚及性病学』第四版
『生理学』第七版 『精選解剖学』第八版の上で改定
『内科学』第一巻(一九三三年一〇月発行、一九四〇年二月再版)なお『同仁医学』が第二版の広告を載せるのは『眼科臨症要領』『外科学総論』[25]である。
『眼科学』(一九三二年三月第一版発行、一九三三年一二月第二版発行)
『皮膚及性病学』(一九三五年八月初版発行、一九四三年五月再版)
以上の例は北京医大所蔵書の序文と『同仁医学』の広告によったにすぎず、おそらく実数はもっと多いだろう。これら中国書訳本全体の売り上げは以下のようだった[26]。
一九三〇年:一〇二二.七七圓
一九三一年:一六一五.七二圓
一九三二年:五〇一五.一二圓
一九三三年:七七八〇.〇八圓
一九三四年:一一六五九.五三圓
一九三五年:一六〇一八.七七圓
一九三六年:一九一三三.〇四圓
一九三七年:二三八三二.三二圓
一九三八年:一一二〇一.七二圓
一九三九年:一六六一〇.六一圓
一九四〇年:二六五五四.三六圓
一九四一年:三二五六三.八九圓
一九四二年(上半期):二三四七六.〇四圓
右のように、中国訳医薬書の売れ行きは良好で、日中戦争が勃発した後も販売に大きな打撃は受けていない。これらの販売状況について、上海内山書店元店員の児島享氏は次のように語っている[27]。
昆明の軍官学校などへ、日本の医学書が非常によく売れました。医学書の出版社として、南山堂、南江堂、克誠堂、金原書店、吐鳳堂などを覚えています。同仁会が中国文に訳した本がよく売れましたが、軍官学校では原本と両方買ってくれました。よく売れた医学書で覚えているのは、岡島の解剖学、茂木の外科、呉内科、土肥皮膚性病学、志賀細菌学です。
翻訳書以外にも医学関連の書を別個に編集・出版した。医科大学の博士二十二名が執筆した『四季の衛生』は日中対訳であり、大いに歓迎された。購買者が絶えず、一カ所で数十部や百部を買った機関もある。これを教材に採用した学校は杭州医薬専門学校・上海江湾労働学校・上海南洋医学院・呉淞中国公学校などで、初版三千部は売り切れて再版された[29]。同様に編集した『医院専用日華会話』も売り切れ、改訂版が出された[30]。夏の伝染病の注意目的に編纂された『コレラ』は、『同仁医学』の読者と各関係団体に寄贈し、販売もしている[31]。
さらに若死した元留日学生陶烈の功績を世に伝えるため、『陶烈論文集』を出版した。彼は江蘇省の人で、京都帝国大学医学部を卒業後に東京帝国大学医学部の三宅鉱一に師事し、精神神経病学の研究に従事していた。研究論文の「人脳皮質下諸神経核の細胞容量」は一大労作という[32]。二十代で医学博士の学位を得た俊才であり、唯物論の立場に立つ明確な社会主義者であったらしい[33]。岡田靖雄氏が筆者に寄せた私信によると、兄は文学者の陶晶孫で、東大時代は精神病学教室の仲間に強烈な印象を残し、東北帝国大学で仕事をしたときは順天堂大学医史学初代教授の小川鼎三と親交があったという。
以上のように、同仁会の出版活動は雑誌や書籍を介し、啓蒙的医学知識から最先端の医学研究成果までを中国に伝えていた。同仁会の雑誌へ寄せられた中国医界の反響や中国訳医書の売れ行きからすると、こうした日本近代医学の普及活動は、かなり良好な成果を収めていたと考えていいだろう。
たとえば中国医師講習会の第一回は一九二七年一〇月に青島病院で開かれ、中国陸海軍医官や開業医など計七十二名が受講している。第二回は三〇年五月に漢口病院で行われ、開業医など百四十三名が、第三回は三四年一〇月に北京日本クラブで七十余名が受講している[34]。
講演者は日本から招いた著名な教授と開催地同仁会病院の医師である。第二回の場合、受講者には日本・アメリカ・ドイツ・フランスなど各国を卒業した医師、また中国伝統医も四、五名がいたという[35]。つまり日本派のみならず、欧米や伝統医学派の一部も日本人の医学講演に関心を示していたのである。
一九三六年からは毎年一回の医学大会開催が決まり、第一回は八月八日と九日に青島病院で行われた。北京・天津・上海などから中国医界の来賓が六人列席し、同仁会病院の医師を中心に二十五演題が発表されている。また東京帝国大学教授の永井潜・遠山郁三、青島にいたベルリン大学教授のヒユウボツタの特別講演があり、現地にいた日中の医師と医学生が聴講に臨んだという[36]。第二回大会は北京病院で開催する予定だったが、蘆溝橋事件の勃発で中止になった。
