本稿は卒業論文に一部修正を加えたものである
02L1093H 中橋創太
中国唐以前の書で現代に伝わるものは少ない。『崔禹錫食経』(以下『崔禹』と略)も、現代に伝わることなく失われてしまった書(佚書)の一 つだ。
『崔禹』は、中国では早くに失われたようで記録が残されていないが、わが国では藤原佐世『日本国見在書目録』(以下『見在書目』と略)に著 録されて いる1)。また、『医心方』など少なからぬ国書に引用文(佚文)も残されており、中国唐以前の本草学の実状や日本への影響を考える際に、『崔禹』が重要な 役割を果たすであろうことは容易に想像できる。しかるに『崔禹』の佚文を検討して歴史的位置づけを行うという系統的研究は、いまだなされていない2)。
そこで本論ではまず『崔禹』を輯佚し、中国唐以前の諸書と比較することによって成立年代を考察する。また、成立年をもとに著者・崔禹錫の比 定を試 み、『医心方』巻30所引文を検討することにより、『崔禹』の収載品の特徴を明らかにしていきたい。
本論では人物の敬称を省略した。また、使用する漢字はJISコード文字にある常用漢字・人名用漢字を原則とし、それにない漢字は正字を使用 した。引 用文では必要性の認められる異体字を可能な限り保存した。ユニコードにない漢字は部首などの一部分を加減法で構成し、上下の組み合わせには*を、左右の組 み合わせには+-を使い、{ }で挟んで示した。例えば崔を{山*隹}、禹を{瑀-王}、錫を{金+易}のように表記する。引用文の部位は巻次と葉次と表 (a)・裏(b)で表示し、1-1aとあれば引用文が第1巻・第1葉・表にあることを示す。
隋の巣元方らが610年に編纂した一大病因病態学書。以下、本論では『諸病』と略す。『外台秘要方』や『医心方』に「病源」「病源論」とし て引用さ れており、『千金方』にも多く同文が見えるという。本論で『医心方』所引『諸病』文との比較に用いた『〔宋版〕諸病源候論』(以下、現伝『諸病』と略) 3)は、宋代の大規模な改変を経ており、必ずしも唐以前の旧を保っているわけではない。
唐の太宗の勅命を受けた蘇敬らが『神農本草経集注』を増補・加注し、659年に撰した世界初の国定薬局方。以下、本論では『新修』と略す。
テキストには仁和寺に伝わる古写本(以下、仁和寺本『新修』と略)を使用した。仁和寺本のうち、巻12・17・19は影印本4)を、巻 13・14・ 18は影印森氏旧蔵影写本5)を、巻15は『零本新修本草巻第十五』6)を使用した。仁和寺本が現伝しない巻6・7・9・16は、輯復本『新修』7)を使 用した。
深根輔仁の手になる日本現存最古の本草書で、成立は918年頃。テキストには紅葉山文庫の古写本を影写した森立之旧蔵本(現台湾故宮博物院 蔵本。以 下「森氏影写本」と略)を使用し、森立之・約之手沢寛政8年多紀元簡校刊本8)(以下「森氏手沢本」と略)の多紀・森の注を参考にした。
源順が編纂した漢和辞書で成立は935年頃。伝承の過程で10巻本と20巻本の二系統が生じているが、10巻本を増補して20巻となった か、20巻 本から抜粋して10巻としたか、有力な説はない。
テキストには狩谷棭斎が諸本を校合して考証を加えた『箋注倭名類聚抄』9)(以下『和名抄』と略)を使用し、源順の注を「順注」と、棭斎の 注を「棭 斎注」と表記した。
丹波康頼が984年に撰した日本現存最古の医学全書。本文はおおよそ中国唐以前の書からの引用文で構成され、基本的に康頼自身の言葉はない という 10)。また、引用文は隋唐代の古態を保持しており、中国唐以前の医学を研究するうえで欠くことができない。テキストには「半井家本」11)を使用した。
丹波雅忠が1081年に編纂した医方書で全1巻。大部分が『医心方』の記載と重複する。雅忠は『医心方』を編纂した丹波康頼の曽孫。テキス トには多 紀元簡校刊本を使用した。
前田尊経閣文庫に所蔵される古医書のなかに、『延寿要集』と称される古写本が2冊あるが、ともに巻首・巻尾が欠損しており本来の書名は分か らない。 以下、2冊のうち朱のヲコト点を存するものを『延寿要集』A本、そうでないものをB本と称することとする。『延寿要集』A本は、篇題・体式が符合すること から『医心方』巻27の前半部分で、仁和寺本の僚本であることが分かっている。一方の『延寿要集』B本(以下『B本』と略)は『医心方』巻27・29によ く似た内容を持ち、現存する資料では丹波行長の『衛生秘要抄』に最も類似するという。しかし、『医心方』『衛生秘要抄』に含まれない『太素』『小品方』ほ かの佚文の引用も見られ、今のところ書名を特定できていないという。12)
さて、管見の及ぶ範囲で『崔禹』は12の国書に引用されている(表1)。12書の佚文から、『崔禹』の本文は時期ごとの食禁・食宜、食べ合
