―趙樹理作品「霊泉洞」の意味―
98L1022L 大野 大地
目次
序章 研究論文の目的と意義
第1章 趙樹理の人物的背景
(1)趙樹理略歴
(2)共産党との出会い
(3)教員という職業との出会い
(4)「文化大革命」期の趙樹理
第2章 趙樹理作品の特徴
(1)農民・人民大衆が読者であることを前提とする作品創作
(2)各時期の共産党のイデオロギー・政策と作品の関係
(3)作品内に数多く登場する共産党員の描写
(4)趙樹理の教育者的側面
第3章 趙樹理作品「霊泉洞」の意味
(1)「李家荘の変遷」と「霊泉洞」のあらすじ
(2)「李家荘の変遷」と「霊泉洞」における共産党員の描かれ方
(3)「霊泉洞」が発表された当時の時代背景
(4)当時の趙樹理の行動
(5)趙樹理作品「霊泉洞」の意味
付章 「霊泉洞」以降の趙樹理
終章 まとめ
注釈及び参考文献
趙樹理論
―趙樹理作品「霊泉洞」の意味―
98L1022L 大野 大地
序章 研究論文の目的と意義
今回中国当代に活躍した作家趙樹理に関する論文を執筆するにあたり、事前に述べておきたいことをこの章では扱う。
まず、なぜ趙樹理という作家に興味を持ち、研究をおこなうことにしたかについてであるが、きっかけは単純なものであった。趙樹理の出世作「小二黒結婚」を読んでみて、作品中に見られるユーモア溢れる文章と、抗日戦期という悲壮な時代の作品であるにもかかわらず、物語の中では明るさに満ちているという作風に魅了されたのである。それから趙樹理の他の作品にも興味を持ちはじめ、読みすすめる過程で、それらの作品を通じて共産党と関係が深いとされる作家趙樹理と、共産党との関係はどういうものであったかについてまで興味が広がり、今回の研究論文のテーマとするに至った。
次に趙樹理に関しての先行研究についてであるが、これは日本・中国双方に多々論文が見られる。その論文の種類としては趙樹理の作家人生、全てを論じているものから部分的な時期を論じているもの、また趙樹理の作品1つを論じた作品論、と多様である。そして大筋の作家趙樹理評としては、農村を大切にする人民作家であり、「文化大革命」期に理不尽な迫害を受け非業の死を遂げた人物、となっている。
今回の研究では、趙樹理の作品「霊泉洞」についての作品における特徴などの分析を主におこない、それを通じて趙樹理という人物について、また共産党との関係、作品を書くにあたってどのような考え方を持ち、どのような意味を持たせたのか、について考察していく。なお、調べた範囲ではこの「霊泉洞」を題材にとった論文は日本にはなく、中国においても細かい分析を加えたものはない。
なお、本稿で使用した漢字は、一律に常用漢字・人名漢字のJISコード文字を用い、それらにない字は正字に改め、また文献・論文の著者の敬称は省略した。
第1章 趙樹理の人物的背景
まず趙樹理という人物について研究をするにあたり、その生い立ちや経歴を知らなければならない。しかし、趙樹理の生涯は長く、全てを細かく見ていく余裕はない。そこで、ここでは自分が重要だと考えられる事柄を抜き出し、その他の事柄については軽く触れる程度に留めておくことにする。よって、趙樹理略歴・共産党との出会い・教員という職業との出会い・「文化大革命」期の趙樹理、以上の順序で述べていく。
(1)趙樹理略暦(1)(2)122331)(2)
趙樹理(1906〜1970)は山西省沁水県尉遅村に少々の土地を持つ中農の家に生まれ、幼い頃から民間芸能に親しんだ。11歳から私塾に通い、14歳で村の高級小学校、19歳で山西省立第4師範学校初級中学に進学。3年後に放校処分になるまで、近代思想や国内外の文学を学んだ。この期間に趙樹理は1度目の共産党入党を果たしている。放校後、様々な職業についたが、共産党残存分子の嫌疑で2年間収監、釈放後また職業を変えながら流浪し、1937年共産党に再度入党、さらに犠牲救国同盟会にも入会した。1943年、「小二黒結婚」、「李有才板話」を発表、毛沢東の『文芸講話』(3)に沿った最初の作品として称賛される。抗日戦終了後、「李家荘の変遷」を執筆。中華人民共和国が成立すると、中華全国文学芸術連合会(4)の常任委員となり、また大衆文芸創作研究会の機関誌『説説唱唱』の編集にもあたる。1951年から山西省太行山地区に2ヶ月滞在、また長治専区やその他2つの村で合作社創設の工作に協力するなど大衆の中に入りこみ、1953年「三里湾」の執筆を開始、1955年に完成させた。その後も「霊泉洞」(未完)、「鍛錬鍛錬」などの作品を書き、1962年中国作家協会が開いた『農村を題材とする短篇小説座談会』において、「提唱すべき方向だ」と推賞されるが、2年後の1964年、『中間人物描写論』(5)の開祖として批判され、さらに2年後の1966年、周揚らを頂点とする文学体制の崩壊に伴い、さらに激しい批判・攻撃を浴び、1970年厳しい迫害によって死去。その死は8年間発表される事はなかった。
(2)共産党との出会い
趙樹理文学において共産党は決して欠かす事の出来ない存在である。彼の小説の中には必ず共産党員が登場し、大衆を指導するなど、なんらかの役割を果たす。では、このような趙樹理にとって切り離せない存在である共産党とのつながりはいつ、どこで、どのように生まれたのか。略歴でも述べた通り、彼が共産党に最初に入党するのは山西省立第4師範初級中学在学中である。ここで趙樹理は五四文化運動を経験し、その中で師範学校の校長排斥運動に参加し、勝利を手にする。この運動のメンバーが共産主義者であったことから、彼がこの時期に共産党に少なからず関心を持っていたことがうかがえる。よってこの事件の前に趙樹理が共産党に入党していたかどうかは定かではないが、その前後に入党していたということはいえるであろう。この事件後、趙樹理は4.12クーデターの余波をうけて国民党とつながりのある地方軍閥閻錫山に弾圧され、共産党主義者の残存勢力の嫌疑で逮捕、投獄される。しかし、趙樹理はその後1937年に共産党再入党を果たしている。この事実から、逮捕・投獄体験にも関わらず共産党に対する趙樹理の思いや熱情は消えうせる事が無かったということが推測でき、さらに趙樹理と共産党のつながりは、その初期から強固であったといえよう。
(3)教員という職業との出会い
趙樹理の作品の中には大衆を啓蒙、指導するような人物が数多く登場する。それは共産党員であったり、大衆の中の先進人物であったりと様々であるが、彼らの行動の中に作者である趙樹理の思想や信念が反映されていると考えられる。では、この趙樹理の大衆に対する思想や信念はどのように形成されたのであろうか。まず第1にはすでに述べた山西省立第4師範初級中学在学中における新文学や新思想・プロレタリア文学・大衆文学との出会い、以上の点が挙げられるであろう。そして2番目として教員という職業を経験したことが影響していると考える。略歴で述べた通り、趙樹理は共産党残存分子の嫌疑で逮捕収監され、釈放後様々な職業についたが、その中に教員も含まれていた。しかしこれだけでは様々な職業の1つとして教員になったという可能性もあり、趙樹理と教員という職業のつながりの強さを強調する材料にはならない。ではこの他の材料はないのか。じつは趙樹理と教員という職業の出会いは、これ以前にすでにあった。それは、趙樹理が閻錫山に弾圧され、学校を除籍された直後で、趙樹理は沁水県の小学校教師募集に応じ、城関(もしくは西関)小学校というところに赴任しているのである。これがさまざまなものに触れた学校生活の直後である事、さらに釜谷修が論文「“自殺未遂事件”覚え書き 1930年代前半の趙樹理」の中で、「3年に満たない四師での学生生活、その後の断続した教員生活とそれにからみつくような形で開始される創作・評論の執筆」(6)と記述している。以上のことから、教員という職業が趙樹理の思想、信念に大きな影響を与えたのではないか、という推測ができると考える。
