欧米の宣教師や教会による医療施設は一九世紀中頃より中国全土に広がり、二〇世紀の初頭には設備の整った近代的病院や医学校が重要都市であいついで誕生していた。すでに本稿Tでふれたが、同仁会の設立背景にはこれら欧米医療の中国進出への対抗が一つにあった。当時の医界新聞が「人類社会物質的方面に向って最も直接密着の関係を有する医術の性質は自ら人心を吸引するの力大」[1]と考えるように、中国の人心が欧米医療に吸引されるなら、当然その文化も受入れやすくなり、政治的・経済的な利便を欧米に与えてしまう。そうした影響が中国で拡大するなら、日本の中国における安全や権益がそがれてしまうだろう。この論理により、日本が大陸拡張政策を実施する過程において、欧米の医療事業は軽視できない障碍となっていた。同仁会にも「医学医術を以て彼の人民の病苦を救済し、以て彼らを懐柔」することで、アジアにおける日本の国益に資す意図があった。それゆえ既存の欧米医療文化事業への対応策が必要とされたのである。
さて中国への西洋医学の伝播は、欧米宣教師の宣教活動に併行している。『中外医学文化交流史』[2]によると、一六世紀以降から中国に来た宣教師には、診療所を開設したり、清・康熙帝の病気を治して褒賞された者もある。しかし一七二四年に宣教禁止令が出され、のち百年近くは宣教師の活動がほとんど西洋科学の教授に限られた。一八世紀末になると、プロテスタント系が宣教師を中国に派遣し始め、宣教活動を行ないながら診療所を開くことが再び行われた。有名なのはイギリス人の馬礼遜(Robert Marrison)、アメリカ人の伯駕(P. Parker)などである。
一八二七年には外科助医師の郭雷枢(Thoms Richardson Colledge)が東インド会社中国拠点のマカオで眼科医院を開き、貧民に無料診療を行なって大いに感謝されたという。彼は一八三六年に“Suggestions with Regard to Employing Medical Practioners as Missionaries to China”(『中国への宣教師に医療従事者を採用することに関する示唆』)を出版し、「中国国民の信任を広く得るため、医界の善士たちは中国に来て善事をしてください。これにより美しく疵のないキリスト教を徐々に受け入れられるよう平らな道が敷けるのです」、と呼びかけた。本書の影響でたくさんの医学宣教師が中国に押し寄せてきたという[2]。
『中国近現代科学技術史』[3]によると、阿片戦争以後、一連の対外不平等条約の成立に伴い、わずか数年間に五つの開港都市すべてに教会病院が建設された。第二次阿片戦争後は中国で病院を開く欧米の権限がさらに拡大され、内陸各省にも教会病院が建設された。教会病院は初め徒弟方式で中国人助手を訓練したが、それでは中国全土へ拡大させる目標に及ばず、しばらくすると医学校を開設するようになった。教会医学校の学制・カリキュラム・テキストはおよそ、その教会が所属する国の方式を踏襲している。また学生を引きつけるため、教会本国でも学生登録した例は多い。それら学校の卒業生は教会医学校と教会本国から計二枚の卒業証書をもらえ、しかも登録した国の大学に無試験で直接進学することもできた。こうした一連の措置で学生の誘致に努めたので、教会医学校は中国近代初期の医学教育に重要な位置を占めるに至った。と同時に、近代医学教育理論・立法・制度も中国に伝えた。
以上概観したように、一九世紀までの欧米による医療活動は宣教手段として行なわれ、対外不平等条約の成立にしたがい中国各地へ進出するとともに、近代医学の伝播に大きな役割を果たしている。
