平成17年度人文学科卒業研究
古代漢字研究 ―漢数字の起源―
(*本稿は卒業論文に一部修正を加えたものである)
02L1126R 室井陽一 指導教員:加納喜光
緒言……一頁
第一章 一から四の起 源……三頁
1 序論……三頁
2 一……四頁
3 二……五頁
4 三……五頁
5 四……六頁
6 小結……六頁
第二章 五から九の起 源……八頁
1 序論……八頁
2 五……九頁
3 六……九頁
4 七……一〇頁
5 八……一一頁
6 九……一一頁
7 小結……一二頁
第三章 十から萬の起 源……一三頁
1 序論……一三頁
2 十……一四頁
3 百……一五頁
4 千……一六頁
5 萬……一七頁
6 小結……一八頁
結論……一九頁
注……二〇頁
参考文献……二九頁
日本で使用される漢数字は中国で生まれた。しかしながら、始めから現在の姿であったわけではない。中国最古の文字とされる甲骨文字[1]と現在の 字形の 違 いは如実である。一、二、三、八に大きな違いはないが、ほかは異なる。甲骨文字以後、金文や篆文など長期間の字体変化を経て、現在に至った。
本稿では、甲骨文字に見られる漢数字、および諸説[2]をもとに起源を追求したい。漢数字の起源は甲骨文字、あるいは甲骨以前の陶片文字にまで遡 る。考 察 の要素としては、甲骨文字を土台とするが、すでに解読されている陶片文字も扱ってみたい。筆者は漢数字を、性質上の相違[3]から、表1の三系統に分類し た。そして、さまざまな説をもとに私見を述べたい。
表1 漢数字の分類系統図
一 | 二 | 三 | 四 | 五 | 六 | 七 | 八 | 九 | 十 | 百 | 千 | 萬 | |
A | |||||||||||||
B | | ||||||||||||
C |
数字が誕生するまでの経緯を以下の(2)、(3)に記した後で、主旨の考察に移る。論述の方式は、各章とも次の順序に従う。
(ア)序論:各系統に属する漢数字、すべてを通しての考察。なお、以下のごとく凡例を定める。人物の敬称は省略する。同姓者がいる場合は姓名を記す。数を表す大字(壱、弐、参、…)や、十干(甲、乙、 丙、…)十 二 支(子、丑、寅、…)、零(〇)は扱わない。甲骨文字に存在した数の原型である一、二、三、…、萬の十三文字のみを対象とし、後世に造字された億以上の数 位は扱わない。著書の名前や頁数、出版年、さらに注や節などの番号では算用数字を使用する。図中においても例外的に、算用数字を使用するが、ほかは引用文 もすべて漢数字に改める。本稿で使用する漢字は、JISコード文字にある常用漢字・人名 用漢字を原則とし、該当しない漢字は正字を使用した。「…の 説はない」のごとき表現を用いるが、すべて筆者の管見の範囲による。
人間の数に対する認識と計数能力は、以下に列記する段階を追って発達した。
@個体数に対して、無(零)と有(一以上)を区別する。@からBが数の認識、CからEは計数能力である。後者では、数える対象と無関係なものを、「一対一対応」させて数える手段が用いられる。
発達の途中には、序数や底概念などの数にまつわる構成要素のほか、数えるのに使った手や小石などの道具も計数能力の発達に影響を与えた。
数の要素では、底が重要な位置を占める。底がなければ、数は一直線上に並べただけになる。すると数の増加に伴い、記憶する作業が面倒になる。ま た、実用 性 に欠けるのだ。十進法の場合、一から九までを横軸とするならば、十や百などの位を表す底は縦軸になる。数の二次元化により、少ない元手で無限に数を表現す る術を生み出したのである[4]。
人間の計数能力が発達したあとは、思い浮かべた数の具現化が求められる。記録・保存の段階へと移る。使われた媒体の実例は、獣骨や木の棒に付され た刻み 目、小石などが挙げられる。数えるだけでなく、数えた結果を形として表現できるようになったのだ。
しかし、記録から計算の段階へ移行すると、刻み目や小石では用が足せない。「計算」と「(計算過程の)記録」を同時に満たしえないからである。そ こで数 字 が生み出された。媒体に数字を刻むことで、少ない字数で思い通りの数を表現する術を身につけたのだ。
数字の形は国ごとに異なるが、数えたり保存したりするのに使った道具が、字形に関係する例が見られる。メソポタミアでは粘土板に刻まれたくさび形 (シュ メール数字)、ローマでは木の棒に付された刻み目の形(ローマ数字)のごとき具合である[5]。
一から四までの起源には諸説がある。とりわけ数の始まりである一は、六書に従えば、「指の象形」、「算籌の象形」、「指事」とする三説に分かれ る。さら に 二以上では、「会意」の説も加わる。
@指の象形郭は、一から四を、表示する数の分だけ伸ばした指の象形とする[6]。「太古の昔から、私たちの十本の指はしばしば数観念の具象的な媒体として役 立って き た」[7]とされるごとく、指の使用が数えるのに役立つのは事実である。また、指で表した数量を、文字として置換する流れは自然であろう。よって、本説の 信憑性は高いといえる。
A算籌の象形中国人は、計数時に指だけでなく算籌をも使用したそうだ[8]。高亨は、一を算籌の象形とする[9]。計数道具の算籌を、表す数だけ伸ばした形だ とい う。 算籌は、指と同様に使うため、本説もまた自然である。
前述の二説は、もとになる計数道具が異なるだけで、道具を象った点では一致する。
B指事一であれば、想像した数量の一を、一本の線で表す考えである[10]。前述のごとく、数える作業は、数える対象の性質と無関係なもので一対一対応 させる 行 為である[11]。よって、棒状の一本線が数量の一を表すことになる。
以上の三説が基本となるが、次の説もある。酒井は、前述のいずれか一つではなく、「象形」でも「指事」でもあると考える。『甲骨文編』には、一か ら五ま で の積書がある。五は手の指の本数に一致するため、手の指の象形とする。また、積書が指そのものではなく、数を象徴する内容をもつために、指事であるとする [12]。
図1 造字までの過程
以上、四説を簡単に紹介したが、造字の過程を示したうえで、考察したい。造字に至るまでには、必ず表現する数の想像があるはずだ。左図の経路a は、想像 し た数を直接、字形化する「指事」である。経路bは、指や算籌の計数道具を介して造字する「指事(b1)」と「象形(b2)」だ。
現段階では、いずれが有力かを決定しえない。だが、計数道具を介するか否かに関わらず、指事が先行することだけは判断できる。よって、指事説こそ が、一 か ら四までの字形の原型であると筆者は考える。
しかし、起源を考えるに当たっては、前述の説以外に次の疑問も生じる。一をつくったうえで、複数である二以上はいかなる数であるかだ。「指事」 「象形」 だ けでなく「会意」もあるとする考え方だ。単数の一も含めて、考えていきたい。
なお「会意」説を扱うに当たり、線の長さや配置に着目し、意味があるとして論述する説はない[13]。しかし筆者は、『甲骨文編』に見る字形の線 の長さ や 配置[14]が、「会意」として無意味だと断定できないため、着目してみたい。
一は、「単数」であるから「会意」の考えは発生しない。本節では、存在の有無に分けたときの、「有」に当たる最初の数、一の字形を考える。
数を表すために、なぜ横線を用いたのか。また、一を表すのに必ずしも横線でなくてもよいのではないか。まず、線である理由を考えて、縦横の方向性 の問題 を 解決したい。
前者に対して、影山が説明する。○や□のごとき記号でも表しうるが、円形や方形を意味すると誤解されかねない。よって、不要な概念を想起させない 記号を選 択すべきだとする。数を表すには点でも差し支えないが、幾何学的観点から言えば、位置のみで長さがない。つまり、存在感に欠けるため線にしたとする [15]。