わせ、飲
み水の選び方などを記した総論部と、一品ごとに味、毒の有無、主治・効能を記した各論部から構成されていたであろうことが分かる。また、各論部はおよそ
穀・果・菜・虫魚・獣・禽で構成され、うち210条13)429品14)が現在に伝わっている。書の性質上、鉱物やほとんど食用にしない植物などは収録し
ていなかっただろう。
書名 | 作者 | 成立年 | 引用回数 |
---|---|---|---|
日本国見在書目録 | 藤原佐世 | 891-897 | ― |
本草和名 | 深根輔仁 | 918頃 | 139 |
和名類聚抄 | 源順 | 935頃 | 68 |
医心方 | 丹波康頼 | 984 | 176 |
医略抄 | 丹波雅忠 | 1081 | 5 |
長生療養方 | 蓮基 | 1184 | 8 |
遐年要抄 | ― | 1260頃 | 3 |
衛生秘要抄 | 丹波行長 | 1288 | 3 |
延寿要集B本 | ― | 鎌倉以前 | 5 |
伊呂波字類抄 | ― | 鎌倉初期か | 79 |
福田方 | 有林 | 1363頃 | 1 |
延寿類要 | 竹田昭慶 | 1456 | 20 |
太一続稿 | 高橋英因 | 1491自序 | 1 |
『崔禹』を引用する12書中、引用回数が特に多いのは『本草和名』、『和名抄』、『医心方』『伊呂波字類抄』(以下『字類』と略)の4書 で、各々 139回15)、68回、176回16)、79回の引用が見られる。また、『字類』所引『崔禹』文は、大部分が『本草和名』『和名抄』と一致する。
上記4書のうち、総論部の引用は『医心方』にのみ見られ、かつ各論部分の引用文字数が比較的多いのも『医心方』である。
それらの理由として、『本草和名』『和名抄』が『崔禹』とその目的を異にした書である点を挙げることができる。つまり、『崔禹』が食物本草 の書であ るのに対し、『本草和名』は本草書であるとはいえ本草名辞典としての性格が強く、『和名抄』は漢和辞書である。よって、各々『崔禹』から博物学的記述など 一部分のみ引用したのだろう。その点『医心方』は本草篇を有する医学全書であり、ために引用文も比較的まとまっているのだろう。
『医心方』には『崔禹』からの引用回数が多く、かつ条文の節略・改変も比較的少ないと考えられる。さらに、その伝承過程を考えても大部分は 平安期の 筆写本が伝わっており、ほぼ成立時の原形を保っているという17)。よって、以下に『医心方』を検討することで『崔禹』の特徴を考察してみたい。
『医心方』巻16「治丁創方第一」には『崔禹』文[イ]「崔禹錫食経丁瘡方。搗梠茎葉18)根、傅之瘡根、即抜」が見られる。この条文は、「見 出し(症 状)+治療法」という医方書の形式をとっており、食物本草書である『崔禹』からの引用文としては違和感がある。事実、他書に上記のごとき医方書形式の『崔 禹』文は見られない19)。
一方、巻30「五菜部第四」梠茎菜条に[ロ]「崔禹云。食之止利。味甘苦、少冷、有小毒。主心熱煩嘔。一名蕗。又取根擣傅釘腫瘡、瘡根即抜之」と、[イ]と 同じ内容(下線部)を含む本草書形式の条文が見られる。内容の一致具合からみて、上記2条文が各々『崔禹』に記載されていたとは考えにくい。
先に述べた通り、他書に引用される条文が本草書形式であることから、[ロ]が『崔禹』の旧態をより残していると考えられる。[イ]は「治丁創方第 一」という 見出しに合わせて、康頼が改変したのだろう。
つまり、原『崔禹』に医方書形式の条文は収録されていなかったに違いない。したがって「治○○方第○」に引用される、あるいは「崔禹錫食経 云○○ 方」と記される『崔禹』文は、いずれも引用先の形式に合わせて康頼が改変した条文だと考えてよいだろう。
あるいは当時すでに『崔禹』を編集し直した処方集が存在し、康頼は『崔禹』と処方集の両書から引用した可能性もないではない。だが、やはり 康頼が引 用の際に都合のよい形に改変したと考える方が自然であろう。
では、本草篇である巻30に引用される『崔禹』文は、原『崔禹』の旧態を完全に保存しているのだろうか。
真柳は『新修』との比較から、『医心方』巻30所引『新修』文には産地・採取時期や薬物別名の省略など、一定の節略・改変が存在すると述べ ている 20)。ならば、巻30に引用される『崔禹』文も同様の改変を経ていると推測でき、原『崔禹』の旧態を完全に保存してはいないと考えられる。
さて、『崔禹』が『医心方』に引用される176回のうち、119回は食物本草篇である巻30に見られる。また、巻30に引用される『崔禹』 文がある 程度古態を保っているであろうことは、前述の通りである。
