丁蕾「近代日本の対中医療・文化活動 −同仁会研究(二)−
『日本医史学雑誌』46巻1号23-45頁、2000年3月(原著、1999年3月15日受付、1999年9月18日受理)

近代日本の対中医療・文化活動 −同仁会研究(二)−

丁 蕾

U 日本の中国侵略と同仁会

  一九三七年七月七日の蘆溝橋事件勃発により、全面的な日中戦争に突入することになった。これ以前の日中関係は一時の緩和があったものの、日本が中国に軍事侵略を強めてきた時期といえる。同仁会の活動目的がアジアにおける日本の国家利益を図ることにあったなら、この蘆溝橋事件以前はたして日本政府の侵略政策に協力や同調したのか否か、究明する必要があろう。このため本章では、一九〇二年から一九三七年七月までの同仁会の活動を草創期・調整期・発展期に分け、各段階の活動内容と中国侵略とのかかわりを分析・検討する。
 

 一、草創期(一九〇二年〜一九一二年頃)

 同仁会は発足の一九〇二年以降、中国への医師の派遣や病院・医学校の建設など、対中医療事業を中心に活動を開始した。しかし十年ぐらいを経た一九一二年頃、前章に述べた東京同仁医薬学校は経営難で閉校、中国東北地区にあった二つの病院は南満州鉄道株式会社に譲渡され、とても順調とはいえない運営ぶりだった。これを機に同仁会は中国本土への事業展開に転じている。そこで一九一二年頃までを同仁会の草創期とし、まずこの間の活動を医師派遣・病院運営・医学教育・機関誌創刊について整理・考察することから始めたい。 

(一)医師の派遣

 一九〇三年二月に許可された「同仁会寄付行為」の第二章「目的及事業」は、実施内容をこう計画している[1]。
一、清韓其他亜細亜諸国ニ対シ医学校及医院設立ヲ勧誘シ又之ヲ設立スルコト
二、前記諸国ノ政府及彼我人民ノ招聘ニ応シテ医師及薬剤師其他之ニ随伴スル技術ヲ有スル者ヲ紹介スルコト
三、前記諸国ノ医事衛生及薬品ニ関スル件ヲ調査シ時宜ニ依リ其機関ノ設置ヲ勧誘スルコト
四、前記ノ諸国へ本邦ノ医師及薬剤師ノ移住開業ヲ扶助シ又ハ之ニ便益ヲ与フルコト
五、前記諸国ノ医学生及薬学生ノ留学ヲ勧誘シ且其留学生ヲ保護シ修業ノ便益ヲ与フルコト
六、本会ハ前記諸国ニ適切ナル医学薬学及之ニ随伴スル技術ニ関スル図書ヲ刊行スルコト
 当計画にもとづき、まず中国・韓国へ日本人医師を派遣、続いて病院を建設している。まず医師を派遣したのは、寄付金額が対外施設建設にはまだ少なく、さしあたり所要経費が少なくて成果が得られるからだった。派遣は主に二ルートで行なわれた。一つは中国・韓国その他諸国の政府に医事衛生の必要性を説き、学校・病院を設立させ、そこに派遣する方法。もう一つは地元の居留民団に連絡し、そこに医師・助産婦・看護婦などを紹介し、派遣する方法である。こうして大正元年までに計百二十三名が中国各地に派遣された。その記録を一覧にして以下に示そう[2]。なお日本外務省の依頼によるケースもあった[3]。
 
 漢口同仁医院  河野豊蔵 青木清六 江藤友治 登内森一
 漢口  田添猪八郎 
 大連同仁医院  板谷丈夫
 大連駆黴院  塙繁弥太 平野四郎
*広州随軍医院・医学堂  山本三樹(総教習、医学博士、元金沢医学専門学校教授) 梅田郁(医士) 猪子森明(薬剤士)  町田正重
 奉天公立病院  檜垣春三 蛤良政秀 中島謙太
 間島慈恵病院  山口六郎
 ハルビン  中村四方吉 至方虎之助
 吉林  石橋三郎
*吉林武備学堂  二宮利弥(開業も兼ねる)
 チチハル  佐賀武
 天津  井上勇之丞 
 天津佐野病院  山科祐二
 営口  酒井栄次
 重慶  児玉盛長
 長沙  浅田忠順
*長沙陸軍速成学堂  佐久間三郎(軍医兼陸軍小学堂教習、元軍医少尉)
*武昌軍医学堂  杉寛一郎
 武昌  笹本友楠
 九江  全徳岩蔵
 南京  早川起作 岸達仲
*南京三江師範学堂  岸廉一
 上海  上原宇佐太郎 北村久男 鈴木弘道
 蘇州  鳥谷部政人
 福州  三輪友吉 神山超子
 汕頭  福田均哉
 この一覧表から明らかなように、派遣地は東北三省と沿海・沿江の租界都市・開港都市に集中している。こうした地域・都市には居留日本人が多く、また日本人の往来や居住にも適していたなど、効率的医療活動の条件がそろっていた理由も当然あっただろう。と同時に、日本が中国に勢力を進出するための要所であったことも疑いない[4]。純粋に近代医療と衛生知識の普及・向上が目的だったなら、これら特定地域にのみ派遣が偏在するのは不自然である。医療・衛生目的のほかに、別な要因も派遣地選択に内在していた可能性を疑うべきであろう。