(前略)…英米仏独等の諸国は各々巨万の資を投して広大の病院を此の地に設立し、自国の居留民の診療は言ふに及ばず、清国人の困窮者には施療をも為しつつありて其の成績見るに足るべきものあり。抑も北京は国の中枢にして諸大官の居る所なり。この国の如き国柄に在りて、この国に事業を為さんとするものは、必ず先ずこの中標を閉却すべからず(以下略)…。
ところで北京病院は無事に開院を果たしたが、小規模で設備も貧弱だった。とくにアメリカのロックフェラー財団が資金を投じて建設した協和医学堂の隣にあったため、とかく比較されて日本の名誉にもかかわった。一九一四年三月に大隈会長に提出された「同仁会事業補助請願書」は、「今や北京の一地に見るも英、米、独、仏の医事施設は共に巨万の資産を投じ広壮なる病院を設け競競として唯人後に落つることを是れ恐る」と、彼らの心情を吐露する[7]。さらに平賀精次郎も、一九一五年一月に首相官邸で開かれた同仁会理事会で次のように報告した[8]。
(前略)…最遺憾に感しまするのは他ではありません、病院屋舎の狹隘なると、設備の不完全なる為に、上流の患者は収容する能はざるのみならず、全ての来院者に対して満足なる治療を行ふ能はず。夫が為に諸外国経営の病院と比肩することが出来ませぬのは、実に我が日本人経営の唯一たる同仁会病院としては、誠に恥かしきこと存じます(以下略)…。この状況改善のために北京病院拡張新築問題が議事日程に乗せられ、「建築請負者が会に資金の出来る迄立て替えるから、建築に着手すべし」という冒険的な提案があり、万一の場合は個人として責任を尽くすと丹波副会長は決心した[9]。こうして会の財政と寄付金の募集がまだ好ましくないにもかかわらず、工事が始まったのである。しかも国庫補助が決まった後、すぐに予定を変更して一部の資金をまた施設の拡張に振り替えた[10]。こうして日本の名誉のため、欧米列強と病院経営の優勢をきそうことに拍車がかかった。
協和医学堂に隣接していたことは、北京病院にとって最強のライバルと向かい合うことである。しかし規模にしても設備にしても協和医学堂がはるかにリードしており、外国病院の模範的存在だった。その前身は、一八六五年頃にロンドン会の宣教師・徳貞(John Dudgeon)が創建した双旗杆病院といわれる。のちロンドン会など教会組織による「河北教育協会」が北京で連合病院と医学校の建設を計画し、一九〇三年に慈禧皇太后の支持を得て、協和医学堂は中国政府が初めて認可した教会医学校となった。そして主楼と学生楼が一九〇四年に竣工されている[11]。
一九一三年、ロックフェラー財団は新しい役員会を選出し、この会にロックフェラーの顧問・盖茨(Frederick Gates)が中国に西洋近代医学を伝える計画の制定を勧めた。この勧告に基づき同財団は一九一四年に委員会を設置して中国の公共衛生と医療の現状を調査し、その調査報告と提案により同年十二月に中華医学基金会を設立、中国への医学進出を開始した。一九一五年、中華医学基金会は協和医学堂を買収して経営管理に乗り出す。当時の年度予算は五万三千米ドルだった。一九一七年には百万元の投資でもとの場所に近代的医学校の建設が決まり[12]、一九一九年に解剖・生理・化学棟が落成して一大医学基地となったのである[13]。
他方、同仁会の北京病院は前後三回の拡張工事を行い、一九二一年には二階だての本館・付属建物三棟・病舎八棟・宿舎十二棟・機関室四棟・倉庫四棟が完成して面目を一新するに至ったが[14]、協和医学堂とはなお天地の差があった。それゆえ二十年代は協和医学堂の黄金時代と称され、アメリカの学者John.Z.Bowersは「アジアの新たな医学センターであり、ヨーロッパやアメリカの先端的医学センターと同等」と評価する[15]。
