はじめに一 研究資料について
1 胎産書
2 諸病源候論
3 千金要方
4 医心方
5 まとめ二 古代の逐月胎児説
1 胎児の発育
2 養胎三 中世の逐月胎児説
1 経脈
2 胎児の発育
3 養胎方四 まとめ
参考文献
はじめに
妊娠中の胎児を見たことがある人は少ないだろう。医学写真の第一人者レナード・ニルソンは1979年、人間がどのように受胎し、 母胎の中で成長していくかをとらえたドキュメンタリーを制作した。そこで人類は初めて胎内の胎児の姿、成長をハッキリと映像として捉えることができたので ある。しかし今から約2200年前、人類は既に1月ごとに胎児の形や成長過程を書き記していた。さらに当時の人間は各月ごとの養胎法も示した。それが『胎 産書』である。
現代医療技術のかけらもない時代、人々はどのように体内の胎児を認知し、その成長を捉えたのであろうか。また当時の養胎法は、どのよう な内容だったのだろうか。本稿では古代から中世の中国医学書に焦点を当て、妊娠10ヶ月の記述の変化と発展を追っていく。さらにその根拠と論理体系について、考察していく。
なお、本稿を書くにあたり、これらの妊娠10ヶ月に関する記述を「逐月胎児説」と呼ぶこととする。本稿で使用する漢字はJISコード文字にある常用漢字・人名用漢字を原則とし、それにない漢字は正字を使用した。また文中に挙げた人名についての敬称は省略した。
一 研究資料について
妊娠に関する記載は多くの中国医学書等に存在する。その中でも本稿では、『胎産書』『諸病源候論』『千金要方』『医心方』を中心に考察を したい。この4書を用いるのは、唐代に到るまでの医学書の中で妊娠10ヶ月の認識が記されているからである。また『外台秘要方』にも当記載はあるが、『千 金要方』を引用していることから本稿では使用しなかった。
まず各文献と妊娠に関する記述について検討し、原文の成立年代を明らかにしていみたい。
1 胎産書
『胎産書』[1]は1971年、中国湖南省の省都・長沙の東郊にある馬王堆の墳丘の横で、貴婦人の遺体と共に出土した。この婦人は紀元前168年から数年以内に死亡していることが明らかになっており[2]、 『胎産書』の成立はそれ以前ということになる。馬王堆漢墓から出土した多くの医書は、現在確認されているものの中では最古であり、妊娠に関する記述も『胎 産書』が最も古いと言える。さらに他の上掲3書と比較すると、胎児の成長や養胎法、修身法・禁忌など、原形と見られる記述が多数あり、それらから他3書の 記述が発展していった詳細は後述する。
2 諸病源候論
『諸病源候論』[3]は巣元方らが610年に編纂した医学典籍である。小曽戸[4]によれば、本書には『素問』『霊枢』『難経』『傷寒論』『金匱要略』『脈経』『劉涓子鬼遺方』『肘後備急方』『本草経集注』等と関係の深い記述が多くあるという。では、今回考察に使用する「婦人妊娠諸病上、妊娠候(諸病源候論巻之四十一)」の部分はどうだろうか。
当部分は冒頭に「経云」とあり、それ以下の文章は『脈経』[5]に一部一致する。しかしそれもまた「経云」とあ り、これ以上の究明は難しい。さらに『脈経』には各月の養うべき脈が記載されているだけであり、『諸病源候論』に見られるような逐月胎児説は存在しない。 そのため『脈経』からの引用は、それと一致する冒頭の数行だけと考えらえる。また現伝の『諸病源候論』は1026年の校刊を経ており、その内容がどれだけ 原本に近いのかは不明である。
3 千金要方
『千金要方』は孫思邈によって650年から658年の間に編纂された医方書で、転写を繰り返しながら後世に伝わってきた。現伝本には、林億らの改訂が加わった『備急千金要方』[6]と、林億らの改訂を経ていない『新雕孫真人千金方』[7]の2系統が存在する。
『備急千金要方』(以下『備急』と略す)は、1066年に林億らの手により大改訂が行われ、それを祖本に現在に伝わっているが、林億らが校刊した原本は現存していない。現存する最古本に南宋版がある。
これに対し『新雕孫真人千金方』(以下『新雕』と略す)は林億らの改訂以前の姿を留め、より原『千金方』に近いものとみられる。本書の刊行年代ははっきりしていないが、小曽戸は南宋後期ではないかと考えている[8]。
上記2版本の逐月胎児説を比較すると、明らかに違う。一字一句の違いから始まり、最も大きな違いは、『新雕』には各臓腑が主どる器官等 と、それに対応した各月の胎児の成長が全く記されていないという点である。さらに注目すべきは『備急』の逐月胎児説の冒頭に、「徐之才逐月養胎方」と記さ れているということだ。
徐之才の「逐月養胎方」は正史に著録されず、成立年代はもとより、存在さえ明らかではない。しかし『宋以前医籍考』[9]に よると、徐之才は道術を修得した仲融の子孫であり、『北斉書』巻33には、梁に仕え21歳の時に赴任地で北魏軍の捕虜となった、とある。これらのことか ら、恐らく六世紀前半の人物であると考えられる。また、北魏・東魏政権では医術の腕をかわれ、重宝されていたという。その腕は皇太后にも薬を献上するほど であり、彼が「逐月養胎方」を説いていたとしても何ら不思議はない。つまり「逐月養胎方」が存在したとすれば、成立も当時代であることは間違いない。する と『備急』の逐月胎児説は、『諸病源候論』よりも古い時代に記されたことになる。しかしこの仮定には以下の疑問が生じる。
(1)なぜ『新雕』には「徐之才逐月養胎方」の記述がないのか。
(2)なぜ『新雕』には臓腑が主どる器官と、それに対応した胎児の成長に関する記述がないのか。
以上の2点である。そこで以下、各疑問について検討を加えたい。
(1)なぜ『新雕』には「徐之才逐月養胎方」の記述がないのか。
これには幾つかの可能性が考えられる。
①転写による欠字
先に述べた通り、『千金方』は何度も転写を繰り返しながら後世に伝えられてきた。その過程で、誤字や欠字が出るのは当然である。『新雕』の底本は、その部分が失われていたのかもしれない。
②林億らによる改訂