(4)「文化大革命」(7)期の趙樹理
趙樹理が人生の幕を閉じるのは「文革化大革命(以後文革とする)」期であり、この老作家を死に至らしめたのは、その「文革」期の迫害である。ではなぜ趙樹理は「文革」期に迫害を受けなければならなかったのか。迫害を受けた原因と考えられるものは幾つかある。例えば反党、共産党の政策を批判する言動が多々あったこと、また当時批判された「中間人物描写論」の開祖的な存在とみなされた事などである。しかし、これらのことは現在の視点で見たならば、ほとんどが趙樹理の真意を汲み取る意思を見せず、表面だけをとらえ、批判を加えていたことは一目瞭然である。そして、もし他の作家が趙樹理と同様の立場、類似した作品を発表していればその作家が迫害、弾圧されていたであろう。つまり、当時の情勢としては特定の作家ではなく、ただ作家を弾圧・迫害することが目的で、趙樹理はその流れにまきこまれてしまったといえるだろう。ただ、確かに趙樹理には迫害の口実になりやすいような言動、行動があったのも事実である。彼は迫害、弾圧を受けているさなかにも党に意見することを止めなかった。さらに彼はこのような激しい迫害を受けているにもかかわらず、死の間際に毛沢東の詩「梅を詠ず」を写し書いている。
第2章趙樹理作品の特徴
当代の作家である趙樹理は数多くの作品を世に生み出した。では、その作品はどのような特徴があるのであろうか。一般的には大衆芸能の伝統形式を用い、随所にユーモアをちりばめ、さらに口語体(話し言葉を用いた文体で、趙樹理はさらに農村特有の言い回しなどを多用している)の文章を書く、以上の点が特徴として挙げられている。この章では主にそれ以外に特徴として考えられること、主に各時期のイデオロギー・政策と作品の関係、また作品内に数多く登場する共産党員の描写、趙樹理の作品内における教育者的側面を発表された時期の違う趙樹理の作品の幾つかを用いて挙げていこうと思う。しかしその前に趙樹理作品の大前提、農民・人民大衆に読んでもらうための創作、この部分に触れておく。作品を用いた考察はその後に述べることにする。
(1)農民・人民大衆が読者であることを前提とする作品創作
私は文壇に登りたくない、文壇文学者にはなりたくない。私はただ“文攤”(路傍などに本を並べて売る露店)をやりたい、小冊子を書き、それを芝居唄の本を売る露台の敷物にはさんで縁日に出かけていく。銅貨3、4枚で一冊買う事ができる。こうして一歩一歩と古くさい芝居唄の陣地を奪いとっていく。そんな“露店の文学者”になること、それこそ私の願いなのだ(8)
これは釜屋修の著書『中国の栄光と悲惨−評伝趙樹理』の中にある趙樹理の言葉である。趙樹理は第1章でも述べたとおり、農村の出身である。そのこともあり、農民・人民大衆に非常に近い位置にあった作家と位置付けることが出来る。そしてその近さゆえに、農民・人民大衆に対する愛着も多大であったに違いない。先に引用した文章でもわかるように、趙樹理は自分の作品の読者が農民・人民大衆であることを希望している。そして、そのことは最初に述べたように趙樹理作品において大衆芸能の伝統形式の使用、ユーモア溢れる作風、口語体の文章が一般的に特徴として挙げられていることからもわかる。なぜならこれらの特徴は農民・人民大衆が好むものだからである。つまり、ここまで述べてきた趙樹理作品の特徴は、農民・人民大衆に読んでもらうことを前提にしたがゆえに生まれてきたのである。最後に、もうひとつ趙樹理の言葉をさきほど挙げた釜屋修の著書の中から引用しておく。
“しかれども”は耳なれないから“しかし”と書く、“ゆえに”は少し硬いから“だから”と書いた。うまい単語に書きかえてやらないと彼らは読みたがらない。単語がこうだから文章もまた同じ事情で…できるかぎり大衆の習慣を考慮した。大衆がスト−リィを聞きたがるのでスト−リィ性を強めたし、首尾一貫した話を聞きたがるので趣向を凝らすためにスト−リィを斬りきざむということをしなかった。(9)
それでは、そのほかの趙樹理作品の特徴についての考察にうつる。
(2)各時期の共産党のイデオロギー・政策と作品の関係
人民作家趙樹理が最初に世の人々の知るところとなったのは「小二黒結婚」という作品を発表した事を契機とする(「小二黒結婚」は舞台化により多くの人々に知られていく)。「小二黒結婚」は当時発表された文学の方向性を示す毛沢東の『文芸講話』に沿った最初の作品とされた(ただし「小二黒結婚」執筆時に趙樹理は『文芸講話』の影響は受けていない)。当時とは1943年、抗日戦争の真っ最中であり、この時期に作家趙樹理は生まれたといえよう。まずは趙樹理が世の人々に知られる契機となった記念すべき作品「小二黒結婚」と、1943年のもう1つの代表作「李有才版話」を用い作品と時代背景の関係について考察していこうと思う。まずはこの2作品のあらすじから述べたい。
「小二黒結婚」のあらすじ
とある村に2人の人物がいた。1人は二孔明(二諸葛)と呼ばれ、もう1人は三山姑と呼ばれていた。二孔明には小二黒という村でも評判の美男子の息子がいて、また三山姑にも美人の娘小芹がいた。2人はお互い愛し合うようになるが、二孔明は占いでよい結果が出なかったということで、また三山姑は自分が小二黒に興味があるということで2人とも勝手に子供達の結婚相手を決め、2人の結婚を邪魔する。さらにそこに小芹に惚れこんだ村の権力者金旺兄弟も絡み、さらに妨害は激しくなるが、最終的に区役所の区長が、2人が愛し合い、結婚する事は法律上何の問題もないと結論を下して、ふたりはめでたく結婚することになった。
「李有才版話」のあらすじ
物語の舞台となるのは農村閻家山で、この村には元来その土地に住んでいた者達とよそからきた者達がいる。両者は対立し、よそから来た者達は地元の者の有力者閻恒元とその一味を恨んでいる。ある日この村で閻恒元の息のかかった前村長の辞任による選挙が行われるが、新任の村長もまた閻恒元の手先で、彼らは自分達に都合のいい土地測量を行い、それを告発した李有才を追放する。その後も閻恒元は反発するよそから来た者達の中の代表的な人物をうまく仲間に取りこみ、好き放題のことをやっていたが、ある日、共産党員である楊同志がやって来て(この村には元々章という共産党員がいたが、彼は閻恒元の本質を見ぬけなかった)、閻恒元一味の悪事を摘発し、打倒する。追放されていた李有才も村に戻り、彼が得意とする「快板(事件や出来事、特定の人物についてなどを語呂のよい歌にすること)」で村全体の喜びをあらわし、物語は終わる。
まず「小二黒結婚」の中から幾つかの叙述を抜き出して実際の時代背景と照らし合わせ、考察していこうと思う。ちなみにこの作品の中には年代を表す直接的な記載はない。では最初に次の一文を見てみる。「抗戦初年、漢奸敵探潰兵土匪到処横行(中略)後来八路軍来、打?潰兵土匪」(10)以上の文章は抗日戦当初からこの物語の設定の年まで村がどういう経緯を辿ってきたかを表している。この作品が1943年発表であることと抗戦初年と書いてある事から、「小二黒結婚」の設定年代はその間の期間であることがわかる。また、八路軍(共産党の軍隊)が来たと書いてある事から村が共産党勢力内かそれに近い立場にあるということが推測される。さらにもう一文見てみる。「別的大村子都成立了村公所、各救会、武委会」(10)この文章は舞台となる村以外の村には村役場や救国会、武装委員会が出来ている事を記し、舞台となる村にも同じ事が要求されたという文章が後に続く。そして、石山紀之の著書『中国抗日戦争史』の中に、
中国共産党は(中略)1941年11月7日(中略)主力兵団を地方化し、地方武装を大衆化し、大衆武装を発展させ(中略)この方針にしたがって各解放区では、大量の民兵《生産から離脱しない大衆的武装組織》が村ごとに組織され(11)