よって、以下に『医心方』巻30に詳細なる検討を加えることで、『医心方』編纂の際に『崔禹』がどの程度重視されたのか、また、引用のされ 方に傾向 は見られるのかを考察していきたい。
『医心方』巻30に引用される多くの書のうち、『崔禹』はどの程度重視されていたのだろうか。一つの考えとして、項目内で引用順のより早い 書が重視 されたといえるのではないか。事実、『新修』からの引用である「本草」「陶(弘)景注」「蘇敬注」は、大部分が第一に引用されている21)。唐政府薬局方 である『新修』が諸家の本草書より重視されたであろうことは、想像に難くない。
ところが、「五菜部第四」韮条の本文は「本草」23字、「陶景注」5字、「孟詵」8字、「拾遺」71字より構成され、『新修』からの引用で ある「本 草」「陶景注」を足して28字としても、『本草拾遺』(以下『拾遺』と略)の71字には遠く及ばない。
取るに足りない条文を大量に引用することはないであろうから、韮条では、引用順が最後であるとはいえ『拾遺』の記載が『新修』よりも重視さ れたと考 えてよいだろう。ここに、国定薬局方に盲従しないという康頼の編纂姿勢を垣間見ることができる。
以上から、いずれの書を重視したかを測るには、文献の引用順ではなく引用文字数を検討すべきであることが分かる。よって、以下に各書からの 引用文字 数を比較することで、巻30において『崔禹』がどの程度重視されたかを見ていきたい。
本草篇である巻30には「五穀部第一」に24品、「五菓部第二」に41品、「五宍(肉)部第三」に45品、「五菜部第四」に52品の計
162品が収
載されており、なかには一書からの引用文で構成される品目もある(表2)。
新修本草 | 崔禹錫食経 | 食療本草 | 七巻食経 | 本草拾遺 | 養生要集 | |
---|---|---|---|---|---|---|
五穀部第一(24 品) | 3 | 1 | 1 | |||
五菓部第二(41 品) | 2 | 2 | 1 | |||
五宍部第三(45 品) | 16 | 2 | ||||
五菜部第四(52 品) | 2 | 7 | 1 | 1 | 1 | |
合計 | 5 | 26 | 2 | 4 | 2 | 1 |
表2より、諸書のうち『崔禹』からの引用文のみで成る項目が、なかでも五宍部に多いことがわかる。五宍部で『崔禹』のみを引用する16品を 列挙する と、雲雀(ヒバリ)、鳩(ハト)、鵤(イカルガ)、鵯(ヒエトリ)、鯛(タヒ)、鯖(サバ)、鯵(アジ)、鮏(サケ)、海月(クラゲ)、霊羸子(ウニ)、 辛羸子(オオアギ)、甲羸子(ツヒ)、小羸子(シタタミ)、石陰子(カセ・イガイ)、竜蹄子(セ)、河貝子(ミナ)である。では、これら16品は、五宍部 中のいかなる品目だといえるのだろうか。
五宍部の45品は、乳製品3品、獣2品、鳥類8品、魚介類32品に細分できる。『崔禹』文のみで構成される上記16品は、雲雀~鵯の4品が 鳥類、鯛 ~河貝子の12品が魚介類である。
五宍部に収載される鳥類・魚介類から『崔禹』文のみ引用する品目を除いた24品中、22品が複数の書からの引用文で構成される22)。
複数の引用文からなる22品で、引用文字数が最も多い書は7品で『新 修』、8品で『崔禹』、あとの7品はその他の書23)である。
つまり、五宍部に収載される鳥類・魚介類40品目のうち、『崔禹』の記載が最も重視されたと考えられる品目は、『崔禹』文のみから成る16 品と『崔 禹』の引用文字数が最も多い8品の計24品で、鳥類・魚介類40品の過半数に及ぶ(図1)。「五宍部第三」の編纂にあたって最も重視された書は『崔禹』で あると考えられよう。
同様の検討から、「五穀部第一」では『新修』が重視され、「五菓部第二」「五菜部第四」では、『新修』と『崔禹』の両書が重視されたと考え られる (資料1)。
真柳は引用文字数から、丹波康頼は巻30を編纂する際に『新修』(4502字24))、『崔禹』(3355字)、『拾遺』(1242字)、 「孟詵」 (1162字25))の順に重視しただろうと述べている26)。だが「五宍部第三」、なかでも鳥類・魚介類に限っていえば、『崔禹』の記載が最も重視され たといえるだろう。
また、「五宍部第三」に『崔禹』文のみからなる項目の多いことから、『崔禹』は鳥類・魚介類の記述が豊富な書であったと考えられる。
『医略抄』には出典を 『崔禹』と記す条文が5条あり、篠田はうち1条が『医心方』に別出典から引用されているという27)。
これは『医略抄』「治{癕-亠}疽方一」に引用される『崔禹』文(図2)のことで、『医心方』では巻15「説{癕-亠}疽所由第一」に「病 源論」、 つまり『諸病』からの引用と記されている(図3)。