かくも圧倒的な協和医学堂の存在に対し、北京病院は中国人患者の診療に特に意を用いて対応した。たとえば診察料の軽減や診療費をごく少額とし、さらには無料診療の方法までとった。二一年三月には新たに隣接する一家屋も借りて無料の施療所を開設した。このような努力で時には協和病院を凌駕する患者数だったという[16]。一九二五年度における両病院(協和病院は二四年七月一日〜二五年六月三〇日)の患者数[17]を表6に示す。
本表によると北京病院の患者は外来が協和病院の半数強なのに、入院数は協和の二・四倍に達している。このように協和病院を時に凌駕することもあった。しかし、経費・規模・設備ともに協和とくらべものにならないのは常に同仁会の遺憾としたところで、一九二二年五月と一九二三年二月にそれぞれ二十万円の増築補助を申請したが、どれも許可されなかった[18]。
これで上海病院と付属医学校の計画はいったん頓挫したが、同仁会はその実現を断念しなかった。一九三〇年、日本外務省の東方文化事業部上海委員会は、上海自然科学研究所付属病院の経営を同仁会に委託しようとした。しかし場所がフランス租界で日本人居留地に遠い。そこで関係方面と協議した結果、共同租界外の土地に東方文化事業部委員会が病院を建設し、同仁会に委託経営させることを一九三四年に決めた[21]。
同仁会は上海病院の建設になぜかくも固執したのだろう。一九三一年、同仁会評議員の下瀬謙太郎は「上海在留の邦人医師」という文章で次のようにいう[22]。
(前略)…上海に在住する日本人医師の数は約五十人に達して居るさうであります。(中略)…然しながら欧米人設立の病院のやうに専ら中国人の為めに経営されている日本病院は今日の処一つもありません。(中略)…同仁会の目指す所の同仁精神は、上海では専ら外国病院が遂行しているという有様であります(以下略)。
この上海病院の特色について、同仁会理事の小野徳一郎は一九三四年にこういう[23]。
(前略)…上海における医療機関は、殆んど普及していると言っていいと思ふ。従って若し同仁会の病院が、此等の病医院と同じ様に患者の治療、並びに投薬のみを以て、能事足れりとするならば、それは単に彼等と無意味な競争をするといふに止まり、必ずしも有用の事業とは、云ひ得ないであらう。…(中略)若し本院を以て、研究的方面に重点をおき、中国に於て活動せんとする中日医学者の指導誘掖に任ぜしめんとするならば、学識才能の必要なるは無論のことながら、更に之等研究者を心服せしむるに足る識見と、徳望とを兼ね備へた一流の人物を招聘せねばならぬ(以下略)。
しかし、こういった同仁会の理想を理解しない日本人もいた。一九三五年の『医海時報』二一三三号は「雑報」に「転向を要すべき同仁会病院事業」という記事を載せ、「五十万円病院を以て一千万円病院に対抗せんとするは時代錯誤である否、寧ろ国辱である」「上海医院の開設は開業医と同志打になりはせぬか」と非難した。これに対し同仁会理事の小野徳一郎は、「規模の壮大や輪奐の美に於ては或は彼等に一疇を輸する処ありとするも(中略)…我が日本の権威を発揮するに足るべき優秀なる学能と完全なる設備を以てするに於ては我等の使命を達成する上に何の逡巡や躊躇を要せない」と反論。日本人開業医との競争については「研究患者に重きを措き」「医員養生をも目的とする」ため、「使命の一部を具体化するもので在って是により初めて欧米各国の医界と対立して我が医学の権威を中国に普及する前提」ともなる、と可能性を否定した[24]。