  派遣された医師の一部は中国の地方政府に教師として招聘されたものであるが、これは同仁会の設立当時から中国要人に協力を求め、病院・医学校を建設するよう勧めた結果と考えられる。しかも中国で徐々に高まりつつあった日本人教師招聘ブームの一つの表れでもあった[5]。とはいっても、それらが同仁会による医師派遣の全要因ではないことは言うまでもない。その後、派遣医の都合により日本に帰国したり、同仁会から離れて独立開業した例もあり、医師の派遣は大隈会長時代に打ち切り状態となってしまった[6] 。 

(二)病院の運営

 同仁会は同時に中国で営口病院と安東病院、韓国で平壌病院と大邱病院の運営にも取りかかっており、後これが医師派遣にかわり中国での活動の主となる。以下、それを中国遼東半島で運営された二病院を例に見てみよう。

1 営口同仁病院
 営口は中国東北地区の門戸である。北は遠く遼河流域の輻輳地、南は鉄道で山海関を経て北京に通じている。一九〇三年秋、同仁会は酒井栄次医師を派遣し、ここに支部を設置した。領事以下の有力な居留民が酒井に補助金を寄付し、酒井も病院経営に努めたが、当時の居留民はわずかに六、七十人に過ぎない。中国人も日本人による医療になじんでいなかったため、病院経営はずっと不振だった。一九〇四年に日露戦争が起こり、ロシア軍が当地を占領すると、酒井は領事・居留民とともに日本へ帰ってしまう。一九〇五年に日本が戦勝し、勢力範囲となった東北南部に軍事植民地的統治を行うようになると、同地の日本人居留民は五、六千にも増えた(同地の総人口は七、八万)[7]。そこで一九〇六年四月に軍政官の与倉中佐は病院建設を決定、日本人居留地の新市街・蓬莱街の土地数千坪に十七、十八万円を投じ、一年二ヵ月で完成させた[8]。建物は総煉瓦二階造、約五百坪で、患者四十人を収容できる。手術室の構造、診察室・病室の設計、暖房装置・医療器機・患者用器具など、すべて完備していた。この他に西営口の中国人貧民街にも分院を置き、無料診療を行なった[7]。

 同院の建築が進められたとき、一九〇六年二月に軍政官の請求により、同仁会は松井甚四郎医学士を院長として当院に派遣した[7]。同年一一月に行なわれた軍政撤廃で同病院は軍政署の管理を離れ、同仁会に継承されることになる[9]。同仁会は田代評議員を派遣し、松井甚四郎と各所で協議し、多くの反対運動があったにもかかわらず、継承することになったという[8]。反対運動の詳細は不明である。

 同仁会が同院を引き受けたとき、建物がまだ未完成だったので、一九〇六年一二月に元の軍政署付属営口病院に仮病院を開設した。開院当時は患者数が少なく、芸妓の健康診断、一部の入院治療を託されて経営を維持していた。しかし牛庄領事の窪田文三が同仁会営口支部長になると、彼の助力により外来・入院患者が増加(表4)してくる[8]。

 この表4により、患者は日本人が大多数だったことを理解できるだろう。また日本人の場合、領事か居留民団役所の貧困者証明があれば無料の施療を受けられた。一九〇八年の施療患者数を表5に示す。「営口同仁医院業務沿革略」によると、同院は一般の診療のほか、公私団体より以下の嘱託業務も引き受けていた[8]。

○牛荘領事館医務
○牛荘居留民団公衆衛生事務
○小寺洋行医務
○芸妓酌婦の健康診断と治療
○牛荘日本郵船会社支店医務
○平岡組医務
 この項目からすると、同院は日本の会社の医務も担当しており、まさしく植民地の公衆衛生業務を一部なりとも担当していた。日本人患者が中国人より多いのは、「植民地の通弊として日本人の多くは一攫千金的の空想に駆られ一定の職業なき流浪者多き之れが原因」[8]とされている。が、実際は病院を日本人居留地に開き、しかも上記の状況のため、日本人が主に診療の対象となったことは否めない。

 同院は設立以来、巡視や参観者が日々増加したという。「営口同仁医院業務沿革略」[8]には以下に列挙するように、関東軍や植民地開拓機関でもあった満鉄の医療関係者などの名がみえ[8]、同院の横のつながりを示唆している。 

関東総督府軍医部員      峰直次郎
同上経理部長         峠村主計正
南満州鉄道総裁        後藤男爵
山口高等商業学校教授     横地石太郎
曹個宗西大本山特派慰問使   新井石禅
南満州鉄道株式会社      岸医学博士
軍艦摩耶軍医長        渡辺頼男
軍艦摩耶艦長         河野右近太
2 安東同仁病院
 安東県も中国東北地区の東門戸である。鴨緑江畔に位置し、北は安奉鉄道から遠く奉天に通じ、水陸輻輳地として重要な都市だった。日露戦争の鴨緑江会戦後、日本は現地で軍事植民地支配を始め、日本の居留民は八千人にも増えた(同地の総人口は二万)。当病院の規模は敷地五千六百二十余坪、建物五百七十余坪になり、診療と手術の装置や医療機器を完備し、患者六、七十名を収容できた[7]。