実際、現伝『諸病』巻32「癰疽諸病上」に同様の記載が確認できる28)ため、『医心方』が示す出典「病源論」は誤りでない。また、『医心 方』には 記されないが、現伝『諸病』では「凡五月…。凡人汗…」の条文の出典は「養生方」と記されている。
一方の『崔禹』は佚伝しており、同条文を引く書もほかにないため、『医略抄』が示す出典「崔禹云」の妥当性には疑問が残る。『医略抄』は 『医心方』 の節略本だといわれたりもするから、あるいは『医心方』から抜粋する際に出典を書き誤ったのだろうか。
ところで、『医心方』所引『崔禹』文「人汗入食中者不可食。発悪瘡。其女人尤甚、宜早服鶏舌香。飲即差」29)は、図3の『医心方』所引 『諸病』文 中の一条と類似している。また、現伝『諸病』で条文「凡五月…。凡人汗…」の出典が『養生方』であることは、すでに確認したところである。
ところで、『医心方』所引『崔禹』文「人汗入食中者不可食。発悪瘡。其女人尤甚、宜早服鶏舌香。飲即差」29)は、図3の『医心方』所引 『諸病』文 中の一条と類似している。また、現伝『諸病』で条文「凡五月…。凡人汗…」の出典が『養生方』であることは、すでに確認したところである。
以上の2例から、『養生方』と『崔禹』に類似した条文が記載されていたであろうことが分かる。
さらに『医心方』所引『崔禹』文「大麦麺、勿与一歳以上十歳以下小児。其喜気壅寒(塞歟)而死」32)と、『医心方』所引『養生要集』文 「大豆炒小 麦、勿与一歳以上十歳以下小児。喜気壅而死也」33)の2条文もまた類似している。
『医心方』に「養生要集云。五月勿食不成菓及桃李。発{癕-亠}癤。…」34)、「養生要集云。九月勿食被霜草、向冬発寒熱及温病。食欲 吐、或心中 停水不得消、或為胃反病」35)の2条が見られることも合わせて考えると、『養生方』『養生要集』『崔禹』には類似した条文が収録されていたと推定され る。
以上、『崔禹』と『養生方』『養生要集』に類似した条文が収録されることから、『医略抄』の条文「崔禹云。五月勿食未成核菓及桃李棗。発 {癕-亠} 癤」が出典の書き誤りでなく、『崔禹』からの引用である可能性も出てきた。だが、そのためには著者・丹波雅忠が実際に『崔禹』を見ていたことが条件とな る。
『医略抄』が引く『崔禹』文のうち3条は『医心方』と一致し、残りはここで問題となっている1条(図2)と、「治蜀椒毒方十七」の条文「葛 氏方云。 蜀椒閇口者有毒。食之、気便欲絶及吐白沫并吐下者、煮桂飲其汁」に付された注「崔禹錫食経、同之」である。
上記の『葛氏方』と同様の条文を『崔禹』から引用する書はほかになく、実際に『崔禹』を見ていたからこそ付すことができた注であるといえよ う。ちな みに、先の『葛氏方』文と類似する条文が『B本』に『養生要集』から引用されている36)。
以上見てきたように、『崔禹』『養生方』『養生要集』には類似する条文が収録され、雅忠が『崔禹』を実見していたであろうことが確認され た。
したがって、『医略抄』に『崔禹』からの引用と記される条文「五月勿食未成核菓及桃李棗。発{癕-亠}癤」は、やはり『崔禹』からの引用で あると推 定される。
さて、類似した条文が収録される『養生方』『養生要集』『崔禹』の3書には、その成立において何らかの関わりがあったと推測される。
『養生方』について、山本は「もとは一書ではなく、すなわち諸経から採取して作ったもので、それらの総称であろう。『隋書』経籍志所載の養 生および 食禁書の類、およそ十数部がそのもとになったのではあるまいか」37)と述べる。また、『千金方』所引の「黄帝云」という部分と符合するとも述べ、やはり 『崔禹』と『千金方』所引「黄帝」にも類文が見られる。
『養生方』を引用する書は中国に『諸病』、日本に『医心方』がある。だが、『医心方』に見られる『養生方』文はことごとく『諸病』文の直後 に引用さ れるため、『諸病』からの孫引きであろう。
『養生要集』は、隋志に「養生要集十巻。張湛撰」38)と著録され、両唐志にも同様の記載39)が見られる。また坂出によると、本文には他 書からの 引用が多く、『養生要集』の要点を抜き出した書に陶弘景『養性延命録』があるという40)。
『養生方』と『養生要集』の関係は明らかではないが、両書ともに複数の書からの引用文が見られるという特徴がある。小曽戸は、『医心方』所 引『養生 要集』文と一致する文章が見いだされることから、『諸病』所引『養生方』文は『養生要集』からの引用でないかと述べている41)。
では、『崔禹』とこれらの書はいかなる関係にあるのか。本草書である『崔禹』を『養生方』『養生要集』が参考にした可能性よりは、『崔禹』 が食養生 の部分を引用したと考えるのが自然ではないだろうか。ただ、上述した『千金方』所引「黄帝」『養生方』『養生要集』などのうち、いずれの書から引用したか は定かではない。あるいは佚文をさらに詳しく検討することで明らかにできるかもしれないが、ここでは『崔禹』がこれらの養生書を参考にした可能性があるこ とを指摘するに止めたい。