1066年に林億らによって行われた改訂は『新雕』と比べてもわかるように、大変激しいものであった。その中で逐月胎児説の部分に「徐之才逐月
養胎方」の記述を加えたのかもしれない。また①で述べたように、欠字のある部分に林億らが「徐之才逐月養胎方」を当てはめたとも考えられる。
以上のことから、徐之才の「逐月養胎方」は本来存在しなかった可能性すら考えられる。
(2)なぜ『新雕』には臓腑が主どるものと、それに対応した胎児の成長に関する記述がないのか。
これについて考えられるのは、林億らが改訂を行う際に書き加えた可能性だろう。中国では、書物の伝承過程で記述が減っていくということがあまり
ないという。どちらかというと増えていくことが多いのである。それは妊娠に関する記述についても同じであり、『胎産書』と比べても、理論の発展による変化
や増加が多い。また『諸病源候論』にもこの記載があり、『備急』とほとんど相違ない。『諸病源候論』も1026年に改訂されているため、その際か、もしく
は転写の過程で加えられたとも考えられる。
さらにこの記述は『太平聖恵方』[10]にも存在しない。『太平聖恵方』が初刊行された992年は、『千金方』 や『諸病源候論』が改訂される以前である。『千金方』とも『諸病源候論』とも一致する内容があり、全国から膨大な秘方を集め、当書を整理編集した結果であ ると考えられる。そのような医学書にも記述がないことを考えると、これらが後に林億らによって加えられた可能性は高い。
以上のように、徐之才の「逐月養胎方」の存在を確証させることはできず、存在したとしても『備急』の逐月胎児説と一致する可能性は低い と思われる。そのため逐月胎児説においては、『備急』や『諸病源候論』よりも『新雕』が古いと考えられよう。本稿は以上の仮定をもとに考察を進めるが、 『千金方』に関しては宋改版の『備急』、未宋改版の『新雕』ともに使用する。
4 医心方
『医心方』[11]は984年に丹波康頼によって撰述され、宮廷に献上された。本文は多くの文献からの引用からなっており、ほとんどが中国唐以前のものである[12]。本書の引用文献には佚書が多く、逐月胎児説の引用もその佚書による。
すなわち『医心方』の逐月胎児説は『産経』からの引用で、『宋以前医籍考』によると当書は2種類あったことがわかる。一つは『隋書』経籍志にある「産経一巻」、もう一つは『日本国見在書目録』[13]にある「産経十二、徳貞常撰、産経図三」である。岡西は『宋以前医籍考』において、『医心方』所引の産経を『隋書』経籍志にある「産経一巻」だとするが、理由は述べていない。これに対し馬は、『日本国見在書目録』にある『産経』だとする[14]。 その理由として、馬は『医心方』25巻61葉ウラにある「此是徳家秘方不伝。出産経」の記載をあげているので、当説は恐らく間違いないであろう。さらに馬 は『産経』が『葛氏方』を引いていることから、成立年代を316年から581年の間としているが、理由は明らかでない。『葛氏方』の成立年代から『産経』 が『葛氏方』以降の成立であることは分かるが、それ以上の推測は不可能である。しかし『医心方』所引の『千金方』が改訂以前の旧態を留めている[15]ということから、『備急』や現伝の『諸病源候論』よりも古いものであることは確かだろう。
5 まとめ
以上をまとめると次のようになる。
①歴代の逐月胎児説は、いずれも『胎産書』をもとに発展している。
②『新雕』と『医心方』所引の『産経』の逐月胎児説は、『備急』や現伝『諸病源候論』
のそれよりも古い。
上記の4書の多くは改訂や、所引文献の散佚があるため、これ以上の推測は難しい。よって以下では、当結果をもとにさらに考察を進めていく。
二 古代の逐月胎児説
逐月胎児説を大きくわけると、妊娠中の禁忌事項や修身法を述べた養胎に関する説と、胎児の発育に関する説の二つになる。そしてどちらも 『胎産書』以降、増加や変化・発展が見られる。それらは『胎産書』がもとになっているものもあれば、別の理論体系から援用され、増加・発展したと考えられ るものもある。本章では、『胎産書』とそれをもとに変化・発展している可能性の高い前者の部分に検討を加え、各論理の背景について考察していく。
1 胎児の発育
『胎産書』以降各書における胎児の具体的発育の記述は、4ヶ月目から始まる。また3ヶ月目までは各月の胎児を表す名前が記されている。以下の表1に各書の逐月胎児説から、胎児の発育に関する部分を抜粋してみた。
1ヶ月 | 流形 | 始形 | 始胚(新雕はない) | 始形 |
2ヶ月 | 始膏 | 始膏 | 始膏 | 始膏 |
3ヶ月 | 始脂 | 始胎 | 始胎 | 始胎 |
4ヶ月 | 而水受之、乃始成血 | 始受水精、以成血脈 | 始受水精、以成血脈 | 始受水精、以成血脈 |
5ヶ月 | 而火受之、乃始成気 | 始受火精、以成其気 | 始受火精、以成其気 | 始受火精、以其血気 |
6ヶ月 | 而金受之、乃始成筋 | 始受金精、以成其筋 | 始受金精、以成其筋 | 始受金精、以成其筋骨 |
7ヶ月 | 而木受之、乃始成骨 | 始受木精、以成其骨 | 始受木精、以成其骨 | 始受木精、以成骨髄 |
8ヶ月 | 而土受之、乃始成膚革 | 始受土精、以成膚革 | 始受土精、以成膚革 | 始受土精、以成膚革 |
9ヶ月 | 而石授之、乃始成毫毛 | 始受石精、以成皮毛。六腑百節莫不畢備 | 始受石精、以成皮毛。六腑百節莫不畢備 | 始受石精、以成皮毛。六腑百節莫不畢備 |
以上のように、胎児は五行と石の精を受け10ヶ月目に生まれることになる。胎児の成長に関しては五行と石の精に対応するように、各月ごとに述べられている。しかしなぜここに、五行ではない「石」の文字があるのか、そしてなぜ五行を受けるのは4ヶ月目からなのだろうか。
五行に石を加えると6になる。このような例は他にあるのだろうか。『周礼』瘍医[16]に次の文がある。「凡薬、 以酸養骨、以辛養筋、以鹹養脈、以苦養気、以甘養肉、以滑養竅」。当文は薬としての五味(酸辛鹹苦甘)の作用を論じたものである。もちろんこれは五行に対 応しているものなのだが、ここでは五味に「滑」が加わり6となっている。当記述と「石」との関連は不明だが、五行以外の要素を加え6にすることが逐月胎児 説以外にもあったことを示している。