一九二九年六月、北京病院の創立満十五周年祝賀会に、同仁会は理事の医学博士・金杉英五郎と評議員の楠本長三郎を派遣し、一五・一六日に講演を行っている。また中国各医学校の要望で、三六年三月三日に慶応義塾大学医学部教授の藤浪剛一と同仁会東京病院長の金子義晁を派遣し、上海東南医学院・浙江省立医薬専門学校・山東省立医学専門学校・国立北平大学医学院で講演が行われた[37]。
同仁会の各病院では定期的な医学集談会が行なわれた。これは青島病院でもっとも長く続き、一九三七年七月まで百五回。ついで済南病院で六十一回、また北京病院九回、漢口病院一回である[38]。
一方、日本では中日医薬学生談話会が開催され、これは初め中国留日医学生のみの会合だった。のち医界名士の講演会や名所旧跡の参観なども加わり、一九三〇年一一月まで計七回が行なわれた。さらに日本の医薬学生を加えて両国学生の連絡提携を図りたいという学生の意見により、規程を定めて中日医薬学生談話会とし、医療施設の見学や旅行などが三七年六月まで計十回開催されている[39]。
さらに中国医事座談会が中国医界名士の日本訪問に際して開かれた。記録にある座談会は以下の三回がある[40]。
第一回は一九三〇年四月一〇日で、発言者は天津特別市衛生局長・全紹清、北平女子産科医学校長・瞿紹衡、広東国立中山大学医科教授・楊子驤、国立北平大学医学院長・徐誦明だった。
第二回は一九三五年七月一五日で、出席者は上海自然科学学校教授・彭豊根、上海東南医学院教授・陣卓人、南京軍医研究所所員・陶熾孫、上海南通大学教授・戴尚文、広東中山大学教授・荘兆祥、千葉医科大学皮膚科副手・王烈だった。
第三回は一九三六年八月一四日で、出席者は東南医学院教授の湯蠡舟・黄希明と元教授の戴尚文、浙江医薬専門学校教授の孫道夫と章志清だった。
以上のように同仁会が行なった医学講演と両国医界の学術交流や対話は、中国医界の賛同をかなり得ている。出版も含めたそれらの活動は、日本の近代医学・医療を中国に紹介し、両国医界にコミュニケーションの場を提供していた。一九二〇年代後半から日中両国の衝突が激化していったにもかかわらず、医学交流がある程度円滑に進んだことは評価していい。これには同仁会の努力とともに元留日医学生の助力も大きかった。
医薬書の中国訳はみな彼らが担当し、そのリーダー湯爾和は同仁会の評議員にも選出されている[41]。 賀詞を送ったり、交流活動に参加した中国人と「医界名士録」の元留日学生の名前・職務を照合したところ、政府の衛生部門・医学校・病院の重職が多かった。ちなみに前述の医師講習会で、第二回に百人以上の聴衆があったのは、漢口衛生局長で元留日学生の李博仁が武正一院長を助けて集めたためだったという[42]。
同仁会幹部と縁故があった人物もいる。上海中央衛生試験所長の陣方之博士が日本で住血虫の病理を研究していたとき、住血吸虫は甲州地方に多いため山梨県立病院の武正一院長に研究上の便宜を図ってもらったことがあった。その後、陣方之が北伐軍の軍医長になって武漢に入ると、それはたまたま武正一が漢口(武漢の一部)の同仁病院長に就任した時であり、互いにその奇遇に驚いたという[43]。また同仁会の医書中国訳に参与した北平大学学長の徐誦明は、同仁会理事で東大医学部教授の稲田竜吉に教わったことがあり、師弟関係にあった[44]。
湯爾和も日本留学時に、のちに同仁会理事をつとめた森島庫太や長与又郎と面識があった。彼は中国に帰国したのち政界・医界で活躍する傍ら、同仁会に助力をおしまず、会長の内田康哉や副会長の入沢達吉と親交を結び、同仁会北京病院の建設にも直接・間接に助けたという[45]。日本で築かれた間柄と師弟の情もあって、同仁会は中国で円滑な医学交流をなしえたといってもいいだろう。
さて二〇年代後半から日本は中国への侵略を強め、一九三七年の蘆構橋事件まで一連の事件・事変を起こしてきた。すなわち二七年の漢口事件、二八年の済南事件など。三〇年代からさらに露骨になり、三一年に瀋陽事件(九・一八事変)、三二年に上海事変と満州事変を起こし、ついに中国東北地方を植民地にした上、全面的な侵略姿勢を見せ始めた。各事件・事変が起こるたびに中国人の反日感情は激化し、日本商品の不買運動などの反日活動が巻き起こった。表で各病院の患者数の変化を見ると、二七年に漢口病院、二八年に北京病院と済南病院、三一・三二年には各病院とも激減している。当変化は、同仁会各病院の患者数が日中関係に敏感に反応したことを浮き彫りにしている。同仁会自編の『二十年誌』『三十年史』『四十年史』も、患者数の下落は各事件・事変後の反日風潮の影響だったと記す。