『本草和名』所引『崔禹』 | 『説文解字』 |
---|---|
{牛+(宮*羊)}、而能反。黄牛黒脣、高七尺。 | {牛+(亯*羊)}、黄牛黒脣也。 |
又有犡、力制反。是黒牛白脊。 | 犡。牛、白脊也。 |
{牛+余}、達胡反。黄牛乕文者。 | {牛+余}、黄牛虎文。 |
{牛+平}、仄{禾+井}反。牛、駁斑如星者。 | {牛+平}。牛駁如星。 |
猳猪肉、古瑕反。牡豕也。 | 豭、牡豕也。 |
一名豯。豕生三月曰豯。 | 豯、生三月豚。 |
さて、『崔禹』には上述の『養生方』『養生要集』と類似する条文だけでなく、『爾雅』経文および郭璞注と類似する条文も見られる。『崔禹』 文に『爾 雅郭注』との類文が見られることには幕末の学者も気付いており、狩谷棭斎が「崔氏、蓋し此(『爾雅郭注』)に本づく」42)と指摘し、多紀元簡・森立之は 『本草和名』所引『崔禹』文を『爾雅郭注』によって校訂している。『爾雅』は紀元前2世紀頃に、儒者達が従来から伝承された古典用語の解説をまとめた辞典 で、晋代の郭璞(276-324)が注を付けた43)。
また、『崔禹』文「韶陽魚一名{魚+納}」44)、「韶陽魚。味甘、小冷、貌似鱉而無甲、口在腹下者也」45)と、『説文解字』の「{魚+ 納}魚。 似鼈無甲、有尾無足。口在腹下」46)が類似し、ほかにも表3の類文が見られる。『説文解字』は後漢の許慎による中国で最も古い漢字の解説書で、100年 頃の成立47)。
さらに、『本草和名』所引『崔禹』文「猪一名{豕+(艹*刃)}。魚頼反。長過三尺者曰{犭+(艹*刃)}。一名老豬又有{豕+(辶* 菮)}。山甲 反。牝猪大者名也」48)に対し、元簡が「按{豕+(艹*刃)}是{豕+艾}字。老猪也。{豕+(辶*菮)}乃{豕+箑}字、老母豕也。並出玉篇」49) と記し、『崔禹』文「{豕+覓}。上状反。白身黒頭」50)と『大漢和辞典』所引『玉篇』文「{豕+覓}、白豕黒頭」のように、『玉篇』との類文も僅かな がら見られる。『玉篇』は南北朝時代、梁の顧野王が543年に編纂した字書51)。
『爾雅郭注』『説文解字』『玉篇』との類文が見られることから、『崔禹』はこれらの辞書類を参考にしたであろうことが分かる。
『和名抄』巻4「飲食部第十一」漿条に「四時食制経云。春宜食漿甘水」、白飲条に「四時食制経云。冬宜食白飲」とあり、これらが『医心方』 巻29 「飲水宜第九」に引用される『崔禹』文52)とほぼ一致することは、狩谷棭斎がすでに指摘している53)。条文がかくも一致する以上、『崔禹』の成立、も しくは『四時食制経』なる書の成立において、あるいは両書に何らかの関連があったのかもしれない。
さて、中国正史に『四時食制経』の記載は見られない。棭斎によると『四時食制経』は『顔氏家訓』『太平御覧』に引用されているという 54)。また、 『文選』注に『魏武四時食制』、『本草綱目』に『魏武帝食制』として引用されている。
だが、諸書に引かれる『四時食制経』文のうち、『崔禹』文と類似するのは『和名抄』に引用される上記2条のみである。また、『和名抄』が引 く『四時 食制経』文と他書が引く『四時食制経』文は、内容を見るかぎり同一書からの引用とは思われない。しかし、あるいは総論と各論の違いかもしれない。
いずれにせよ『崔禹』『四時食制経』の両書がすでに佚伝しており、『四時食制経』は佚文もあまり残されていないため、両者の関係を明らかに すること はできない。やはり棭斎のごとく『崔禹』と『四時食制経』に同様の条文が見られるとだけするのが妥当だろう55)。
まず、正統本草について簡単に説明する。梁の陶弘景は500年頃に『神農本草経』(以下「本経」)から365品、『名医別録』(以下「別 録」)から 365品の計730品に加注(陶弘景注)し、『神農本草経集注』を著した。その後、唐の太宗の勅命を受けた蘇敬らが『神農本草経集注』に120品を補訂・ 加注(蘇敬注)し、659年に撰したのが『新修本草』である。さらに宋代に至り、974年に『開宝本草』、1061年に『嘉祐本草』、1090年頃に『証 類本草』と、増補・加注が重ねられていった。以上の各書を正統本草と呼ぶ。これらの本草書には、収録する薬品数を順次増やしながらも前代の文章には基本的 に手を加えていないという特徴がある。そして『崔禹』の佚文には正統本草の条文および注文と類似する字句が存在する。以下にその例を挙げてみよう。
仁和寺本『新修』は本経・別録文を朱墨で書き分けないため、輯復本『新修』を参考に区別し、本経文を赤で、別録文を黒で表記した。また、
『新修』