と記述がある。この記述の内容をもとに考察すると、村の周りは共産党勢力内で、さらに当の村もその中に入ろうとしている事がわかる。最後にもう一文見てみる。「直?説去那里?就去那里、到辺区政府?也不能把誰怎?祥!」(12)この文章は逮捕されそうになった小二黒が金旺兄弟に向かっていう言葉である。先の文章で辺区(抗日戦時代の中共地区)へ行けば、と言っている事から、村が完全に共産党統治区になっていない事が推測される。さらに共産党地区では悪業は出来ないといっていることから、共産党に対する好印象を与えようとする作者の意図が見られる。趙樹理が共産党員であったこと、読者の対象を農民・人民大衆にしていたことから考えると、「小二黒結婚」は当時の共産党の農民・大衆を味方につけるといった考え方を反映した作品とみることも出来るだろう。また、小説の内容外の事を述べれば、「小二黒結婚」は実際に起こった事件(13)をモデルとしている。その事件はこの作品の発表年と同じ1943年に起きていることから、「小二黒結婚」の時代設定は1943年であるといえる。
次に「李有才板話」においても同様の方法で考察していく。ちなみに、この小説の中にも年代を表す直接的な記載はない。ではまず一文を見てみる。「可是現在的新政府不比旧衛門、有銭也花不進去」(14)これは政府に捕えられた前村長喜富が自分のことをばらすことを心配した、閻恒元の言葉である。先の文章で述べている「新政府」とは共産党の政府であり、「旧政府」とは国民党の政府であろう。「旧政府」には賄賂が通用したという表現があるが、実際に、「急激なインフレーションの進行によって(中略)1942年には(中略)多くの官吏は家族をやしなうために汚職に手をそめた。」(15)と記述される状況があったことから、「旧政府」は国民党であった可能性が高く、また、「李有才板話」の時代設定も作品が発表された1943年までの抗日戦争の時期である事が推測される。さらにもう一文見てみる。「第一是確実執行減租(中略)第二是清丈土地(中略)第三是成立武委会発動民兵」(14)
この文章は「新政府」が閻家山の村長に出した指令である。以上の文章を考察する為に、さらに2つの文章を挙げる。「中国共産党は広範な民衆を危機克服にむけて積極的にたちあがらせるために、1942年から減租減息運動を各根拠地で全国的にくりひろげた。」(16)
また先に引用した、
中国共産党は(中略)1941年11月7日(中略)主力兵団を地方化し、地方武装を大衆化し、大衆武装を発展させ(中略)この方針にしたがって各解放区では、大量の民兵《生産から離脱しない大衆的武装組織》が村ごとに組織され(11)
以上の2つの文章を用い考察すると、先の「新政府」の指令について述べた文章は、「李有才板話」の時代設定が1942年から1943年までの間で、なおかつ「新政府」が共産党の政府であることを証明する一文である。このように考え、もう一度初めの一文を見てみると、「李有才板話」も作者趙樹理が共産党と国民党を比較し、読んだ者が共産党に好印象をもつような書き方をしている。先に述べたのと同様、趙樹理が読者の対象を農民・人民大衆に設定している事、時代設定が1942年から1943年の期間であった事から考察するに、この作品も多くの農民・人民大衆を味方につけようとしていた当時の共産党のイデオロギーを反映した作品といえるだろう。また、これまで考察してきた2つの作品はどちらも年代を表す直接的な記載はない。しかし2作品とも作品を書いている時期と、物語の時代設定が同じである事は明白である。この事が逆にわざわざ記載しなくても、趙樹理は小説を書いている当時の出来事を書くことが当然である、という印象を与える。
さらに次は趙樹理が国民党と共産党が中国の支配権をめぐる内戦をおこなっていた時期に書いた作品、「福貴」について考察していく。
「福貴」のあらすじ
とあるむらに福貴という人物がいた。彼は若い頃は良く働き、さらに芝居の役者としても名人で、村では好青年で通っていたが、彼の母が自分が死ぬ前に息子の結婚が見たいといい、彼は銀花という娘と式を挙げた。さらにその後母が亡くなるとその葬儀を行った。この2つの式を行った結果、福貴はどんなに働いても利子すら満足に返せないほどの莫大な借金をする。その借金をした相手は、同じ一族である王老万であった。働いても働いても借金が返せない福貴は、通常人がやりたがらない死体運びなどの仕事に従事し、さらに盗みや博打などにも手を染めた。そして福貴は忘八(どうしようもない人間)と言われ始め、一族の汚点になると考えた老万と同族の人々は彼を殺そうとし、福貴はその手から辛くも逃れる。やがてこの村は共産党の統治下になり、福貴も村に戻ってきて、自分を悪人にしたのは誰であるかと王老万に問いかけ、自分の人間としての尊厳を主張する。
ここでも先ほどと同様の方法で見ていくことにする。また、「福貴」にも先に挙げた2作品同様、年代を表す直接的な記載はない。まず次の一文から見てみる。「直到去敵人投降以後、八路軍開到」(17)この文章中にある敵とは誰をさすか。共産党には敵は2つあった。すなわち日本と国民党である。しかし、「福貴」が書かれたのは1946年8月31日でその時国民党はまだ共産党と闘っていた。つまり先の文章中でいう敵というのは日本をさし、去年というのは1945年日本降伏の年を指す。以上で書かれた年と物語の時代設定が一致していることが確定する。さらに次の3つの文を見てみる。
直到好多的受苦受難的正派人翻身以後(18)
解放区早就没有忘八制度了(19)
昨天跟区上的同志商量了一下、打算把?村里廟産給?撥几畝叫?種(19)
この3つの文章(2つ目は福貴の言葉である)は、共に読む者にとって共産党が好印象に映るような文章である。さらに3つ目の文章については野村浩一の著書『蒋介石と毛沢東』の中に、
抗戦中、減租減息政策によって根拠地を維持、拡大してきた共産党は、46年春頃から新たに勢力下に入ったいわゆる「新解放区」において、土地分配を開始した(20)
という記述があることから、実際の共産党の政策と合致していることがわかる。さらに、最初に引用した文章と合わせて見ると、この村が「新解放区」であるということもわかる。
以上のような文章は前の2作品にも登場している。しかし、「福貴」が書かれた時期においては、前の2作品の時期よりも農民・人民大衆を味方につけるという問題は切実である。なぜなら、今回の敵(国民党)は同じ中国人であり、国民全体が最初から敵と認識していた外敵日本軍ではないからである(ただ中国人の中には日本軍に味方する人々もいた)。よよって、人々には選択肢があった。そういった意味で、「福貴」の舞台は、当時共産党が増やしていくべき区域である「新解放区」とし、共産党の具体的な政策である土地分配を提示し、好印象を与えるような文章を書いた。そしてさらに趙樹理は「福貴」において農民・人民大衆に人間としての目覚めを促し、より多くの味方を得ようとしていると考える。以上のような考え方の中には、農民・人民大衆は目覚めたならば共産党を選ぶという、共産党の政策に対する「共産党員」趙樹理の自信が含まれているとの見方も出来よう。
最後に共産党が中華人民共和国を建国した後の作品、「態度決定」について述べたいと思う。「態度決定」は、もともと映画の脚本として1951年に書かれ、後の1956年に発表された。またすでに挙げた3作品とは異なり、「態度決定」には1951年という明確な時代表記が見られる。
「態度決定」のあらすじ
