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東アジアにおけるヨモギ利用文化の研究
本稿は卒業論文に一部修正を加えたものである


99L1034T 神谷 正太

目次

はじめに

1 ヨモギについて
1-1ヨモギとされる植物
1-2ヨモギの漢字表記

2 初期の草餅
2-1ハハコグサの草餅
2-2「餻」について
2-3餅の分類
2-433日のヨモギを使った餅
2-5笹餅
2-6考察

3 大陸東アジアにおいてのヨモギとモチ
3-1古中国のヨモギモチ
3-2韓国において
3-3「モチ文化」について
3-4現代中国料理におけるヨモギ
3-5考察

4 まとめ

参考文献と注



はじめに


 日本中の人たちが、
方 言をやめて標準語を喋り、あらゆる事が全国共通の時代に、その地域限定の行事やしきたりを大切に守り、育てていることは素晴らしいことである。こうした地 域の独自性こそ、これからは尊重されるべきで、立派な「地域起こし」や「町づくり」につながる、重要な要素ではないかと思われる(亀井千歩子「地域限定の行事を大切に」『日本の菓子祈りと感謝と厄除けと』61頁)

 目本人は四季折々に様々な野草 を利用してきた民族である。そのような身近な野草のひとつに「よもぎ」がある。春先に若芽を摘み餅に搗き込んで草餅にするというのが多くの人に想起される と思う。その草餅をつくる文化が近隣の中国や韓国で見られるのか、そうだとしたら、目本と比較してどこが同じでどこが違うのか等を探ると、おもしろい研究 ができるのではと考えた。また、その流れを可能な限り調査したいと考えた。

 そこで第1章では、本稿で扱うヨモギ植物の学名を定め、目本や中国で歴史的に用いられてきたヨモギの語彙と指す植物について考察することにした。第2章では、問題とする草餅が初期はいかなる「もの」だったのかを見ていく。そして第3章では中国や韓国でのヨモギを使った餅などを調査・検討する。以上よりヨモギを搗き込んだ現目本の草餅にいたる歴史経緯と変遷、そこに介在した多様な民族の文化現象に光を当てたいと考える。

 なお本稿では以下のように凡例 を定める。人物の敬称は省路した。目本・中国の年号は一律に西暦で表した。引用文については上記の規定を適用しないものとする。本稿で使用する漢字につい ては、人名以外の固有名詞も含めて常用漢字・人名用漢字を用い、俗字・異体字は正字に直し、同字はそのままにした。ユニコードにない漢字は部首などの一部 分を加減法で構成し、例えば料を{米十斗}のように{ }で挟んで示した。



1 ヨモギについて

1-1 ヨモギとされる植物

日本では一般的な「よもぎ」は以下の3種になる[1][2]

 ヨモギArtemisia princes Pamp.〔分布〕本州・四国・九州・小笠原・朝鮮
 ニシヨモギArtemisia indica Willd.〔分布〕本州(関東地方以西)・九州・琉球・台湾・中国・東南アジア・印度
 オオヨモギArtemisia montana (Nakai) Pamp.〔分布〕本州(近畿地方以北)・北海道・樺太・南千島


 「ヨモギ属
Artemisiaはおよそ250種もあって、北半球に広く分布し、日本だけでも30種があって特産種もある」[3]と言われる中で、以上の3種は植物学の分類上かなり近縁の種である。そのことは資料[1][2]を見れば明らかであるが、詳細は割愛する。加えて日本のほぼ全土に、これらのうちいずれかのよもぎが自生することになる。そこで日本全国で一般に「ヨモギ」と呼ばれている植物はこの3種のうちいずれかということになろう。しかしやはり本 州・四国・九州・小笠原地方以外の土地で「ヨモギ」と呼ばれているものは、厳密にはヨモギではなく「ヨモギ属植物」であると言える。正確を期すためには、 北海道・南千島地方のものはオオヨモギ、沖縄県のものはニシヨモギとしなければならない。あるいは、日本語の学名と区別するために「よもぎ」とかな表記す るのが本来は望ましい。しかし本稿では今後明らかにヨモギ以外のヨモギ属と類推される植物についても表記は便宜上「ヨモギ」とする。またその他の植物名についてもカナ表記するが、必ずしも学名に一致するとは限らない。ただし、引用文については上記の規定を適用しないものとする。

1-2 ヨモギの漢字表記

現在日本において、ヨモギは漢字で「蓬」と書くのが一般的だが、中国語でヨモギは「艾」あるいは「艾蒿」である。北村は『本草綱目』(1590)記載の艾について次のように述べている[4]

和名 ヨモギ属 学名 Artemisia キク科。日本産のヨモギArtemisia princeps Pamp.に近隣の種である。中国のはモウコホソバヨモギA. mongolica Fischer、ケショウヨモギA. dubia Wall.、チョウセンヨモギA. argyi Lével. etVant.、ホクチヨモギA. igniaria Maxim.、ニシヨモギA. indica Willd.などがある。


 艾は日本で「もぐさ」と訓じる。もぐさはヨモギから作られるから、そのこと自体は何ら問題ではない。だが、蓬をヨモギとするのは誤りである、という説が現在では一般的のようだ。それについては牧野
[5]と寺井[6][7]の考察があるので、仔細は割愛する。ただ簡潔に言えば、現在日本で一般にヨモギを蓬と書くが、これは源順(911-983)『倭名類聚抄』(931-938、以下『倭名抄』と略す)に記して以来の間違いで、それ以前は中国と同じように艾がヨモギであるということになる。



2 初期の草餅


 本章では草餅の初期段階について論じる。地方によってはヨモギ餅と呼んだりするが、本稿は草餅に統一する。

さて私たち日本人はいつから草餅を食べるようになったのだろうか。それを究明する前にまず、草餅について考えてみる必要がある。


2-1 ハハコグサの草餅

 日本における草餅の起源についての疑問に、一つの指針を示しているのが渡部忠世・深澤小百合著『もち(糯・餅)』

[8]である。また同様の論旨を見せているのが藤沢[9]と亀井[10]だ。以下に続けて引用してみよう。


@ 草餅の歴史は古く、その名は平安朝の『文徳実録』(八七九年)に初めて記されている。
野有草、俗名母子草、二月始生、茎葉白脆、毎属三月三日、婦女採之、蒸擣以為、伝為歳事
(野に草あり。俗に母子草と名づく。二月始めて生ず。茎葉白くして脆し。三月三日に婦女これを採りて蒸し擣いて以てとす。伝えて歳事とす)