こうした反日感情・抗日運動は、同仁会の災害救援活動にも影響を及ぼした。『同仁医学』に「日本対中国水災之義挙幾付流水」(中国水害への日本の義挙は水に流されたも同然)[47]、という一文が掲載されている。これによると、一九三一年七月から長江が激しく氾濫した。同仁会はすかさず漢口病院を中心に診療救護班を組織、日本在留の中国医師・医学生を募集して現地に送り、薬品・衛生材料を蒐集・義捐して救援活動に励んだ。初めは中国側に感謝され、寄贈品も受け取られたが、救護第四班(中国医師団)が漢口に到着した時にちょうど満州事変が勃発したので、中国側の態度ががらりと変わる。
すなわち九月一七日の上海到着時は港で衛生署長の劉瑞恒ほか宋子文・孔祥煕・伍連徳などが出迎え、翌日には孔祥煕の歓迎会があった。しかし事変が起きた一八日に漢口に到着すると一人の歓迎者もなく、さらに中国国民政府賑災委員会は面会を避け、義捐品も拒絶した。これにより日本医薬界が寄贈した六万円相当の薬品、また中国水害同情会が集めた六十万円相当の物品は引き取り手がなく、山ほど積み重ねられた。まさに遺憾だったに相違なく、それを同記事は「此等経手者既非常費気損失、而義捐者又失本懐、不知其両者何以為情也。」(この関係者は意気消沈し、義損者も本懐を失った。両者の心情をどうしたらよいのだろう)と記す。同仁会は「以為医属仁術、当然超塵絶世、無国際政治之分。」(医は仁術で当然俗世を超絶し、国際政治と無縁)だというが、中国政府は「以葛藤如此、国交或断、夫何心兼受恵。」(かくもの葛藤で国交も断とうとするのに、どうして恩恵を受ける心になれよう)だったという。双方の当事者ともに当然の心情であろうが、この出来事は同仁会の救援活動すら日中の政治関係を超越できなかったことを教えてくれる。
このように日本の中国侵略開始にともない、同仁会の病院経営は悪化に向かい、救護活動まで挫折を強いられた。さらに三〇年代の初め、たて続けに起きた露骨な日本の侵略事件に対して中国の反日・抗日は一層激しさを増し、中国世論にも同仁会を非難する声が上がった。
一九三一年一一月、上海『医薬評論』誌第七十期に李子舟という読者の投稿が掲載された[48]。「暴日医薬侵略我国之一斑」(我が国への日本の医薬侵略の一斑を暴く)と題し、同仁会の組織と施設は政治・経済・文化の侵略を兼備していると主張する。具体的には、副会長の入沢達吉に政治的色彩があり、同仁会の活動には中国の内政探査と日本の恩恵の押しつけの面があると論じ、また同仁会の雑誌上で日本の医薬広告を掲載し売り込むのは経済侵略とした。さらに東京教育会館における中国医薬考察団の歓迎会で、小野理事が中日の医薬文化の提携を呼びかけたのは政治的宣伝だと決めつける。ある宴会の席上で入沢が「日本過小、中国過大、似不相称」(日本は過小で中国は過大、どうも釣り合わない)と発言したのも、中国の土地を日本が占領しようとするのを是認しているという。
同仁会の小野理事はすぐに『同仁医学』に「誨李子舟兼論『医薬評論社』」(李子舟をさとし、『医薬評論社』を論ずる)という反論を記し、李の批判を一々否定しようとした[49]。すなわち中国での同仁会病院以外は日本国内の活動であり、それを侵略などと議論する余地もない。中国の同仁会病院は院長・医師から薬局生・看護婦まで、「医即仁術」だけで政治経済の何たるかを知る由もない。医薬品の販売は中日とも貿易の自由であり、しかも薬商が行うことで同仁会とは無関係と強調し、自分と入沢副会長の談話に対する解釈は曲解にすぎず、「欲毀之語、何患無辞」(毀を欲するの語、何ぞ辞なきを患えん)と退ける。
このやりとりを嚆矢に、『医薬評論』と小野理事の論戦が始まった。『医薬評論』は第七十七号の社論に魏成之の「復小野徳一郎誨李子舟兼論『医薬評論社』」(小野得一郎の李子舟をさとし、『医薬評論社』を論ずにこたえる)を掲載し、李子舟の間接的な推測ではなく、より多くの事例を列挙して小野の弁解を質したのである[50]。