太行山区に王永富という貧農の共産党員がいた。彼は抗日戦の頃には新しい農作業の方法を考案するといった村の中でも目立った先進人物であったが、自分が豊かになると心の狭い女房の影響もあり、進歩的な考え方をする事をやめてしまう。そして青年団員で互助組に加わっている彼の息子小春と、その女房臘梅(永富の同僚李五の娘)が共産党の会や互助組に出るのを嫌うようになり、共産党の幹部との関係も悪化する。小春と臘梅はなんとか永富を「思想改造」しようとするが、うまくいかない。ある日、村で武装会議を開く事になり武装主任である永富は会議を開くが、共産党から離れかけている永富はまともな会議が開けず、県からきた幹部を怒らせ、武装主任を辞めさせられる。この事件で彼は気を病み、寝こんでしまう。しかし、永富が尋ねてくる人もなく、1人で自分のこれまでを顧みるための時間をもつ。この1人の時間が契機となり、彼は「思想改造」し、村の人々も永富の「思想改造」を歓迎する。
例によって一文を見てみる。「几十石糧食買来个好牛叫給大家支差!互助対?有什?好処?」(21)この文章は永富とその女房が自分達の財産を他人のために使うことに対して難色を示している様子がよく分かる文章である。この文章は、宇野重昭が著書『中国共産党史序説・下』の中で、「農民が、はたして自分のものとなった土地を、喜んで集団的所有に提供するかどうかは、大きな疑問」(22)と述べている状況に対する、農村を見てきた趙樹理の答えであるように思う。今引用した文章と同様の疑問は、共産党指導部の人々も持っていたであろう。その疑問に対する答えを趙樹理は物語の中で表現したのである。続けてもう一文見てみる。「発動全村団員和青年積極分子人人参加互助組」。(23)この言葉は臘梅が青年団員の会においての発言であり、村では互助組の発展を促進させる意志が強いことを如実に表す文章である。臘梅の発言のような文章が出てくるのは、「態度決定」が1951年の山西省の農村を舞台にしている事を考えれば当然であろう。なぜなら、「農村における互助組織の一歩前進を最初に提唱したのは、1951年7月、中国共産党山西省委員会であった」(22)という事実があるからである。さらに、「51年11月の中国共産党中央委員会会議は、農業生産の互助合作を進めることを正式に決定した」(24)とあることからみても、臘梅の発言のような文章が、当時の共産党の考え方を反映しているものということが出来る。
もうすこし先に挙げた農村の互助組に関する2つの文章について、当時の中国の事を書いた1つの文章を挙げて、さらに考察していくことにする。
互助合作の推進となると、下層中農や、すでに土地を獲得した貧農層にも、抵抗感はありうる。こういった場合、土地の私有意識の成長する前に積極的な手を打つよう、上からの強力な指導の必要性が生ずる(24)
以上の文章はまさに「態度決定」のテーマと一致する内容ではないだろうか。つまり趙樹理はこの文章にある強力な指導を「態度決定」という作品でおこなったと見ることが出来る。よって「態度決定」は共産党のイデオロギー・政策の反映が前に挙げた3作品よりもはっきりしているといえよう。さらに物語の主人公が農民・人民大衆ではなく、腐敗した共産党員であることも前に挙げた3作品とは異なる。
(3)作品内に数多く登場する共産党員の描写
(2)の最後に腐敗した共産党員を主人公にした物語を挙げたので、ここで趙樹理作品の中に数多く登場する共産党員の描写を各時期の作品の中から抜き出してみていこうと思う。なお、今回も前に挙げた4作品を用いて考察していくことにする。
まずは「小二黒結婚」であるが、物語中に登場する共産党員としては、小二黒と小芹の自由結婚を認めた分別のある区長が登場している。「小二黒結婚」には区長の他には目立った共産党員の姿は無い。「小二黒結婚」において、共産党員の登場が少ないという事実は、この作品が毛沢東の『文芸講話』の影響を受けずに書かれたことにより、まだ共産党の望む文芸路線に組みこまれていないからであろう。
かたや、「小二黒結婚」と同年に発表された「李有才板話」には2人の対照的な共産党員が登場する。1人は村の権力者に簡単に騙されてしまう見聞の広くない、共産党からみれば模範とはされないであろう共産党員章工作員である。もう1人は村の農民・人民大衆の側に立ち、農民救国会という組織を彼らに浸透させ、農民・人民大衆の団結により権力者と闘える力をつけるように、彼らを導いていく模範的な共産党員楊工作員である。
また国民党と共産党との内戦期に発表された「福貴」の中には固有名詞は存在しないが、どうしようもない人間というレッテルを貼られた福貴の話に、彼、つまり農民・人民大衆の側に立って積極的に耳を傾けている区の幹部の姿が描写されている。
最後に中華人民共和国建国後に創作された物語「態度決定」では、前に述べたとおり、自分の利益を最優先に考えるようになったことによって共産党と距離を置き、腐敗したと見なされてしまった共産党員永富が登場する。さらに「態度決定」には、当時の共産党の政策である互助合作を忠実に実行しようとしている、共産党から見れば模範というべき共産党員が、永富の息子夫婦小春と臘梅を筆頭に数多く登場している。
今回挙げた4作品の中では「李有才板話」と「態度決定」が、共産党から見て模範的な共産党員と非模範的な共産党員を対比させる意図で登場させる点において類似しているということが出来るであろう。さらに前出の4作品以外に、自由結婚の問題を書いた1950年発表の作品「登記」(25)にも腐敗していると見なされるであろう共産党員の姿が描かれている。
(4)趙樹理の教育者的側面
(3)の最後で述べたように、趙樹理作品の中には模範とされるであろう共産党員だけを描くのではなくて、それとは対称的な共産党員も描かれている。以上の事を契機に、「李有才板話」における模範と見なされるであろう共産党員楊工作員と、その反対の立場にある章工作員を物語に登場させた意味を主として考察し、それを通じて趙樹理作品の特徴と考えられるものを模索したいと思う。
まず楊工作員を登場させた意味である。これからは2つの事が考えられる。1つは当時の共産党員の指導、教育のため、もう1つは農民・人民大衆に対する指導・教育のため、である。前者においては後に章工作員を登場させた意味と合わせて考察していくことにして、まずは後者について考えていく。
前にも述べたとおり、楊工作員は「李有才板話」において農民・人民大衆を指導・組織し、巨大な権力と闘える力を備えさせた。楊工作員のような人物を描いた理由の1つには、毛沢東の『文芸講話』によってしるされた共産党が求める文学作品の路線、この路線が深く関わっていると考える。
速やかに受けいれることができる文化的知識と文芸作品を以って彼らに普遍的な啓蒙運動を行い、彼らの闘争の情熱と勝利の確信を高めさせ、彼らの団結を強め、彼らを心をひとつにして敵と闘争させることである(毛沢東集第2版第8巻 P114)(26)
以上の文章があること、さらにすでに述べたことであるが、「李有才板話」が『文芸講話』以降に書かれた作品であることから、『文芸講話』路線が、楊工作員の登場に関係しているといえるであろう。そして趙樹理は、「李有才板話」において教育・指導の役割を果たす人物として、共産党員である楊工作員を登場させた。
しかし、趙樹理が楊工作員を登場させた理由はただ『文芸講話』路線に従っただけなのであろうか。牧戸和宏は論文「趙樹理『小二黒結婚』と毛沢東『文芸講話』」の中でこう述べている。「現実の中国農民は、毛沢東が説いたような、そのような存在では、なかったのではないか。(中略)趙樹理の方は、農民を見る目が毛沢東とは相当違っていたと言える」。(27)以上の論には大いに賛成である。当時農村の中に入りこんで農民・人民大衆と接していた趙樹理と毛沢東の視点が違っていたとしても不思議ではない。趙樹理と毛沢東の視点の相違から考察するに、趙樹理が描いた楊工作員の姿には『文芸講話』路線の影響以外に、彼独自の農民・人民大衆に対する教育・指導観が含まれているのではないかと考える。そこには第1章で述べた、教員という職業を経験したことで得た思想が影響しているのではないか。