  当病院も当初は軍政署の経営だった。軍政撤去後、同仁会は病院の維持が可能な約束を軍政署から得たので、一九〇六年春の改築に際して五千円を寄付した。一九〇六年九月末、軍政撤去と同時に軍政官より領事に引き渡し、さらに同仁会が領事より病院を移管された。同会は居留民団行政委員会と協議の結果、一九〇七年二月まで経営を民団に委任する。三月にふたたび協議の結果、民団は補助金を受けることをもって打ち切ることを協定した[10]。「満州における同仁会の経営」によると、当病院は領事から移管されたとき、安東県の公立病院として、同仁会と市の共同経営で発展を図る方針を定めている。その一方、軍政官と領事より以下の数項が同仁会に要求された[7]。

一、安東県居留民のために公共医事衛生を担当する。
二、日本医術を東辺一帯に発展させるのを励む。
三、将来病院に利益を生じても病院の拡張及び日新医術を清国に普及する目的以外に使用しない。
四、有事の際に実費弁償で軍用に提供する。
 このように安東同仁病院は形式上で市との共同経営だったが、実際は軍政官の指揮を受けざるをえない立場にあった。前述の営口同仁病院も前身が軍政署の所管なのに、こうした要求を受けなかったのは、牛荘の領事が同仁会の営口支部長を兼任していたためかも知れない。この両病院は前身が軍政署経営であり、患者も主に日露戦争後に急増した日本人居留民と植民地開拓機関・会社の職員であった。東北侵略への前進基地ー遼東半島で早くから軍の病院を継承し、このような医療を提供している。たとえ同仁会の理念が別なところにあったとしても、植民地経営の一環としての医療衛生の管理・維持に関与せざるを得ないのは必然だった。         

(三)医学教育

 日本の近代医学・医療を隣国に普及させる手段として、医学教育は早くから試みられた。その一形態として病院に医学校を併設する形があり、安東同仁病院にその例がみられる。院長の境岬と副院長の中村勤は共に京都大学の出身で、医学教育に熱心だった。一九〇八年に生徒の寄宿舎一棟を新築し、中国人十二名、朝鮮人二十一名を教育しようとしている。しかし抗日風潮のためか中途退学者が多く、学業を終えたのは中国人一名・朝鮮人二名にすぎなかった[11]。

 これに先立つ一九〇六年二月、前述の東京同仁医薬学校が早稲田大学校内に開校された。開校の主旨は「為清国留学生之将来、願充医師軍医薬剤官薬剤師、教授医学医薬以期速成」で[12]、予科一年・本科医学科三年・薬学科二年を設けている。一九〇七年九月、教室の狭さが原因で牛込区五軒町に移転された。校長は同会の理事・岡田和一郎が担当している。同校はまた清韓語学研究会を開き、両国への派遣を希望する医師・薬剤師・看護婦などに中国語と朝鮮語を教授した[13]。

 一九〇八年三月、同校は第二回予科卒業式を行ない、卒業生九名を出している。同年夏になると、規模を大いに拡大し、日本人学生も受け入れるようになり、九月の新学期に際し前後両期約百名を募集した[13]。また医学の権威四十名を講師として招聘し、そのうち二十三名は東京帝国大学医学部の助手で、ほかに岡田和一郎・林春雄(薬理学講座)などの名教授も含まれている[14]。

 このように開校当初は中国からの医学留学生の養成を主旨としたが、二年後には方針をいささか変更した。いったい根本の目的はどこにあったのだろうか。同仁医薬学校が機構の拡大を行なった際に制定した「同仁医薬学校規則」は、「本校精神」と題してこう記している[15]。

本校直接の事業は医学教育なりと雖も、其精神に至りては母会に協力して東亜の文明を奨進するを以て其任となす、即ち其抱負は東亜的にして又た世界的なり、故に苟も業を本校に受くるものは亦た須く抱大の志望と広恢の気宇とを抱持し以て他年の大成を期すべきなり、是れ独り医学界に於て然るのみならず、一般国民が皆此気概あるにあらざれば、我帝国の進運を翼賛すること能はざるや明らけし。
 この「本校精神」について細野浩二は、「かかる教育活動が、実は『我帝国の進運を翼賛すること』という前提ないし至上目的に即応してなされるものであったことを明確にしている」[15]、と論評している。この見解によるなら、同仁医薬学校が中国医学留学生を養成した背景には、アジアにおける日本の勢力拡大に協力する意図もあったことになろう。

 ただし同校は安東同仁医薬学校と同じく廃校の運命をたどった。資金の欠乏で一九一一年に経営不振となり、校長の岡田和一郎が私財を投じて維持に努めたものの効果が見られなかった。この結果、在学生はすべて千葉・長崎・金沢などの官立医学専門学校に転校してしまった[16]。 

(四)機関誌の創刊

 同仁会の事業発展に伴い、活動報告等のため定期的機関誌の必要性がたかまり、一九〇六年六月一日に『同仁』誌が創刊された。四六倍判で四、五十ページの月刊である[17]。その「発刊の辞」は、同仁会の事業精神を次のように唱える[18]。 
(前略)…我が『同仁』は渺たる一小雑誌に過ぎずと雖も…(中略)平和的文明の大主義を鼓吹する…(中略)此故に開発上直接の目的は、医学医術の博愛救済の見地に立つと雖も一視同仁の大義よりすれば友邦の啓発東西文明の調和世界の平和等あらゆる方面の評論をも亦た併せ為す(以下略)…。
 発刊当時は主に「社説」「論説」「衛生雑俎」「医界紀要」「同仁会録事」「海外通信」「雑報」などの欄が設けられていた。