1 同仁会病院の経費は日本政府が支出しており、政府と無関係ではない。続いて七十八号も郭培青の社論「質問同仁会理事小野徳一郎的幾句話」(同仁会理事・小野得一郎の話のいくつかに質問する)を載せ、日本政府は済南事件後、なぜ済南病院を軍事計画中枢にしたのか、なぜ「医即仁術」の同院院長・牧野融が全身武装して日本軍の閲兵式に参加したのか、なぜ軍事長官はいつも同院で軍事会議を開くのかと詰問した。
2 同仁会済南病院・牧野院長は済南事件の後、親善の態度を一変して最も激しい侵略支持者となり、同仁会本部の懐柔的方針と意見が合わず辞職した。
3 満州事変後、済南病院は中央銀行の紙幣が通用しないと誤伝し、恐慌を引き起こした。
済南事件で日本軍は山東省に出兵し、現地の中国国民に大きな苦痛を与えた。そのなかで表では「医学普及・交流」を唱え、裏では軍の侵略に協力するという同仁会の姿勢が中国医薬界まで憤慨を招いたのである。それは小野理事の弁解に対する、これら『医薬評論』の一連の反論から読み取れる。さらに小野理事は「答郭培青君的質問」(郭培青君の質問に答える)で以下のようにいう[51]。
1 済南事件で済南病院が日本軍に占領されたのは同仁会の本意でない。軍事占領に対し実力をもって対抗できなければ、相手の要求に従うしかない。さらに小野理事は済南事件当時、済南病院が日本赤十字社と協力して同院に救護所を開設し、中国人傷病者を収容したことを事業報告書の一部を抄録して証明した。この中国医界の諒解を望んだ事業報告書の抄録は、小野理事の請求により『医薬評論』の八十二号に転載された[52]。
2 非戦闘員の済南病院長が「武装」して軍の閲兵式に参加するなど、絶対にあるはずがない。ただし閲兵式のとき、軍は居留民を招待する例があるので院長も参観し、ふだんから好きな狩猟服を着ていたのかも知れない。
3 病院が軍事占領をされた以上、日本の軍事長官がいつも同院に来て軍事会議の場所にしたのは当然である。
しかし事件発生の当時、同仁会本部が軍に全面的に協力するよう済南・青島病院に対し指示していたことは、すでに第一章で同仁会自身の記録で明らかにした。したがって病院が日本軍に占領され、やむを得ず軍事中枢にさせられたというのは当を得ない。済南事件後に軍事侵略の支持者となって同仁会本部と決別した牧野院長が、狩猟服を着て閲兵式に参列したというのも言葉につまった弁解にしかみえない。一方、小野理事は中国の傷病者を救護した事実で同仁会の潔白を証明しようとした。それで日本軍への協力が相殺されるはずもなく、読者の諒解を得るのは難しかっただろう。
『医薬評論』八十三号は、ふたたび李子舟の「以其治人之道還治其人之身ー訓日本同仁会理事小野徳一郎」(その人の道を治めるを以て、その人の身を治めるに還すー同仁会理事・小野徳一郎をいましむ)と題する小野理事への反論を掲載した[53]。同仁会は東アジアの衛生を改善するのを主旨とし、本部の機関は日本にあるから「侵略なぞ議論する余地もない」としたら、なぜ『同仁医学』を東京から中国に郵送して世間を惑わすのか。同仁会の施設が政治文化経済の侵略を兼ねていると指摘すると、すぐ慌てて弁解したことこそまさしく政治色彩があるのを物語っているなどといい、いささか感情的な文章である。しかし、その時は「上海事変」が発生したばかりであった。かつて孫文の旧友でもあった犬養毅は中日親善を唱えていたが、首相になるとすぐ軍を派遣して満州を占領し、上海まで攻撃した。上海にある日本人の福民病院も日本軍の軍事事務に協力している。李子舟はこれらの例を挙げ、中日親善を提唱するには別の目的が少なからずあるはずだといい、偽善的中日親善に裏切られた憤慨感を表わしている。同じ気持ちは同誌の「編者曰」にも出ている(カッコ内は筆者の補足)。
著者以明晰眼光、批評犬養、今犬養已矣。而所謂同仁会会長之内田、又張牙舞爪、登外交之台、而猛行其侵略政策矣。図窮匕見。事実即在目前。不知小野氏、又将何以解之。(著者の李子舟は明晰な眼光で犬養を批評したが、いま犬養が死した。そこにいわゆる同仁会会長の内田が張りつめた牙と舞う爪で外交舞台に登り、侵略政策を猛行している。謀略はきわまり、あいくちも見えた。事実は目の前にある。小野はこれを弁解できるだろうか。)