対して酒井は、影山が唱える点の定義に同意するが、捉え方に異なる見解を示す。ほとんどの人が、「・」や「,」を点として認識できるだろうと考え るの だ。 点が目にとどまりにくいとしても、意味があり、認識されるという[16]。影山は、点が認識されにくい問題を危惧するが、酒井説により解消される。線では なく、点の積書でも問題ないことになる。
孫は、小さな点を引き伸ばして線にしたため、一から四は積書なのだという[17]。もともとは点であったが、何らかの理由により線になったという のだろ う。点が線となった理由に対する説はなく、前述の影山と酒井の説にならうほかない。点であっても不都合はないが、存在を把握するためには点より線の方が効 果的だとするのが、一だけを扱った上での筆者の推論である。
次に、後者の方向性の問題に対しては、郭が説明する。手の指を使って数えるときは、無意識に右手で行い、一から四まで指を倒すため横書きだとする [18]。ただし、本説は手を使うことが前提となるため、図1の系統aは無視されることになる。また一を表す横線に対して、十を表す縦線があるため、前者 の問題と当疑問はともに十と合わせて第三章の2で後述したい。
二以上は「複数」であるため、前述のごとく、会意か否かの問題が生じる。甲骨文字の字形を見ると、二から四までは、すべて横の一本線にならい、重 ねて書 く 積書であることがわかる。五は、一件のみ積書のサンプルがある[19]。
イフラーが唱える基数の概念[20]に従えば、二は一+一と表示される。つまり、「一」と「一」の会意となるのだ。しかし影山は、「一」と「一」 の組み 合 わせによる会意文字ではなく、指事とみる[21]。
(ア) (甲五四〇)
(イ) (鉄七三・四)
図2 甲骨文字の「二」
字形を見てみよう。図2の(ア)は、厳密には二本線を平行だとしがたいが、長さは等しい。逆に(イ)は平行だが、上が短く、下が長い。同じ二であ るが、 か くも異なるのだ。長さに意味があるならば、一と一が同質であるとはしがたい[22]。数量として、二は一+一の値だが、(イ)の字形からは、二つの一が同 質であるとは思えない。
以上のごとく、同じ漢数字でも、字形の細部が異なる場合がある。会意か指事かの問題は、積書の字形すべてを扱ったうえで結論を出す。
三においても、似た問題が生じる。だが「二」とは異なり、何と何の会意なのかの問題である。
影山によれば、二と一の会意文字とする人が多いそうだ[23]。だが、(ウ)のごとく配置された「二」と「一」の会意は、いかなる意味をもつの か。二を 一 +一としても、なぜ合わせる必要があるのか。当疑問に対する説はなく、筆者の推論によるほかない。
(ウ) (不明)
(エ) (前六・二・三)
図3 甲骨文字の「三」
イフラーは、一と二しか知らず三を二+一で、四を二+二で表現した原住民の例を紹介する[24]。当事実が中国でも当てはまる場合は、(ウ)のご とき字 形 になりうるだろう。
また三が、一を三本積み重ねた形で、「一」を三つ合わせた会意だとする考えはどうか。(エ)のごとく、長さが等しく、それぞれが等間隔に配置され る三本 の 線で構成される字形に当たる。前述した基数の特性、すなわち一+一+一の原理による。人類が新たな数を次々と生み出す契機となりうる、最も原始的な概念の ひとつである[25]。
四を会意とした場合は、三通りの捉え方ができよう。
@一+(一+一+一)と表せるだろう。「一」と「三」の会意。図4(オ)の字形に見られる配置。(オ) (前四・二九・五)
(カ) (前一・七・一)
(キ) (余一六・二)
図4 甲骨文字の「四」
@は理解に苦しむ。一+三の表記には何の意図も見いだせない。三+一であれば、表現する数の直前で累積される一を合計し、新たに一を加える思考で あると こ じつけられよう。だが、当方法に意味があるとも思えない。
Aは前述の私見と同様に考えられる。
Bの場合は、前節で挙げた原住民の例に該当する。しかし、二線の長さが異なる、二つの「二」が何を表すかが問題となる。両手の人差し指と中指であ ろう か。 すると、片手で四まで数えられるところを、両手の指を用いて数えることになり、利便性に欠ける。
(キ)は筆者の主観になるが、線の長さをもとにすれば、右手を横にして伸ばした四本の指の象形に見える。意図されたのか、偶然なのかは不明であ る。
積書は基本的には、一から四までに見られる書法だが、五も例外的に存在する。因みに六には見られない。五まで存在する限り、数えるのに用いた指の 象形と 考 えてもおかしくはない。四において、(キ)のごとき四本の指の象形に見える字形も、指を想起させる。
基数の概念が存在したことから、会意の概念の存在も考えられる。(ウ)や(オ)のごとく、各線の配置が均等でなく、配置に意味があるならば会意と 考えて も 問題ない。だが影山説のごとく、「字を刻む人の習慣上のもの」ならば、一+三のごとき会意ではないだろう。ただし、一+一+一+一のごとき基数概念をもと にした会意である可能性は残される。
会意であるにせよ、指事が先行してつくり出された一がもとになる。やはり指事が、一から四までの字形の原型となる思考だといえる。
線の長さの相違は、如何ともしがたい。二では(イ)、四では(カ)のごとく、線の長さの統一されていない字形が存在する。線の長さを変えること で、いか な る効果が得られるかを述べる説もなく、筆者も推論すら浮かばない。意味があるとは思えないが、意味がないとも断言できない。
一から四の字形では、指事が先行した字形とするのが、筆者の結論である。「象形」ならば、計数道具を介する。「会意」ならば、指事を原型として誕 生した 一 を扱う計算の思考になると考える。
系統Aとは異なり、本系統では字形に一貫した規則性が見られない。中国では十進法が採用されるが、数字の字形を見る限り、五で一区切りつくため、 五進法 の 要素もある。しかし五進法とはいえ、不規則な形である。下のごとく規則的であれば、起源の解明は困難ではないが、不規則なので困難を極める。
字
形 | 一 | 二 | 三 | 亖 | × | × 一 | × 二 | × 三 | × 亖 | | |
数 | 一 | 二 | 三 | 四 | 五 | 六 | 七 | 八 | 九 | 十 |
視覚的観点からの検討だけで議論するのは無謀であろう。造字の段階ですでに存在した音声が影響する可能性を考えたい。字形以外に、音声がもつイ メージに も 注目しながら、考察を進める。本系統に属する五文字において、一貫した説は次の三説である。
@影山説:偶数と奇数に分ける。六と八は、両手の指の象形。五、七、九では、五が手の象形。七と九は、五の古形×の変化形[27]。上説への私見は以下に記す。
影山は、偶数の場合、六を表すのに三+三、八を表すのに四+四と、二等分する考えを示す。確かに、偶数と奇数の字形を見比べると、偶数は左右対称 で足が 二 本なため、両手の手まねと考えるのも無理はないだろう。だが酒井は、影山が考える手まね[30]は単なる憶測にすぎないとする。五も「」と「×」との相対関係が見出せず、こじつけだという[31]。また、片手で 数えたとする[32]ため、両手を用いて、右手・左手と交互に指を伸ばして数 えたとは考えにくい。完全には否定しえないが、筆者は酒井説に賛同する。
唐漢は手まねを数に対応させるが、手まねによる数の表し方には、ほかに二説あり[33]、いずれが正しいかを決定しえない。よって、手まねに由来 する可 能 性はあるが、以後の考察の対象にはしない。手まねにもとづく説を挙げるだけにとどめる。
藤堂・加納は、「言葉(音声)」に着目するため、酒井が考える造字までの経緯[34]に逆らわず、自然であるといえる。