 「社説」と「論説」は中国問題・中国改革・日中関係などの政治的論文や、同会の使命と施設を紹介する文が多い。大隈重信の演説や論説も多数掲載された。もとより大隈は文化運動を説き、「東西文明調和」を日本の使命と鼓吹しており、『同仁』誌にも彼の主張が強く反映されたのである[19]。「衛生雑俎」は先進的な医学事情と人物を紹介する欄である。

 すべての欄の中でも、「海外通信」と「雑報」が注目される。前者は中国・朝鮮などへの派遣医師が寄せた報告で、現地での様子や活動経過などが記されている。後者は時事、および中国各地の政治・社会・経済・制度の情報が細かく掲載されている。

 中国で医療活動を遂行しつつあり、さらに発展させることを目指していた同仁会にとって、こうした情報記事を機関誌に載せ、広く啓蒙を図るのは当然のことだろう。ただし日本の中国侵略がますます強化されていたこの時期、それら情報が侵略体制を側面支援していた可能性も考えねばならない。同誌に情報の探査・提供という直接の目的はなかったにせよ、少なくとも政治色の強い宣伝誌であると同時に、中国情報誌でもあったといえるだろう。

 一九〇二年から一九一二年の草創期の同仁会は経費が不足状態で、中国大陸での施設建設と活動を十分に遂行できなかった。とはいっても、中国東北では日本の軍政からの便宜供与で病院を建設し、東京では医学校を開設し、機関誌『同仁』を発行するなどの活動を開始していた。医学教育は最終的に成功しなかったが、これらの活動は日本政府の大陸進出に同調しており、ときには協力する側面もあったことは否めないだろう。
 

 二、調整期(一九一二年〜一九二五年頃)

 一九一二年より同仁会は中国東北地方(満州)での事業から退き、中国内陸での事業に方針を転じた。のち一九二五年頃まで、同会は北京日華同仁病院・漢口同仁会病院を建設する傍ら、経費援助を求めて日本政府と交渉してきた。また事業計画もたびたび修正したので、この時期を調整期と呼ぶことにし、当時の活動を運営資金問題と方針変更の面から整理・検討したい。 

(一)運営資金問題

 同仁会は設立当初より中国全土に医療施設の建設を計画しており、これには大量の資金が必要で、むろん会員の寄付だけでは明らかに不足だった。幹部たちは早くから当問題を覚悟し、会が成立してまもなく政府に援助を申請している。この結果、一九〇六年の第二十一次議会で衆議院は以下の建議案を特別に通過させた[20]。
同仁会は清韓経営の必要事業たる医事衛生に関する施設を実行するものにして、国家の清韓経営に多大の利益を与ふる企画と認むるを以て政府がこの際之に対し相当の助力保護を為すは国家政策上の緊要事項なりと信ず。
 一九一四年三月にも大隈会長は貴族院議長に事業補助保護請願書を正式に提出し、当月また五名の衆議院議員が建議案を提出した。採決は満場一致で可決したという[21]。しかも大隈会長は、同会の事業が重大な使命を抱えているため、ぜひ皇族を総裁に奉戴すべきと主張し、久邇宮の敕許を得て総裁とすることになった[22]。

 にもかかわらず補助は二年を経ても支給されず、衆議院議員の山根正次らは一九一六年二月三日に再び議案を提出する。これを衆議院で討論した結果、政府はできるだけ力を尽くし、今後有形的に補助したいとの約束がなされた[21]。しかし同年一〇月に大隈内閣が突然崩壊したため、ほとんど確定的と思われた補助金はふたたび烏有に帰してしまう[23]。

 そこで同仁会の幹部らは政治家・実業家の有力者に加盟運動を始め、早川某など三井財閥系の多数より承諾を得た。一方、同仁会の事業は中立外交を主張する寺内新首相の「対支経論」政策と一致する点があったため、寺内首相は同仁会に援助の意向を表わした[23]。このように一九一四年の申請以来、幾多の曲折を経た国庫補助運動は四年後の一九一八年、ようやく受給し始めることができるようになり[21]、同仁会に安定した活動資金をもたらすことになった。 

(二)活動方針の変更

 同仁会が国庫補助を受け始めると、行政指導など政府の関与も必然的に強くなる。かつて同仁会が補助申請していたとき、中国内地で事業を発展させようと「十年計画」を立てていた。一九一八年の計画では、一九二七年までに漢口・済南・南京・西安・徐州・南昌・長沙・雲南・蘭州・南寧などで計三十二病院を建設、さらに二七年以後は蘇州・常徳・寧波・梧州・桂林などに計三十病院の建設を予定している。しかし、この計画はすぐに政府から修正を要求された。

 第一は済南病院の中止である。第一次世界大戦で日本は山東へ出兵し、青島戦役後に軍が山東に陸軍病院を建設予定だったため、これと重複しないように済南病院計画を中止させたのである。第二は博愛会の博愛病院所在地に病院を建設しないことだった[24]。博愛会は台湾総督府の援助で一九一八年に設立され、中国南部の廈門・広州・福州・汕頭で系列病院を運営しており、これは日本政府の南進政策の一部だったという[25]。この行政指導により同仁会は中国の南部を放棄した。これらの修正は先例がある。東北地方から撤退したことである。