 当時の草餅はこのハハコグサを搗き入れた餅で、今日のようなヨモギではなかったが、すでに三月三日の歳事の餅であった。ハハコグサは別名ホウコグサ、モチヨモギといい、漢名は()(きく)草、春の七草のひとつで御行(おぎょう、ごぎょう)の名で親しまれている。中国では『荊楚歳時記』に、すでに三月三日の行事として「是の日、黍麹(しよぎく)菜の汁を取りて、(あつもの)を作り、蜜を以て粉に(まぶ)す。之を龍舌{米+半}(りゆうぜつはん)と謂い、以て時気を(はら)う」と書かれている。この龍舌{米+半}が日本の草餅の原型といわれるが、黍麹菜は上の鼠麹草すなわちハハコグサのことである。(中略)

 草餅のハハコグサは、次第に『本朝食鑑』や『日本歳時記』にあるようにヨモギへと変わっていく。

Aははこぐさ(母子草・鼠草)は、和名ひきよもぎ、漢名(おう){艸+閭}()と 呼ばれているもので、千年艾の異名がある。効能は、他の、カラ、クサ、カワラなどのヨモギとほぼ同一で、和名母子草の名は、三月三日、草餅に製して食う に、ともに全からんことを希うこころで、「日本の俗、三月三日は、女子節供とて婦女もっともこれ(草餅)を重んずる事なり、草の餅、今の世は多く蓬を用ゆ れども、(ははこぐさ)(蓬の一種)にて作るべし」と、「民間年中故事要言」はいっている。(中略)

  「文徳実録」にも、「野に草あり、俗母子草と名く。二月はじめて生ず。茎葉白くして脆し。三月三日に、婦女これを採りて蒸し擣いて以て餻とす」と見えると ころを見ても、いにしえの草餅が母子草で作られたことが知られ中国においても、「荊楚歳時記」など、「三月三日、鼠草の汁を取りて、蜜と合わせて粉に()ぜて餅に製る、これを龍舌{米+半}(りようぜつはん)と名く。これを食すれば時気を()すといえり」と見えている(中略)。

B 草餅、草団子と言えば現在はヨモギを使うが、ところによっては「ほうこぐさ」を使う。ほうこは母子のことで、母子が音便になってホウコとなり、この草を茹でて餅に搗き込んだものが「ほうこ餅」である。雛の節供に作る餅として、平安時代にはもっぱらこの草が用いられていた。(中略)

 母子草は春の七草の一つで、「五行(ごぎよう)」「御形(おぎよう)」とも書かれ、「鼠麹草(ほうこぐさ)」とも書かれる。(中略)

 平安時代初期に書かれた『文徳実録(もんとくじつろく)』に、三月三日にこの草を摘んで餅にすることが記されている。しかしもともとは中国の三月三日の上巳の節供に作られていたもので、六世紀に書かれた『(けい)()(さい)時記(じき)』には母子草で作った草餅のことが記されている。(中略)
 

 母子草を使った草餅は、いつしかヨモギを使う草餅に変わっていく(中略)。

 母子草を使った草餅が、関西方面に最近まで残っていたのに対し、東国ではヨ モギの草餅が早くから定着していた。その理由は鎌倉時代の武士たちはヨモギの草餅を好んだようで、『吾妻鑑』によると仁和二年(一二四一)北条泰時は倹素 の趣旨から「風流菓子」の製造を禁じている。風流菓子がどんなものかはっきりしないが、平安時代に大いにもてはやされていた唐菓子が、鎌倉時代末期には姿 かたちもなく消えてしまう。そして民間には在来のぼた餅や草餅が普及する。


 まずは以上の論考で使用されている参考文献について裏付けを取る必要がある。Aが引用する『民間年中故事要言』は残念ながら実見には及ばなかった。@が引用する『文徳実録』(879)は『増補六国史』八巻[11]にあり、『荊楚歳時記』は引用と同文献[12]で確認したが、いずれも引用に問題はなかった。

@ABを見てまず最も注目すべきは、平安初期の草餅がヨモギではなくハハコグサを搗きいれた餅であったことだ。

また@ABとともに『文徳実録』を参考にしているが、いずれの文献も触れていない記述が、@に抜粋の前方にある。興味深いものなので、@と重複するが前の部分と合わせて引用する[11]

壬午、葬太皇太后于深谷山、遺令薄葬、不営山陵、先是民間訛言云、()(トシ)三日不可造(クサモチヒ)、以無(ハヽ)()也、識者聞而悪之、至于三月、宮車晏駕、是月亦有太后山陵之事、其無母子、遂如訛言、此間田野有草、俗名母子草、二月始生、茎葉白脆、毎(アフ)三月三日、婦女採之、蒸擣以為餻、伝為歳事


 ここからわかるのは、ハハコグサから作られるもののみが「餻」ということである。@Aに従えば「餻」は草餅であるが、「ハハコグサから作られるもののみが草餅である」と言いきることは、この段階ではできない。「餻」の文字で示されている「もの」がいまだ明らかにされていないので、その前に考察を加える必要があるからだ。

2-2 「餻」について

篠田[13]は「餻」を含めた穀類加工食品について表を示しながら詳述している。篠田の言葉を抜粋して要旨をまとめた。

 日本人の漢字の使い方は誤訳が多すぎる。

 餅がまた誤訳の典型的な例で、小麦粉製品の総称が(ピン)、小麦粉そのものを(ミエン)という。一方、小麦以外の穀物−米・粟・黍・豆など−の粉製品を(アル)という。

 餌は、後年さらに細かくわかれ、よくこねて大きいままで蒸したのを餻という。

 和名抄(わみょうしょう)にしても、著者の源順(みなもとのしたごう)は当時弱冠二四歳、引用した漢籍の誤読もちらほら見え、その訳文を全面的に信頼するのははばかれる。

 
 正倉院のころの漢字は大体においてシナ本来の、室町期以後のものならば通常日本式の意味に解釈して、あまり大きな間違いはない。問題は平安中期から鎌倉へかけての漢字であって、シナ語で読むべきか、日本流にかたづけるべきか、判断にくるしむ場合が多いのである。