筆者は、以上の三説の中では藤堂・加納説を有力視し、それぞれの漢数字に対する説も交えて考察を進めたい。
藤堂・加納は、数量の五をngagと称したとする。片手の指で数える場合、五番目の小指が折り返しに当たる。→の方向で数え始めたならば、五を境 に←へ と 方向転換する。つまり五は「クロスする」イメージをもち、字形化して×と表したそうだ[35]。交われば「中央」が存在し、五が中央に当たる場面が見られ る。例えば一から九において五は、一から四と、六から九をつなぐ接合部に当たる。また、加法を用いた三×三の魔法陣でも常に中央に配置される[36]。数 量の性質としても、中央(交差点)にあるのだ。造字した人々の数に対する認識が、いかほどかは不明である。しかし、造字した人々が当概念を備えていれば、 「クロス」を意味する可能性は高まるだろう。
楊は、「交午」の「午」の本字であるとする。午と同音で、仮借されたとみるのだ[37]。藤堂・加納によれば、午もまた交差の意味を含むそうだ。 十二支 で は、前半と後半とが交差するポストに当たる七番目を表す数に当てたそうだ[38]。楊説では、午が五より古くから存在することが条件となるが、いずれが古 いかを断定できないため、如何ともしがたい[39]。だが、陶片文字の五(×)と甲骨文字の午()とは違いがある。甲骨文字の五()と午()を比べたために、本説のごとき見解を生 じさせるとも考えられる。
方は、古文の五が、積書のであると示す[40]。酒井は、中の三本が×に変わり、上下 の線と結合したとする[41]。もともとは積書のだが、亖との区別のため、中の線を×と変 形させた流れになる。しかし原理として、数量の三が×で表記されなければならないため、完全には否定しえないが、 肯定しがたい説である。
なお、上下の二本線は何を示すかの問題が残るが、李迪著『中国数学通史・上古到五代巻』により解決される。甲骨以前の陶片文字では、五は×である そうだ。 五(×)と七(+)との混同を避けるために、五の上下に線を加えたという[42]。
字形からも、音声をもとにした「クロス」のイメージといえそうだ。前述のごとく、数量の性質を考えるよりは、指をもとにする藤堂・加納説が有力だ ろう。 本 説が示す五の意図は、陶片文字の字形である×と一致するため、肯定に値する。積書の五が指の象形であるならば、亖との区別を容易にするため、指の本数と五 のポストに注目した結果、の字形になったと筆者は考える。
藤堂・加納は、定説はないが、数えるときの手と音声の結合だとする。五まで指を折り、親指を立てるのが六である。その姿は盛り上がった形となり、 陸や隆 と 同語源のliokで、数の六に命名した。高く盛り上がるイメージだけを用いたとみる[43]。しかし本説は、五まで指を折り、六のときに親指を立てる数え 方が前提となる。六は、一の位において次のごとく位置づけられる。手の指で五まで数えた場合は、片手で一通り数え終えて、折り返しの一に当たる。仮に両手 で数えたとしても、やはり第二の一に当たる。いずれにせよ新たに一本指を出す、つまり「盛り上がる」ため、陸(盛り上がるイメージ)につながるだろう。
異見では、丁が、「入」を借りて「六」としたとする[44]。于は、が六のもともとの字形で、入との混同を避 けるために、などの字形に変えたとする[45]。対して張は、甲骨文字に おいて、「六」は 「入」と同様に「」の形で刻まれたとする。だが、混同することはないという[46]。以上三説 は、いずれも入と六を関連づける説だが、入は数量の六を想起させるのか。当疑 問に対する説はない。「字形が似るため」だけでは、こじつけにすぎないだろう。仮に指で数えるならばどうであろうか。五ですべての指を伸ばし終え、六は親 指を曲げる数え方に従うとする。当条件下では、伸ばす動作を終え、曲げる最初の数となり指を中に入れる、すなわち「入」を想起させるだろう。
字形が五で一区切りつく漢数字では、六が第二の一になることは確かである。五本の指を備える片手も同様に想起させるだろう。つまり六は、新たに 「再興す る」ポストにある数量で、盛り上がるイメージをもち、のごとき字形になったと筆者は結論づけ る。
藤堂・加納は、縦棒を横棒で切るさまの象徴とみる。七は、一と七でしか割り切れず、ほかの数で割ると端数が出るため、切や節と同語源の言葉で ts’iet と呼んだ。切って半端なものが出る図案であるそうだ[47]。本説では、造字の時期に除法の観念が存在したか否かの問題が生じる。酒井は、指で計算・表現 した時代に、乗法や等分の概念が存在したかは疑わしい[48]とする。造字した人々の計算能力が、いかほどかを論述する説もなく、解決できない問題であ る。だが、「等分」ならば可能ではなかろうか。人間は手を二つ備え、互いに同数揃えれば済むからだ。七は等分できない奇数で素数でもある。しかし、奇数の 五は指を想起させるが、七はとりわけ何も想起させない。藤堂・加納説の「半端なものが残る」イメージである。
林は、古くはとしたとする。「切」の古文であるそうだ[49]。切と七には、いかなる関係 があるのか。やはり数量と結びつける必要がある。「切り傷の形」であるため、 七を半端なものが残るイメージとする藤堂・加納説に帰着するだろう。
七が素数であり、割りきれない性質が、切って残りが出るイメージにつながったと筆者は考える。やはり「切」とも関係がある。
藤堂・加納は、八→四→二→一と次々に等分される(分かれる)性質から、左右両側に背いて分かれるさまを象徴化した図形であるとする。また、別や 半と同 語 源のpuatと呼び、別れるイメージのある視覚記号で表記した[50]。前節で挙げた等分の思考に従えば、八は次々と等分できる数で、別れるイメージにつ ながる。
高鴻縉は、八の本義を「分ける」だとする。別れる象形を借りた指事文字だそうだ[51]。張は、別れるさまが、形のない抽象的観念であることか ら、指事 か 象形と見なす。起源は具体的なものに関係し、両腕を伸ばした形や、親指と人差し指を離して伸ばした形だと考える[52]。馬は、八が臂の最初の字形だとす る。八と臂は同音だ。体の両脇にある臂(腕)を、分別を表す最初の文字としたため、分別の最初の文字でもあるそうだ[53]。以上三説においては、指事な のか象形なのかの問題が残るが、図1の経路と同様の図式で解決される。想像した「別れる」イメージに始まり、体の両脇にある腕を介するか否かに関わらず、 字形化される流れである。数量の性質も、八→四→二→一と「別れる・半分になる」イメージに合致する。
次の考えはどうだろうか。クロス(×)が存在するため、組み合わせた二本線の先が四つ生じる。当時、四方向の概念が存在したかもしれない。線を複 数交え る 考えから、八方角の概念まで発達していた可能性もあるだろう。造字した人々に「周囲」の意識があるならば、八が周囲に「散り散りに別れる」イメージの象徴 化だとしてもおかしくないだろう。
いずれにせよ、「別れる」イメージの象徴記号であると筆者は考える。
藤堂・加納は、肘を曲げた図形とするが、肘の意はないそうだ。「六」と同様に、抽象的な数を具現化する手法である。九は一の位で最後の数である。 究や尻 と 同語源のkiogと命名した。九は肘を曲げる姿だが、まっすぐ行かないで曲がる、あるいは終局を暗示させるという[54]。
林は、屈曲が本来の意味で、借りて数名の九としたという[55]。丁は、もともと肘の字で、腕の節を象ったとする[56]。馬は、肘の最初の文字 で、象 形 か指事だとする[57]。やはり、図1の経路と同様の図式で解決される。一の位では最後の数であり、これ以上は進めない窮まりのポストにある。終局のイ メージがあり、肘を介するか否かに関わらず、字形化される流れである。