次に章工作員を登場させた意味について考察していく。ここでは先に述べたように楊工作員を登場させた意味と絡めて考えていく。章工作員は「李有才板話」の物語の中では、農村に対する知識不足から、村の権力者に簡単に騙されてしまう。つまり、共産党からみれば、楊工作員は非模範的な共産党員なのである。牧戸和宏は論文「趙樹理『李有才板話』の李有才」において章工作員を、「作品の読者に対して、『反面教師』の役割を果たさせようとして設定した人物」(28)と見なしている。楊工作員は「反面教師」であるとする牧戸の論に従えば、趙樹理は、章工作員を見て模範的ではないと感じた読者に模範的共産党員楊工作員を見せることによって、共産党員が自分達で模範的な共産党員になるためには、いかに行動すべきかを考えさせるといった教育・指導をおこなったと考えられる。つまり、彼らが模範的共産党員となるための教育・指導の教材として、「反面教師」章工作員を登場させたと考える事ができるのである。そして、それは趙樹理の教員という職業を経験したことにより得た思想というものが農民・人民大衆だけでなく共産党員に対する教育・指導おもおこなわせたと考える事ができる。「李有才板話」における、章工作員のような「反面教師」的面は「態度決定」の永富にも見出す事ができる。しかし「態度決定」での「反面教師」永富の登場は(1)でのべたとおり、共産党のイデオロギー・政策とリンクしている感が強い。だが逆にいえば、このことにより抗日戦期の作品「李有才板話」、さらには「登記」においてすでに共産党員の教育・指導のための「反面教師」を登場させている事が、趙樹理が自発的な共産党員に対する教育・指導的側面を元来持っていたことの証明となり得るのではないか。
第3章趙樹理作品「霊泉洞」の意味
第2章では趙樹理作品の特徴について考察してきた。その特徴と考えうるものの1つに各時期の共産党のイデオロギー・政策と趙樹理作品が深く関わっている、ということを挙げた。しかし趙樹理はその特徴と考えうるものにそぐわない作品、しかも長編を書いている。中華人民共和国成立後の1959年に発表された作品「霊泉洞」である。この物語の舞台は1959年の中国ではない。抗日戦期の中国である。このことから、趙樹理がこの「霊泉洞」を書いた意味、さらにそこから趙樹理がこの時期の共産党に抱いていた思いというものについて考察していきたいと思う。考察は「霊泉洞」と同じく抗日戦期の農村の移り変わりを描いた1946年発表の作品「李家荘の変遷」と絡めて考えていくことにする。では考察を始める。
(1)「李家荘の変遷」と「霊泉洞」のあらすじ
「李家荘の変遷」のあらすじ
山西省に李家荘という農村があり、そこには鉄鎖という農民と、彼を取り巻く権力者、村長の李如珍、彼の一派の小喜・春喜・小毛などがいた。物語の最初の舞台は1930年頃で、中国は内戦の時期であり、小喜・春喜は山西省の軍閥閻錫山についており、その権力を強めていく。それから時代は日中の戦乱期へと進んでいき、世間には抗日の風潮が広まっていく。そんなおり、鉄鎖は村から離れた土地に出稼ぎに出ていた際に共産党員の小常と言う青年に出会った。そして鉄鎖は彼を「この世の中で一番よい人間」として慕い、彼の考え方、思想に傾倒していく。しかし、小常は国民党や地方軍閥がおこなっていた防共(共産党勢力を押さえようとする事)の流れの中で鉄鎖と出会った翌日に捕えられてしまう。さらに防共の流れは、共産党の考え方、思想に傾倒していた鉄鎖までも捕えるが、時期が防共から国共合作へと移り変わり、鉄鎖は殺されずに済む。その後、山西省の愛国者達が犠牲救国同盟会(以後犠盟会)を組織し、団体を広める活動をおこなった。そして、捕えられていた鉄鎖達の所にも犠盟会の会員が講演に来た。その会員が捕えられていた小常であり、鉄鎖は早速犠盟会に入会し、李家荘の村民達も次々と入会していった。鉄鎖と村民達の犠盟会入会以後、李如珍らは何度となく捕えられては閻錫山の力で反撃を繰り返したが、最終的には李如珍は農民・人民大衆の手によって惨殺され、彼に使われてきた小毛は改心する。だが、小喜・春喜は様々に立場を変え、時には日本軍にも仕えながら難を逃れていく。農民・人民大衆と李如珍一味の闘争終結後、日本軍は降伏し、村民達は喜んだが、そこに鉄鎖が県から帰ってきて国共の対立戦争が起こる事を告げ、村民達は一致団結し、国民党、また小喜・春喜打破を唱え始めた。なお模範的共産党員小常は閻錫山により捕えられ生き埋めにされている。
「霊泉洞」のあらすじ
山西省に霊泉溝という農村があった。霊泉溝には金虎、銀虎という兄弟が住んでいて、弟の銀虎は村の権力者劉承業の息子接旺と一緒に中学まで通った知識人であり、後に共産党員になった。兄の金虎の方は共産党員ではないが、村の共産党員と親交がある。物語は1940年、霊泉溝に国民党の軍隊が押し寄せて来るところから始まる。この国民党の軍隊の襲来により村の共産勢力は崩壊してしまい、銀虎は捕えられてしまうが、金虎は難を逃れる。しかし、金虎は混乱の収まった村に戻った時に自分の父が病気である事を知り、近隣の村に医者を呼びに行くが、呼びに行ったさきの村で国民党に捕えられ、人夫として使われる。さらに、人夫から戻った金虎は劉承業一派の雑毛狼が幼馴染である小蘭を襲おうとしている事を知り、彼女を洞窟に隠す。その後、小蘭のいる洞窟に近づいた雑毛狼を殺すが、雑毛狼殺害直後、付近にいた国民党軍に発見され、洞窟の奥地へと逃げて行く(逃走中に金虎と小蘭は洞窟内で結婚の契りを結ぶ)。そして2人が洞窟を抜け辿り着いた場所は食糧も豊富な土地であった。そこで金虎は両親を迎えに霊泉溝に戻るが、金虎が戻った時、霊泉溝では劉承業が土地分配の話を農民に持ち掛けていた(もちろん劉承業に有利な話である)。しかし、金虎は劉承業の思惑を見破り、放棄する。その後、村にまた国民党が襲来し、劉承業の隠していた食糧は奪われ、劉承業は逃げて行く。国民党が運びきれずに、村に一時保管した劉承業の食糧を見張りの兵隊の好意で手に入れた村人は、武器を持ち団結し、金虎が辿り着いた土地において力強く日本軍、国民党軍と戦っていく。なお金虎の弟銀虎は生きており、改名して他の解放区で共産党の幹部になっていた。
(2)「李家荘の変遷」と「霊泉洞」における共産党員の描かれ方
最初に「霊泉洞」を書いた時期の趙樹理の共産党への思いを探るにあたり、同時期を描いた「李家荘の変遷」における共産党員の描き方と違いがあるのかということを検証してみたい。
まず「李家荘の変遷」における共産党員の描かれ方であるが、以上の事を述べる前にこの作品が書かれた背景について述べておく。趙樹理が「李家荘の変遷」を書いた背景には共産党からの指示があったのである。このことは、牧戸和宏の論文「趙樹理『李家荘の変遷』の村人たち」の中に、
「趙樹理は早くから、閻錫山の罪悪統治史の小説を書くことを指導部から命じられていた。」(29)
この作品を趙樹理は「党の指示」を受け「党員の任務」として書いたのである。(29)
と記述されていることからわかる。つまり、「李家荘の変遷」には共産党の影響がかなりあるということになる。
では作品中の共産党員の描かれ方である。「李家荘の変遷」に登場する共産党員の中で1番目立った存在は主人公鉄鎖が「この世の中で1番いい人間」と評した学生色の強いの共産党員小常である。彼は鉄鎖を啓蒙してだけでなく、村の富農で共産党に疑問を抱く王安福(彼は文盲ではなく、それなりの知識人のようである)に共産党の説明をし(30)、納得させ、さらに李家荘に犠盟会を発足させ、農民・人民大衆に闘争する力を与えるという当時の共産党から見ればまさに理想的な共産党員として描かれている。また、共産党という団体として見ても、
共産党来了就要殺?們這些家?們呀!(31)
というように小常に対する信頼が昇華した形で農民・人民大衆の信頼を得ている。そして、「李家荘の変遷」にはもう一人、王同志という共産党員が登場するが、彼は「李有才版話」の章工作員と同じく、権力者に騙されるなどあまりよい働きはしていない。王同志を登場させた理由は第2章の(4)で述べた章工作員を登場させた理由と同じであろう。以上のから趙樹理は共産党の指示で書いた作品といえども少なくともそれ以前に書いた作品「李有才版話」に見て取れる特徴は踏襲していることがわかる。