さ て『文徳実録』が記されたのが平安初期だから、篠田の言に従えばはっきりと判断を下すのは難しいところである。しかしいずれにしても「餻」は現在では草餅 を指さない。篠田は「信頼するのははばかれる」と言う『倭名抄』だが、「餻」を見出し語で記載している『箋注倭名類聚抄』(1827)(以下『箋注』と略す)[14]で見てみよう。ただし、引録は次の方針で行うものとする。源順が記した箇所のうち、大字はゴシック体で表記する。○以降は狩谷{+}(1775-1835)の注で、注から『倭名抄』本文に戻る際は改行する。

 考声切韵云餻 古労反、字亦作{+}久佐毛知比。○餻亦作{+}、見集韻。蓋後俗諧声作是字。又槁労之槁作犒、或作{+}、二字遂混同。昌平本、下総本有和名二字。按三中口伝、草餅三月三日特用之。

烝米屑為之、○方言、餌謂之餻。廣雅、餻、餌也。則餻知即餌。説文、{鬻−米+耳}粉 餅也。又載餌字云、或従食耳声。徐鍇曰、餌則先屑米為粉、然後溲之、与云烝米屑為之者合。今俗謂之志无古、其象円者謂之団子。源君挙単字餻、訓久佐毛知比 非是。李時珍曰、餻以黍糯合粳米粉蒸成、状如凝膏也。単糯粉作者曰粢。米粉合豆末糖蜜、蒸成者曰餌。依李説、餻、黍団子、粢団子、餌、洲濱也。然是後世分 析、非古義也。

文徳実録云、嘉祥三年訛言曰、今三日不可造餻、以無母子也。○文徳実録十巻、右大臣藤原基経公等撰。所引五月四日橘太皇太后傳文、按嘉祥三年譌言、謂是年鼠麹草可不生。恐三月三日不能造龍舌{米+半}。鼠麹草和名母子草。訛言無母子草者、仁明天皇橘太皇太后母子相續崩之兆也。荊楚歳時記、三月三日、取鼠麹汁、蜜和粉謂之龍舌{米+半}、是可訓久佐毛知比、今俗所謂草団子也。文徳実録所言、即是者、今俗呼久佐毛知者、烝{米+而+大}米和艾草所作之餈、非烝米屑為之者、其名同而実不同也。


 以上でまず気になるのが、和名が「くさもち」ではなく「くさもちひ(久佐毛知比)」とある点だ。日本ではかつて「餅」を「もちひ」と訓じていた時代があり、やはり『箋注』では「餅」[15]の冒頭に「釈名云、餅、音屏、毛知比」とある。餅の語源から詳しく考察している文献は、確認できただけでも多数存在する[16-19]。そこで本稿では割愛する。


2-3
 餅の分類


 日中間で「餅」の意味が異なるのは前掲の表を見ればわかるが、日本国内でも餅と団子の線引きは曖昧だ。狩谷は餅と団子を厳密に分類すべきだと考えていたようだが、阪本
[20]・渡部・深澤[8]は日本の餅を分類して次のように述べている。

  日本にはモチ米を素材にした多種類の食品が知られている。(中略)ウルチ性とモチ性という澱粉の性質と、調理の素材の状態が穀粒か穀粉かという、二つの特 徴を軸にして、任意に選び出した代表的な食品を位置づけることを試みたところ図(中略)のようになった。穀粉については素材が穀粒を粉に()い ただけの生粉(ベータ型澱粉とよぶ)か、熱を加えた糊化澱粉(アルファ型澱粉)かによってさらに細かく分類した。この図を作成する過程でわかったことは、 食品の実態とその呼び名が必ずしも一致していないこと、同一の呼び名の食品でも必ずしもその素材が、時代や地域によりまた調理する人により一定でないこと であり、明確な類型分けは大変難しいことであった。

た とえば「餅」と呼ばれる食品は数多くいろいろな地方にあるが、素材が穀粒の場合も穀粉の場合もあり、モチ米のみでなくウルチ米を素材としている食品も餅と 呼ばれている場合がある。一般に「餅」は穀粒を素材とする場合、「団子」は素材が穀粉の場合という分類がなされているが、この図を見ると必ずしもそのよう になっていない。草餅にはモチ米を蒸してヨモギとともに臼で搗いた場合と、ウルチ米の粉を用いてつくる場合が知られている。(阪本)

 草餅の製法には二通りある。ひとつは蒸したモチ米にゆでたヨモギを混ぜて搗いたもの、もう一つはウルチ米の上新粉を練って蒸し、ヨモギを混ぜて搗いたものである。(渡部・深澤)



 ウルチ性とモチ性、穀粒と穀粉をそれぞれ軸にして、イネを用いた食品を分類 し表に示した坂本は、その調査の過程で見えてきた食品の実態とその呼び名が必ずしも一致していないことなどの雑駁な様子を指摘する。さらに、餅と団子は一 般に分類がなされているものとの考えが揺動された様子を述べている。その例として、草餅の作り方に蒸したモチ米を搗く方法とウルチ米の粉を用いる方法があ ることを挙げる。渡部・深澤も草餅の二通りの製法を紹介する。

2-4 33日のヨモギを使った餅


 次にヨモギを使った草餅について見ていくことにしよう。A
が引用する『民間年中故事要言』は捜索できなかった。そこで@が引く『本朝食鑑』(1697)[21]をみると、「其苗作蔬合蒸糯搗作餅三月三日用艾餅而賀祝」とある[22]

現代でも、33日にヨモギの草餅をつくる習慣がある。農山漁村文化協会編『聞き書ふるさとの家庭料理5 もち雑煮』(以下『聞き書』と略す)にそれを見ることができる。農山漁村文化協会(以下、農文協と略す)は全国約350地点で郷土料理の聞き取り調査を行い、『聞き書日本の食生活全集』としてまとめた。『聞き書』はその一部を新しい構想で再構成したシリーズのうちの餅料理特集の巻である。その『聞き書』には33日にヨモギの草餅をつくる習慣が5例見られるので、内容をまとめて列挙する[23]

宮城県亘理郡では三月の節供にもちぐさ(よもぎ)を搗きこんだ草餅を食べる。

石川県河北郡では春先によもぎの新芽をもち米と一緒に搗き混ぜて草もちをつくる。ひな節句にはこの草餅を菱形に切って白いもちと重ねる。岐阜県恵那市ではよもぎの新芽をもち米に混ぜて搗きよもぎもちを作る。三月のお節句には菱形に切って白もちと桃色に色をつけたもちと三色重ねでお供えにする。