ところで、曲げる対象を肘だとするのはなぜか。李孝定は丁の説を紹介する。丁は、「肘」は昔、「肍」であったと考えるそうだ。 の前半部は「又」と同じで、中の線を曲げてできた 屈曲部が、肘の場所を示すとみる。 「九」と「又」は字形が近く、「又」と「寸」は通じる。肘の象形を借りて数名の 九に当てたという[58]。肘を借りて、九に当てた理由は論じられていない。しかし藤堂・加納が示すごとく、九が一の位の終局、すなわち「折れ曲がる」ポ ストにあるためであるといえよう。
高田は、十の横線を変化させて九をつくったとする[59]。しかし孫は、大きな数から小さな数ができたと考えるのは、道理に合わないとする [60]。 よっ て十の字形が先にあり、後に変形を加えて九をつくったとは考えにくい。
やはり十進法の中国数字において、九は一の位で終局のポストにある。先に進めない窮まりとして、曲がりくねった字形と考える。
本系統では、筆画の少なさが目立つ[61]。単に、意味を持たせずに、少ない筆画の字形をつくり、数とした可能性は否定できない。原始時代の人々 が約束 事 とし、おぼえさえすれば何の問題もないからだ。指を用いる場合も同様である。だが当条件下であれば、アルファベットのLやT、Vのごとく、より甲骨に刻み やすい字形としただろう。九のごとき刻みにくいと思われる曲線、さらにそれぞれが特徴的な字形であるために、何らかの意味があるとするのが妥当だ。
「少ない筆画」を前提として、音声のもつイメージから数量に転用したと筆者は考える。音声のイメージと数の占めるポストは、それぞれ切り離すこと ができ ず、両者を満たすことが条件となる。なお、一から四の字形と比較すると、手を使用する印象は下がる。しかし、完全には脱却していない。
底概念によって生み出された、位を表す漢数字である。
十では、第一章の2で残した、点ではなく線で表記される理由や、縦横の問題と合わせて考えたい。百、千、萬では、横の一本線の有無、さらに線があ る場合 に 何を意味するかが問題となる。『甲骨文編』に記載がある百、千、萬の字形[62]と、線の有無に分けたときの個数を下図に載せた。
百の字形(計27個)
(ク) (甲三〇一七反):24
(ケ) (前六・四二・八):3
千の字形(計16個)
(コ) (甲二九〇七):16
萬の字形(計19個)
(サ) (明蔵一九〇):1
(シ) (前三・三〇・五):18
図5 『甲骨文編』の百・千・萬の字形(算用数字は文字数)
百ではほとんどに、千ではすべてに「―」が付されている。逆に、萬では付さないのが通例となる。横線に対しては、一の意味とする説がほとんどであ る。甲 骨 文字では、十一以上において合字が用いられるため、理に適う説といえる。萬には大方横線が付されないが、張によれば、数を表す萬には横線が付され、人名や 地名を表す萬には付されないという。また前者は使用例が少なく、後者は多いそうだ[63]。さらに、二百であればのごとく「二」が付されることから、「―」は一を表すといえる。
十は特別な位置を占める。九は一の位では終局の数だが、十は両手の指の本数であり、両手の指で数える場合、やはり極みの数になる。ただし十進法で は、一 か ら九をまとめた新しい位を表す数である。つまり、終わりであるばかりか、底の始まりでもあるポストである。十の起源は、以下の二方面から考える。
(@)一との方向性に関係する
影山は、十は最後の数であるから、最初の数の『一』に対して単に方向をかえて|として十をあらわしたとする[64]。また同書の200頁、百の項 目で 「十 進法で行けば十位においては一(ママ、十)がはじめ」とあり、一と十を関連させる。十は十進法における一としてよい。そこで、一との混同を避けるため方向 を変えたという。于も同じ見解である。一との混同を避けるため、縦書きとしたそうだ[65]。
馬は、手で数えたときの指の曲げ伸ばしによるとする。一は曲げた指なので横、十は伸ばした指なので、縦とする[66]。はじめから方向性を意図し て造字 し たのではなく、指による数え方の相違に由来するという。結果的には方向性の問題といえるため、(@)に属するとしよう。
(A)一との方向性と関係ない
酒井は「合掌された手の形の象形として、『|』という字形が用いられたものと考えられる」[67]とする。張も、両掌を縦に合わせたときの象形 が、数字 の 十であるとする。また、両掌の指の本数は十であることに注目している[68]。
藤堂・加納は「十進法では十は新しい位になる」、また「『十』は甲骨文字では縦の一線で示される。横の一線の『一』と対称的である」[69]とす る。し か し、方向性とは関連づけず、拾(合わせ集める)と同語源で、一から九を合わせまとめたイメージとする[70]。
以上の三説は、次のごとく順序づけることができる。まず、合わせ集めるイメージがある。そして、当イメージにもとづくか否かに関わらず、個体数の 十に由 来 する対象である両掌の指を選び、合掌を象る「|」にしたと筆者は考える。
さて、「―」や「|」のごとく、点ではなく線の問題と、縦横の問題を考えたい。両者のうち少なくとも一方に点を用いるならば、以下の表記法が考え られる だ ろう。
@「・」を一、「・」を十とする。@であれば字形が同じうえに、ともに数字であり、用法の判別がつけられない。よって文字としては役立たないため、使用しえない。AとBは、一と十 の一方 を 点、他方を線とする。ともに区別できるため不都合はないだろう。また陶片文字では、五(×)と七(+)が混同しやすいと、前章の2で論じたごとく、一 (―)と十(|)もまた混同しやすい。よって一方が点、他方が線とした方が混同せず都合がよい。しかし、実際の字形が「―」「|」のごとく点ではない以 上、偶然ではなく意図的に点の使用を避けたと考えられる。
前述したが、酒井は点には「点」の意味があるとする。だが、「・」に「一」の意味をもたせるとしても、前者は名詞、後者は数詞であり用法は異な る。よっ て 甲骨文字では、文脈から判断でき、不都合はない。陶片文字においても、点を「点」の意味としては用いないだろう。点を用いて不都合が生じるならば、やはり 影山が危惧する点の存在感の欠如によると筆者は考える。
ところで、縦横が定まり、文脈から判断しえる甲骨文字ならば問題ないが、数字のみが点在する陶片文字では、縦横の区別は可能なのか。不可能なら ば、使用 し えない。しかし、李迪によれば、中国の新石器時代末期の二十は、三十はのごとく記されるそうだ[71]。二、 三との混同は避けられる。あとは、一と 十の区別の問題になるが、当問題を解決する術はなく、「―」と「|」の混同は 避けられない。
筆者は第一章の2で、点であっても不都合はないとした。しかし、十と合わせて検討してはじめて、縦横の変化のみで一と十の両方を表せるため、線の 方が便 利 だといえる。方向性の要素は、陶片文字では混同の原因となるが、甲骨文字では有効に生かせるといえる。
百以上では、二字の合字とする説が多い。
藤堂・加納は、一と白との合字とする。白はどんぐりの象形文字で、多数の象徴として利用したという[72]。筆者の感覚によるが、百もの個体を目 の前に す れば「たくさん」と感じるだろう。
影山は、一と自との合字だという。十進法では、百位において百が第一に相当する。始めの意をもつ自と一との組み合わせとする。白は自の省略形であ るとい う[73]。百位において百が第一に当たるのは確かであるが、十位では十が第一となりうるはずだ。千位と萬位でも同様にいえる。よって、自であるとはいえ な い。