一方、大形はその著書『魂のありか』[17]で、秦が「六」という数字を貴び聖数としたことを述べている。秦の 始皇帝が天下を統一したのが紀元前221年であり、『胎産書』の成立は上述のように通り前168年以前なので、年代は近い。つまり「六」という数字を使う ために、「石」の文字をつけたしたという可能性は高いだろう。4ヶ月目からの五行の記述も、六という数字に合わせるためであると考えられる。『胎産書』の 10ヶ月目には欠字が多く、内容は不明瞭だが、他書には全てが備わり生まれるといった内容が多い。つまり10ヶ月目では、何かを成長させる必要はないと考 え、4ヶ月目から9ヶ月目の6ヶ月間を、胎児の発育期間にあてはめたのかもしれない。
また大形は始皇帝が周の火徳に勝つために秦を水徳に定め、そのため水から始まる相克説になっているとも述べている[18]。それが確かだとするならば、『胎産書』の逐月胎児説は、その時代の影響を強く受けているといえるだろう。
では、胎児の具体的成長はどのように捉えられているのだろうか。五行は様々な事象に当てはめられる。五臓・六腑・方角・五味等全てが五行
で規定されるのだ。もちろん人体も五行にあてはめることができる。上述したように逐月胎児説に五行相克説が用いられていることから、胎児の成長も五行説か
ら考えてみるのが順当であろう。そのためにまず、胎児の成長に関連する組織の五行配当を以下の表2に示す。この表は『素問』にある五行配当に基づく。以下この表の五行配当を中心に考察する。
表2
『胎産書』の記載から続く胎児の具体的成長には、表1にあげた五行と石の精を受けてできるもの以外存在しなかった。そこで4ヶ月目から9ヶ月目までの各月で受ける五行の精と、発育する器官を順にまとめると以下のようになる。
水精→血(『胎産書』以外は血脈)、火精→気、金精→筋、木精→骨(『医心方』のみ骨髄)、土精→膚革、石精→毫毛(『胎産書』以外は皮毛)
さらに各月に発育する器官を、五行に配当すると、以下のようになる。
血(血脈)-火、気-金、筋-木、骨-水、膚革-金、毫毛(皮毛)-金
図2は発育器官を五行に配当し、妊娠月順に矢印で表したものである(図中の④~⑧の数字は妊娠幾月を表す)。当図は金の重複も見られ、形も図1とは大幅に違い、胎児の発育器官の順番が相克説や相生説(木生火、火生土、土生金、金生水、水生木)とは対応していない。
さらに4ヶ月目から9ヶ月目に受ける五行と石の精と、それにより発育する器官の五行配当をまとめてみよう。すると、水精→火(血脈)、火精→金(気)、金精→木(筋)、木精→水(骨)、土精→金(膚革)、石精→金(豪毛)、となる。この結果を表したものが図3である。図3もやはり図2と同じように相克説・相生説どちらの形にもあてはまらない。これらの五行配当は今文説系の『素問』の記載に基づいた。しかし五行配当は全ての古文献において共通するものではない。そこで古文説[19]でも検討したが、五行の円滑な図式は得られなかった。それではなぜこのような発育過程を『胎産書』は記したのであろうか。
約2000年前の医書『霊枢』巻3経水第12[20]に は「其死解剖而視之。其臓之堅脆」とあり、当時、解剖により人体を確認していたことがわかる。『胎産書』はこれ以前のものであるが、解剖ではなくとも流産 等で各月の胎児を確認していたことは大いに考えられる。そのため、『胎産書』に記述された胎児の発育過程と、実際の経過が合致するか確認してみよう。以下 に現代医学による妊娠十ヶ月について引用する[21]。
器官形成期(4~8周)が終わると、胎児の外観には著明な変化はなく、大きさが増し、各器官の成長と組織構成の成熟が見られる。
妊娠2ヶ月、胎児は2頭身。
妊娠3ヶ月、眼瞼の形成が急速に進む。
妊娠4ヶ月、頭髪が出現し外性器の性別判定が可能となる。皮膚は薄く、毛細血管が透見できる。
妊娠5ヶ月、うぶ毛が全身に生じる。
妊娠6ヶ月、皮膚に皺が生じる。手の指に爪が出現する。
妊娠7ヶ月、皮膚が赤く、皺が多い。眼瞼が開き、足の指に爪が出現する。
妊娠8ヶ月、皮膚の皺が少なくなり、手の爪が手指端に達する。
妊娠9ヶ月、皮膚の赤みが消え始め、皺は伸び体幹・四肢は丸みを帯びる。うぶ毛が消え始める。
以上と比べると、逐月胎児説は、実際の経過と大きく異なる成長過程を描いていたことがわかる。つまり、『胎産書』に事実上の認識を記した 可能性は低いと考えられるが、胎児の発育過程がどのような論理体系のもとに記されたのかわからない。これに加え、五行に石を加えた理由など、『胎産書』が 成立した時代の影響を強く受けているということだけでは説明できない部分が多い。これは『素問』『霊枢』とは別系、しかもそれらを遡る五行説等の論理体系 が介在している可能性を示唆している。しかし本稿ではこれ以上の論究は避け、今後の課題としたい。
2 養胎
『胎産書』から後世に増加していった養胎の記述は各月ごとに多様だが、その多くは思想等を含まない一般的養胎のようである。例えば「食飲 必精、酸羹必熟」「毋食辛臊、居処必静、男子勿労、百節皆病」など、妊婦に栄養をとらせたり、安静にさせる等がある。また「無静処出遊於野、数観走犬馬、 食鷙鳥猛獣之肉」など、安定期に運動をするといった現在も一般的な養胎もある。しかしその中で一般的養胎とは異なる特徴的な記述がある。それが3ヶ月目で ある。
3ヶ月目の記述には全ての文献に、まだ定まった形はなく外の影響を受け変化する等の記述がある。そのため当月は胎児に望むことの記述が多い。各文献から、それを抜き出すと次のようになる。
①男が欲しい、②女が欲しい、③器量のいい子が欲しい、④智恵と力のある子が欲しい、⑤賢く徳のある子がほしい。
しかし、これらが全書に共通しているわけではない。以下、表3に各書の記述をまとめる。
当表より、『胎産書』は男児か女児かという性別の希望のみだったのが、時代を経るごとに容姿や人格にまで希望が及んでいったことを理解できる。