小野の文章は上海病院により「欧米各国の医界と対立」する意図を明言しており、そこに各国の医療競争で日本の医学権威を確立させたい心境が読みとれる。一九三三年には上海の医者が過剰[25]だったにもかかわらず、同仁会は上海病院の建設計画をあきらめなかった。おそらく欧米との医療競争への意欲のためだったのであろう。しかし蘆溝橋事件の勃発により、上海病院と医学校の建設はついに中止になってしまった[26]。
以後さらに同仁医科大学が設立されはした。しかし「(昭和)十九年(一九四四)春に八十人の学生募集をしたが、現地人には日本が負けることは目に見えていたので学生が集まらない。受験に来たのは三人の日本女学生を含む八人ほどであったそうだ。(中略)…ほそぼそと授業を行なっているうちに終戦を迎え、同仁大学は自然消滅となった」という結末を迎えている[27](カッコ内は筆者の補足)。
以上のように同仁会は北京病院の建設と運営、また上海病院の建設計画でも、欧米病院への対抗意識を赤裸々にしていた。ならば同仁会のほかの三つの病院ではどうだったのだろう。やはり現地の欧米病院に対抗する意識があったのだろうか。
そうした事情を伝える資料は少ないが、漢口病院について以下の記録があった。一九二二年の竣工で本館・病棟・その他の建物十六棟ができあがり、総資産は五十二万二千三百二十五円、その外観も内容も長江流域の他医療施設をはるかに超え、大いに日本のために気を吐いた[28]という。長江流域の欧米医療施設を圧倒できるよう建てられたのかもしれない[29]。ここにも同仁会の欧米組織との競争意識が窺えよう。
同仁会は義和団賠償金と青島帰還の償還金を援助してくれるよう、文化事業案を審議する第四十五議会の前に政府へ申請した。ところが、これらが文化施設建設の特別会計項目に設けられるのを知り、一九二三年に政府と数回交渉してやっと同意を得たのである[34]。これで副会長の入沢達吉・江口定條が「対支文化事業調査会」の委員に任命され[35]、同仁会が対中文化事業で重要な位置を占めるようになった。こうしてかつては一般会計項目で同仁会に支出された補助費が、一九二四年から一九三七年の十四年間は対支文化特別会計から支出されることになった。その結果、同仁会はこの十四年間で特別会計総額の三一%にあたる七百四十九万四千九円を受け、東亜同文会を上回って筆頭を占めた[36]。
外務省の対中文化事業計画が公布された後、その事業部長・岡部長景は「対支文化事業の使命」という文章にこう記す。「輓近西洋文化の輸入と共に、東方文化の研究暫く等閑に付せられ、自然日支の関係が寧ろ疎遠の傾向を示せるは、仮令一時的現象とはいへ、甚だ遺憾に堪えぬ事態である」[37]といい、欧米文化の日中への輸入により両国の関係が疎遠になりつつあるという警戒を示した。とするなら、日本の対中文化事業において重要な補助団体だった同仁会の新事業には、背景に欧米の文化事業に対抗する意図が政府にもあったのではないか、という疑問が当然浮かび上がる。
一九二六年四月から始まった内田同仁会長の中国視察が終わった後の二七年三月、第二回同仁病院長会議は文化事業の内訳を決めた[38]。関東大震災の火災で停刊していた『同仁』を同年に復刊させ、内容も医事衛生を中心として中国の文化と風土の紹介に重点を変え、政治色を薄めた。一九二八年には中国語の学術雑誌『同仁会医学雑誌』(のちに『同仁医学』と改称)を創刊し、これは主に日本国内の医学雑誌から論文を翻訳転載している。中国訳の日本医薬書も発行した[39]。なお蘆溝橋事件後、上記の二雑誌は廃刊され、代わりに一九三九年六月から日本語の『同仁会医学雑誌』を創刊し、中国在住同仁会職員の研究報告を掲載している[39]。一方、会員には一九四〇年から日本語の『同仁会報』を発行した[40]。交流活動では中国で中国医師講習会、日本で日中医学生懇親会などを開いた[41]。