 日本はロシアから移管させた「東清鉄道」の南半分で、官民合弁による南満州鉄道株式会社(以下、「満鉄」と略す)の設立を一九〇五年五月に決定し、一九〇七年四月に正式営業を始めた。満鉄は鉄道経営を主とし、鉱業・水運・電気およびその他の付属事業も経営するため、関連地域での系列病院建設を計画していた。その本院を大連に置き、沿線の各要地に分院を設け、社員と旅客の衛生・診療を担い、さらに一般診療も行うというものである[26]。

 このため満鉄は、分院の設置予定地にあった前述の安東県と営口の同仁病院を継承したいと申しでた。強大な満鉄が運営する病院なので、同仁会首脳は満鉄病院と併立させる必要がないとの判断で、安東同仁病院を一九一〇年八月、営口同仁病院を一九一二年一一月に満鉄に譲渡した。このような官僚的画一主義に一部の病院職員が不満の声をあげた[26]。

 彼らは現地で設立当初から運営に努力してきたが、これを中途半端なまま十分な成果もあげずに引き揚げなければならない。しかも半官半民の満鉄に移管するなら、「その地の原住民と協調を図りながら次第に誘導啓発する同仁会事業の精神に適するかどうか」、との懸念を抱いたという[26]。植民地開拓の直接的管理機構だった満鉄にくらべるなら、同仁会は医療という一種文化活動の浸透を日本の国益に結びつけようとしていたので、不満はその精神を貫徹できなくなったことの反映と言えよう。

 政府計画に妥協する同仁会の方針変更はこの時に始まる。さらに国庫補助運動でより顕著になった。十年計画を見るなら、同仁会が活動範囲を中国の中部と北部に限定したのを見てとれる。満鉄が東北部、博愛会が南部で、同仁会はこれに協調して対中医療活動の構図を分けた、とみても差し支えないだろう。

 この計画は実行段階でまたもや修正を受ける。本来の基本方針は次の二点だった[27]。 

第一、施設は多少不完全なりとも成るべく速やかに支那内地各地に医院を設立する事。
第二、天津、上海など我が同胞の個人経営にかかる医事機関の比較的発達せる地方に於ける医院の建設は成るべく後日に譲る事。
 ところが一九一八年、丹波副会長は中国内地を視察した後、次の修正意見五条を出した[27]。
第一、長江沿岸特に漢口上海等には我同胞の発展数も多く而して此等の居留民は完全せる医療設備を切望しつつある事。
第二、此等居留民は相当の醵金を此が為には辞せざるの意向成る事。
第三、北京・漢口・上海など支那の中心とも言うべき地方に於て、支那人の医師・看護婦などを養成するの急務成る事。
第四、支那特有の疾病等に対する専門的研究に資すべき研究室を設備することの急務成ること。
第五、ロックフェラー病院等外国経営のものの外観内容共に完全せるものの間にありて貧弱なる医院を経営する事は我が国威を損し彼の信用を得る能わず。 
 当意見により、同仁会は済南病院の開設費を北京病院の改善費に振り替え、漢口病院を設置した後、上海に病院と医学校を開設することを決定した。この他の計画については、銀貨の暴騰で国庫補助金が削除された一方、民間の醵金も意のごとく集まらなかったため、ほとんど実現しなかった[27]。

 ところで丹波副会長が出したこの修正意見五条を検討すると、第一・第二・第四は日本の侵略と拡張の深化に呼応した内容になっている。つまり、第一と第二は中国の経済発展地と戦略的要地に増加する日本人居留民への医療供給であり、居留民の増加はなかば日本の中国侵略に併行するものである。これは第一節で述べた東北の営口・安東の状況を見てもわかるだろう。第四は日本が中国人労働力を確保するため、中国特有疾病の研究が迫られていたことに対応するように思われる[28]。第三は欧米列強が中国で医学教育事業に力を入れていたことと関係があるかもしれないが、これについては第三章で詳論する。同仁会が病院を設置し、また中国の要地で中国人医療従事者の養成を計画するのは、人員の確保と現地民にスムーズに受容されるためが目的の一部であろう。すなわち第一・第二への補助であったかもしれない。ともあれこれら五条の変更理由は不明だが、従来は中国の未発達地域に活動の重点を置いていたが、今後は経済と戦略的要地における活動を重視する傾向に転換しているのが明瞭に窺えよう。

 国庫補助運動の結果、同仁会は安定した運営費を得る一方、国の補助を受ける団体として政策の遂行に同調せざるを得なくなった。そして医療面から、日本の中国侵略と歩調を合わせるようになったのである。
  

 三、発展期(一九二五年〜一九三七年頃)

 こうして二〇年代に入ると、同仁会はますます政府の管理下に置かれるようになる。大隈会長の死去後、代理会長を務めた丹波副会長は都合で一九二五年四月に辞職し、外交で著名な内田康哉が新会長の座に就いた[29]。これより外務省の指導を受け、新しい規則を制定し、経営の規模と内容を拡大し、事業の発展期を迎えた。 