『崔禹』の両者で合致する部分にはアンダーラインを引いた。煩雑さを避けるため、本経・別録文と類似する条文、陶弘景注と類似する条文、蘇敬注と類似する
条文を1例ずつ挙げることとし、その他の例は資料2にまとめおく。
以上の比較と一致字句より、『崔禹』が正統本草を参考にしていたことは間違いない。では、崔禹錫が参考にしたのは正統本草のいずれの書で あったの か。
『崔禹』を著録する『見在書目』が成立した寛平年間(875-91)以前に蘇敬注を収録するのは『新修』のみである。よって、崔禹錫が参考 にしたの は『新修』で間違いない。
『崔禹』の成立はいつ頃であろうか。先の議論で明らかになったように、『崔禹』は『新修』の影響を受けており、よって『崔禹』の成立年は 『新修』成 立の659年を遡らないように思われる。
ところが、狩谷棭斎は『隋書』経籍志に著録される「崔氏食経四巻」を『崔禹』だとする56)。もし隋志の「崔氏食経」が『崔禹』であるな ら、『崔 禹』は隋以前の成立ということになる。しかし、一方では清の姚振宗が『隋書経籍志考証』57)に隋志の「崔氏食経」は崔浩の作だと記している。
そこで、『崔禹』の成立年を考察するにあたり、まず隋志の「崔氏食経」が『崔禹』であるかを検討していきたい。
さて、多紀元胤は「崔氏(禹錫)食経(旧闕禹錫名、今拠本朝現在書目訂補)隋志四巻。佚」58)と、隋志の「崔氏食経四巻」に『見在書目』 から「禹 錫」の名を補っている。つまり、棭斎・元胤は隋志の「崔氏食経」=『崔禹』という立場を取る。
これに対して、中国では宋の鄭樵『通志芸文略』59)、元の馬端臨『文献通考経籍考』60)にも「崔氏食経四巻(崔浩)」と崔浩の名が補わ れてお り、「崔氏食経」=『崔浩食経』だと判断されている。
崔浩は『魏書』に列伝があり、「…浩著食経叙曰…」61)と『食経』の序文が引用されている。また、『旧唐書』経籍志に「食経九巻崔浩撰」 62)、 『新唐書』芸文志に「崔浩食経九巻」63)と著録されている。
『崔浩食経』は序文によれば「河北きっての豪族崔家の老太太(大奥様)の手になる日常三度の食事から、公式の宴席にいたるまで総ての献立が 載ってい たはず」64)で、本草書ではなく調理書であったようだ。『崔禹』は食物本草の書であるから、『崔禹』と『崔浩食経』が別の書であった可能性は高い。
日本では『崔禹』、中国では『崔浩食経』と判断が異なる隋志の「崔氏食経」は、いずれの書であろうか。
元胤は『和名抄』所引『崔禹』文から抄出した10品を諸本草書および小学(文字・訓詁・音韻を研究する学問)の書と比較し、「想うに当時の 名称を挙 げて記す所。後世の字書、遂に其の訓を失うは、猶お篁の竹田に為し、嵐の猛風に為し、帳の簿に為すがごとし。均しく是れ六朝間の称」65)と述べる。『崔 禹』が六朝の語彙によって構成されているなら、その成立も六朝時代と考えられ、隋書に著録されていても不自然ではない。
しかし、棭斎は元胤が挙げる10品のうち、鵤・雲雀・鼃鳥・鮏の4名は他書に見えないと『箋注倭名類聚抄』に記している。
よって元胤は、六朝の語彙を収録することから『崔禹』=隋志の「崔氏食経」としたのではなく、まず「崔氏食経」=『崔禹』としたうえで他書 に見えな い語彙を六朝の称と結論づけたことが推測できる。ちなみに、棭斎は隋志の記載と『崔禹』を結びつけた根拠を記しておらず、あるいは書名と巻数の一致によっ て同定したに過ぎないのかもしれない。
以上、「崔氏食経」=『崔禹』とする説に有力な根拠は見あたらない。では『崔浩食経』とする説はどうであろうか。
『崔浩食経』が『魏書』と両唐志に著録されることから、隋志の「崔氏食経」が『崔浩食経』である可能性は十分考えられる。
しかし、隋志に「四巻」と記されるのに対し両唐志では「九巻」と記されるごとく、巻数に相違が見られる。姚は「九巻」は篇数で、実際には4 巻本で あったのだろう66)と述べており、また、伝承過程で4巻本と9巻本が生じていた可能性もあるが、若干疑問は残る。
隋志に著録される「崔氏食経四巻」は『崔禹』であるか、『崔浩食経』であるか。どちらの説にも十分なる根拠が見いだせず、今、筆者には判断 できな い。
本草和名 | 医心方 | |
---|---|---|
稲米 | 江東呼米(30-8b) | |
猳羆 | 関西名之(2-6a) | |
鯖 | 南人多喫(30-30b) | |
石首魚 | 江南人呼曰(30-31a) | |
触妾子 | 江東名之(2-23a) | 江東呼曰(30-32b) |
懸鈎子 | 江東(2-25a) | |
掇血芝 | 北人名之(2-32b) |
隋志に著録されていた可能性もないではないが、『崔禹』が『見在書目』に著録される以上、その成立が当目録の成立である寛平年間(875- 91)を 下ることはない。また、『新修』の影響を受けていることから、『新修』成立の659年以降に記された条文があることは確かである。