以上のごとく小野は同仁会の活動を再三弁解したが、ついに『医薬評論』誌の理解を得ることはできなかった。同誌は一九二九年に中国薬学会が創刊し、医薬知識を啓蒙し、衛生について議論するなど、かなり影響のあった衛生誌である[55]。中国薬学会の前身は留日薬学生が一九〇七年に東京で設立した中華薬学会であることは前述した。日本と浅からぬ縁のあった学会である。そのせいか同誌一九二九年十八号は主編の?民誼に宛てた小野の中国訳医薬書出版を知らせる手紙を掲載したが[56]、その三年後にあえて同仁会を非難する文章を掲載し、さらに小野との論戦まで発展させた。これは信頼もした日本医学が侵略に利用され、日中親善にも裏切られ、かれらの日中文化交流まで汚されてしまったことへの隠しきれない怒りの発露、そのものであった。
すなわち同仁会が近代医学と医療の普及にはたした役割は一定程度認められた。とくに翻訳・販売した医薬書が、両国の関係を超えて中国に受け容れられたのは評価していい。しかし特殊な時代であり、これら以外の活動は反日潮流の抵抗を受け、さらに侵略への協力が中国医界の離反を招いた。日本近代医学の普及という同仁会の目的は、最終的に開花以前の蕾のまま枯れ落ちてしまったのである。
日清戦争後、日本での「清国保全論」と中国での日本ブームという背景があり、日本医界の一部と東亜同文会の幹部により同仁会が設立される。アジア近隣国に日本の近代医学と医療を普及させ、ひいては親善と平和の促進をその活動目的としていた。当初は民間組織の色彩もあったが、国庫補助に活動資金を依存し始めると、目的は次第に政治・外交・経済における日本の国益確保に裏面で変化していく。さらに二〇年代後半からの日中関係の悪化とともに政府の関与が顕在化し、実態はほぼ政府直轄ともいえる「対アジア利益医療団体」にまで変質する。これは日本の中国侵略過程とも並行していた。
一九〇二年から一九一二年の草創期には民間組織として運営されていたが、中国における日本の利益と多くかかわる各都市にまず医師を派遣、日露戦争後は東北地方で日本軍政署の病院を継承・運営する。ほぼ同時に中国人医学生の養成目的で東京に開設された同仁医薬学校は、本校精神に「帝国の進運を翼賛」と記す。当時創刊の『同仁』誌も大陸経営を論ずるなど政治色が強く、さらに中国情報誌でもあった。 一九一二年から一九二五年頃の調整期には政府から多額の国庫補助を受け、半官半民の様相を示す。また中国侵略と歩調を合わせ、満鉄への病院の譲渡や病院建設計画を修正している。一九二五年から一九三七年までの発展期には官的側面が一層深まり、一連の侵略事件・事変に伴う日本軍への協力は中国医界の知るところとなり、彼らの失望も招く。他方、一九三〇年には中国医薬と文化機関の詳細な調査事業も新たに開始していた。
各地同仁病院の建設や運営、とりわけ北京病院は欧米系病院との隠然たる軋轢があり、強い対抗意欲をかき立てられている。上海では欧米の医界と対立し、日本の医学権威を確立させる病院を目指したが、建設すら達成しえなかった。患者もキリスト系欧米病院は中国人中心で、同仁会病院は日本人・中国人が半々だった。一方、二〇年代の同仁会新規文化事業にも、欧米文化事業への対抗意欲が認められた。しかし欧米系の優勢は歴史背景・資金量ともに明らかで、様々な努力が重ねられたものの十分に対抗しえず、けっきょく欧米の影響を削ぐほど成果は得られていない。
ところで中国には日本の医学・医療への信頼が近代から生まれており、同仁会が日本の最新医学と医療を中国に普及させうる可能性はあった。中国の医師と連携した活動も各種実行していた。しかし二〇年代後半から日本政府が中国侵略を強めると、医療活動は反日運動にさらされる。このように同仁会が日本の医学と医療の普及にはたした役割は確かに認められ、とりわけ中国訳医薬書は両国の関係を超えて受け容れられた。しかし、これら以外の活動は反日運動の抵抗を受け、ついに同仁会のあらゆる目的は一つとして結実を見ることがないままに終わってしまう。
すると同仁会の存在と活動は、日中関係にどのような役割を果たしていたと言うべきだろうか。本稿では同仁会の担った役割を三点、史実として明らかにしえた。第一に日本の中国侵略への協力、第二に欧米文化事業への対抗、第三に日本の近代医療・医学の普及である。再度それらの程度と消長を考えてみたい。