こうした文化事業について、『同仁』誌の柳沢論文[42]は次のようにいう(カッコ内は筆者の補足)。
(文化関係の特質は)個人の関係を捉へてみると、(中略)…初めから相互に人格を知り、人格を理解し、相手に愛と尊敬とを持たせ得るならば、両者の関係は永久となり、決して一朝一夕に豹変すると云ふが如きことはあり得ないのである。(中略)…(利害関係)を巧みに調整して、衝突の可能性を極力減少し以て相互に利益を享受する(以下略)…。
このような欧米の文化事業に対抗する意図は、『同仁』に発表された以下の文章に反映されている(カッコ内は筆者の補足)。
(前略)…(上海において)元来日本派は人数に於て一番多いのでありまするが、全く背景を持って居らず、後援もなく、連繋もありません。英米独仏派は英派、米派、独派、仏派と堂々と名乗りを揚げて居るのですが、日本派はかすかに日独派などと称し、男らしく日本派とは云っていない。(中略)…斯くの如く日本派の不振なる理由の一つは、留日諸君が留学国(日本)との連絡を持たぬ為ではないでせうか(以下略)[44]。
こういふ方法を取ったらどうですか、日本の大学を出た支那の医者には、出来るだけ日本の病院の薬なり、新しい医学のレポートなりをどんどんやる。それから二年目か三年目位には、日本の医者が独逸へ留学に行くやうに日本へ参観に来させるとか、観光団といふようなものを、同仁会主催の下でやって行く、斯ういふようなことには、色々の方法があらうと思ひます。
同仁会の新規文化事業のすべてが、義和団賠償金で始まった欧米文化事業への対抗策だったとは言えない。しかし欧米の賠償金処理策を模倣した日本の対中文化事業により、筆頭の補助を受けた同仁会が従来の病院運営を維持すると同時に、出版・人物交流などの事業に力を入れたのは、やはりそれへの対抗意識があったに相違ない。
以上より、日本の対中進出期に同仁会が中国における欧米の医療文化事業に対抗する努力をしていたことを明らかにしえた。ただし同仁会の努力はどれだけの成果を得たのだろう。「対中文化事業でもっとも大きな補助金を受けている同仁会に、欧米宣教師団と拮抗する見るべき仕事があった」[47]という評価もあるが、果たしてそうだろうか。同仁会の診療対象は中国人半分・日本人半分であり[48]、欧米キリスト教系病院は中国人が主だった。病院への投資については、慶大医学部教授だった藤浪剛一が同仁会北京・青島・済南病院を訪問し、次のように嘆いている[49]。
(前略)…同医院には補助費を十二分支給するこそ、条理ある話ではないか、同仁会医院の外国病院に比して甚だ見劣りするは、経費が潤沢でないからである。(中略…)院内の掃除などは不徹底となり、壁が汚れても之を繕ふ経費も算出に苦しんで居る始末で、外来者には同仁会医院の怠惰の様に非難する向きもある(以下略)。
さらに国別の対中文化事業全般への投資を見てみよう。日本は教育・調査・雑誌刊行に重点があり、外務省が対支文化事業部を設置した後でも投資額は、一九二四年から三七年までの十三年間で計約二千九百九万円である。これに対してアメリカは一九三〇年度一年間の投資額だけで八千六百十四万円、フランスは四千三百四十一万円、イギリスは二千万円で、いずれもはるかに日本を上回っていた[52]。中国人が患者の半分しかなかったこと、欧米にくらべて政府の投資が過少だったことで、はたして同仁会が欧米医療文化事業へ十分な対抗をなしえただろうか。
[2]馬伯英ら『中外医学文化交流史』三〇七〜三〇九・三二三〜三二九頁、上海・文匯出版社、一九九三年。
[3]程之范・張大慶「近代医学体系的萌生」董光璧主編『中国近現代科学技術史』中巻一〇六七・一〇七四〜一〇七五頁、長沙・湖南教育出版社、一九九七年。