よって、『崔禹』の成立には、次の2説が考えられる。第一に、六朝時代から隋代の間に編纂された『崔禹』が、唐代に『新修』などにより増補 改訂され た可能性。第二に『崔禹』が唐代の成立である可能性だ。
まず、第一の説はどうであろうか。表4のごとく、『崔禹』には南方での呼称も収録されている。また、「江南人」「南人」などと記すからに は、著者は 南方人でないと考えられる。
しかし、六朝・隋代という時代を考えると、北方人もしくは中原の人間が南方の状況を把握できたとは考えにくい。
また、増補改訂されたのなら、唐代に増補前の『崔禹』がある程度流布していたと推測される。しかし、増補前の『崔禹』からの引用文を有する 書はな く、両唐志はいずれも『崔禹』を著録しない。
以上から、『崔禹』の成立は第二の説がより有力であるといえよう。よって、『崔禹』は『新修』成立以降かつ『見在書目』成立以前、つまり 659- 891間の成立である可能性が高い。
『崔禹』の作者・崔禹錫について詳しいことは何も伝えられていない67)。『旧唐書』『新唐書』には崔禹錫という人物が見られるが、禹錫自 身の列伝 があるわけではなく、父・崔融の列伝で言及されるに止まっている。両『唐書』によると、崔禹錫の字は洪範、諡は貞。開元年間(713-741)には中書省 の舎人であったという68)。
また、『全唐詩』に崔禹錫の作品が一首収められており、作者略歴に両『唐書』とほぼ同様の記載69)が見られる。
では、両『唐書』『全唐詩』に見える崔禹錫は『崔禹』を著した崔禹錫なのであろうか。禹錫が活躍した開元年間は、前述した『崔禹』が成立し た可能性 の高い659-891年の間であるため、その可能性は十分にありえる。しかし、両『唐書』の崔禹錫が『食経』を著したという記録は残っておらず、『崔禹』 の著者・禹錫の素性も知れない以上、可能性の域を脱することはできない。
『崔禹』が日本に伝来したのはいつ頃であっただろうか。『見在書目』に著録されることから、遅くとも当目録成立の寛平年間(875-91) までには 伝来していたはずだ。また、伝来時期が伝来写本の筆写年を遡ることはありえないことから、当時の写本の筆写年代を知ることで伝来時期をさらに限定できよ う。
筆写年代決定の手がかりの一つに避諱が挙げられる。筆写年代が避諱された皇帝の年代を遡らないことから、上限を知ることができる。しかし、 伝写の過 程で避諱が付加された可能性も否定できないため、筆写年代の下限は決定できない。
さて、『崔禹』の佚文には唐代の避諱が見られる。すなわち、「世」の部分を「云」と書く「葉」字が見られ、これは太宗・李世民(在位626 - 649)の諱「世」を避けることで生じた「葉」の異体字である。
また、本来「治…」と書くところを「殊療喉痺」「理風痺」とするなどは、高宗(在位650-683)の諱「治」を避けるために、意味が類似 するほか の文字(ここでは「療」「理」)に改めた例である。さらに、主治・効能を「主明目」「主黄疸消渇」などと表記するのも、やはり「治」を避けている70)。 ちなみに、『崔禹』ではこれらの避諱を徹底しているわけではなく、例外も見受けられる71)。高宗以降の唐諱は避けられていない。
『崔禹』の佚文に唐の高宗の避諱が見られることから筆写年代は高宗の在位期間を遡りえず、したがって上限は650年に設定できる。また、前 述の通り 『見在書目』(875-91年成立)に著録されることから下限は891年。つまり日本に伝来した『崔禹』は唐代、なかでも650-891年間の筆写本で(上述の通り『新修本草』からの引用があることから少なくとも659年以降。06/02/15訂正)、 当然ながら遣唐使により将来されたと考えられる。
遣唐使によって日本に将来された『崔禹』が、平安時代の『本草和名』に始まり室町の『太一続稿』まで計12の国書に引用されていることはす でに述べ た。だが、『太一続稿』以降『崔禹』を引用する書はなく、幕末には狩谷棭斎が「今、伝本無し」72)、多紀元胤が「佚」73)と記すごとく佚伝したものと 判断された。『崔禹』の伝存が確認できるのは『太一続稿』の年代が最後になるだろうか。
しかし、『太一続稿』所引『崔禹』文は同一条文が『本草和名』に引用されており74)、『太一続稿』の著者・高橋英因が実際に『崔禹』を見 ていた確 証はない。
やや遡って1456年成立の竹田昭慶『延寿類要』には他書に見られない『崔禹』文も引用されているから、昭慶は孫引きではなく直接『崔禹』 から引用 したはずだ。