酒井は、一が手の指の象形だとするならば、ずんぐりした形状の爪であろうと考える。人間の体に十個存在することから、「足の指の象形であり、計数 の手段 と して『百』に流用されたもの」[74]とする。指で数えた事実もあるため、本説のごとく手の次に、足を考えるのも自然だろう。足の指により数えたか否かは 不明だが、十本指の点では共通する。
ほかにも、以下の四説がある。しかし、いずれも根拠が記されていない。
張は、起源が鼻の形にあるとする[75]。「鼻」は『説文解字注』、137頁に、「従自畀」とあるごとく、自と畀を合わせた形である。筆者は、百 の起源 が 自 ではないとするため、自に従う鼻も関係しないと考える。また数量の百を、鼻に当てる必要性も見いだせない。
陳は、お金として使われた貝の形だとする[76]。唐桂馨は、銭袋の形に似ているとみる[77]。両説とも、お金に関係があるとするが、なぜ数量 の百に 当 てられたのだろうか。貝の形、銭袋のいずれにも似た形で、身近な存在だろうが、数量の百との関連性が考えられない。
林は、白の異形で、中のは薄い膜の象形だとする[78]。白にもとづくとしても、「薄い膜」とは何を 意味するのだろうか。甚だ理解に苦しむ。
手の指を用いて数えるとしよう。例えば、右手で十まで数え終えたら、左手の指を一本伸ばし、十を表す。両手で九十九まで数えられるだろう。しか し、底の 概 念を用いても、手の指では百を表すことができない。多数であり、手の指の次に当たる計数道具は、足の指となるだろう。ゆえに筆者は、藤堂・加納説、さらに 酒井説が信頼できるとみる。
藤堂・加納は、人と一の合字で、一千を表すとする。殷代では千人単位の軍隊などの集合を数える単位だろうか。古音のts’enは進と同語源で、次 へ次へ と 進む大きな数を意味するという[79]。百を多数とするため、百以上も多数であるのは言うまでもない。百→千→萬の流れを見ると、千は百と萬の間を占める 「次へと進む」数位として相応しい。
影山は、古形がであることから、人と十との合字とする。人は声符。千は十の百倍で大数だか ら、百が一と白との合字であるのに対し、とくに十の字を組み合わせたという[80]。やはり合字にもとづくが、人と一ではなく、人と十の合字だという。千 を千位における第一とする考えではない。前述のごとく、「―」は一の意味で あるため、理に適わない。また、筆者の扱う資料には、古形のが見つからず、影山も参考にした資料名を記していない。影山 が短線を誤って 「・」と判断した、あるいは金文の十の字形である[81]と混同した可能性もあるだろう。いずれにせよ、本説 は信憑性がない。
以上の説以外にも、多少理由は異なるが「人」や「身」と関連づける説ばかりである。酒井は、「人間の象形であり、計算の手段として『千』に流用さ れたも の」[82]とする。人間の象形を数量の千に当てた理由は記されていない。唐漢は、人間の太腿の部分に短い一本線を施した形で、短線は大数としての強調の 意味だとする[83]。しかし合字の点から考えると、本章の1で結論づけたごとく、例えば三千がのごとく書くため、強調ではなく一の意 味であるはずだ。
また、藤堂・加納説のごとく、音にも注目する説がある。林は、千と身の古音が近いと見て、身の省略形とする[84]。戴は、千にはもともと音がな く、人 と 千が同音であるため、人を借りて千にしたとする[85]。
藤堂・加納説では、多数を意味する百・千・萬において、千は確かに次ぎにつなげるポストにある。字形から見ても、人に一を加えたといえる。林や戴 の、千 は 人や身と音が近いとする説も字形に反しない。人が千に当てられた点に対しては、多数にもとづくとする藤堂・加納説と、一→十→百→千の流れで一貫させる酒 井説がある。具体的には、本章の6で取り上げたい。
字形の特徴を見ると、十三文字の中で最も複雑である。影山は、一種の虫の象形とする[86]。
他説はいずれもサソリに由来するとみる。酒井は、サソリの象形とする。サソリを次の生態面の二特性から、多数と結びつける。卵胎性で卵が孵化する と多く の 子を背負って歩く、あるいはぞろぞろと集まる群生する性質だ[87]。藤堂・加納は、サソリが多くの子を産むことから、多数の象徴とした。百をどんぐりに 由来するとしたのと似た考えだ。古代ではmiuanと発音し、綿や蔓と同語源で、長く続く数を意味するという[88]。
サソリの生態としては、酒井が提示する二特性のほか、毒性の強さも挙げられる。唐漢は、サソリが群れをなしたときの個体数の多さに加え、毒性が人 々の意 識 に大いなる恐怖心を植えつけたとする[89]。造字がなされた時代に、いかなる生物が存在したかは不明である。サソリと同様の特性をもつクモはどうか。特 性が同じであれば、クモを萬の字形としてもよいのではないか。しかし、クモではなく、サソリが萬として用いられた理由に対する説がないため、解明しえな い。ただし、以上の特性から、サソリが造字した人々に、恐怖心などの何らかの影響を与える存在であったといえる。クモを萬に当ててもよいが、字形からクモ ではなくサソリであると判断できるため、サソリの象形であるとする。
本章の4で示した、藤堂・加納説と酒井説を具体的に挙げよう。
前者は、百以上を「多数」の象徴とする。多数存在する対象を、多数の数位に当てるとするエジプト数字[90]と同じ結論に至る。人間の体が備える 十個体 を 超える数になると、多数をもつ対象を求めるだろう。それぞれの位に何を当てるかは、数量の程度問題に委ねられる。また、後世に編まれた中国最古の詩集であ る『詩経』の例を見てみる。本書に記載のある漢数字を、意味も合わせて統計した。やはり百以上では、「多数」の形容としてしか用いられていない[91]。
後者は、指(一)→合わせた掌(十)→足・足の指(百)→人の体全体(千)の流れで発展させることになる。原始時代の人々が、指で数えた事実を考 えれ ば、 数の原点である一を指にもとづくと考えるのは、理に適っている。足の指一本が百を示し、手足の指からで表しきれなくなると、体全体とする流れである。それ ぞれの数に対応する対象を求めていく考えである。
いずれも信頼できる見解である。しかし筆者は一つの疑問を抱いた。多数にせよ、人間の体の一部にせよ、人間の体毛、とくに頭髪は注目されないのだ ろう か。 頭髪だけでも千位に達するほどの多さである。多数の対象としては充分である。だが、字形化すると「|」や「」 などが予測され、十や三十と混同しやすい。また、頭髪の象形を数位として用 いれば、千の場合「+」となり、七(+)との混同を避けられないため、利便性 に欠ける。
ほかの文字と混同する以上、文字としては機能を果たさない。ゆえに採用されなかったのだろう。
本系統、とくに百以上においては、指にもとづくとする説が、より少なくなる。やはり、多数にもとづく考えや、手の指を出発点として数位となる対象 をほか に 求める考えにより、造字されたと筆者は結論づける。
甲骨文字に刻まれた字形から、一から萬の起源を考察した。例外があるものの、十三文字において類似点や関連性が見られる。萬には該当しないが、基 本的に は 画数が一から四画に収まる簡素な字形とする点である。数字は陶片文字にも姿を見せ、使用頻度の高さがうかがえる。それゆえ、繁雑な文字は利便性に欠けると して、数字には用いられないと考えられる。五から積書を避ける点は、一瞥での認識に差し障る要因もあるが、繁雑化を避ける意図もあり、裏付けとなる。画数 の多い萬は、数字としての使用頻度がきわめて低いため不都合が生じないといえよう。
さて、一から萬の起源をまとめたい。数字の原点たる一が、重要な問題となる。「|」で記される十との関係もあり、字形としては、ほかの文字との混 同を避け る必要がある。筆者は、陶片文字における一と十の区別の問題を解決できなかった。しかし甲骨文字では、上下が定まるため、それぞれの漢数字がいかなる文字 であるか、迷うことはなくなった。