[4]平賀精次郎「北清の医事」『同仁』一六号九〜一〇頁、東京・同仁会、一九〇七年。
[5]平賀精次郎の報告(『同仁会事業概要』一三〜一五頁、東京・同仁会)によると、当時北京にあった個人開業医以外の欧米病院は以下のようである。
フランス:約二十年前開設。列国公使館の並立する街はずれにある。院長はフランス医一名、宗教的看護婦数名、中国人助手数名。各国の医者も患者をそこに送り、自ら行って治療できるよう開放している。上、中、下の病室がある。外来患者一日三、四百名、入院は平均百四、五十名。患者は主に中国人。
イタリア:ジュラーマという医者が経営。施療・通常患者を取扱う。患者一日二、三百人、入院二、三十人。
ドイツ:ドイツ兵営前にある大規模の病院。主にドイツの軍人とその家族・居留民を治療する。
アメリカ:宣教師の経営する同仁病院。昨年病室を増築してから、入院外来共に増えた。
イギリス:教会病院。大きいのは二つあり、同国女医の経営する病院が別に二つある。ともに繁栄している。
英米共同経営:協和医学堂。昨年立派な付属病院ができ、患者は多い。
ロシア:宣教師が約二十万圓で建てた大病院。
[6]『同仁会四十年史』八〇頁、東京・同仁会、一九四三年。
[7]『同仁会三十年史』二四頁、東京・同仁会、一九三二年。
[8]前掲文献[5]、一八頁。
[9]前掲文献[7]、三六二頁。
[10]前掲文献[7]、 九一頁の丹波副会長の意見(ホ)による。
[11]前掲文献[2]、四一六〜四一八頁。
[12]前掲文献[3]、一〇九八頁。
[13]前掲文献[2]、四一九頁。
[14]前掲文献[6]、八一頁。
[15]前掲文献[2]、四一九〜四二〇頁。
[16]前掲文献[7]、八五〜八七頁。
[17]前掲文献[6]、八四頁の「北京病院事業成績(昭和元年)」「協和医院入院患者・外来患者数(一九二四年七月一日〜一九二五年六月三〇日)」、および(「支那における欧米人の文化事業」『同仁』第一巻五号四一頁、東京・同仁会、一九二七年)により作成した。
[18]『同仁会二十年誌』一二一頁、東京・同仁会、一九二五年。
[19]「上海にある各国病院の調」(『同仁』第五巻一号八六〜八九頁、東京・同仁会、一九三一年)によると、一九一八年前に設立された各国の教会・私立病院は以下のようである。
イギリス:仁済病院(一八四五年設立)。
アメリカ:同仁病院(一八六五年)、広仁病院、(一九一四年設立)、西門婦孺病院、(一八八五年設立)。
フランス:広慈病院(一九一四年設立)、新普益堂南市時疫病院(一八六七年設立)、仁愛会病院(毎日三百余名に施療)。
ドイツ:私立宝隆病院(国立同済大学医学院の実習病院)。
[20]前掲文献[6]、九七〜九九頁。
[21]前掲文献[6]、九九〜一〇〇頁。
[22]下瀬謙太郎「上海在留の邦人医師」『同仁』第五巻二号一七頁、東京・同仁会、一九三一年。
[23]小野徳一郎「訪滬雑感」『同仁』第八巻五号三五頁、東京・同仁会、一九三四年。
[24]小野得一郎「同仁会上海医院之建設に就て誤りを訂す」『同仁』第九巻八号八五〜八六頁、東京・同仁会、一九三五年。
[25]『同仁医学』第六巻四号三五四頁、東京・同仁会、一九三三年。
[26]前掲文献[6]、一〇二頁。
[27] 沖中重雄「私の履歴書」『日本経済新聞』、東京・日本経済新聞社、一九七一年七月二六日。
[28] 前掲文献[7]、一二一頁。
[29]一九三五年に漢口市内には同仁会病院のほか、外国人経営病院はイギリス人の天主堂病院、朝鮮人の博愛病院しかないが、西洋医学が伝わってきた頃にはもっとあった(『同仁』第二巻九号四七頁、東京・同仁会、一九二八年)。近隣の湖南省には、アメリカ雅礼会と国民政府が共同経営する湘雅病院・医学校という大規模な医療施設がある(前掲文献[2]、四二一頁)。