 (一)同仁病院と政府・軍との関係

 一九二五年四月、元陸軍の青島病院と山東鉄道管理部の済南病院が、ともに外務省より同仁会へ移管された。青島病院は元来、ドイツが莫大な費用を投じて建設した膠州湾病院であった[29]。中国人学生を収容する付属医学校も開設していたが、同仁会への移管後は、一九二七年の長江流域動乱、また経費の不足などで新入生の募集を中止した[30]。ところで、同仁会は一九一九年に第一次世界大戦が終結したとき、この二病院の継承を申請していた。当時の田中義一陸軍大臣への手紙では、「平和克復後に於いては本会の事業に移すことを最も穏当且つ利便」と言っている。前述のように、済南病院の建設は軍の計画と重複したため中止したが、軍の病院を引き取る形でふたたび実現させようとした。しかしすぐには許可されなかった[31]。日中両国が「山東懸案細目協定」を締結して青島の守備隊を撤兵すると、外務省はまずこの二病院を居留民団に引き渡し、のち二年を経て同仁会に移管した[29]。これにより、内地の北京・漢口病院を加え、一九二五年四月に四病院の体制が形成された。なお一九二七年の三月、東京本部で開かれた第二回病院長会議には、外務次官・アジア局長・文化事業部長なども出席し、当会議では病院名・各規則の改定と新事業が決定された[32]。同仁会に官の性格がいっそう強まったことを示している。

 一方、同仁会の病院運営は「一視同仁」「政治と無関係」という旗を掲げてきた。しかし表面上は民間だったが、実は上述のように政府外務省の指導下にある。こうした日本の医療機関が、いったん中国で日中が衝突した場合、どのように対応したかは興味深い。強硬外交を主張した田中義一が一九二七年ごろに政権を握ると、軍部は連続して中国で事件を起こし始める。同年四月三日に漢口事件を起こした[33]。租界にある同仁会漢口病院は「革命政府が外国銀行全部の休業を命じ、正金銀行漢口支店も亦取引を休止せるを以て医院経理上一大支障を来し」と報告し、また事件に関する報告を四月一四日・二二日・二五日・五月一一日に本部と外務省へ通報した。どうも同院は現地と外務省の連絡機能も果たしていたらしい。さらに事件の解決後の五月一六日に海軍少将の小山田侍従武官の巡閲も受けている[34]。

 同年七月になると、蒋介石軍が北伐を行ない、日本軍はそれを阻止しようと双方が開戦した。これを同仁会青島病院は次のように報告している[35]。

七月二十三日 診療状況は六月中旬頃より入院外来共に増加し中国人にして避難の為入院を乞うものあるも病室狭隘のため断り居ること、時局に対する処置としては医院は万一を顧慮し警備方法を総領事と協議した結果海軍陸戦隊一小隊が院内に宿営することとなりたる(以下略)…。
 済南病院も軍の収容病院となった[35]。
八月十九日 済南医院より山東派遣軍七月七日到着同院内には歩兵第六十三連隊特務曹長以上三十二名を分宿せしむる事となり同院屋外浴室及び看護婦宿舎浴室、職員用浴室を開放し軍隊の使用に供せしこと、なお同月九日より院内宿泊中の将校は職員宿舎に分宿することとし食堂及び講堂には準士官のみを収容することとしたる旨の通報あり。
 一九二八年になると、日本軍は済南を包囲し、五月三日に済南事件を起こした[36]。同仁会は、済南病院に対して総領事の指揮に従い、軍に全面的に奉仕すること、青島病院に対しては即刻済南病院を応援せよとの命令を出した。済南病院は付属慈恵診療所の建物全部・外科診療室・手術室・各病棟をその使用に充て、病床・寝具・病衣・薬品・包帯、そしてマスク三百余個・防塵眼鏡二千個の提供、診療看護・傷兵の賄いなどをし、さらに弾薬の輸送や敵の捜索までつとめた[37]。青島病院は四月下旬より日本軍の青島上陸に際し、在庫品を提供し、寝台・藁蒲団・予備病舎を貸与し、「派遣軍に多大の便宜を与へた」という[38]。

 以上のように、中国で日中両国が開戦するにあたり、同仁会は中立の態度を取らず、日本軍に協力する立場をとったのは明らかであろう。『同仁』誌には次のような巻頭言がある。

(前略)…大凡同仁会の事業は、平時に於ては支那の要地に病院を経営し、その地の民衆のために新進医学の恵沃を普ふし、以て善隣の誼を致すにありと雖も、一朝有事の場合に当りては、医院は居留民の避難場となり、医院職員は傷病者の収容救護の衝に当り、所謂国家的重要なる任務を遂行するは、(中略)…同仁事業の一大使命に外ならざるなり(以下略)[39]。
 ここにいう「国家的重要なる任務」に、むろん軍への協力も含まれていたのは間違いない。
 