一から四までは、すべて積書表記される。指や算籌の象形を介するか否かに関わらず、また会意であるとしても、いずれも指事がもとになるといえる。 筆者 は、 線の配置や長短に意味があると考えたが、規則性を見いだせず、会意とは考えがたいとする。ただし積書であるため、一の累積、つまり一+一+一+一のごとき 会意である可能性は否定できない。
五から九までにおいても、簡素な字形が前提となる。さらに数量の占めるポストや、発音のもつイメージも字形の構成要素となる。
十は字形から察するに、底概念によりうまれる、最初の位を表す数であるため、一を単に縦にしただけと考えてよい。百、千、萬は、注目されなかった 体毛を 除けば、人間が体に備えうる個体数をはるかに超越する数量である。よって多数のイメージをもつ字形に、一として単線を付した形であるといえる。
本稿では、指による数え方や、原始時代の人々の数に対する正確な認識能力を解明しえなかった。つまり五以上において、字形が指による数え方に由来 する可 能 性は否定できない。当問題を解決したうえでの考察が、今後の課題となる。また、甲骨文字以後の金文や篆文、隷書などの字形を扱わないため、字形の変遷を踏 まえたうえでの考察も、起源を解明する手掛かりとなりうるだろう。
[1]中国最古の文字は甲骨文字とされていた。だが、2005年10月07日に更新されたhttp: //headlines.yahoo.co.jp./hl?a=20051006-00000414-yom-sociの記事は以下のごとく伝える。新華 社通信は2005年10月5日、殷代の甲骨文字より数千年前の絵文字が多数発見されたと報告する。上海古籍出版社の古文字専門家、劉景雲の鑑定の結果、 「文字史書き換えの可能性あり」との結論に至る。しかし現時点では、ほとんどが未解読だという。よって、酒井洋著『古代中国人の「数観念」:甲骨文字の科 学的考察を中心として』、141頁に記されるごとく、「中国文字の原始形を求め、その構成の理論的解析を試みるに当たっては、甲骨文字を対象として行って ほぼ誤りない」として考察を進めたい。
[2]加藤道理『(漢字・漢文ブックス)字源物語―漢字が語る人間の文化』、8-9頁には、以下のごとく記されている。「漢字の成り立ちを解説した 字書と して、現在私たちが見ることのできる最古の字書は、後漢時代(A.D.25~220)の学者許慎の著した『説文解字』(略して『説文』ともいう)であ る。…許慎は当然のことではあるが甲骨文字は見ておらず、篆文を中心に解説しているので、時に誤った説明もないではないが、漢字の成り立ちを考える上で は、『説文』を見ずに物を言うことはできない」と。だが、許慎の説は思想性が強く、于省吾著『甲骨文字釈林』、96-97頁に「説文所釈一字、具有神秘 性、並非造字本義。六書次序以指事象形為首、但原始指事字一与二三四積書之出現、自当先于象形字、以其簡便易為也。此類積書字、本無任何神秘性之可言」と ある。また『古文字詁林』10冊、885頁(李孝定『甲骨文字集釈第十四』)は、六の字を解説するに当たり、「説文。『六。易之数。陰変於六。正於八。従 入。従八。』六字先成。易経晩出。許説之誣至顕」とする。易は六の造字より後にできたため、許慎の説が偽りであるとするのだ。甲骨文字には関係がないとい える。よって『説文』および『説文』絡みの説、さらに陰陽五行や易にもとづく説は、原則として扱わない。
[3]『甲骨文編』に記載のある甲骨文字の字形より判断する。一の位に属し、基本的に横線のみで表記される数字(系統A)。一の位に属し、基本的に 積書を 避けて表記される数字(系統B)。十の位以上の位を表す単位となる数字(系統C)。
[4]ジョルジュ・イフラー『数字の歴史:人類は数をどのようにかぞえてきたか』、2-35頁。
[5]ドゥニ・ゲージ『数の歴史』、19-37頁。前掲文献[4]、110-115頁。
[6]郭沫若『甲骨文字研究』、115頁に、「数生於手。古文一二三四字作一二三亖、此手指之象形也」とある。唐漢『唐漢解字』、2頁も同様に説明 する。
[7]前掲文献[4]、28頁。
[8]前掲文献[4]、96頁。
[9]高亨『文字形義学概論』、221頁に、「按一、数也、象算籌一枚横布之形。出古文経、当是晩周所造」とある。
[10]影山修『漢字起源の研究』、51頁。『古文字詁林』1冊、7頁(李孝定『甲骨文字集釈第一』)も同様に説明する。
[11]前掲文献[4]、28頁。
[12]酒井洋『古代中国人の「数観念」:甲骨文字の科学的考察を中心として』、239-240頁。また前掲文献[10]、60頁も同様に説明す る。
[13]前掲文献[10]、59頁は「三の字の古い形のものにはのごとくなっているものもあるが、これは 筆書にあたっての習慣上のものと見てさしつかえはなかろう」とする。唯一、古い字形を挙げて述べた説だ。だが、本 書には根拠が記されておらず、肯定しがたい。また同書、440頁は、漢数字は「すべて『象形』か『指事』でなければならない」とする。ただし著者は、文字 における線の細かい配置には注目していない。よって筆者は、線の配置の考察を行わずに本説を肯定できない。線の配置に、意味がある可能性を汲んで論述した い。
[14]第一章で扱う字形は『甲骨文編』の515頁(二)、14頁(三)、538頁(四)より転載する。しかし、図3(ウ)は前掲文献[10]より 転載す る。
[15]前掲文献[10]、51-52頁。
[16]前掲文献[12]、208頁。
[17]古文字詁林編纂委員会『古文字詁林』1冊、2頁(孫詒譲『名原巻上』)は、「形学之始、由微点引而成線、故古文自一至亖、咸以積書成形」と する。
[18]前掲文献[6]、115頁に「手指何以横書?曰、請以手作数、於無心之間必先出右掌、倒其拇指為一、…。一二三四均倒指、故横書也」とあ る。
[19]前掲文献[14]、540頁。
[20]前掲文献[4]、31頁は、数の要素である基数と序数を、以下のごとく定義する。基数とは、「初めに単位一を表すものとして原基となる象徴 記号を きめて、その単位を問題とする数と同じだけそれを繰り返す」ことである。対する序数とは、「一から始まる相次ぐ整数に、互いに何の関係もない別個の象徴記 号を与える」こととする。人差し指から小指へと順番に指を出す行為は、本来、一(人差し指)、一+一(中指)、一+一+一(薬指)、一+一+一+一(小 指)の考えであり、基数の概念に従う。
[21]前掲文献[10]、56頁。
[22]藤堂明保・加納喜光『学研現代標準漢和辞典』、893頁は、字形の美化が重視されるのは篆文からで、甲骨・金文は関係ないとする。よって、 美化を 目的とした線分の長短の調節は、甲骨文字にはないことになる。
[23]前掲文献[10]、58頁。字形化すれば、図3(ウ)になるだろう。しかし影山は、字形を「三の字の古い形」とするばかりで、もとにした資 料名を 記載しない。
[24]前掲文献[4]、12頁。イフラーは、オーストラリアのアランダ部族民が数名称として二語しか知らなかった例を取り上げる。彼らの言語で は、一を 表すnintaと、対を表すtaraにもとづくという。三はtara-mi-ninta(二と一)、四はtara-ma-tara(二と二)と言ったそう だ。なお数名称は四で止まり、四より上の数は「たくさん」を意味する言葉を用いたという。マレー諸島の一部の原住民たち、トレス海峡の西部に住む部族も同 様の手法を採用するそうだ。本頁には、当方式を用いる計八種の民族が紹介されている。