奈良県吉野郡では桃の節句に、女の子のいる家では菱もちをつくる。湯で米の粉をこねて蒸したものに、よもぎの新芽を加えて搗く。めん棒でのばして菱形に切り、二段か三段に重ねて上に白い丸もちをのせて神仏やひな壇に供える。

熊本県阿蘇郡ではもちを搗くときによもぎを入れてよく搗き混ぜ、よもぎもちをつくる。桃の節句にはのして菱形に切り、赤、白の菱餅と重ねて神仏に供える。

 『本朝食鑑』の記述から、江戸時代の初期には33日にヨモギの草餅をつくる習慣が認められる。現代ではただの草餅を食べるところもあるが、菱形に切ったり白い餅を重ねたりするなどの装飾を施すものをつくる土地が多く見られる。


2-5
 笹餅


 江戸時代の料理書『料理物語』
(1643)にはヨモギを材料にした餅の記載がある。ただし、ヨモギ餅という名でも草餅という名でもない。「笹餅」なるものだ。現代語訳で次のように書かれている[24]

笹餅 うる米を上白にして、よく粉にはたいて三段に粉をとる。一番はざっとはたき、まずふるって、その粉は取り除く。二番目によくはたいて細かくふるう。これを水でこねて、小さな玉にして鍋に入れて煮る。吹き上がって再び沈むまでゆでる。それをあげて臼でよく()いて、様々な形にちぎる。黄色にはくちなし(山梔子)、青には(よもぎ)の汁を入れるとよい。(あお)大豆(まめ)の粉には口伝がある。柚の葉。

 まずは「柚の葉」を検証しよう。『大漢和辞典』[25]によると「柚」は「木の名。ゆず。柑類の一」とある。またその他多数の意味のひとつに「竹の名。柚梧を見よ」とある[26]。よって「柚の葉」は柚梧という竹の葉であり、笹餅の名のもとになったものだと分かる。これをどのように使うかは原文にも記されていない[27]が、餅を包むと考えていいだろう。

『料理物語』において確認できるのは、ヨモギを餅の材料に用いることに止まる。この笹餅におけるヨモギの位置づけはあまり重要なものではなく、色づけのバリエーションのひとつという印象だ。また、「笹もち」も『聞き書』[23]に見ることができる。

笹もち 新潟県西頸城郡 材料[もち米/笹の葉/きな粉/小豆、よもぎ/黒砂糖]
笹もち 富山県氷見市 材料[もち米、米粉/よもぎ/笹の葉]
笹もち 石川県河北郡 材料[もち米/笹の葉/塩]
笹もち 福井県坂井郡 材料[もち米/笹の葉/大豆、えんどう豆、ごま/塩]

 新潟県西頸城郡の話者が「この地方独特の食べもの」と語っているように北陸地方にしか見られない。江戸時代にも同様であったのかわからないが、なぜ『料 理物語』には笹餅が載っているのか疑問である。ともあれ、江戸時代のものと現代のものではウルチ米とモチ米の違いがあるが、ヨモギの他に豆類を使うところ などよく似ている。大体においてあまり変化することなく江戸時代から現代まで続いているようだ。

2-6 考察



 @ABをまとめると次のようになる。今日では草餅というとヨモギを使ってつくるのが主流だが、かつてはハハコグサを使ってつくる33日の行事食であった。その起源は中国にあり、例えば『荊楚歳時記』に記されたような古い歴史を持つ習慣である。日本では『文徳実録』に記された「餻」がハハコグサ餅の古い記録である。「その名は平安朝の『文徳実録』(八七九年)に初めて記されている」とするのはのみで、これに対して確証は得られないので筆者は支持も反対もしない。

『文 徳実録』には、ハハコグサが叢生しないと「餻」がつくれないとある。ここで二通りの考え方ができる。ハハコグサを用いたもののみが「餻」であり、それ以外 の草餅も存在して、何らかの名があったとすれば、当時ヨモギ草餅を作っていた可能性もある。しかし「餻」が今の草餅と該当するのであれば、当時の草餅はハ ハコグサを用いたものしか存在しないということになる。

「餻」について篠田作成の表を見るに、日本においても中国においても草餅たりえないことが知れる。しかしこれは現在の話である。篠田は信頼性を疑問視する『倭名抄』だが、『文徳実録』成立の約60年後に書かれた辞書であるから、「餻」は「くさもちひ」と訓ずるとすることは受け入れられよう。現に狩谷は「餻」を「くさもちひ」と訓じるのは誤りとしながらも、『文徳実録』に登場する「餻」は『荊楚歳時記』に登場する「龍舌{米+半}」であると見ているし、これは「くさもちひ」と訓じるべきであり、江戸時代後期でいう草団子に当たるものだと述べている。

現在「餻」は草餅ではないのに、かつての草餅がハハコグサからつくられていたと『文徳実録』の記載から無条件で論ずる@ABの根拠は『箋注』にあるのだろう。全 てが共通して『荊楚歳時記』と『文徳実録』を挙げる点も互考すると、一層その考えが強くなる。どうやら『文徳実録』の「餻」に関しては、ハハコグサからつ くられた今の草餅の原型という特例扱いが定説のようである。検証した『文徳実録』が「餻」に「クサモチヒ」とルビを振っているのも疑うべくもないのであろ う。

阪 本は一般に考えられている「餅」と「団子」の作り方の違いを挙げ、実際には区別されていないとしている。渡部・深澤においては、本来草団子と呼ばれるべき (と狩谷・阪本が考えている)ものも完全に草餅の種類のひとつとしている。が、実際は今でも区別されていない状況なので、過去の資料から餅か団子かと区別 するのは相当に難儀な作業だろう。さらに言えば、『箋注』には「草団子」という表記はあるが「草餅」はなく、終始「くさもち(久佐毛知比)」なのである。 ここに何かしら狩谷の意図が見てとれるが、自身で明言を避けているように思う。

6世紀中国に見られる、33日 にハハコグサの草餅をつくる習慣を日本人も倣い、平安初期には同様な形式で行われていた。だが、やがてヨモギを使う草餅に変わっていき、江戸時代初期には それが一般的となっていた。それが現在に至っているのである。今では菱形に切るなどのバリエーションも増えている。しかし、『聞き書』にはハハコグサを 使った餅は見られず、日本では今や33日の節供につくる餅と言えばヨモギの餅だけなのである。