『新雕』にこれらの記述はないが、他書の全てに何らかの記述があることを見ると、その部分が脱落してしまった可能性も考えられる。
では、それぞれの養胎について考えてみよう。①②③の養胎は各書とも量や記述内容等に違いが多少あるが、全て形象イメージによる養胎方 である。男が欲しければ、男らしいもの(弓矢等)を身近に置いたり、猛々しいもの(虎等)を見る。女が欲しければ、女らしいもの(耳飾等)を身に付ける。 器量のいい子が欲しければ、美しいものを見たり食べたりするのである。
それに対し、④⑤は少し違う。④には智恵と力のある子が欲しければ、牛心をくらい、大麦を食すとある。牛は力があることから形象イメージされたとも考えられるが、心臓や麦は智恵とも力とも直接結びつかない。一方、『素問』巻3六節臓象論9[22]に は「心者生之本神之変也」とあり、心臓が精神機能も果たす器官として当時認識されていたことがわかる。また麦の五行配当は心臓と同じ火である。つまり心 と、心と同じ火に属す麦を共に食べることで、智恵のある子を生もうとしたのではないだろうか。ならば④は、形象イメージと五行理論が混ざり合っていると考 えられる。
⑤は徳のある子がほしければ、心を正しくし我欲をなくせ、とある。これは恐らく、正しい行いが徳につながるということであろう。しかし①②③に比べて、明瞭に形象からと言い切れるものではない。これは④にも言えることである。この違いはなんであろうか。
まず①②③だが、これらの望みは目に見えるものであると言えよう。そのため形象も具体的事物に例えやすい。それに対し④⑤の望みは性格や
素質等、目に見えない内面的である。そのため明瞭な形に置き換えることも難しく、上記したような養胎法が説かれたと考えられる。いずれにしろ、外面的な望
みのみであったものが、目に見えない内面的な事象にも及んでいっていることがわかる。そのため形象による養胎にも微妙な変化が生まれたのであろう。
三 中世の逐月胎児説
前述のように、『諸病源候論』『千金要方』『産経』に記された、逐月胎児説の原形は『胎産書』にある。しかし一方で、各書には『胎産書』 との関連が全く見出せない内容も存在していた。こうした内容は、経脈・胎児の発育・養胎法の三つに分けることができるだろう。本章ではそれらの記述を比較 しながら、『胎産書』以降の記載に影響を与えた思想について考察する。
1 経脈
経脈の記述では、妊娠中養うべき各月の1脈ずつがあげられている。当該経脈には灸をしてもいけないし、針をしてもいけない。その禁忌を破 れば胎児を傷つけるおそれがあるというのだ。さらにこれらの経脈には、それぞれ対応する臓腑が記されており、以上の記述は各書ほぼ共通している。
他方『脈経』にも同じ経脈の記述を見ることができる。『脈経』は脈診を中心とした医学書で、今からおよそ1700年前に王叔和によって著された[23]。『諸病源候論』はもちろん、『千金法』『産経』が成立する以前の書である。
妊娠中の養うべき経脈は、『脈経』平妊娠胎動血分水分吐下腹痛証第2[24]に以下のように記されている。
婦人懐胎一月之時足厥陰脈養。二月、足小陽脈養。三月、手心手脈養。四月、手小陽脈養。五月、足太陰脈養。六月、足陽明 脈養。七月、手太陰脈養。八月、手陽明脈養。九月、足少陰脈養。十月、足太陽脈養。諸陰陽、各養三十日、活児、手太陽少陰不養者、下主月水上、為乳活児養 母。懐妊者、不可灸刺、其経必堕胎。以上の記述は、各月の経脈が『諸病源候論』『備急千金要方』『産経』と合致するが、そこに臓腑の記述、胎児の成長や養胎等の記述が全く見られない。逆に 『脈経』は妊娠や胎児の男女、各月の胎児の状態を、脈診により判断する方法を記載している。これらはつまり、『脈経』が『胎産書』とは全く別の系統から発 展してきたことを示唆する。
脈診による妊娠の診断は、古くは『素問』に記述が見られる。『素問』巻2陰陽別論篇第7[25]には「陰拍陽別、謂之有子」とある。さらに同書巻5平人気象論18[26]にはこうある。「婦人手少陰。脈動甚者妊子也」。いずれも脈診による妊娠有無の判断である。一方、『金匱要略』(230年頃)[27]の下巻婦人妊娠病脈証并治第20[28]に は「婦人懐娠六七月、脈弦発熱。其胎愈張、腹痛悪寒者、少腹如扇。所以然者、子臓開故也」とあり、妊娠中の脈診を記している。以上のことから『脈経』の記 述は、『素問』や『金匱要略』の発展と見てよいであろう。では、『脈経』と『諸病源候論』『新雕』『備急』『医心方』の経脈記載は、どのような関係になっ ているのだろうか。
前述したが、『諸病源候論』には『脈経』と一致する部分[29]があった。その巻41婦人妊娠諸病上・妊娠候は 逐月胎児説がある部分で、冒頭には脈診による妊娠、胎児の性別の判断についての記述がある。それらは順次の違いやいくつかの記述が抜けるなど、全てが一致 しているわけではないが、ほぼ『脈経』からの引用とみて間違いない。また『新雕』[30]『備急』[31]にもこれらの記述がある。他方、『医心方』所引『産経』では判然としないが、『医心方』の編者・丹波康頼は脈論を排除する傾向にあったようだ[32]。つまり、本来は『産経』に存在した脈診の記述を『医心方』が引用した際、削除した可能性が高い。なお十二経脈はこの時代は既に臓腑理論と結びついていたため、臓腑の記述が加わったこともなんら不思議はない。
以上のことから、『胎産書』以降の各書は『脈経』の影響も受け、変化発展していったことがわかる。しかしどのようにして十二経脈を妊娠の十ヶ月に当てはめたのであろうか。それを説明するには、十二経脈と五行の関係について説明する必要があるだろう。