[25]前掲文献[4]、31頁は、基数と序数のいずれかの原則をもとにして、人類はたくさんの数を表せる方法を発見したとする。
[26]前掲文献[17]、10冊、853頁(高田忠周『古籀篇十九』)に「亖即合二二為形也」とある。
[27]前掲文献[10]、60-67頁。
[28]唐漢『唐漢解字』、6-10頁。
[29]前掲文献[22]、30頁(五)、80頁(六)、5頁(七)、78頁(八)、23頁(九)。藤堂明保『漢字語源辞典』(第九版)は1967 年、前 掲文献[22]は2001年出版である。前者は六の記述を載せず、また両者の説には表現上で若干の相違があるため、その場合はより新しい後者の見解に従 う。
[30]前掲文献[10]は、六(64頁、第五図)と八(66頁、第八図)の手まねを載せる。
(六) (八)
[31]前掲文献[12]、212-215頁。
[32]前掲文献[12]、154頁は、「中国文学(ママ、字)においては、五までで、とにかく一区切りがついているわけであるから、これが果たし て左右 どちらの手を象っているのか」と、片手で数えたことを前提に、利き手の問題の議論を進めている。「たとえば利き手に武器をもっているとすると、数表現は利 き手でない方の手になる」ため、片手で数えることになる。
[33]張秉権と郭沫若も手まねを数に当てたとするが、五から九のすべてにおいては統一されていない。
[34]前掲文献[12]、436頁は、文字発生の経路が、「言葉(音声)→身振りや手振り→烽火→結縄→文字」の流れであるとする。
[35]前掲文献[22]、30頁。
[36]李迪『中国数学通史・上古到五代巻』、43頁が記載する三種の魔法陣。計算がなされるため造字には関係ないが、数量として、五が中央に位置 する点 を明らかにする資料である。
[37]前掲文献[17]、10冊、879頁(楊樹達『文字形義学』)は、「×為交午之午之本字、今作交午者、午×同音假借也」とする。
[38]前掲文献、30頁。
[39]甲骨以前には、陶片文字がある。前掲文献[12]、114頁は、「陶片文字は、要するに数字だけしか発見されていない。だからといって、当 時は 『数字しか考案されていなかった』と断定することは早計であろう。しかし、反対に、そのような古い時代に既に数字が使用されていたという事実は、素直に認 めなければなるまい」とする。結局、数字の存在は甲骨以前に見られるが、午が五より後に造字されたともいえない。因みに前掲文献[36]、30頁によれ ば、陶片文字の五は×である。
[40]前掲文献[17]、10冊、877頁(方濬益『綴遺齋彝器考釈巻十八』)は、「(小臣犠尊)古文五」とする。
[41]前掲文献[12]、241頁に似た見解では、前掲文献[17]、10冊、877頁(王襄『古文流変臆説』)が、「亖已為極数、其製五字如為 横製五 書、与亖字易混、且不便書、乃以亖之中二書為交叉之形、其上下二書不変、成為 字」とする。五を積書にすると亖と混同しやすく、書くのに不便であるため、中の二本が×に変形し、上下の線と結合したそうだ。
[42]前掲文献[36]、32頁に「有些数字容易混淆、如『―』与『|』、『』与『』、 『』与『』、『×』与『+』、必須知道它們 『頭』的向才能知道是哪個数字、如果把它們 分別独立放在一個不知上下的地方、只能進行猜想、而無法准確辨識。…『×』的 上、下各加一横画而来、是為『五』、而不与『+』混淆」とある。しかし、陶片文字における一(―)と十(|)の混同を解決する方法は述べられていない。
[43]前掲文献[22]、80頁。
[44]前掲文献[17]、10冊、884頁(丁山『数名古誼:歴史語言研究所集刊一本一分』)は、「古皆借入為六而已」とする。同書、885頁 (李孝定 『甲骨文字集釈第十四』)も同様に説明する。
[45]于省吾『甲骨文字釈林』、98頁は、「為六之初文。甲骨文六字作者、乃早期卜辞兆側之紀数字。…其他応用于卜辞之中者、則作等形。其不作、以其与入字形同易混」とする。
[46]前掲文献[17]、10冊、885頁(張秉権『甲骨文中所見的「数」:歴史語言研究所集刊第四十六期』)は、「在甲骨文中、『六』字有時作 『』、往往与『入』字没有分別。…尤其在『入』与『六』二字同見於一条卜辞中的 時候絶不相混」とする。
[47]前掲文献[22]、5頁。また藤堂明保『漢字語源研究』、777頁は、「二等分(組み分け)できず、三+三+一のように、不整一な端数を伴 う」と する。
[48]前掲文献[12]、214・229頁。本説が正しければ、除法も存在しないだろう。算術の加減乗除(四則)において、加法と減法、乗法と除 法が、 それぞれ対応する。方程式の解を求める過程で、右辺と左辺で移項する際に+から−、×から÷(逆も同様)と変換することからも判断できる。
[49]前掲文献[17]、10冊、887頁(林義光『文源巻三』)は、「古作(七畿氏幣)。実即切之古文」とする。同 書、888頁(丁山『数名古誼:歴史語言研究所集刊一本一分』)も、「+本象当中切断形、自借為七数専名」と、七 を切ったときの形とみる。借りて七の数名としたとする。
[50]前掲文献[22]、78頁。
[51]前掲文献[17]、1冊、622頁(高鴻縉『中国字例三篇』)は、「八之本意為分。取假象分背之形。指事字」とする。同書、623頁(徐中 舒『甲 骨文字典巻二』)も、「甲骨文乃以二書相背、分向張開、以表示分別之義。卜辞中借用為紀数之詞」とする。二画を分けて両側に開く形で「分別」の意味を表示 し、借りて数名にしたという。
[52]前掲文献[17]、1冊、623頁(張秉権『甲骨文中所見的「数」:歴史語言研究所集刊第四十六本』)は、「分別相背祇是一種抽象的意念、 無形可 象。因此、這個字只能算是指事或象意字。…那末這個字的起源、当与具体物象有関、它可能是象両臂斜伸之形、或者是象分伸拇指与食指之形」とする。
[53]前掲文献[17]、1冊、622頁(馬叙倫『説文解字六書疎証巻三』)は、「八為臂之初文。…臂八音同封紐。尤其明証。以臂分布於身之両 旁。故未 造分別字時。即借為分別之字。故亦為分別之初文」とする。
[54]前掲文献[22]、158頁。
[55]前掲文献[17]、10冊、894頁(林義光『文源巻三』)は、「本義当為曲。九借用為数名。故屈曲之義別以他字為之」とする。
[56]前掲文献[17]、10冊、895頁(丁山『数名古誼:歴史語言研究所集刊一本一分』)は、「九本肘字、象臂節形、旧作謂即丩字、非是、臂 節可屈 可伸、放有糾屈意」とする。同書、895頁(明義士『柏根氏旧蔵甲骨文字考釈』)は、「象手及臂節形、即肘之本字、假為数名」とする。手や腕の節の形で、 肘の本来の字で、借りて数名の九としたのだという。
[57]前掲文献[17]、10冊、895頁(馬叙倫『説文解字六書疎証巻二十六』)は、「肘之初文。従又象形。指事也」とする。
[58]前掲文献[17]、10冊、895-896頁(李孝定『甲骨文字集釈第十四』)は、「契文大抵作。間亦作。前半与(又)同。延長中書(象臂形)而屈曲之以示肘之所在。丁氏後説是也。既叚肘之 象形字以為数名之九。遂不得不另製形声之肘以代之。肘字古蓋作肍。以九与又近 又与寸通」とする。
[59]前掲文献[17]、10冊、894-895頁(高田忠周『古籀篇六』)は、「抑始先有一字。合一一為二。合一二為三。合二二為亖。又変一為 十。変 十為×。変×為八。而後六従八入。又屈十為九為七」とする。
[60]前掲文献[17]、10冊、883頁(孫詒譲『名原巻二』)は、『説文』の「六」の説を挙げて、次のごとく説明する。同書、同頁(許慎『説 文』) は、「従入。従八」とし、八が六より先に存在することになる。しかし、孫は「且依許説、則制字時当先有八字、而後合入以成六、於理亦有難通」と、先に八が あり、後に入と八を合わせて六とするのは、道理に合わないとする。