 (二)医療衛生関連の調査

 二〇年代に同仁会は新しく文化事業を起こした(詳しくは第二章で述べる)。一九三〇年からは調査部を設け、中国の医事衛生制度と実情を調査し、研究し始めた。その概要を以下に示す[40]。
1 衛生行政機関中央衛生部・地方衛生局の組織並職員、各地駐屯の軍隊軍医処の組織と職員、海港検疫制度・防疫保健事業施設
2 医育機関各省立大学医学院・各医学専門学校・その他の医薬学校
3 医療機関各病院(軍病院を含む)療養所の組織・規定・職員・統計等
4 医政団体各地医師会(西医師会、中医師会)の現況・会員、中西医師の総数・分布状態(日本その他外国出身医師の分布状態と氏名等)各地禁煙委員会(分会)・紅十字会(分会)・国民拒毒会等の現状防疫保護に関する調査機関及研究機関
5 薬房新旧薬房の名称・取扱薬品・種類・数量、同業組合の規約等(特に諸国の売薬の分布状態及其種類)
6 薬剤各省阿片の栽培・需給、および戒煙状態人参・樟脳その他特産薬剤
7 疾病天然痘の流行状態・種痘状態、痘苗の需給、地方病の統計調査、精神病者・癩病者の処置方法等
8 その他医事衛生に関する統計・衛生思潮・衛生運動
 これら調査結果のほどんどが『同仁』に発表され、また特別刊行物として出版された[41]。元来、同仁会の文化事業は政府の対中文化事業の一環であり、日本医学の紹介、日中交流を重点にしていたという[42]。たしかに、それら事業の遂行に中国の実情認知は不可欠だろう。が、たとえ将来性を予定していたとしても、ここまで全分野にわたる調査が必要だろうか。どうも別な意図の介在も疑わざるを得ない。なお三〇年代から日本政府が推進した「対中文化事業」は日中共同事業の試みが失敗し(上海自然科学研究所など)、「対華工作」の一環として再編された[43]。同仁会の調査事業はその転換に応じて行われたのかも知れない。同仁会に強まる官の色合いを考えれば、この可能性は考えていいだろう。

 もう一つの証左は同仁会が編集した『中華民国文化機関要覧』で、目次が大学・学院・専科学校・研究機関・博物館・図書館・文化団体・その他に分けられていることである[44]。同仁会がこのように詳しく文化領域の諸機関を調査する目的は何であろうか。単に中国との連絡提携、あるいは中国の情勢を理解するためなのであろうか。正確な意図は証拠不足で判然としないが、情報探査の疑いが残る。そして同会は以下の運命をたどった。

 一九三七年七月に日中全面戦争が始まると、同仁会の漢口・済南・青島病院は一時日本に引き揚げられ、文化事業も中止される。まもなく診療救護班を編成してふたたび中国へ渡るが、軍の指揮下に組み込まれて宣撫事業に従事した[45]。一九三九年から防疫事業を行なうようになり、細菌戦や謀略戦に背後協力したこともある[46]。一九四五年、連合軍総司令部が十月三一日付の「海外同仁会閉鎖に関する覚え書」を発行し、一九四六年二月二五日付内務省告示第十九号により、同仁会は大東亜協会・玄洋社・東亜連盟と同列に、結成禁止団体の一つに認定された[47]。
 

 四、小結 

 本章を簡単に振り返ってみよう。

 一九〇二年から一九一二年の同仁会草創期では、積極的に中国東北地方で病院を建設する一方、東京で医学校を開設し、また『同仁』誌も発行する。これらの活動には日本政府の大陸進出に同調し、ときには協力的な側面も認められた。一九一二年から一九二五年頃の調整期には国庫補助運動の成功により、国費受給団体として政府の中国侵略に同調するようになる。一九二五年から一九三七年頃の発展期には、一連の侵略事件と歩調を合わせ、半官半民から官の性格が強まり、軍に協力する立場が明るみに出た。

 すなわち、国庫補助運動以前の同仁会は民間組織で資金不足だったため、国の大陸進出に同調・協力する面もあったとはいえ、むろん限界がある。その活動範囲と内容を拡大させるために政府の援助と支持を要請し、国庫補助で資金不足はやっと解消した。しかし以前は民間組織として国の政策を支持する程度だったが、多額の国庫補助を受けるようになると、国策への協力は当然果たすべき任務へと変質せざるを得ない。この活動資金と姿勢の変化に起因し、同仁会発展期における日本軍への各種協力につながったと言っていいだろう。

 日本政府による中国侵略との関連で同仁会の活動を総括するなら、設立当初は民間組織としての支持にすぎなかった。しかし国庫補助を受給し始めると、協力の側面が次第に拡大していったのである。
 

 引用文献と注

 [1]同仁会『同仁会四十年史』八〜九頁、東京・同仁会、一九四三年。

 [2]前掲文献[1]、六八〜七〇頁。*印を付したのは中国側の招聘に応じた派遣で、汪向栄(『日本教習』六七〜九五頁「日本教習分布表」、上海・三聯書店、一九八八年)による。

 [3]前掲文献[1]、六七七頁の要務年次誌「明治四十一年八月外務省の委嘱により吉林駐在医員として医学士石橋三郎氏を推薦す」による。

 [4]派遣地は東北地方が六ヶ所。これ以外の計十三都市のうち、日本が租界を設けていた 重慶・上海・蘇州・福州・天津・漢口・武昌・九江・南京・長沙の十都市は、不平等条約により開港(開市)を強られた都市である。日本は日清戦争後に締結した「下関条約」に最恵国条款を入れたので、上記の開港都市および日本が租界を設けた六都市で欧米列 強が中国に認めさせた権利をすべて享受できた(姫田光義ら著『中国近現代史』上巻一一六〜一一七・一二五頁、東京・東京大学出版会、一九八二年)。