次に「霊泉洞」における共産党員の描かれ方である。「霊泉洞」は「李家荘の変遷」とは違い、舞台となる農村に始めから共産党が根付いている。よって村では共産党員の姿が多く見られる。そして、村にいる共産党員の中で目立った存在が、主人公である金虎の弟銀虎と党の村支部の責任者鉄?と青年党員小胖である。ではまず銀虎の描かれ方から見てみよう。
銀虎はあらすじでも述べた通り、中学で学んだ経験を持つ知識分子の共産党員である。しかし、彼は物語の始めに国民党の軍隊に捕えられてしまうため、その後の霊泉溝における農民・人民大衆の活動にはなんら影響を及ぼさない。それどころか、曉流は1958年『読書』に発表した論文「趙樹理が書いた『霊泉洞』」の中で、「銀虎在小説中是个要管気、擺濶気的小知識分子。(中略)他始終没有擺脱飛黄騰達的念頭」。(32)と銀虎の行動を批判している。さらに「霊泉洞」の中でも銀虎が魯丁と改名したことを他の共産党員が「文化人一个毛病!」(33)と非難している。趙樹理自身も1930年に名前を「樹礼」から「樹理」に改名しており、ここに「霊泉洞」執筆時における趙樹理の自己批判的な部分を見ることができる。
次に鉄?と小胖についてである。2人は人夫として国民党に徴収され、食糧を奪いに行った先の村で機転を効かせ村から国民党の軍隊を追い出すといったような共産党員として勇敢な行動を数々行い、共産党の印象を良くするという役割を果たすが、彼らも後に八路軍の武工隊に加わったために霊泉溝には帰らず、銀虎同様に農民・人民大衆の闘争のための団結には影響を及ぼさない。
以上述べてきたように「霊泉洞」において登場する目立った共産党員は、反面教師的な役割をする人物や、共産党に対する印象を良くする役割を果たす人物はいるが、「李家荘の変遷」の小常のように農民・人民大衆に闘争する力を与え、彼らを導いていくというような共産党員の姿は「霊泉洞」の中には見出せない。
(3)「霊泉洞」が発表された当時の時代背景
ここでは「霊泉洞」が書かれた意味を探るにあたり、第2章で述べた趙樹理作品の特徴にそえば、「霊泉洞」にも書かれてもおかしくないこの作品が発表された当時の中国国内の情勢、共産党の動きを見ていきたい。「霊泉洞」が発表された1959年中国は、前年に共産党により発動された「大躍進」政策(34)がもたらした混乱の中にあった。「大躍進」は上部が設定した高い目標に到達出来ない場合でも、下部の生産を取り仕切る幹部が目標を達成できたと虚偽の報告をすることにより混乱を招いた。混乱を招いた影には共産党上部の生産状況に関する知識不足からくる目標設定の誤りともう1つ、共産党の命令を遂行出来ない場合、激しい批判にさらされるという恐怖が下部の側にあったことがいえる。後者については、1956年の「百花斉放・百家争鳴」政策(35)(知識分子に自由な意見を求める政策)のわずか1年後、「整風運動」(36)によって再び知識分子を批判したことなどに由来していると考える。
そんな中、共産党は再び「大躍進」の軌道修正のため知識分子に発言の場を与えた。それに呼応したのが当時国防部長の任にあった彭徳懐である。しかし、彼も結局は共産党に批判されることとなる。「霊泉洞」発表の年1959年の事である。
(4)当時の趙樹理の行動
では(3)で述べたような情勢のもとで趙樹理はどのような行動をしたのか。それがよくわかる資料がある。王中青・李文儒の論文「趙樹理の最後の5年」である。論文中に以下のような記述がある。
農民の利益をひどくそこない、農民の積極的労働意欲をそぐような様々の出来事、とりわけ一部指導者による高すぎる指標設定、でたらめな指揮、誇張の風、猪突猛進の風、「共産風」の風潮に直面して、趙樹理は焦慮にかられた。彼は同僚を説得することもできず、また1人では問題を解決する力も無かったから、たえず上部に向けて情況を報告し、提案し、正義感にもとづき何はばかることなく上部に意見を出した。(中略)ある幹部は生産量をごまかして報告していた。彼はこれらの人に面と向って言った。「君たちは全くでたらめだ」(37)
この記述からわかるように趙樹理は「霊泉洞」を執筆した時期において、「大躍進」政策について批判的ともとれる意見を述べているのである。以上のような行動には彼の正義感の他にもう1つ以下のような考えが影響している。
1958年以来、彼は各級の幹部の活動の中に重大な妄語現象が存在し、1種の欺瞞・虚構の局面が生じているのを、発見していた。下級は上級を喜ばすようなことばかりを報告し、上級は中央を、中央は毛主席を喜ばすようなことばかり報告して、毛主席は下部の正確な情況を知ることができないでいた。以前は幹部は大衆といっしょであったが、後には大衆との接触が少なくなり、それとともに問題が多くなった。これも官僚主義であり、これをくつがえすことは正しい、と彼は思った。(38)
この文章も先に挙げた文献による。以上述べてきたような状況の中で「霊泉洞」は発表されていくのである。
(5)趙樹理作品「霊泉洞」の意味
以上ここまで述べてきたことをふまえて趙樹理が「霊泉洞」という抗日戦期を舞台にした作品を中華人民共和国建国後の1959年に書いたことの意味について考察していきたい。
まず、(2)において同時期の抗日戦期を舞台にした作品「李家荘の変遷」と「霊泉洞」の中の共産党員について述べた際に、「李家荘の変遷」には農民・人民大衆に闘争する力を与え引張っていく模範的とされるであろう共産党員小常が存在したが、「霊泉洞」には小常ような共産党員の姿はみられないとした。それだけではなく、「霊泉洞」において共産党員は、物語の主軸から意図的にはずされているという印象すら受けるのである。このことはどのような意味を持っているのであろうか。「霊泉洞」における共産党員の削除については以下のように考える。趙樹理が「霊泉洞」において共産党員を物語の主軸からはずした意図は「霊泉洞」において農民・人民大衆の共産党に依存しない自発的行動を求めているのではないだろうか。この作品において趙樹理は共産党員を物語の主軸からはずしている。つまり、物語内の様々な問題の解決者は農民・人民大衆しかいないという状況を趙樹理が作り出すことによって、彼らは自発的に様々な問題に立ち向かわなければならなくなるのである。
以上のべたことを、趙樹理が「霊泉洞」を発表した当時の時代背景、趙樹理の行動、考えと絡めて考えていくと1つの「仮説」を立てることが出来る。趙樹理はこの作品に共産党に依存することなく自発的に行動し、問題を解決できるようになることを目的とした農民・人民大衆への再指導を目指すといった意味を持たせたのではないか、という「仮説」である。
この「仮説」に信憑性を持たせるためには、趙樹理が「仮説」のように考えることとなった『理由』が無ければならないだろう。以下で『理由』と「仮説」のつながりを考察していく。