[61]前掲文献[45]、97頁は、「積至四書已覚其繁。勢不得不化繁為簡、于是五字以×為之」とする。字画の複雑化を避けるために、積書を用い ないと いう。確かに、五から九の字形は、それぞれ二から四本の直線ないし曲線で構成されている。書くときの手間は省かれているといえる。
[62]前掲文献[14]、165頁(百)、95頁(千)、544頁(萬)。
[63]前掲文献[17]、10冊、912頁(張秉権『甲骨文中所見的数:歴史語言研究所集刊四十六本三分』)は、「数名的『萬』字、雖不多見、但 人地名 的『萬』字例子卻不算太少。二者的分別、即在字形中有無表示数目的那一横書。換句話説、紀数的『萬』字、在字体的下半部加了一横;而人地名的『萬』字、則 没有那一横」とする。
[64]前掲文献[10]、68頁。
[65]前掲文献[45]、100頁に「数至十復反為一、但既已進位、恐其与一混、故直書之。是十与一之初形、只是縦横之別、但由此可見初民以十進 位、至 為明顕」とある。前掲文献[17]、2冊、694頁(徐中舒『甲骨文字典巻三』)も「|為古代之算籌、竪直一籌表示数量十、以与横直之算籌一区別」とす る。一と十を表すときの、算籌の使用法の違いによるという。
[66]前掲文献[17]、2冊、692頁(馬叙倫『説文解字六書疎証巻五』)は、「原始以屈指記数。譣之小児。往往数至六。則易以他手。及至十 一。則復 申其一手之拇指。是|之為字。猶一之象手指形。惟一為屈指。故横之。見一字下。|為申指。故竪之」とする。
[67]前掲文献[12]、247頁。
[68]前掲文献[17]、2冊、694頁(張秉権『甲骨文中所見的「数」:歴史語言研究所集刊第四十六本』)]も「我認為一掌的象形、可能為五、 而不是 十、『十』字所象的、可能是併指而合竪二掌之形、二掌的手指数目為十、合掌竪立」とする。
[69]前掲文献[22]、115頁。
[70]藤堂明保『漢字語源辞典』、797頁は「指十本または算木十本が一つにまとまった単位」とする。しかし前掲文献[12]、235頁による と、算籌 十本をひとまとめにすることに意味はないそうだ。
[71]前掲文献[36]、34-35頁には、中国の新石器時代末期の数字系列表が載せられている。本表には、五十までの表記法がある。
[72]前掲文献[22]、541頁。前掲文献[17]、4冊、43頁(馬叙倫『説文解字六書疎証巻七』)も、「百乃一白之合文耳。今以為数名」 と、同じ 見解である。
[73]前掲文献[10]、200頁。
[74]前掲文献[12]、250頁。
[75]前掲文献[17]、4冊、43頁(張秉権『甲骨文中所見的数:歴史語言研究所集刊第四十六本第三分』)は、「『百』字所従的『白』(即 自)、既為 鼻的象形字、那末『百』字的起源、当象以指指鼻之形」とする。
[76]前掲文献[17]、4冊、42頁(陳邦福『殷契瑣言』)は、「卜辞象系貨貝形、象貝幕格子界、或従一為一百合文、略言 之即為百也。一百示百、与它辞一千表 千、正為同例」とする。
[77]前掲文献[17]、4冊、43頁(唐桂馨『説文識小録:古学叢刊第四期』)は、「似是銭袋之形。古人約以十十之数成。則以一袋盛之。故定名 為百」 とする。
[78]前掲文献[17]、4冊、42頁(林義光『文源巻三』)は、「当為白之或体。皆象薄膜虚起形」とする。
[79]前掲文献[22]、117頁。
[80]前掲文献[10]、216頁。
[81]前掲文献[45]、100頁は、「甲骨文十字作|、周代金文作、、、等形」とする。
[82]前掲文献[12]、250頁。
[83]前掲文献[28]、13頁に、「甲骨文的『千』字、乃是在側立人形的腿上加一短画、以小腿上的汗毛来強調『千』之数」とある。
[84]前掲文献[17]、2冊、698頁(林義光『文源巻二』)は、「千身古音近。当即身之省形」とする。
[85]前掲文献[17]、2冊、698頁(戴家祥『釈千:国学論叢第一巻第四号』)は、「然則字果何義耶。以声類推之。当為千字之假。 本無其字。依声託事字也。人千通假必 同音。始則假人為千」とする。さらに、同書、699頁(于省吾『甲骨文中所見 的数:歴史語言研究所集刊第四十六』)も、「千字的造字本義係在人字的中部附加一個横画、作為指事字的標志、以別於人、而仍因人字以為声(人千重韻)」と する。
[86]前掲文献[10]、216頁。
[87]前掲文献[12]、251頁。
[88]前掲文献[22]、11頁。
[89]前掲文献[28]、15頁に「大概正是由于這種量的群聚、加上質(毒性譲人産生恐倶性誇大)的作用」とある。
[90]大矢真一・片野善一郎『基礎数学選書18:数字と数学記号の歴史』、12頁は、千位以上のエジプト数字の起源を、以下のごとく説明する。
(い) (ろ) (は) (に) (ほ)
(い)千:ナイル川にびっしり咲く蓮の花。多数の感じを起こさせる。[91]加納喜光訳『詩経』(上)(下)をもとに、統計をとり以下の表にまとめた。なお、参考頁は省略する。
漢 数字 | 総 数 | 実
数 | 虚 数 | 虚 数の用例と数 |
一 | 33 | 7 | 26 | 根源(1)、 ひたすら(2)、わずかな(10)、専一(3)、片方 (8)、唯一(2) |
二 | 18 | 10 | 8 | 不専一 (2)、対(6) |
三 | 46 | 25 | 21 | 多数 (18)、少数(1)、不専一(2) |
四 | 93 | 46 | 47 | 多数(1)、 周囲・四方(46) |
五 | 12 | 11 | 1 | 少数(1) |
六 | 22 | 21 | 1 | 多数(1) |
七 | 14 | 8 | 6 | 多数(4)、 何度も(2) |
八 | 12 | 11 | 1 | 多数(1) |
九 | 14 | 6 | 8 | 多数(6)、 奥深い(2) |
十 | 17 | 8 | 9 | 多数(7)、 狭小な(2) |
百 | 70 | 0 | 70 | 多数・あらゆ る(70) |
千 | 12 | 0 | 12 | 数知れず・多 数(12) |
萬 | 47 | 0 | 47 | 極めて多数・ 無限(47) |
合
計 | 410 | 153 | 257 | |
♪参考文献
于省吾『甲骨文字釈林』、中華書局、北京、1979。
大矢真一・片野善一郎『基礎数学選書18:数字と数学記号の歴史』、裳華房、東京、1979。
郭沫若『甲骨文字研究』、科学出版社、北京、1982。
影山修『漢字起源の研究』、テンセン社、東京、1941。
加藤道理『(漢字・漢文ブックス)字源物語―漢字が語る人間の文化』、明治書院、東京、2000。
加納喜光訳『詩経』(上)(下)、学習研究社、東京、1982-1983。
許慎撰、段玉裁注『説文解字注』、上海古籍出版社、上海、1988。
高亨『文字形義学概論』、斉魯書社、済南、1981。
『甲骨文編』、中華書局、北京、1982。
古文字詁林編纂委員会『古文字詁林』、上海教育出版社、上海、1999。
酒井洋『古代中国人の「数観念」:甲骨文字の科学的考察を中心として』、つくも出版、東京、1981。
ジョルジュ・イフラー『数字の歴史:人類は数をどのようにかぞえてきたか』、平凡社、東京、1988。
唐漢『唐漢解字』、書海出版社、太原、2003。
藤堂明保『漢字語源研究』、学灯社、東京、1965。
藤堂明保・加納喜光『学研現代標準漢和辞典』、学習研究社、東京、2001。
ドゥニ・ゲージ『数の歴史』、創元社、大阪、1998。
李迪『中国数学通史・上古到五代巻』、江蘇教育出版社、南京、1997。
(^-^)当拙論を作成するに当たり、ご指導およびご支援いただいた加納喜光教授、真柳誠教 授、西野由希子助教授に深謝申し上げる。以上をもって本稿を終了する。