十二経脈はもともと、陰と陽とをそれぞれ三つにわけて三陰三陽とし、かつ臓腑理論と結び付けることから生まれたものであるという[33]。 しかし十二では五行理論の五臓(肝・心・脾・肺・腎)五腑(胆・小腸・胃・大腸・膀胱)とはうまく対応しない。そのため、新たに心包という臓と三焦という 腑を加え六臓六腑にし、三陰三陽に対応させた。さらにその六臓六腑を五行と対応させるため、火を君火と相火の2種類にわけた。そして新たに加わった心包・ 三焦を相火に、心・小腸を君火に当てはめたのである。しかし、『胎産書』とともに馬王堆から出土した『十一脈灸経』には、書名の通り経脈が11しかない。 抜けているのは心包の脈であり、この時点では五臓六腑説だったとみていい。つまりこの時代、経脈と臓腑の理論は未完成であり、『胎産書』に経脈の記述がな いのもそのためであろう。
ところで逐月胎児説の経脈について、各月の養うべき脈を五行にあてはめてみるとどうだろう。以下に各月の脈の五行を順に記す。①木、② 木、③火、④火、⑤土、⑥土、⑦金、⑧金、⑨水、⑩水(ただし十ヶ月は『産経』のみに記述がある)。このうち③④は君火である。つまり逐月胎児説では火が 2種類あるため、相火を除き十ヶ月にあわせたことになる。さらに、当順次は五行相生説(木生火、火生土、土生金、金生水、水生木)に合致させており、杉立 もこの点を指摘している[34]。
2 胎児の発育
先にも述べたが、経脈とそれに対応した成長は、全ての書に同じ記述があるわけではない。経脈に関しては、『産経』にのみ10ヶ月目の足太 陽脈(膀胱経)の記載がある。しかし成長に関しては各書にかなりの違いがあり、たとえば『新雕』『産経』には成長の記述がない。そこで当節では『諸病源候 論』『備急』を使い、胎児の成長の記述について考察する。
ではまず、各月の成長について比べてみよう。以下にその比較表をあげる(各月ともに、上段に各月の養うべき経脈とそれに対応する臓腑とその主どる器官、下段に胎児の発育を記す)。
この経脈が五行相生説に対応していることは既に述べた。また第二章で述べた通り、『胎産書』では五行と胎児の成長が対応している。しかし上記の成 長記載を五行にあてはめても、関連は見出すことができない。ではこの記述はどのような背景を持つのだろうか。関連する記載として、『素問』には臓腑とその 主どる人体組織の条文がある。それらは陰陽應象大論篇第5[35]、宣明五気篇第23[36]、痿論篇第44[37]に見られ、各々を整理すると以下のようになる(マル数字は逐月胎児説で該当する養うべき妊娠幾月を示す。ただし3ヶ月目は心包なので、対応していない)。
①肝主筋・肝主身之筋膜・肝主目・肝主筋
③心主脈・心主身之血脈・心主舌・心生血
⑤脾主肉・脾主身之肌肉・脾主口・脾生肉
⑦肺主皮・肺主身之皮毛・肺主鼻・肺生皮毛
⑨腎主骨・腎主見之骨髄・腎主耳・腎生骨髄
以上を上記の表と比べると、肝・肺に共通した部分が見られる。脾に共通部分はないが、脾と同じ土に属する胃には見ることができる。
おそらく上記の胎児の成長は、これら『素問』の臓腑理論に基づくものであろう。ところが『胎産書』には、ある程度の発育の記述があるた め、『胎産書』と同じ記述を用いることはなるべく避けた。その上で、十ヶ月までに胎児に人間としての形を全て備えさせたかった。こうした結果出来上がった のが、『諸病源候論』『備急』にのみ見られる胎児の成長なのではないだろうか。なぜなら全書から全ての胎児の成長の記述を用いると、全ての器官・形態を備 えた人間になるからである。
3 養胎法
養胎法の記述があるのは『新雕』『備急』と『医心方』所引『産経』のみで、『諸病源候論』には存在しない。前述してきたように、『胎産 書』以降の発展には『素問』『霊枢』『脈経』などの経脈説や臓腑説の影響が強かった。ではこの養胎についても、『素問』などと何らかの関わりがあるのだろ うか。以下、表5に各月の臓腑と、その養胎法をあげる。
怒傷肝、悲勝怒。風傷筋、燥勝風。酸傷筋、辛勝酸。…喜傷心、恐勝喜。熱傷気、寒勝熱。苦傷氣、鹹勝苦。…思傷脾、怒勝思。湿傷肉、風勝湿。甘傷肉、酸勝甘。…憂傷肺、喜勝憂。熱傷皮毛、寒勝熱。辛傷皮毛、苦勝辛。…恐傷腎、思勝恐。寒傷血、燥勝寒。鹹傷血、甘勝鹹。巻7経脈別諭篇第21にもこうある[39]。
飲食飽甚、汗出於胃。驚而奪精、汗出於心。持重遠行、汗出於腎。疾走恐懼、汗出於刊。揺体労苦、汗出於脾。これらの記述と養胎とを比較してみると、ある程度の共通部分を見出せるが、六腑と対
四 まとめ
本稿では『胎産書』『諸病源候論』『千金方』および『医心方』所引『産経』の記載を相互に検討し、逐月胎児説の変化と発展を見てきた。その結果『胎産書』をもとに発展している記述と、そうでない記述の問題が明らかになった。
第1に、『胎産書』から後世に続く逐月胎児説は、各時代の影響を強く受けて記述されていた。しかし一方で、それだけでは説明しきれない部 分も多く、未詳の思想や理論体系が古くにあり、『胎産書』はその影響下に著述された可能性もあった。一方、各月の養胎では一般的と思われる方法が多く記述 されていた。しかし3ヶ月目だけは特殊で、その養胎は形象イメージから作られている可能性が高い。さらにこの部分は後世、社会や親の願望の変化とともに変 わっていったようである。
第2に『諸病源候論』『千金方』と『医心方』所引『産経』だが、各書には『胎産書』にない全く新しい記述があった。それが経脈と臓腑理 論に関する記述である。この記述は『素問』『霊枢』『脈経』の発展形と見られ、各経脈は五行相生説に対応させた各月に記されていた。さらに『諸病源候論』 を除く全書には養胎法が記されており、これも経脈と臓腑理論との関係が深いと考えられた。
第3に『諸病源候論』『備急千金要方』には、臓腑が主どるものと、それに対応した胎児の発育が記されている。これは『胎産書』からの発育の記述に加え、人間に必要な器官を備えさせるためのものであったと考えられた。
では以上の考察結果をふまえ、逐月胎児説がどのように変化・発展していったのかをあらためて整理してみよう。まず、『胎産書』以降の変化発展を以下にまとめてみた。
①各月の養うべき経脈
②経脈による養胎
③臓腑が主どるもの
④胎児の発育
⑤3ヶ月の養胎の発展
以上5点となる。では、これらの記述がどの文献に存在したのかをまとめると、表6のようになる。