「李家荘の変遷」は先に述べたように共産党からの指令を受けて創作した。当時趙樹理は、共産党に農民・人民大衆がついていくことには何の疑問ももたなかったであろう。しかし、時代が進むにつれ、共産党の政策には疑問を感じる所が増えてきたのではないか。その最たるものが「大躍進」政策である。第2章の(1)で述べたように農村の実情をよく知り、農民・人民大衆に愛着を持つ趙樹理にとって、上部の設定目標が高過ぎること、また下部がでたらめな報告をしていることなどは痛いほどよくわかったであろう。そして共産党の政策の失敗で苦しんでいる農民・人民大衆の姿もよく見えるのである。先に挙げた論文「趙樹理の最後の5年」の中にも趙樹理の言葉として、「きみたち書記や隊長の地位は安泰になったが、庶民の食糧や家畜の飼料はなくなってしまった。」(39)という一文がある。記述のような実情を目の当たりにした趙樹理が行ったことはすでに述べた共産党幹部に対する意見であった。しかしこれは「共産党員」趙樹理の行動であったように思う。しかし、(4)で述べたとおり批判的な意見を叫びながらも、趙樹理には農民・人民大衆を苦しめる共産党に対する失望感が芽生えていたのではないか。この失望感と農民・人民大衆への愛着が先程述べた『理由』であると考える。そして、状況打破のためにもう1つ農民・人民大衆の事を第一に考え、彼らが読みやすいような文章を用い、彼らに読んでもらうことを願う「人民作家」趙樹理が行った行動が、農民・人民大衆が共産党に依存することなく自発的に行動し、目の前の諸問題を解決出来るための力を持つための再指導を目的とした作品「霊泉洞」の執筆であったと考える。共産党に依存せず諸問題を解決する力を身につけることは、共産党の無謀と思えるような政策に左右され、生活の危機にさらされないための力を身につけることでもある。そして作品の舞台を抗日戦期に定めた理由はこの時期が農民・人民大衆が最も共産党の力を欲していたからであろう。
以上述べてきたことを考慮すれば趙樹理は共産党が政策を見直し立ち直らせるために意見書を出すといった行動は起こしたが、趙樹理には共産党に対する失望の念が芽生えており、その失望感と農民・人民大衆への愛着が、彼らに自発的に問題を解決できる力を備えさせることの必要性を趙樹理に感じさせ、「仮説」に至った。以上が趙樹理作品「霊泉洞」執筆の意味であったのではないか。もちろん、「霊泉洞」という作品の執筆にはその他の意味があった可能性もあり、また逆に特に意味を持たない、いわば作者趙樹理のきまぐれとして書かれた可能性すらある。しかし、ここまで検証、考察してきた結果に基づけば先ほど述べた「仮説」が信憑性を持つものであると考え、「霊泉洞」は趙樹理が「仮説」のような意味を持たせ、生み出した作品である。以上を結論とする。
付章 「霊泉洞」以降の趙樹理
今まで述べてきたことは「霊泉洞」執筆以前の趙樹理が主であった。よって付章として、「霊泉洞」執筆以後の趙樹理について触れておく。
第1章でも述べたとおり、趙樹理は「霊泉洞」発表以後、「文化大革命」の波に呑み込まれていき、迫害によって死去する。しかし、趙樹理は死に至るまでの期間にも少ないながらも執筆活動を行っている。発表した作品は以下のとおりである。
1959年「ノルマさん」
1960年「手ぶくろにおさまらない手」
1961年「がんばり屋の潘永福」
1962年「張来興」「真相究明」
1964年「たばこの葉を売る」
1965年「十里店」(発表は遺作として1978年)
以上釜谷修の著書『中国の栄光と悲惨 評伝趙樹理』による(40)
「霊泉洞」以後の趙樹理の作品には「労働者」を主題にしたものが多い。これは当時の知識人の中に「労働者」を軽視する風潮が広がっていてことによる。1957年、趙樹理は「労働者」になることを嫌う自分の娘趙広建に以下のような手紙を書いている。
君は2つの“古い思想”を抱いていたのです。1つは高級中学出ということ、今1つは幹部の子であるということ。旧社会から持ちこんできた社会的職業評価では学校に行くとか幹部になると人より地位が高いと思ったり、生産やサービス業にたずさわる人間は頭を使わない仕事をする者、俗人だと思ったりします。この種の社会主義とはまったく相容れない観点はひそかに多くの学生や幹部の子弟の頭の中にひろまっています。(中略)しかし実際にはどこがいけないのでしょうか。私は作家で君は散髪をする、私の髪がのびたら君に刈ってもらう、私が小説を書けば君に読んでもらう、これは理にかなった社会的分業ではないでしょうか。(41)
以上引用した手紙について考察していけば、そこには趙樹理が将来の共産党員達を教育しようという意思をもっていたことが判ってくると考える。つまり、「労働者」への軽視をやめる事により、古い思想の打破をうながしているのである。ゆえに、先ほど挙げた数作品の中には「労働者」を主題としたものが多いのである。また、その中に出てくる労働者はみな賞賛を持って書かれている。1960年の「手ぶくろにおさまらない手」を例にとれば、主人公である陳乗正(76歳の老人)は老舎の論文「『手ぶくろにおさまらない手』を読んで」(42)や茅盾の論文「評『手ぶくろにおさまらない手』」(43)の中で労働者の鏡として絶賛されているのである。
さらに、以上のことから「霊泉洞」発表以降の趙樹理と共産党との関係について考察する。趙樹理が「霊泉洞」発表以後に先程述べたような後の共産党員達の教育に役立つと思われる「労働者」を主題にした作品を多く執筆していることは、趙樹理が共産党に「霊泉洞」執筆の時点で少々の失望を覚えていたとしても、最終的には共産党を見捨てることが出来なかった結果ではないだろうか。第1章で述べたとおり、趙樹理は、死の直前まで毛沢東の詩を写し書いているのである。このような趙樹理の行動に問題を抱えるものを見捨てることの出来ない趙樹理の教育者としての姿勢も見ることが出来るであろう。
終章 まとめ
以上第1章から第3章、及び付章で考察してきたことをここでまとめることにする。まず、第1章において趙樹理の経歴をみながら、作品の特徴の土台となったであろう事柄、共産党との関係の契機、彼が教育者的側面を持ち得た理由を考察し、趙樹理と共産党がどこまで関係の深さがあったかを知るために「文革」期の批判を浴びていた頃について記述した。
次に第2章として、第1章で考察した趙樹理作品の特徴の土台とした事柄などを用い、趙樹理作品の特徴を考察し、述べていった。その特徴とは以下の通りである。
(1)農民・人民大衆が読者であることを前提とする作品創作
(2)各時代の共産党のイデオロギー・政策と作品の関係
(3)作品内に数多く登場する共産党員の描写
(4)趙樹理の教育者的側面
この4つの特徴を第2章では詳しく述べた。
また第3章として、第2章で述べた趙樹理作品における4つの特徴のうち、(2)とそぐわない作品「霊泉洞」、またそれと物語の舞台となる時代が類似した作品「李家荘の変遷」のに作品を用い、主に趙樹理が作品「霊泉洞」を書くにあたって意図したであろうこと、また、この作品を書いた時期に趙樹理が共産党に対してどのような思いを抱いていたかについて、第2章で述べた(2)以外の特徴も関連づけながら考察した。この結果は以下のようにまとめられる。
趙樹理は「大躍進」などの政策に失敗し、農民・人民大衆を苦しめる共産党に失望を抱いていた。そして彼らに対する愛着から、彼らに、共産党に依存せず自発的に行動し、目の前の諸問題を自分達の力で解決できるための教育・指導する、などの意味を持った作品「霊泉洞」を執筆した。
なお付章では、主に「霊泉洞」以降の趙樹理と共産党の関係について考察し、結論は、趙樹理は共産党に対する失望はあったにせよ、共産党を見捨てることは無かった、というものになった。
以上で趙樹理に関する研究論文を擱筆する。
注釈及び引用文献
(1)釜谷修『中国の栄光と悲惨 評伝趙樹理』玉川大学出版部(1979)
(2)丸山・伊藤・新村『中国現代文学事典』東京堂出版(1985)
(3)毛沢東「延安文芸座談会における講話」の略称。延安における整風運動の重要な一環として42年5月(2、8、23日の3回。第2回を16日とする記録もある)に開かれた文芸座談会の毛沢東の講演。毛沢東は初日に問題提起をし、最終日に5つの部分からなる「結論」を報告した。われわれの文芸は誰にどのように奉仕しなければならないか、を主軸とし、労農兵・人民大衆のための文学のあり方にふれ、普及と向上の問題、政治と文芸・文芸と生活の関係、文化遺産の継承、文芸界の統一戦線、文芸批評の2つの基準、技巧と民間形式、文芸工作者の学習などの問題に一定の方向を与えた。のち、「文芸講話」の路線が文芸界の基本網領となり、さまざまな問題がたえず「講話」の基本にたちかえって処理された。