『崔禹』が室町中期頃まで伝わっていたことは間違いない。しかしその後『崔禹』の存在を示す資料はなく、江戸時代後期に佚伝したと判断され ていたこ とが知れるのみである。
『医略抄』を校刊した多紀元簡は、雅忠は晋唐のおよそ34書により『医略抄』を編纂したと序に記す75)。これに対して石原は、「これ (『医略 抄』)を丹波康頼の医心方と比校すれば全く符合するのみならず、医心方をさらに略抄したことは明らか」で、「多紀元簡が医心方の略抄であることに気付かな かったのは校刻の当時、医心方の全帙がまだ知られなかったことによる」と述べる76)。
だが先の議論で明らかになったように、『医略抄』は他書に見られない『崔禹』文を2条引用しており、『医略抄』編纂にあたって雅忠は少なく とも『崔 禹』を実見していたと考えられる。『崔禹』の引用文のみから論じるべきではないが、『医略抄』が『医心方』から抜粋しただけの書ではないことも類推されよ う。
『医心方』巻30の辛羸子・生薑・葫・山葵条では、『崔禹』文に「味辛{剌* 韭}」のごとく「{剌*韭}」字(あるいは「{刺*韭}」、図 4)が使 用されている。「{剌*韭}」は『大漢和辞典』『漢語大詞典』に収録されておらず、すでに消えてしまった文字だと考えられる。
『医心方』では、『崔禹』文だけでなく芥条の陶弘景注にも「{剌*韭}」が見られる77)。『医心方』所引の陶弘景注は『新修』からの引用 であり 78)、『新修』は仁和寺に唐代の旧を保つ古写本が伝わっている。仁和寺本『新修』では、芥条だけでなく韮条の陶弘景注にも「{剌*韭}」が見られる 79)。
『新修』は、その後『開宝本草』『嘉祐本草』『証類本草』と、基本的に前代の文章には手を加えずに増補・加注が重ねられていった。よってこ の三書で も「{剌*韭}」字が使用されていると推測される。
三書のうち、『開宝本草』と『嘉祐本草』はすでに佚伝してしまったが『証類本草』は現在に伝わっている。ところが、『証類本草』の一版本で ある『経 史証類大観本草』80)(以下『大観本草』と略)の陶弘景注では「{剌*韭}」ではなく、「辢」「辣」に作っている81)。また、『重修政和経史証類備用 本草』(以下『政和本草』と略)82)でもやはり「{剌*韭}」でなく「辢」に作っている83)。さらに、敦煌莫高窟出土の『食療本草』断簡(以下敦煌本 『食療』)では、楡莢部に「辛辣」の二文字が見られる。
ところで、『医心方』では「{剌*韭}」に二種類の傍注が付されている。朱で「タタカラシ」、墨で「アヘモノ」84)とあり、「{剌* 韭}」の字形 が「韲」(あえものをつくる。あえもの)の異体字に似ることから、「アヘモノ」と読めそうである。しかし、各々の用例が味の記述、それも多く 「辛」と共に用いられ、『大観本草』『政和本草』で「辣(辢)」に作ることを考えると、「タタカラシ(ただ辛し)」の意にとるべきであろう。
仁和寺本『新修』では「{剌*韭}」と記されている箇所を、『大観本草』『政和本草』では「辣(辢)」に作っており、仁和寺本が唐代の旧を 保ってい ることから、「{剌*韭}」が唐代に使用されていたことは間違いないだろう85)。一方の「辣(辢)」は10世紀中葉の筆写に係るといわれる86)敦煌本 『食療』に「辛辣」の記載があることから、五代から宋初にかけて使われ始めたと判断できる87)。
よって、「{剌*韭}」は唐代まで「タダカラシ(ただ辛し)」の意味で使用されていたが、五代から宋代にかけて「辣(辢)」が使われ初め、 遂には姿 を消したと推定できる88)。
佚文の検討より、佚書『崔禹錫食経』は『爾雅郭注』『説文解字』などの辞書類や『新修本草』を参考に崔禹錫が編纂した食物本草書であること が分かっ た。成立は659-891間である可能性が高く、『日本国見在書目録』によると全4巻。内容は総論部と各論部から構成されており、各論部はおよそ穀・果・ 菜・虫魚・獣・禽に分類できる。また、鳥類・魚介類が豊富に収載されていただろう。作者・崔禹錫は未詳人物であるが、あるいは両『唐書』に見られる崔禹錫 が該当するかもしれない。日本には891年までに遣唐使によって将来され、室町時代まで計12の国書に引用された後、江戸後期には佚伝したと判断されてい る。
『医心方』に引用される『崔禹』はよく古態を保っていると判断されたが、引用の際に康頼が手を加えたであろう条文も存在する。本草篇である 『医心 方』巻30「五宍部第三」で『崔禹』からの引用が最も多いことからも分かるように、日本に与えた影響は唐政府薬局方『新修本草』にも劣らない。また、 「{剌*韭}」字や太宗・高宗の避諱など、唐代の漢字の使用状況の一部を現代にまで伝えている。
『養生方』などの養生書との類文も見られ、成立における何らかの関連を想像させる。これら本論で結論が出せなかった部分は今後の課題とした い。