この表から各文献記載の発展形態が、おぼろげに見えてくる。まず『胎産書』に経脈理論が結びつき、②の各月の養うべき経脈の記述が誕生した。これ は三章で述べた通り、『脈経』の記述が最初であると思われる。さらに発展し、『諸病源候論』以外の全てに経脈との関係が深い養胎の説が誕生した。当時点の 文献は『新雕』『産経』にあたるであろう。その一方で『諸病源候論』には養胎でなく、④胎児の発育と③臓腑が主どるものの記述が登場する。これは二章で述 べた通り、経脈と臓腑理論の発展と考えられるが、一章で述べた北宋・林億らの改訂を考えると、原本に当記述があった可能性は低い。そして③④⑤の全てが付 加された現伝の『備急』となる。その発展形態を本稿の最終総括として以下に図示した。
参考文献と注
[1]『馬王堆漢墓帛書[肆]』136頁、北京・文物出版社、1985年。以下に原文を記す。
一月名曰流形。食飲必精、酸羹必熟、毋食辛腥、是謂財貞。
二月始膏、毋食辛臊、居処必静、男子勿労、百節皆病、是謂始蔵。
三月始脂、果隋宵效、当是之時、未有定儀、見物而化、是故君公大人、毋使侏儒、不観沐猴、不食葱姜、不食兔羹、□欲産男、置弧矢、□雄雉、乗牡馬、観牡虎。欲生女、佩簪珥、紳珠子、是謂内象成子。
四月而水授之、乃始成血。其食稲、麦、鱓魚□□、以清血而明目。
五月而火授之、乃始成気。晏起□沐、厚衣居堂、朝吸天光、避寒殃、其食稲、麦、其羹牛羊、和以茱萸、毋食□、以養気。
六月而金授之、乃始成筋。労□□□、出遊於野、数観走犬馬、必食□□也、未□□□、是謂変腠□筋、□□□□。
七月而木授之、乃始成骨。居燥処、毋使定止、□□□□□□□□□□□□、飲食避寒、□□□□□□□□□美歯。
八月而土授之、乃始成膚革。□□□□□□□□、是謂密腠理。
九月而石授之、乃始成毫毛□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□伺之。
十月気陳□□、以為・・・。
[2]小曽戸洋『漢方の歴史―中国・日本の伝統医学』21頁、東京・大修館書店、1999年。
[3]巣元方『諸病源候論』(東洋医学善本叢書6)194-195頁、大阪・東洋医学研究会、1981年。原文を抜粋し以下に記す(処方等、本稿の考察に使用しなかった記述は省略した)。
巻41、婦人妊娠諸病上、妊娠候
経云。陰拍陽別、謂之有子。此是気血和調陽施陰化也。診其手少陰脈、動甚者妊子也。少陰心脈也。心主血脈、又腎、名胞門、子戸尺中腎脈也。尺中
之脈、按之不絶者、妊娠脈也。三部沈浮正等、按之無断絶者、有娠也。又左手沈実為男。右手浮大、為女。左右倶沈実、生二男。左右倶浮大、生二女。又尺脈左
偏大、為男。右偏大、為女。左右倶大、生二子。又左右手尺脈倶浮、為産一男。不爾女作男生。倶沈、為二女。不爾男作女生。又左手尺中脈浮大者男。右手尺脈
沈細者女。又得太陰脈為男、得太陽脈為女。太陰脈沈、太陽脈浮。欲知男女、遣面南行還復呼之、左廻首是男、右廻首是女。又看上圊時、夫従後急呼之、左廻首
是女。婦人任娠其去、左辺乳房有核是男、右辺乳房有核是女娠。
懐妊一月、名曰始形、飲食精熟、酸美受御、宜食大麦、无食腥辛之物、是謂才貞。足厥陰脈養之、足厥陰者肝之脈也、肝主血。一月之時、血流否渋如不出、故足厥陰養之。
妊娠二月、名曰始膏、无腥辛之物、居必静処、男子勿労、百節皆痛、是謂始蔵也。足少陽養之、足少陽者胆之脈也、主於精。二月之時、児精成於胞裏、故足少陽養之。
妊娠三月、始胎、当此之時血不流、形像始化、未有定儀見物而変。欲令見貴盛公王、好人端正、荘厳。不欲令見、傴僂朱儒醜悪形人、及猿猴之類、无
食薑兔、无懐刀縄。欲得男者、横弓矢射雄鶏、乗肥馬、於田野見虎豹及走犬。其欲得女者、則著簪珂環珮弄珠璣。欲令子美好端正者、数視白璧美玉、看孔雀、食
鯉魚。欲令児多智有力、則噉牛心食大麦。欲子賢良盛徳、則端心正坐、清虚和一、坐无邪席、立无偏倚、行无邪径、目无邪視、耳无邪聴、口无邪言、心夭邪念、
无妄喜怒、无得思慮、食无到臠、无邪臥、无横足。思欲食果瓜、噉味酸葅、好芬芳、悪見穢臭、是謂外象而変者也。手心主養之、手心主者脈中精神、内属於心、
能混神、故手心主養之。
妊娠四月之時、始受水精、以成血脈。其食宜稲秔、其羮宜魚鴈、是謂盛栄、以通耳目而行経絡、洗浴遠避寒暑。是手少陽養之、手少陽者三焦之脈
也。内属於府。四月之時、児六腑順成、故手少陽養之。手少陽穴在手小指間本節後二寸是也。妊娠四月、欲知男女、左脈疾為男、右脈疾為女、左右具疾為生二
子。当此之時慎勿寫之、必致産後之殃何謂也。是手少陽三焦之脈、内属於三焦。静形躰、和心志、節飲食。
妊娠五月、始受火精、以成其気。臥必晏起、洗浣衣服、屋室必厚其裳、朝吸天光、以避寒殃。其食宜稲麦、其羮宜牛羊、和以茱萸、調以五味、是謂養気、以定五臓者也。一本云、宜食魚鼈、足太陰養之、足太陰脾之脈、主四季。五月之時、児四支皆成、故足太陰養之。
妊娠六月、始受金精、以成其筋。欲微労、无得静処、出遊於野、数観走犬、及視走馬。宜食鷙鳥、猛獣之肉、是謂変腠膂筋、以養其爪、以牢其背膂。足陽明養之、足陽明者胃之脈、主其口目。六月之時、児口目皆成、故足陽明養之。
妊娠七月、始受木精、以成其骨。労躬揺支、无使身安、動作屈伸、居処必燥。飲食避寒、常宜食稲秔、以密腠理、是謂養骨牢歯者也。手太陰養之、手太陰者肺脈、主皮毛。七月之時、児皮毛巳成、故手太陰養之。
妊娠八月、始受土精、以成膚革。和心静息、无使気極、是謂密腠理、而光沢顔色。手陽明養之、手陽明者大腸脈、大腸主九穴。八月之時、児九穴皆成、故手陽明養之。
妊娠九月、始受石精、以成皮毛、六腑百節莫不畢備。飲醴食甘、緩帯自持而待之、是謂養毛髪、多才力。足少陰養之、足少陰者腎之脈、腎主続縷。九月之時、児脈続縷皆成、故足少陰養之。
妊娠十月、五臓倶備、六腑斉通、納天地気於丹田、故使関節人神咸備、然可預修滑胎方法也。
[4]小曽戸洋『中国医学古典と日本』411頁、東京・橘書房、1996年。
[5]王叔和『脈経』(東洋医学善本叢書7)大阪・東洋医学研究会、1981年。
[6]孫思邈『備急千金要方』21-24頁、影印江戸医学館本、北京・人民衛生出版社、1982年。原文を抜粋し以下に記す(処方等、本稿の考察に使用しなかった記述は省略した)。