[30]王樹槐『庚子賠款』三〇八頁、台北・中央研究院近代史研究所専刊三一、一九七四年。
[31] 「支那における欧米人の文化事業」『同仁』第一巻三号五一頁、東京・同仁会、一九二七年。
[32]前掲文献[30]、四六八頁。
[33] 当時建設された文化施設は北京人文科学研究所および図書館、上海自然科学研究所である(黄福慶『近代日本在華文化及社会事業的研究』一二四・一八六頁、台北・中央研究院近代史研究所、一九八二年)。
[34]前掲文献[18]、一一九頁。
[35]前掲文献[33]、一二二〜一二三頁。
[36]杜恂誠『日本在旧中国的投資』四四六頁(上海・上海社会科学院出版社、一九八六年)の数字により算出した。
[37]岡部長景「対支文化事業の使命」『外交時報』五四頁、東京・外交時報社、一九二五年六月一日。
[38]前掲文献[7]、一七七頁。
[39]前掲文献[6]、一九五〜一九六頁(日本文『同仁会医学雑誌』の創刊号の年月は六四一頁による)。
[40]青木義男『同仁会診療防疫班』封二、長崎・長崎大学医学部細菌学教室水曜会、一九七五年。
[41]前掲文献[6]、第二篇の第八章の記載による。
[42]柳沢健「国際文化事業の意義」『同仁』第八巻一号三四頁、東京・同仁会、一九三四年。
[43]細野浩二「所謂『支那保全』論と清国留日学生教育の様態」『早稲田大学史紀要』八、八〇頁、一九七四年。
[44]前掲文献[22] 、一九頁。
[45]「中日医学界の連絡を助長する必要なきか」『同仁』五巻一〇号一二頁、東京・同仁会、一九三一年。
[46]『同仁医学』誌の「雑報」によると、中国医界の訪日に同仁会が主催した歓迎会は一九二九〜一九三六年で約二十一回記録されている。その中の多くは元留日医学生が率いる中国の医薬学校の参観団であった。
[47]李廷挙・吉田忠『中日文化交流史大系・科学技術巻』四七七頁、杭州・浙江人民出版社、一九九六年。
[48]前掲文献[7]の付録「診療患者数」を参照。
[49]藤浪剛一「中華訪問記(下)」『同仁』第一〇巻八号四七頁、東京・同仁会、一九三六年。
[50] 一九三〇年四月一〇日、同仁会は大阪第八回日本医学大会に参列する中国医界の代表を招待する会を主催した。中国の代表は同仁会に医学校の建設や、留学費・研究費の援助などの希望を訴え、国立北平大学医学院長の徐誦明はさらに、欧米各国が中国の学閥に勢力を拡大しているのに対し、日系学閥の衰微と不振を嘆いている(『同仁医学』三巻五号六頁、東京・同仁会、一九三〇年)。
[51]当時ロックフェラー財団による援助は以下のように多方面にわたる。 医学面への援助 (王吉民・伍連徳著『中国医学史』二五三・二五五・二六〇・二六一・二六三頁、上海・一九三六年):
一九一四年から五年間湘雅医学校に毎年一万六千米ドルを提供。非医大への援助(一九二五年の支出額)(前掲文献[31]、五一頁):
中国人医師にアメリカ留学の奨学金を提供。第一回は十二人で、医者・看護婦・薬剤師などがいる。
斉魯大学医学校に援助。初めは十五万中国元(銀元)、その後五万八千中国元(銀元)を増加。「医学名詞学会」に毎年五百元を五年間提供。
一九一六年「中国博医会」に四千五百元を補助、その会の医学書の翻訳出版を援助。「看護婦学会」に医薬看護書の翻訳と編纂費として七百元を援助。
一九一六年から五年間「広州教会医学連合会」に毎年四千五百元を援助。
南京東南大学 五万五千中国元[52]前掲文献[36]、四六〇頁。
上海大学 四万四千中国元
聖約幹大学 三万中国元
南京大学 五万五千中国元