(4)文芸界を団結させること、社会主義文芸事業を発展させること、人民の文化活の需要をみたすことなどを任務とした団体。
(5)64年9月、公に集中批判された文芸理論(広義では文芸思想、狭義では創作方法論)。60年12月の大連での文芸座談会で邵?麟が提唱。その論旨の中心は「人民大衆中少数の英雄人物よりも大多数の中間人物をより大量に描け。矛盾がより集中している中間人物を描くことによって、より深く現実を描くことができる」とまとめられ、中間人物描写論と名づけられたものである。その論は、社会主義文芸の典型・人物形象、広くは描写対象の多様化の要求とまとめられるが、これが英雄人物を排斥、文芸の階級性、革命性を否定する修正主義理論、またブルジョア文芸論として批判された。
(6)釜谷修「“自殺未遂事件”覚え書き−1930年代前半の趙樹理」、『中国語学文学論集』61頁(1983)
(7)この「文化大革命」については細かく述べれば別の論文を書くことになってしまうのでここでは大まかに述べる。「文化大革命」は1966年に開始される。“資本主義の道を歩む党内の実権派”打倒を掲げたこの運動は、各地に混乱と武力衝突を生み、また国家主席の劉少奇をはじめとする党・政府の多くの幹部を闘争の対象として打倒した。文学芸術界も、文革当初から攻撃の対象となった分野で、文芸界の政治的、理論的指導者であった周揚らはもとより、ほとんどの作家が攻撃にさらされ、形を変えた強制収容所と化していた“57幹部学校”に追いやられた。文革前半は、文学雑誌はすべて停刊し、文学作品の出版はほとんど停止されて、毛沢東夫人江青の指導による“革命現代京劇”のみが喧伝される、という状態が続いた。
(8)文献(1)47頁
(9)事件や出来事、特定の人物についてなどを語呂のよい歌にすること。
(10)趙樹理「小二黒結婚」、『中国解放区文学書系』所収1596頁、重慶出版(1992)
(11)石島紀之『中国抗日戦争史』170頁、青木書店(1984)
(12)文献(10)1601頁
(13)趙樹理が遼県の県政府が疎開している村へ赴いた時に出会った事件。村にいた真面目な青年岳冬至は父が決めた童養娘(幼い頃から決められた許嫁)を断り、智英祥という娘と恋愛関係にあった。そのことが智英祥に目をつけていた村長と青年救国会の秘書の恨みをかい、岳冬至は「腐敗分子」という名目でつるしあげられ、最後には彼らに殴り殺された。
(14)趙樹理「李有才版話」『中国解放区文学書系』所収1621頁、重慶出版社(1992)
(15)文献(11)159頁
(16)文献(11)165頁
(17)趙樹理「富貴」、『趙樹理文集』所収211頁、工人出版社(1980)
(18)文献(17)211頁
(19)文献(17)222頁
(20)野村浩一『蒋介石と毛沢東』392頁、岩波書店(1997)
(21)趙樹理「態度決定」、『趙樹理文集』604頁、工人出版社(1980)
(22)宇野重昭『中国共産党史序説・下』63頁、日本放送出版協会(1974)
(23)文献(21)613頁
(24)文献(22)64頁
(25)1950年に発表された作品。自由結婚を題材とする物語で、「小二黒結婚」の続編ともいうべき作品である。この作品は大好評で後に「羅貫銭」という名で舞台化され、1952年度全国演劇コンクール戯曲之部第1位に選ばれた。また、この作品は当時制定された「婚姻法」の宣伝キャンペーンのために『説説唱唱』編集部に依頼されて書いたものである。
(26)牧戸和宏「趙樹理『小二黒結婚』と毛沢東『文芸講話』」、『帝塚山大学教養学部紀要』第31号444頁(1992)
(27)文献(26)447頁
(28)牧戸和宏「趙樹理『李有才版話』の李有才」、『帝塚山大学教養学部紀要』第32号66頁(1992)
(29)牧戸和宏「趙樹理『李家荘の変遷』の村人たち」、『帝塚山大学教養学部紀要』第33号311頁(1993)
(30)当時中国の農村には文盲である人々が大変多かった。趙樹理もそのことは当然認知しているはずである。よって趙樹理はこの場面で出てくるような文字の読める人に自分の作品を読んでもらい、その人から文盲の人々への口伝をねがっていた。ここで文字の読める知識人に共産党の説明を施していることに、趙樹理が抱く理念が垣間見える。また、その理念を用いてこの物語を書いているということに共産党の指示による創作とはいえども、手を抜いていないことがわかる。余談ではあるが、趙樹理の妻は文盲であった。
(31)趙樹理「李家荘的変遷」、『趙樹理文集』所収117頁、工人出版社(1980)
(32)曉流「趙樹理在写『霊泉洞』」『中国当代文学研究資料 趙樹理専集』488頁福建人民出版社(1981)
(33)趙樹理「霊泉洞」、『趙樹理文集』所収722頁、工人出版社(1980)
(34)1958年5月に、工業および農業生産の面で資本主義の大国に短期で追いつくことを目標に共産党が発動した政策。従来の互助組を高級合作社を経て人民公社に昇華させることにより生産能力の向上を目指した。しかし、生産目標の設定ミス、また下部の水増し報告などの弊害を引き起こし、中国社会に混乱をもたらす結果となった。
(35)1956年5月、陸定一がこの言葉を題名とする報告を行ったことにより特に広まった、異なった流派・方法・学説の自由な競争・討論が、文学芸術・学術発展の不可欠な条件であることを強調するスローガン。その背景には、スターリン批判後の国際的な雪解けの影響が中国にも及んできたことと共に、胡風事件(知識人胡風が共産党に意見書を出した際、激しい批判を受けた事件)の衝撃で口をつむいでしまった知識人の積極性を引き出すためにも、学術・文学芸術上の自由を保証する必要があったということが存在する。
(36)中国共産党が党内の官僚主義・セクト主義・主観主義などの活動スタイルの改善、理論水準の向上、大衆路線の正しい実践などをめざして展開した何回かの全党的・集中的党風刷新運動である。ここで述べているのは1957年春に行われたものであるが、もう1つ大規模な整風運動としては、1942年春からの永安整風運動がある。
(37)王中青・李文儒「趙樹理最後の5年」『季刊中国研究』1巻、111頁 (1985)
(38)文献(37)115頁
(39)文献(37)111頁
(40)文献(1)144頁
(41)文献(1)162頁
(42)老舎「読『套不住的手』」、『中国当代文学研究資料 趙樹理専集』福建人民出版社(1981)
(43)茅盾「評『套不住的手』」、『中国当代文学研究資料 趙樹理専集』福建人民出版社(1981)
参考文献
『中国現代文学選集9 趙樹理集』、平凡社(1962)
『現代中国文学』8巻、河出書房新社(1971)
『中国現代文学珠玉選1』、二玄社(2000)
牧戸和宏「趙樹理『登記』の作者と読者」、『帝塚山大学教養学部紀要』第37号(1994)
中川俊「趙樹理の文学―その人と作品(上)」、『学報39:文学編・言語編』(1977)
加藤美由紀「趙樹理の父の死」、『お茶の水大学中国文学会報』第6号(1987)
釜谷修「山西省からの写真 趙樹理雑記」、『野草』第28号(1981)
釜谷修「伊藤永之介と趙樹理 2人の農民作家」、『駒澤大学外国語学部研究紀要』(1988)
今永清二『近代中国革命史』、弘文堂(1970)
丸山昇『文化大革命に到る道』、岩波書店(2001)
吉田富夫・萩野脩二『原典中国現代史 第5巻』、岩波書店(1994)
姫田・阿部・上原・高橋・前田『中国近現代史下巻』、東京大学出版会(1982)
費考通著、
小島晋治ほか訳『中国農村の細密画 ある村の記録1936〜82』、研文出版(1985)
横山宏章『中国近現代政治思想史入門』、研文出版(1987)
奥村哲『中国の現代史 戦争と社会主義』、青木書店(1999)