巻2、婦人方上、徐之才逐月養胎方
妊娠一月、名始胚。飲食精熟酸美受御、宜食大麦、無食腥辛、是謂才正。
妊娠一月、足厥陰脈養、不可針灸其経。足厥陰内属於肝、肝主筋乃血。一月之時、血行否渋、不為力事、寝必安静、無令恐畏。
妊娠二月、名始膏。無食辛臊、居必静処、男子勿労。百節皆痛、是為胎始結。
妊娠二月、足少陽脈養、不可針灸其経。足少陽内属於胆、主精。二月之時、児精成於胞裏、当慎護驚動也。
妊娠三月、名始胎。当此之時、未有定儀、見物而化。欲生男者、操弓矢、欲生女者、弄珠璣、欲子美好、数視璧玉、欲子賢良、端坐清虚、是謂外象而内感者也。
妊娠三月、手心主脈養、不可針灸其経。手心主内属於心、無悲哀思慮驚動。
妊娠四月、始受水精、以成血脈。食宜稲粳、羮宜魚鴈、是謂盛血気、以通耳目、而行経絡。
妊娠四月、手少陽脈養、不可針灸其経。手少陽内輸三焦。四月之時、児六腑順成、当静形躰和心志、節飲食。
妊娠五月、始受火精、以成其気。臥必晏起、沐浴浣衣、深其居処、厚其衣裳。朝吸天光、以避寒殃、其食稲麦、其羮牛羊。和以茱萸、調以五味、是謂養気、以定五臓。
妊娠五月、足太陰脈養、不可針灸其経。足太陰輸脾。五月之時、児四肢皆成、無大飢、無甚飽、無食乾燥、無灸熱、無労倦。
妊娠六月、始受金精、以成其筋。身欲微労、無得静処、出遊於野。数観走犬、及視走馬。食宜鷙鳥猛獣之肉、是謂変腠理紉筋、以養其力、以堅背膂。
妊娠六月、足陽明脈養、不可針灸其経。足陽明内属於胃、主其口目。六月之時、児口目皆成、調五味、食甘羮、無大飽。
妊娠七月、始受木精、以成其骨。労身揺肢、無使定止、動作屈伸、以運血気。居処必燥、飲食避寒、常食稲粳、以密腠理、是謂養骨而堅歯。
妊娠七月、手太陰脈養、不可針灸其経。手太陰内属於肺、主皮毛。七月之時、児皮毛巳成、無大言、無号哭、無洗浴、無寒飲。
妊娠八月、始受土精、以成膚革。和心静息、無使気極、是謂密腠理、而光沢顔色。
妊娠八月、手陽明脈養、不可針灸其経。手陽明内属於大腸、主九穴。八月之時、児九穴皆成、無食燥物、無輒失食、無忍大起。
妊娠九月、始受石精、以成皮毛六腑百節莫不畢備、飲醴食甘、緩帯自持而待之。是謂養毛髪、致才力。
妊娠九月、足少陰脈養、不可針灸其経。足少陰内属於腎、腎主続縷。九月之時、児脈
続縷皆成。無処湿冷、無著炙衣。
[7]孫思邈『新雕孫真人千金方』巻2、10葉オモテ-14葉オモテ、静嘉堂文庫(東京)所蔵南宋版のマイクロフィルム焼き付けによる。原文を抜粋し以下に記す(処方等、本稿の考察に使用しなかった記述は省略した)。
巻2、養胎方第3
妊娠二月、名始膏。無食辛、居必静処、男子勿労、百節皆痛、是為始蔵。
妊娠二月、足少陽脈養、不可灸針其経。足少陽内属於胆、当慎護驚動。
妊娠三月、手心主脈養、不可針灸其経。手心主内属於心、無悲哀思慮驚動。
妊娠四月、始受水精、以成血脈。其食稲粳、其羮魚鴈、是謂盛血気、以通耳目、而行経絡。
妊娠四月、手少陽脈養、不可針灸其経。手少陽内輸三焦、静形体、和心志節飲食。
妊娠五月、始受火精、以成其暖気、晏起、沐浴浣衣、居処必厚其衣裳。朝吸天光、以避寒殃、其食稲麦、其羮牛羊。和之茱萸、調以五味、
是謂養気、以定五臓。
妊娠五月、足太陰脈養、不可針灸其経。足太陰内輸於脾、無大飢、無甚飽、無食乾燥、無自灸熱、無労倦。
妊娠六月、始受金精、以成筋。労身無静処、出遊於野、数観走犬馬、食鷙鳥猛獣□、謂変腠理紉筋、以養其力、以堅背膂。
妊娠六月、足陽明脈養、不可針灸其経。足陽明内属於胃、調五味、食甘和無大飽。
妊娠七月、始受木精、以成骨。無使身労、動作屈伸自此於後、居処必燥、飲食避寒、常食稲粳、以密理、是謂養骨而堅歯。
妊娠七月、手太陰脈養、不可針灸其経。手太陰内属於肺、無大言、無号哭、無洗浴、無寒飲。
妊娠八月、始受土精、以成膚革。存心静息、無使気極、是謂密理而光沢顔色。
妊娠八月、手陽明脈養、不可針灸其経。手陽明属於大腸、無食燥物、無輒失食。
妊娠九月、始受石精、以成毛皮、六腑百節莫不畢備、飲醴食甘、緩帯自持而待之。是謂養毛髪、致才力。
妊娠九月、足少陰脈養、不可針灸其経。足少陰内属於腎九月之時、無処湿冷。
[8]上掲文献[4]、455頁。
[9] 岡西為人『宋以前医籍考』1287頁、台北・進学書局、1969年。
[10]『太平聖恵方』(東洋医学善本叢書20)巻○第○葉オモテ、大阪・オリエント出版、1991年。
[11] 丹波康頼『医心方』巻22第2葉オモテ-13葉オモテ、影印安政版、北京・人民衛生出版社、1955年。原文を抜粋し以下に記す(処方等、本稿の考察に使用しなかった記述は省略した)。
巻22、妊婦脈図月禁法第一
『産経』云。黄帝問曰、人生何如以成。歧伯対曰、人之始生、生於冥冥、乃始為形。形容無有櫌、乃為始収。任身一月曰肧、又日胞、二月曰胎、三月曰血脈、四月曰具骨、五月曰動、六月曰形成、七月曰毛髪生、八月曰瞳子明、九月曰入胃、十月曰児生出也。
夫婦人任身、十二経脈主胎養胎、当月不可針灸其脈也。不禁、皆為傷胎、復賊母也、不可不慎。宜依月図而避之。
懐身一月、名曰始形。飲食必熟酸美、無御大夫、無食辛腥、是謂始載貞也。一月足厥陰脈養、不可針灸其経也。厥陰者、是肝、肝主筋。亦不宜為力事、寝必安静、無令恐畏。
懐身二月、名曰始膏。無食辛臊、居必静処、男子勿労、百節骨間皆病、是謂始蔵也。二月足小陽脈養、不可針灸其経也。小陽者内属於胆、当護慎勿驚之。
懐身三月、名曰始胎。当此之時、未有定儀、見物而化、是故応見王公、后妃、公主、好人、不欲見僂者、侏儒、醜悪痩人、猿猴、無食苗姜兔肉。思欲
食果瓜、激味酸葅瓜、無食辛而悪臭、是謂外象而内及故也。三月手心主脈養、不可針灸其経也。心主者内属於心、心無悲哀、無思慮驚動之。
懐身四月、始受水精、以盛血脈。其食稲粳、其羮魚鴈、是謂盛血気、以通耳目而行経絡也。四月手少陽脈養、不可針灸其経也。手少陽内属三焦、静安形体、和順心志、節飲食之。
懐身五月、始受火精、以盛血気、晏起、沐浴浣衣、身居堂、必厚其裳。朝吸天光、以避寒殃、其食稲麦、其羮牛羊。和以茱萸、調以五味、是謂養気、以定五臓者也。五月足太陰脈養、不可針灸其経也。太陰者、内属於脾、無大飢、無甚飽、無食乾燥、無自灸熱、大労倦之。