また江戸時代初期には33日の「艾餅」以外にも「笹餅」なるヨモギを使う餅がある。現代も一部地域では「笹もち」を食べる。ヨモギを使わないものもあり、『料理物語』の「笹餅」と同様にヨモギはあまり重要な位置づけではないようだ。もっとも「笹餅」という名を冠する点でも当然と言えば当然だろう。

『本朝食鑑』の「艾餅」と『料理物語』の「笹餅」ではヨモギの意義が明確に異なる。しかし、江戸時代初期には33日の行事食・日常食の双方においてヨモギを材料にした餅が食べられていたことがわかる。

亀井は、ヨモギやハハコグサを用いるより以前にウケラ(オケラ)の草餅が存在していたと指摘している。その上で、「香り、色、味においととても他には及ばず、“草餅レース”に堂々勝ち残った」のはヨモギだと軽妙に「草餅」項目を締めくくる[10]。龍舌{米+半}に倣いハハコグサ餅をつくる習慣は、日本人の嗜好に導かれヨモギ草餅への変容に行き着いたのだ。目を凝らすまでもなく、気付いてみればそこにあるのはごく自然な流れだ。

以上を総括する。中国の33日にハハコグサ餅(龍舌{米+半})をつくる風習を日本も受容したが、日本人の嗜好が次第にヨモギ餅へと変化させていく。江戸時代には日常食にもヨモギを使った餅が見られる。現代の日本では33日のヨモギ餅は菱形にするなどのバリエーションも出てきている。

本稿では今後、阪本作成の表中にあるような、現在の日本においておよそ餅と呼ばれるものについてはそのままの表記とする。しかし、日本人が海外のもので餅と呼ぶ食品および餅の様な食品と言うに止まるものについては「モチ」と表記する。話を遡れば、龍舌{米+半}も モチ、厳密にはハハコグサモチということになる。そこで今後は、「餻」も広義に捉え、「モチ」と見なす。またモチのうち、それに重要な意味がなくてもヨモ ギを使ったものであれば、日本のヨモギ餅とは区別して、ヨモギモチと表記する。ただし、引用文についてはこの規定を適用しないものとする。



3 大陸東アジアにおいてのヨモギとモチ

それでは中国には過去から現在までにヨモギモチはなかったのだろうか。実はあったのだ。

3-1 古中国のヨモギモチ

過去の記録は『遼史』(916-1125)に見られ、以下の通りとなっている[28]

五月重五日、午時、採艾葉和綿著衣、七事以奉天子、北南臣僚各賜三事、君臣宴楽、渤海膳夫進艾餻。以五綵絲為索纏臂、謂之「合歓結」。又以綵絲宛転為人形簪之、謂之「長命縷」。国語謂是日為「討賽咿唲」。「討」、五;「賽咿唲」、月也。


 ここに登場する渤海の地理と歴史について見ておこう。まずについてこうある。


東モンゴリアのシラムレン川流域に興った契丹(きつたん)が建てた征服王朝。東モンゴリア、東北地区、華北の一部(燕雲十六州)を領有。建国者耶律阿保機(やりつあぼき)太祖)は契丹諸部族を統合、927[29]に渤海を滅ぼして建国。(中略)遼は広大な領域に契丹人、(けい)民族、漢族、渤海遺民などが共存し、遊牧社会・農耕社会が併存したため、二元的政治を行い、契丹の国粋化を図り、契丹文字などを作った。(以下略)[30]

渤海についてはこう記されている。

満州東部、北部、沿海州、朝鮮北部を領有し、7世紀末から10世紀初頭に栄えたツングース系の靺鞨(まつかつ)人の国。高句麗滅亡後、その遺民として唐の支配下にあった靺鞨人は、大祚栄(だいそえい)に率いられ、698年東部満州に震国を建てて自立。祚栄は713年唐朝から渤海郡王に封ぜられ、以後渤海をもって国号とした。(以下略)[31]


 『遼史』に描写されている
55日の風習とよく似た記述を『荊楚歳時記』[32]に見ることができる。

五綵の(きぬいと)を以て(ひじ)げ、名づけて辟兵と曰う。人をして(おん)を病まざらしむ。又た条達などの組織雑物、以て相い贈遺するあり。(){+}(よく)取り、之に語を教う。
 
『孝経援神契』を按ずるに曰く。仲夏、(まゆ)(繭に同じ)始めて出づ。婦人は染練し、咸な作務あり。日月星辰、鳥獣の状の文繍(もんしゅう)金鏤(きんろう)、尊ぶ所に貢献す。一に長命()と名づけ、一に続名縷と名づけ、一に辟名(ぞう)と名づけ、一に五色絲と名づけ、(中略)その名の()たるもの甚だ多し。(以下略)

『遼史』と比較してかなり共通部分はあるが、「艾餻」は登場しない。しかしながら、55日の風習とヨモギが結びついたものとして、これより前に次のような記載がある[33]

五月五日、之を浴蘭節と謂う。四民並びに(とう)百草の戲あり。(よもぎ)を採りて以て人を為り、門戸の上に懸け、以て毒氣を(はら)う。菖蒲を以て、或いは(きざ)み或いは(こな)とし以て酒に(うか)ぶ。
 
『大戴礼』按ずるに曰く。五月五日、蘭を蓄え沐浴を為すと。『楚辞』に曰く。蘭湯に浴し芳華に沐すと。今、之を浴蘭節と謂う。又た之を端午と謂う。百草は、即ち今人、闘百草の戯あるなり。宗則、(あざな)は文度、常に五月五日、鶏未だ鳴かざるの時を以て艾を採り、人に似たる処を見、(まと)めて之を取り、炙に用いるに(ききめ)あり。(以下略)

これは『本草綱目』にも以下のように引かれている[34]

又宗懍荊楚歳時記云。五月五日鶏未鳴時。采艾似人形者。攬而取之収以灸病。甚験。是日采艾為人。懸于戸上可禳毒氣。其茎乾之。染麻油引火点灸炷。滋潤灸瘡。至愈不疼。亦可代蓍策。及作燭心。


『中国料理辞典』によると、今日では当風習が次のようになっている[35]