 [5]一九〇五年〜〇六年に中国にいた日本人教師は五、六百人だったと推測される。(前掲注[2]所引『日本教習』一五九頁)。

 [6]同仁会『同仁会三十年史』六十二頁、東京・同仁会、一九三二年

 [7]「満州における同仁会の経営」『同仁』七号三〜四頁、東京・同仁会、一九〇六年。

 [8]「営口同仁医院業務沿革略」『同仁』二七号二〜七頁、東京・同仁会、一九〇八年。表4と表5は五〜六頁の「患者の概略」により作成した。

 [9]前掲文献[1]、七九頁。

 [10]前掲文献[1]、七七〜七八頁。

 [11]前掲文献[1]、七八頁。

 [12]山口秀高「清国開発と同仁医薬学校」『同仁』二号七頁、東京・同仁会、一九〇六年。

 [13]前掲文献[1]、一七一〜一七二頁。

 [14]「同仁会記事」『同仁』三〇号三九頁、東京・同仁会、一九〇八年。

 [15]細野浩二「所謂『支那保全』論と清国留日学生教育の様態」『早稲田大学史紀要』八、八四〜八五頁、一九七四年。

 [16]前掲文献[1]、一七二頁。なお細野浩二によると、同仁医学校の閉鎖は単なる財政的な理由だけでなく、「清国留学生取締規則」反対運動における留日学生の批判を回避するためだったという(前掲文献[15]、九三頁)。

 [17]前掲文献[1]、一九四頁。

 [18]『同仁』一号三頁、東京・同仁会、一九〇六年。

 [19]大隈重信は一九一一年雑誌『新日本』を創刊し、「東西文明調和論」を説いた。『同仁』も彼のこういった主張の論説を多数掲載している。

 [20]「同仁会録事」『同仁』一号一二頁、東京・同仁会、一九〇六年。

 [21]前掲文献[6]、二四〜二六頁。

 [22]前掲文献[6]、三五五頁。

 [23]前掲文献[6]、三六三〜三六四頁。

 [24]前掲文献[6]、八八〜九〇頁。

 [25]郭文東主編『近代外国在華文化機構総録』一四九頁、上海・上海人民出版社、一九九三年。

 [26]前掲文献[1]、七九〜八〇頁。

 [27]前掲文献[1]、九六頁。

 [28]カナダの物理学史家Pyensonはこう指摘する。「帝国主義拡張に協力する植民科学活動は実用に偏る。(中略)… 医学家は地方病の原因を研究し、もって現地の労働力を維持する」(「中国における日本の植民科学機構」から引用。董光璧主編『中国近現代科学技術史』中巻、八一頁、長沙・湖南教育出版社、一九九七年)。

 [29]前掲文献[6]、三三〜三四頁。

 [30]前掲文献[1]、一七三〜一七四頁。

 [31]同仁会『同仁会二十年誌』一一八頁、東京・同仁会、一九二五年。

 [32]この会議で今後の医院規則・経理規程・給与規程などの新事業が打ち合わされた。また同仁会の病院名はすべて「同仁会**病院」に統一された(前掲文献[6]、一七〇〜一七二頁)。

 [33]一九二七年四月三日、日本水兵が漢口で人力車の車夫と喧嘩して一人を刺殺したのをきっかけに、市民と日本人居留民が衝突した。これにより日本海軍陸戦隊が上陸して市民乱射した(夏林根・董志正主編『中日関係辞典』六七頁、大連・大連出版社、一九九一年)。

 [34]前掲文献[1]「要務年次誌」六九九〜七〇〇頁。

 [35]前掲文献[1]、七〇二頁。

 [36]五月三日、日本軍は中国軍の駐在地に進撃し、しかも国民政府山東特派外交交渉員の蔡公時ら十六名の外交官を殺害した(前掲文献[33]、六九頁)。

 [37]前掲文献[1]、一二七〜一二八頁。

 [38]前掲文献[6]、一五二頁。

 [39]「我等の使命」『同仁』第二巻六号巻頭辞、東京・同仁会、一九二八年。

 [40]前掲文献[1]、二〇四〜二〇五頁。

 [41]調査結果は以下の書物として編刊された(前掲文献[1]、二〇三頁)。

ライヒマン博士報告 同仁会訳   中華民国医事衛生の現状
同仁会調査部編          上海医薬界の現状
同仁会調査部編          中国医界の新思潮
石戸谷勉著            北支那の薬草
ファバー教授報告 同仁会訳    中華民国の医育問題
同仁会編             中華民国医事総覧
同仁会編             中華民国文化機関要覧
[42]同仁会の新規文化事業計画は以下のようだった(前掲文献[6]、一七三頁〜一七九頁)。
機関雑誌『同仁』・華文雑誌『同仁医学』の発行
医薬学書漢訳発行
中華民国医師・薬剤師の講習
中華民国医薬学生連絡奨励
日本学生の中国見学派遣
[43]阿部洋「日本の対支文化事業と中国教育文化界ー一九二〇年代後半期を中心として」『韓』第八巻五・六号合併号二一五頁、一九七九年。

 [44]『中華民国文化機関要覧』の目次による。東京・同仁会、一九三六年。

 [45]前掲文献[1]、二〇七〜二〇九頁。

 [46]七三一研究会編『細菌戦部隊』二九六頁、東京・晩声社、一九九六年。

 [47]青木義男『同仁会診療防疫班』一九一頁、長崎・長崎大学医学部細菌学教室水曜会、一九七五年。
 

(茨城大学大学院 人文科学研究科)