懐身六月、受始金精、以成其筋骨。労身無処、出遊於野、数視走犬、走馬、宜食鷙鳥猛獣之肉、是謂変湊理細筋、以養其爪、以堅背膂也。六月足陽明脈養、不可針灸其経也。陽明内属於脾、調和五味、食甘。甘和无大飽。
懐身七月、受始木精、以成骨髄。労身揺肢、無使身安、動作屈伸、自比於猿、居必燥之、飲食避寒、必食稲粳、肥肉以密腠理、是謂養骨而堅歯也。七月手太陰脈養、不可針灸其経也。陽明内属於肺、無大言、无号哭、無薄衣、无洗浴、無寒飲之。
懐身八月、受始土精、以成膚革。和心静息、無使気控、是謂密湊理、而光沢顔色也。八月手陽明脈養、不可針灸其経也。陽明内属於大腸、無食燥物、無忍大起。
懐身九月、受始石精、以成皮毛。六腑百節莫不畢備、飲醴食甘、緩帯自持而待之、是謂養毛発、多才力也。九月足少陰脈養、不可針灸其経也。少陰内属於腎、無処湿冷、無著炙衣。
懐身十月、倶已成子也。時順天生、吸地之気、得天之霊、而臨生時乃能啼声、遂天気、是始生也。十月足太陽脈養、不可針灸其径也。太陽内属於膀胱、無処湿地、無食大熱物。
任婦修身法第二
『産経』云、凡任身之時、端心正坐、清虚如一。坐必端席、立不耶住、行必中道、臥無横変、挙目不視邪色、起耳不邪声、口不妄言、無喜怒憂恚、思慮和順、卒生聖子、産無横難也。而諸生子有痴疵醜悪者、其名皆在其母、豈不可不審詳哉。
又云、文王初任之時、其母正坐、不聴邪言悪語、口不妄語、正行端坐、是故生聖子。諸賢母宜可慎之。
又云、任身三月、未有定儀、見物而為化、是故応見王公、后妃、公主、好人。不欲見僂儒侏、醜悪、瘁人、猿猴。其欲生男者、操弓矢、射雄鶏、乗牡
馬、走田野、観虎豹及走馬。其欲生女者、着簪珥施環、欲子美好者、数視白玉美珠、観孔雀、食鯉魚。欲令子多智有力者、当食牛心、御大麦。欲令子賢良者、坐
無邪席、立無偏行。是謂以外像而内化者也。
[12]上掲文献[4]、533頁。
[13]藤原佐世『日本国見在書目録』82頁、東京・名著刊行会、1996年。
[14]馬継興『中医文献学』219頁、上海・上海科学技術出版社、1990年。
[15]上掲文献[4]、532頁。
[16]『十三経注疏』668頁、北京・中華書局出版社、1983年。
[17] 大形徹『魂のありか』141・142頁、東京・角川書店、2000年。
[18]上掲文献[17]、142頁。
[19] 龍伯堅『黄帝内経概論』54頁、東洋学術出版社、1985年。
[20]『霊枢』巻6第3葉オモテ、東京・日本経絡学会、1992年。
[21] 坂元正一・水野正彦『プリンシプル産科婦人科学・産科編』37・38頁、東京・メジカルビュー社、1991年。
[22] 『素問』巻3第7葉ウラ、東京・日本経絡学会、1992年。
[23]上掲文献[4]、314頁。
[24]上掲文献[5]、巻9第2葉オモテ。
[25]上掲文献[22]、巻2第16葉オモテ。
[26]上掲文献[22]、巻5第11葉ウラ。
[27]張仲景『金匱要略』東京・燎原書店、1988年。
[28]上掲文献[27] 、下巻第1葉ウラ。
[29]妊娠中の脈診について『諸病源候論』とほぼ一致する『脈経』記述の原文を以下に記す(上掲文献[5]巻9第1葉ウラ-2葉オモテ、平妊娠分別男女将産緒証第1
)。
経云。陰拍陽別、謂之有子。此是気血和調陽施陰化也。診其手少陰脈、動甚者妊子也。少陰心脈也。心主血脈、又腎、名胞門、子戸尺中腎脈也。尺中之脈、按之不絶者妊娠脈也。三部沈浮正等、按之無断絶者有娠也。
又法。左手沈実為男。右手浮大為女。左右倶沈実生二男。左右倶浮大生二女。
又法。尺脈左偏大為男。右偏大為女。左右倶大生二子。大者如実状。
又法。左右手尺倶浮為産二男。不爾女作男生、左右尺倶沈為二女、不爾男作女生。
又法。左手尺中脈浮大者男。右手尺脈沈細者女。又得太陰脈為男、得太陽脈為女。太陰脈沈、太陽脈浮。
又法。遣面南行還復呼之、左廻首者是男、右廻首者是女。
又法。看上圊時、夫従後急呼之、左廻首是男、右廻首是女也。
又法。婦人妊娠其夫、左乳房有核是男、右乳房有核是女也。
[30]妊娠中の脈診について『脈経』とほぼ一致する『新雕』の記述の原文を以下に記す(上掲文献[7]、巻2第8葉オモテ、婦人有胎候悪阻方第2)。
妊娠四月、欲知男女法。左疾為男。右疾為女。左右倶疾為生二子。
又法。左手沈実為男。右手浮大為女。左右倶沈実生二男。又尺左大為男、右大為女。又左右倶生二男。不爾女作男生、倶浮為二女、不爾男作女生。
又法。左尺浮大者男。右手尺沈細者女。
[31]妊娠中の脈診について『脈経』とほぼ一致する『備急』の記述の原文を以下に記す(上掲文献[6]巻2、19-20頁、妊娠悪阻第2)。
論曰。何以知婦人妊娠。脈平而虚者、乳子法也。経云。陰拍陽別、謂之有子。此是気血和調、陽施陰化也。診其手少陰脈、動甚者妊子也。少陰心脈也。心主血脈、又腎名胞門子戸、尺中腎脈也。尺中之脈、按之不絶法妊娠脈也。三部脈沈浮正等、按之無絶者有娠也。
妊娠四月、欲知男女法。左疾為男、右疾為女、左右倶疾為産二子。又法。左手沈実為男、右手浮大為女、左右手倶沈実、猥生二男、倶浮大猥生二女。
尺脈、若左偏大為男、右偏大為女、左右倶大生二子、大者如実状。又法。左手尺中浮大者男、右手尺沈細者女。若来而断絶者、月水不利。又法。左右尺倶浮為産
二男。不然女作男生。倶沈為産二女、不爾男作女生。又法。得太陰脈為男、得太陽脈為女。太陰脈沈、太陽脈浮。又遣妊娠人面南行、還復呼之、左廻首者是男、
右廻首者是女。又看上圊時、夫従後急呼之、左廻首是男、右廻首是女也。又婦人妊娠其夫、左乳房有核是男、右乳房有核是女也。
[32]上掲文献[4]、543頁。
[33]上掲文献[2]、26・27頁。
[34]杉立義一『医心方の伝来』184頁、京都・思文閣出版、1991年。
[35]上掲文献[22]、巻2第4葉オモテ‐6葉ウラ。
[36]上掲文献[22]、巻7第11葉オモテ。
[37]上掲文献[22]、巻12第8葉ウラ。
[38]上掲文献[22]、巻2第5葉オモテ‐6葉ウラ。
[39]上掲文献[22]、巻7第1葉ウラ。