 端午の節句が行われる5月は、一年で最も悪い月と考えられている。旧暦の5月は、北中国では気温が上昇し、長江流域の南部では梅雨に入って蒸し暑い季節となる。この時期、万物は急成長するが、他方では農作物を荒す害虫が発生し、伝染病がはやった。そのため人々は、5月を「悪月(オユエ)〔あくづき〕」と呼んで恐れた。と同時に、悪霊や邪気を払い、家族がみな無病息災に過ごせるようにとさまざまな風習が生れた。端午節に行われる風習は、いかに悪月の邪を避けるかという「辟邪(ビィシエ)」の意味を持っている。端午節の辟邪の呪物としては、菖蒲と(よもぎ)が 最も広く知られている。この日、毒虫や疫病の侵入を防ぐため、菖蒲や艾を家の軒先にかけたり、挿したりする。(中略)艾は古くからもぐさとして、用いられ てきた薬草である。端午の日に採って乾燥させたもぐさには、体力の毒気を取り去る力があるとされた。端午節になると子供たちは、紅い糸や、五色のひもをひ じに結んで厄払いをした。これを長命縷(チャンミンリュイ)〔ちょうめいる〕、続名縷(シュイメイリュイ)〔しょくめいる〕、寿索(シュウスオ)〔じゅさく〕などという。〔(リュイ)(スオ)は糸ひものこと〕(中略)端午節の食物は、五毒餅(ウドゥビン)〔ごどくへい〕であり、飲み物は雄黄酒(ションホワンジォウ)〔うおうしゅ〕である。端午の節句は(ゾン)の節句としても知られている。六朝時代までは、端午と夏至の双方に食べたが、次第に端午の節物(せちもの)となっていく。日本の端午節では中国から伝来した粽に相当する柏餅がある。

3-2 韓国において


 5
5日にヨモギモチをつくる風習を今の中国・日本には発見できなかったと前述したが、韓国にはあることが金渙の記述から明らかになった[36]

五月五日を「端午」「戌衣(スルイ)」または天中佳節といいます。(中略)五月五日は一年中陽気がもっとも旺盛な時であるといって、天中佳節としてこれを尊崇しました。端午を俗に「戌衣」というのはこの日、(よもぎ)の葉を摘んでゆで、それを糯米の粉に入れてつき、緑色になるようにします。これで車輪の形の餅を作ります。車を韓国語では「スウレ」というので、その餅を食べる日を戌衣といいました。(中略)

端午に八雲草(やくもそう)(益 母草。メハジキ、シソ科)と艾を摘む風習があります。端午の日、正午頃八雲草と艾を摘んで乾薬用に用います。一般に艾と八雲草は漢方薬草として使用されま すが、特に端午の日の八雲草と艾は特効があるといわれています。(中略)また、農村では朝早く艾を刈り取って束ねて大門のところに立てておきます。そうす れば厄除けになるといわれています。(以下略)


詳しくは後述するが、『遼史』の記述とよく似ている。

3-3 「モチ文化」について



 さて、ここでは『モチの文化誌』をもとにモチ米を利用する文化の起源とその範囲を見ることにしよう。

  モチ性の穀類にまつわる「モチ文化」と呼ぶことができるものを、(中略)日本、韓国、中国、台湾、東南アジア大陸部および島嶼部に至る地域についてさぐっ てみると、主にモチイネにまつわる食文化がよくわかっているので、それが中心となっているが、穀粒を素材として調理されるおこわ(強飯)、餅、すし、粽、 製粉した穀粉を素材としたいろいろな食品、地酒などが、ハレおよびケの食文化や、伝統儀礼に深く関わった利用法として広く分布していることがわかった。 (中略)

 このようにして、(中略)モチ文化の起源したと考えられる地域が、東南アジ ア大陸部のアッサムからビルマ北部、タイ北部、中国西南部を包含する山岳地帯に存在することがわかってきた。(中略)そこでこの地帯を「モチ文化起源セン ター」と名付けることにした。そしてこの考えを導入して、モチ文化の起源と伝播の大まかな様相を図(中略)に示してみた。


 この図を見てみると、モチ性穀類を利用する文化が、地球上のきわめて限定された東アジアという地域に特異的に成立していることがはっきりと理解できるのである。モチ文化が顕著にみられる文化圏がモチ文化起源センターから東の方に拡がっている[37]

モ チ性穀類、特にモチイネにまつわる食文化はアッサムや中国西南部で顕著に見られる。表を見ると、かつての渤海に当たる地域は「モチ文化が顕著に見られる地 域」には包含されず、「モチ性穀類の分布圏」に入る範囲と入らない範囲がある。もちろん現代の調査を遠く隔てた時代の文化と単純に比較することはできな い。しかし、少なくともモチイネの分布は当時もそれほど変化していないと思われ、「艾餻」はモチイネの分布域の北限に位置していた土地のモチということに なる。


3-4
 現代中国料理におけるヨモギ

『中国料理辞典』[38]には、ヨモギを食材とする料理として「艾餻」と「艾」が挙げられている。以下に一部抜粋する。

 中国では、草餅(ツァオビン)のことを「艾餻(アイガオ)」といい、郷土料理の点心などに使われている。東江菜(ドンジヤンツァイ)〔東江は、広東省東江流域、客家〈ハッカ〉の人々の多く住む地方〕の「(アイ)(パン)」は、肉絲(ロウス)蝦米(シヤミイ)を加えた切り干し大根の炒め煮を具に包んだ草餅で、清明節(チンミンジエ)の供物には欠かせない行事食である。

また、『新中国料理大全』に載っている北京料理・上海料理・広東料理・四川料理のうち、ヨモギを使うものが一品だけ見られる[39]。これも「艾」というモチである。論旨をまとめて以下に記す。

 よもぎは新芽だけをひとつかみ摘んで使う。客家(ハツカ)(パン)(もち)である。は客家語で「(ガオ)」の意味。艾はよもぎもち。切り干しだいこんを具にした鹹点心(シエンデイエンシン)である。とくに清明節の牲礼(シヨンリイ)(いけにえ。三牲と五牲があり、家禽類、豚肉、卵、魚、豆腐など3種から5種そろえる)、酒など他の供物と一緒に艾は不可欠である。

」は『大漢和辞典』によれば「餻に同じ」である[40]。 であれば「艾」はすなわち「艾餻」ということである。今回は残念ながら「艾」がどのようなものか確証させることはできず、『遼史』に記録された「艾 餻」、現代中国で郷土料理に見られる「艾」、どちらもその詳細を知ることはできなかった。どのような料理なのかはわからないが、「艾餻」は今も残ってい るのだ。