本稿では論及の範囲外としたが、第一の役割は蘆溝橋事件後さらに増大している。もちろんそれ以前でも増大の一途だった。第二については十分に達成しえなかったが、まったく果たせなかったわけでもない。第三については当初かなり成果を収めつつあったにもかかわらず、第一が原因で頓挫してしまう。つまり時間的にも程度的にも侵略への協力こそが、日中関係において同仁会の最も特徴的な役割だったことになる。なぜだろう。
同仁会の活動を実際に担ったのは医療従事者であり、彼らがみな侵略ないし侵略に協力する意識や意図を抱いていたはずはない。これには別な理由がさらに重なっていると考えざるをえない。すなわち近代以降の日中関係の複雑さである。
本稿でも触れたが、近代化を中国より早くかつ急速に成し遂げた日本は、日清戦争以後から軍事的あるいは政治・経済的にも優位に立ち続けていた。おそらく同仁会の全員にその優越意識が無自覚的であろうが存在していただろう。それゆえ侵略に加担する意識が一切なかったとしても、それを看過さらには次第に関与してしまったのである。その結果、彼らが尽力した第二・第三の役割までおよそ無意味なものになってしまった。
本来、是となる側面もあった同仁会の活動は結局、現代に肯定的影響の一つも遺し得なかったのである。中国で千を越える会員が四〇年間の努力を傾注したのに、あたかも無に帰したごとく。正面から取り上げた研究も皆無だった。その理由は上述のほかにもまだあろう。これら要因が複雑に錯綜し、かつて一面的な分析や評価を拒絶してきたように思う。
本稿は同仁会研究の端緒を開いたにすぎない。さらに史料の探索と分析が続けられねばならないことも当然である。あるいは本稿に修正の余地が出るやも知れない。これを今後の課題としたい。
謝辞:本稿の作成にあたり文献資料の閲覧にご便宜をいただいた東京大学医学図書館・国立国会図書館東洋文庫・北里大学白金図書館・北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部・順天堂大学医史学研究室・中国中医研究院中国医史文献研究所・北京医科大学図書館、および資料の教示と貴重なご助言をいただいた真柳誠・泉彪之助・中西淳朗・鄭金生・岡田靖雄・梁継国・吉川正洋・江川義雄・程之範・張大慶・小曽戸洋・加納喜光・西野由希子の各氏に衷心より深謝申し上げる。
[2]『同仁医学』三巻九号九〇頁、東京・同仁会、一九三〇年。
[3]前掲文献[1] 、四四八〜四四九頁。
[4]『同仁医学』二巻七号〜三巻九号「民国医界名士録」(東京・同仁会、一九二九年〜 九三〇年)に記載された日本の医学校卒業者は以下のようである。
厳智鍾(国民政府衛生部医政司長、東京帝大医一九一五年卒) 金宝善(国民政府衛生部保健司長、千葉医大一九一八年卒) 陳方之(国民政府衛生部技監・中央衛生試験所長・医博、東京帝大医一九一七年卒) 伍連徳(国民政府軍政部陸軍署軍医司長、東京帝大医博) 江聖鈞(浙江伝染病院院長、一九二三年同省立医薬専門学校教授、大阪医大一九一六年卒) 石増栄(長春吉長鉄路総医院院長・医博、南満医学堂一九二〇年卒、京都帝大医一九二二年卒) 余霖(国民政府陸軍軍医監・医博、九州帝大医一九二二年卒) 周威(一九二七年南京特別市衛生局長、金沢医専一九〇九年卒) 張任華(青島市衛生局長、長崎医専一九一九年卒) 呉済時(南京江蘇省立医院医長、京都府医大一九一二年卒) 侯宗濂(北京協和医学校教授・医博、南満医学堂一九二〇年卒、京都帝大医留学) 夏禹鼎(寧波第一公立医院医師・南京姚家巷城南医院医師、九州帝大医一九一二年卒) 葉毅(一九二一年粤桂連軍医院院長、岡山医専一九一六年卒) 湯爾和(北平大学生物学教授・医博、一九二一年国立北京医学専門学校長、一九一二年王寵恵内閣教育総長、一九二三年東京大震災中国赤十字会慰問使、一九二六年顧維鈞内閣内務総長、一九二七年財政総長、金沢医専一九一〇年卒) 劉曜曦(満州医大助教授兼遼寧医学専門学校教授・医博、一九二八年京都帝大医で研究) 閻徳潤(満州医大教授・医博、一九二九年東北帝大で研究) 朱其輝(浙江医薬専門学校長、千葉医専一九一四年卒) 金子直(国民政府衛生部課長
、千葉医専一九一四年卒、早稲田得業士) 侯毓{サンズイ+文}(天津特別市衛生局課長、千葉医専一九〇八年卒) 馮啓亜(南通医科大学教授兼付属医院産婦人科主任、東京女子医専卒) 徐誦明(国立北京大学医学院院長兼病理学主任教授、九州帝大医一九一八年卒) 楊暁嵐(一九二九年南京特別市衛生試験所長兼衛生局技術課長、東北帝大医一九一五年卒、一九二八年東京伝研で研究) 万家福(一九一六年浙江第六師衛戍病院長兼軍医部長、金沢医専一九〇八年卒) 盛在{王+行}(浙江病院長兼浙江省立医薬専門学校教授、大阪高等医一九一四年卒) 汪尊美(元浙江省立医薬専門学校教授
、大阪高等医一九一五年卒) 汪桐美(元浙江省立医薬専門学校校長、 大阪医大一九一六年卒) 葉秉衡(元江蘇省立医学専門学校薬学主任・北平大学医学院教授、長崎医専一九一一年卒) 蔡文E(一九一三〜一九二二年江蘇省立医学専門学校校長、京都高等医一九一二年卒) 丁求真(杭州西湖肺癆療養院長兼浙江医薬専門学校教授、千葉医専一九一四年卒) 余巌(社会医報編集主任・元浙江省立医薬専門学校教授、大阪医大卒) 李国幹(漢口特別市衛生局長兼市立医院長、京都帝大医一九一九年卒) 郭g元(上海東南医科大学校長兼東南医院長、千葉医専一九二二年卒) 孫洞環(東三省陸軍衛戍病院長、大阪高等医一九一〇年卒) 李定(南洋医学院教務長、千葉医専卒) 謝{竹+均}寿(上海東南医科大学教授、一九二一年東京帝大医科選科) 王佶(浙江省立医学専門学校教授、千葉医大一九二四年卒) 王世楷(第五路軍兵站医院院長、長崎医大一九二四年卒) 呉宗慶(上海南洋医学院院長兼事務長、愛知医専一九一八年卒) 孫孝寛(南洋医学院外科講師、京都帝大医一九二〇年卒) 夏建安(上海南洋医学院病理学教授、大阪医大一九一七年卒) 石錫{示+古}(北平大学医学院眼科教授、東北帝大医一九一二年卒) 黄震亜(浙江省立医学専門学校教務長兼教授、東北帝大医一九一五年卒) 潘其{土+熏}(元国立北京医科大学教授、岡山医大一九二三年卒) 戴尚文(南通大学医科教授、東京帝大選科卒業、伝研研究員) 戴隷齢(鎮江弘仁医院院長、元北京陸軍軍医学校校長、長崎医専一九〇九年卒) 瞿紹衡(北平女子産科学校校長、大阪医大一九一六年卒) 周夢白(中華民国薬学会執委、一九二〇年北里研究所化学室研究) ケ光済(貴州省立医院院長、千葉医専一九一七年卒) 湯記湖(上海東南医学院医務長、千葉医大卒)
[5]高毓秋・真柳誠「丁福保与中日伝統医学交流」『中華医史雑誌』第二十二巻三号一七五〜一八〇頁、一九九二年。
[6]吉野作造「清国で働く日本人教師」『国家学会雑誌』第二十三巻五号七八頁、一九〇九年。
[7]程之範・張大慶「近代医学体系的萌芽」董光璧編『中国近現代科学技術史』第十二篇一〇九五頁、長沙・湖南教育出版社、一九九七年。
[8]入沢達吉「渡清雑感」『同仁』五号七〜八頁、東京・同仁会、一九〇六年。
[9]橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』(復刻版)五一二頁、東京・名著普及会、一九八二年。
[10]泉彪之助「魯迅日記における医療-第二報 医療関係者・医療機関」福井県立短期大学研究紀要第十六号六〜九頁、一九九一年。
[11]同仁会『同仁会四十年史』六七五〜六七七頁、東京・同仁会、一九四三年。
[12]前掲文献[11]、九頁。
[13]南京に派遣された早川記作が『同仁』誌に寄せた手紙によると、彼が出発の際、中国留学生などより数通の紹介状をもらい、到着後非常な便宜と援助を得たという(「清国南京通信」『同仁』一号一六頁、東京・同仁会、一九〇六年)。
[14]前掲文献[11]、一〇三頁。
[15]大谷是空「長江沿岸に於ける日本医師の成功」『同仁』六五号七頁、東京・同仁会、一九一一年。
[16]前掲文献[11]、八二頁。
[17]安西金平「漢口動乱に直面して」『同仁』第一巻七号二三〜二四頁、東京・同仁会、一九二七年。
[18]前掲文献[10]、五頁。
[19]前掲文献[11]、一二〇〜一二一頁。
[20]五百木良三「革命戦況実地視察談」『同仁』六八号九頁、東京・同仁会、一九一二年。[21]中山茂「日中科学技術史における国際関係」吉田忠・李廷挙『日中文化交流史叢書科学技術巻』四七七頁、東京・大修館書店、一九九八年。
[22]前掲文献[11]、一二二頁。
[23]前掲文献[11]、一九八〜二〇三頁(湯器が湯爾和の息子であるというのは一九四二年出版の幼松著『湯爾和先生』一八四頁による)。