また、阪本は四川盆地と中国西南部を調査している。彼は、四川盆地には「多様なモチイネの利用形態が存在すると考えられる」[41]と言い、中国西南部については「いろいろなモチ米食品がこの地域に分布していることがわかる」[42]としている。そしてヤオ族・チワン族・トン族・ミャオ族・タイ族のモチ米調理法もいろいろと挙げているが、ヨモギを使ったものはない。特に「四川地方のモチイネの伝統的利用法について(中略)二〇種類にものぼる調理法を細かく」聞き取り調査している[41]。しかしモチのみならず、そのほかのどの料理にもヨモギは使われていない。

3-5 考察

中国の古典籍でヨモギモチの記録を調査すると、『遼史』に「艾餻」が見られた。しかしここからその具体像は見えてこない。「渤海膳夫進艾餻」と記されている様子からすると、「艾餻」は遼を統治している契丹人には珍しい、靺鞨人独自の料理であろうと推測できる。また、55日の出来事であるから、靺鞨人独自の行事食なのかもしれない。

調 査の及んだ範囲では、同様の記録を今の中国・日本の古典籍に発見できなかったが、韓国において餅を車輪の形にするという展開を遂げて存在する。展開を遂げ てというのは、とりもなおさず渤海の「艾餻」が韓国に伝わったと推測するからである。これは渤海と韓国の地理を俯瞰するに当然だし、55日 の正午頃という細かい決まりごとまで一致しているとなれば答えはひとつだ。また、ヨモギの葉の他に採集する、もう一つ植物(の一部分)があるという点にも 注目したい。ただ、渤海の「綿」と韓国の「八雲草」は別植物の可能性もある。それゆえ、ヨモギの他に採集する何かしらの植物がもうひとつあるという言い方 に止めて、3つ目の共通点とする。

韓国の55日にヨモギモチをつくる風習が、『遼史』に記された「艾餻」の伝播したものであるなら、「艾餻」をつくるのは55日の風習であったということになる。風習になっていることであれば、それ以前かそれ以後に同じもしくは類似した記録があってもいいはずだ。

『荊楚歳時記』には55日の風習が多数あり、そのうちの一部は遼の人々にも連綿と伝承されてきたものである。ただ一点ヨモギモチをつくることを除いては。ヨモギにまつわる55日の風習で『荊楚歳時記』に記されているのは、門戸の上に懸けるというものだ。以後、当風習を「ヨモギ掛け」と呼ぶことにする。

『遼史』を鑑みるに、当時靺鞨人独特のものと思しき55日ヨモギモチの風習だが、全くの独自性を持ったものには思えない。むしろ、『荊楚歳時記』に記されている55日のヨモギ掛けの風習と33日のハハコグサモチ(龍舌{米+半})をつくる風習が混同されたと見なす方が自然ではないだろうか。ただ、後述するがこの説には疑わしい点もある。

韓国では55日のヨモギモチの風習以外にも、農村において中国で伝統的に行われているそれとほぼ同様の形式でヨモギ掛けの風習が今も残る。つまり韓国ではヨモギを用いる55日 の風習が二通りあり、それらが合一せずにそれぞれ昔ながらの形式を残しているのだ。そうなると、遼での風習の混同とは異なる様相を見せる点が奇妙に思え る。加えて、ヨモギを摘む風習に正午頃とする決まりと、朝早い時間とする決まりの両方が残り、やはり『遼史』に記録の風習と『荊楚歳時記』に記録の風習が それぞれに伝統として続いている。さらに、中国では5月を「悪月」と呼び、55日を邪気払いの日と位置づけているのに対し、韓国では佳節としている。もちろん地勢や時代の関係もあるに違いない。

しかし韓国の、しかもより自然との関わりが強い農村で、ヨモギ掛けの風習が中国と同じように行われているのはどうにも噛み合わない気がする。また、ヨモギにまつわる風習で、ヨモギを採取する時間帯が早朝と正午頃の二通りある点は解明できず、疑念が残る。

一方、『中国料理辞典』上・下巻および『新中国料理大全』全5巻 を閲覧し、現代中国では客家の人々が清明節の行事食にヨモギモチをつくることがわかった。しかし、中国でも特にモチ文化が顕著な西南部と四川盆地におい て、ヨモギモチをつくるという情報は入手できなかった。阪本作成の表で、「モチ文化が顕著にみられた地域」は中国の国土の大部分を占めているだけに、ヨモ ギモチ文化はその程度に過ぎないといっても非難されまい。

『中国料理辞典』も『新中国料理大全』も艾を、東江流域に住む客家独自の行事食で、清明節に不可欠だとしている。55日と清明節、どちらも年中行事の最たるものである。年に数回の節供とヨモギモチをつくるということが中心に据えられて、暖かい地方では早い時期に、寒い地方では遅い時期にと対応していったのかもしれない。

結 局、調査の及んだ範囲では、『遼史』のみが中国においてヨモギモチをつくる記録をしていた。渤海が現在の東北地方や北朝鮮、ロシアに及ぶ地域だったことを 考えると、阪本作成の表が示す「モチ文化が顕著に見られた地域」からは外れることになり、「モチ性穀類分布圏」の北端で特異的にヨモギモチを作る文化が存 在していたことになる。ヨモギの生息域が渤海領内に限られているわけではないから、もっと大陸中に見られてもおかしくないはずなのに。

渡部・深澤[43]は中国のモチ米文化を総括して次のように言う。

 結論的 にいってよいと思うが、中国では四川盆地などを含めて雲南、貴州、広西壮族自治区などの西南の一帯にモチイネの栽培が最も卓越し、モチ米の伝統的食品が多 様である。しかし、その細部になると、それぞれの少数民族の状況などを含めていまだ詳しく知られていないことも多い。

あるいは今後も研究・調査が進めば、大陸東アジアにおけるヨモギモチ文化の時間的および空間的拡がりが解明されるであろう。

以上のことから、中国で古くは靺鞨人がヨモギモチをつくる文化を有するのみで、現代は広東省の客家の人々が行事食としているだけであることがわかった。また今日の韓国では、かつて靺鞨人が行っていた55日の風習がほとんど変わることなく伝承されていることがわかった。