[24]真柳誠氏の調査によると、北京医科大学図書館所蔵の同仁会漢訳医学書には以下の書があった。いずれも奥付から見る限り日本で印刷・製本されており、印刷・発行年ともに日本の年号で記されている。 医学博士・林春雄著『薬理学』一九三〇年一月一〇日発行。医学博士・石原忍著・初版『眼科学』一九三二年三月二五日発行。第二版『眼科学』一九三三年一二月二〇日発行。医学博士・橋田邦彦著『生理学』一九三四年九月三〇日発行。医学博士・中村政司著『児科学』一九三五年八月二五日発行。入沢達吉監修『内科学』第一巻一九三三年十月二五日発行、同第二巻一九三四年四月二〇日発行、同第三巻一九三五年三月三〇日発行、同第四巻(上)一九三六年九月五日発行。医学博士・茂木蔵之助著『外科学』(各論上)一九三六年一月一日発行。『外科学』(各論中)一九四〇年一月二十日発行。医学博士・平光吾一著『組織学』一九三六年五月一日発行。医学博士・安井修平著『婦科学』一九三六年八月一日発行。医学博士・木下正中著『助産学』一九三七年四月一〇日発行。医学博士・木村哲二著『病理学』(上)一九三七年四月三〇日発行、同(下)一九三八年 六月一五日発行。医学博士・西成甫著『精選解剖学』一九三七年一二月二〇日発行。医学博士・土肥章司著『皮膚及性病学』一九四三年五月一五日発行。
[25]『同仁医学』第九巻六号二三頁、一九三六年、同第十巻五号五二頁、一九三七年、東京・同仁会。
[26]前掲文献[11]、一九七〜一九八頁。
[27]泉彪之助編、内山正雄・児島享ら著『魯迅と上海内山書店の思い出』二〇頁、泉彪之助発行、一九九六年(非売品)。
[28]『同仁医学』第三巻九号九一頁、東京・同仁会、一九三〇年。
[29]『同仁医学』第三巻六号九二頁、東京・同仁会、一九三〇年。
[30]『同仁医学』第九巻六号二七頁、東京・同仁会、一九三六年。
[31]『同仁医学』第十一巻八号九二頁、東京・同仁会、一九三八年。
[32]『同仁医学』第九巻九号七九頁、東京・同仁会、一九三六年。
[33]山崎朋子『アジア女性交流史』一〇五頁、東京・筑摩書房、一九九五年。
[34]前掲文献[11]、一八七〜一九三頁。
[35]『同仁』第四巻七号一五頁、東京・同仁会、一九三〇年。
[36]『同仁』第十巻九号七一頁、『同仁医学』第九巻九号八〇頁、東京・同仁会、一九三六年。
[37]前掲文献[11]、一九三〜一九四頁。[38]『同仁医学』第十巻八号八二頁、同五号九四頁、同七号八六頁、一九三七年、同第九巻九号七八頁、一九三六年、東京・同仁会。
[39]前掲文献[11]、一八三〜一八五頁。
[40]『同仁』第四巻五号一三頁、一九三〇年、同第九巻九号二二頁、一九三五年、同第十巻十号一二二頁、一九三六年、東京・同仁会。
[41]前掲文献[11]、二八頁の旧役員の名簿による。
[42]秦佐八郎・宮川米次「中国医師講習会より帰りて」『同仁』第四巻七号一五頁、東京・同仁会、一九三〇年。
[43]入沢達吉「支那の旅」『入沢先生の演説と文章』八〇四頁、入沢内科同窓会、一九三二年。
[44]『同仁医学』第三巻五号七頁、東京・同仁会、一九三〇年。
[45]前掲文献[23]所引の『湯爾和先生』一八五〜一九三頁による。
[46]「同仁会医院年度別患者統計表」(『同仁会三十年史』三三八〜三四〇頁、東京・同仁会、一九三二年)、および前掲文献[11]の八四〜八五頁・一〇六〜一〇七頁・一一〇〜一一一頁、一一四〜一一五頁の統計より作成。
[47]前掲文献[11]一二九〜一三八頁、『同仁医学』第四巻十一号六七〜六八頁、東京・同仁会、一九三一年。
[48]『医薬評論』七〇期、上海・医薬評論社、一九三一年。
[49]『同仁医学』第五巻三号八五〜八七頁、東京・同仁会、一九三二年。
[50] 『医薬評論』七八期三〜四頁、上海・医薬評論社、一九三二年。
[51]『同仁医学』第五巻八号一〇〇〜一〇三頁、東京・同仁会、一九三二年。
[52]『医薬評論』八二期三六〜三八頁、上海・医薬評論社、一九三二年。
[53]『医薬評論』八三期一〜三頁、上海・医薬評論社、一九三二年。
[54]『近現代史辞典』三〇七頁、東京・東洋経済新報社、一九七八年。
[55]『中国医学百科全書 医学史』一〇一頁、上海科学技術出版社、一九八七年。
[56] 『医薬評論』一八期四〇頁、上海・医薬評論社、一九二九年。