4 まとめ


 日本全国で一般にヨモギと呼んでいる植物は、植物学上間違った名である可能性をはらんでいた。ヨモギ以外のヨモギ属の近隣種をヨモギと呼んでいることがあるからだ。日本にはヨモギとかなり近隣の種がヨモギを含めて
3種ある。また、中国・朝鮮半島にもヨモギとされる種は多く、日本の3種もその中に含まれる。こうした歴史と種の地理分布からすると、ヨモギ属の近縁種をひとまとめにヨモギと見ることに問題ない。

ヨモギ草餅のルーツを究明する検討は、まず中国の『荊楚歳時記』に記載された龍舌{米+半}を起点に始まった。龍舌{米+半}とはハハコグサのモチで、33日の行事食であった。これが日本に伝わり、「」 の名で『文徳実録』に記録を残す。しかし日本ではヨモギを使う方が好まれ、草餅の草とはもっぱらヨモギを指すようになっていった。「餻」は過去から現在に 至るまで、中国語で草餅を指すわけではない。しかし『文徳実録』においては誤りではないという特例で通っているのである。

日本では33日にヨモギ餅をつくる風習は定着し、現在では菱形に切るなどその土地土地で多様なバリエーションが見られるようになった。行事食以外にも日常食でヨモギを使った餅が、江戸時代には一般的になっていた。

日本ではこれほどに一般的なヨモギ餅であるが、中国にはヨモギモチの古い記録を一件しか発見できなかった。『遼史』の「艾餻」がそれだ。遼ではなく渤海で55日にヨモギ餅を作る習慣があった。今ではその習慣の伝承されたものを韓国に見ることができる。調査が及んだ範囲内にすぎないが、古今の日中韓で55日にヨモギモチの風習があるのは、渤海と韓国のみなのだ。
 

今の中国においては、東江流域の客家が清明節の行事食でヨモギモチをつくる。西南部や四川地方などのモチ文化が盛んな土地での調査によると、ヨモギモチが食べられている記録はなかった。僭越ながら今後の調査・研究を期待するばかりである。

ほかにも本稿ではいくつか未解明問題を残した。しかし「ヨモギ」と「モチ」にまつわる東アジアの民族文化と行事食の歴史に一端ながら新たな光当てることができただろう。

参考文献と注

[1]北村四郎ほか著『原色日本植物図鑑草本T』51-57頁、保育社、大阪、1957
 

[2]佐竹義輔ほか編『日本の野生植物草本V合弁花類』168-174頁、平凡社、東京、1981
 

[3]『朝日百科世界の植物』66頁、朝日新聞社、東京・大阪・名古屋・北九州、1978
 

[4]北村四郎「艾」『北村四郎選集U 本草の植物』191頁、保育社、大阪、1985
 

[5]牧野富太郎「蓬とヨモギ」『植物一日一題』112-114頁、博品社、東京、1998
 

[6]寺井泰明「「蓬」「蒿」「艾」と「よもぎ」」『和漢比較文学』第432-42頁、198811月。
 

[7]寺井泰明『花と木の漢字学』「〈四月〉転がる「蓬」」67-86頁、大修館書店、東京、2000
 

[8]渡部忠世・深澤小百合「草餅と菱餅」『もち(糯・餅)』255-257頁、法政大学出版局、東京、1998
 

[9]藤沢衞彦『図説日本民俗学全集八巻 年中行事編』256頁、あかね書房、東京、1961
 

[10]亀井千歩子「草餅」『日本の菓子祈りと感謝と厄除けと』80-85頁、東京書籍、東京、1996
 

[11]『増補六国史第八巻・文徳実録』13頁、朝日新聞社、東京・大阪、1941

[12]
守屋美都雄訳注布目潮渢・中村裕一補訂『(東洋文庫324)荊楚歳時記』記事番号24、平凡社、東京、1978
 

[13]篠田統『米の文化史』7677頁、社会思想社、東京、1970
 

[14]池田敬八発行『箋注倭名類聚抄』第445葉オモテ、朝陽会、東京、1883
 

[15]前掲文献[14]43葉オモテ。
 

[16]古川瑞昌「言葉の伝播」『日本食文化体系第19巻 餅博物誌』、東京書房社、東京、1986
 

[17]前掲文献[8]211-213頁、「ことばと伝説」。
 

[18]前掲文献[10]33-39頁、「餅」。
 

[19]安室知「まえがき」『餅と日本人』iii-v頁、雄山閣出版、東京、1999

[20]阪本寧男「日本におけるモチ文化とモチ米食品」『モチの文化誌』75-83頁、中公新書947、中央公論社、東京、1989
 

[21]正宗敦夫編纂『本朝食鑑(上)』243頁、日本古典全集刊行会、東京、1933
 

[22]『本朝食鑑』は『倭名類聚抄』より後の成立ながら、「艾訓与毛木(よもき)或曰毛久佐(もくさ)」とある。
 

[23]『聞き書ふるさとの家庭料理5 もち雑煮』18101109140158頁、農山漁村文化協会、東京、2002
 

[24]平野雅章訳『原本現代語訳(131)料理物語』185186頁、教育社、東京、1988
 

[25]諸橋轍次『大漢和辞典』6270頁、大修館書店、東京、1968
 

[26]前掲文献[25]、柚梧:竹の名。
 

[27]江原恵『料理物語・考−江戸の味今昔−』209頁、三一書房、東京、1991
 

[28]元・脱脱等撰『遼史』第3878頁、中華書局、北京、1974
 

[29] 926年の間違いだと思われる。
 

[30]下中邦彦『小百科事典』1487頁、平凡社、東京、1973
 

[31]前掲文献[30]1295頁。
 

[32]前掲文献[12]、記事番号31
 

[33]前掲文献[12]、記事番号29
 

[34]『本草綱目』上冊545頁、商務印書館香港分館、香港、1930
 

[35]原田治総監修『中国料理辞典上巻』261頁、同朋社、東京、1999
 

[36]金渙『韓国歳時記』「端午」、明石書店、東京、2000
 

[37]前掲文献[21]128-133頁、「モチ文化の起源と伝播」。
 

[38]前掲文献[37]291-292頁。
 

[39]『新中国料理大全(三)』127171頁、小学館、東京、1997
 

[40]前掲文献[26]8917頁。
 

[41]前掲文献[20]102-107頁、「四川盆地のモチ米利用法」。
 

[42]前掲文献[20]108-112頁、「モチ米が主食の中国西南部」。
 

[43]前掲文献[8]104頁。