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中国食文化の研究

−コンニャクの歴史−
98L1037S 小松 哲也
目次
はじめに

第1章 「こんにゃく」とは
1 基原植物
2 製法

第2章 中国古典籍に記載された「蒟蒻」および考察
1 李善注『文選』(7世紀末)
2 『酉陽雑俎』(860年頃)
3 『政和本草』(1249年刊、晦明軒本)
4 『王禎農書』(1313年成)
5 『本草網目』(16世紀末)
6 考察

第3章 日本古典籍に記載された「蒟蒻」および考察
1 『本草和名』(918年頃成)
2 『和名抄』(922-931年頃成)
3 『医心方』(986年成)
4 『本朝食鑑』(17世紀末刊)
5 『大和本草』(1709年刊)
6 考察

第4章 蒟蒻の名と物―その混乱と変遷
1 ガマからコンニャクへ
2 どのような混乱が生じていたか 
3 結論

おわりに

注と文献


はじめに

 いま日本で「こんにゃく」と呼ばれる食品は、広く全国で日常的に食べられている。おでんや煮物に用いられるほか、刺身やステーキのようにして食べる料理法も考案されている。試しにhttp://www.google.com/で日本のページを「こんにゃく」のキーワード検索してみると約112000件、「コンニャク」では約23500件、「蒟蒻」では約11000がヒットした(2002年1月7日)。他方、「蒟蒻」のキーワードで台湾では「蒟蒻」約4840件、中国大陸では約410件のページしか出てこなかった。その内容を通覧すると、こんにゃく食品を開発した、ないしは日本より早く食用していたはずの中国で、いま健康ブームで日本の影響を受けてダイエット食品として流行し始めた段階にある。

 つまり中国北方の人たちは最近までこんにゃくを知らなかった人も多く、中国では新種の食品として捉えている地域も多いのではないだろうか。一方、中国南方では地域的民族食品として日本同様に食用され、小規模ながら栽培され続けていたものの、日本のように全国的に商品として普及するには至らなかった。

 「こんにゃく」はこのような特異な歴史を持った食品なのである。私はこの点に興味を持ち、今日再び注目されているこんにゃくの歴史を探ってみたいと思った。本稿ではそれを解明していく目的で、基原植物・製法、また中国と日本の文献に記載された「蒟蒻」の記載を考察したい。さらに「蒟蒻」という文字と、それが意味する植物の双方に混乱と変遷があることを指摘し、その過程を植物学的また歴史文献学的に解明してみたい。

 なお本稿で使用する漢字はJISコード文字にある常用漢字・人名用漢字を原則とし、それにない漢字は正字を使用した。また文中に挙げた人名については敬称を省略した。
 

第1章 「こんにゃく」とは

1 基原植物

 本稿では「コンニャク(蒟蒻)」から作られる食品を「こんにゃく」と表記することにする。コンニャクの学名・中国名・生態及び形態・分布等[1]は以下のようである。

 コンニャクはサトイモ科コンニャク属の植物で、学名をAmorphophallus rivieri Durieu var. konjac (A. konjac )といい、和名はコンニャク。古い中国名は蒟蒻であるが、現在は魔芋という。夏緑多年草で、地下に直径30cmをこえることもある大きな球茎を有し、それから高さ50cm〜200cmの茎のように見える一本の円柱状の葉柄を直立させる。葉身は葉柄頂で3分裂し、さらに1〜2回分裂し、それに多数の小葉をつけ、やや水平に展開する。東南アジア大陸部に分布し、花は数年を経て大きく生長した球茎から初夏に出、暗紫色で長さ20cm以上にもなる仏炎苞に包まれた肉穂花序の基部に雌花、その上に雄花が密集してつく。花序の先端部は太い付属体で終わる。

2 製法[2]

製法原理
 コンニャクイモに含まれるグルコマンナンは、水を吸収すると膨張して、非常に容積が大きくなり、粘度の高いコロイド状態を呈す。これに石灰水その他のアルカリを加えて加熱すると、凝固して半透明の弾力のある塊になる。

荒粉と精粉
 コンニャクイモの約半分は、生のままでこんにゃく製造に用いられる。こうしてできたものは色が黒っぽく、とくに関西のほうで好まれる。残りの半分は乾燥されて荒粉になる。この荒粉を搗いて微細な粉にし、皮やゴミ、デンプンなどの不純物を風力で飛ばし、残ったグルコマンナンの部分だけ集めたものを精粉という。精粉から作ったこんにゃくは白い。

現在の一般的なこんにゃくの製造方法(精粉から作る場合)
 湯の中に精粉をかき混ぜながら少しずつ加える。その後30〜50分強くかき混ぜながら練った後1〜2時間放置するとマンナンが完全に膨張して均質な糊状になる。それに水酸化カルシウム等を水に溶いた凝固剤を加え、すぐに攪拌し、型に入れる。これを沸騰した湯のなかで煮て出来上がり。更にこれを冷水中に漬けておくと過剰のアルカリが溶出しアクがなくなる。

 以上が本稿で扱う「こんにゃく」の製法である。これが数百年から千年前の中国や日本ではどのようであったか、次の第2章・第3章で見ていきたいと思う。
 

第2章 中国古典籍に記載された「蒟蒻」

 日本は中国の書物によって蒟蒻の知識を受容してきたが、中国では蒟蒻及びその加工品であるこんにゃくはどのような研究がなされていたのだろうか。この章では中国の古典籍に現れる「蒟蒻」に関する記載を古いものから年代順に列挙し、ついで考察を試みたいと思う。考察は、まず各文献ごと行い、最後にそれらをまとめる形をとった。なお、5の『本草網目』に引用されている『開宝本草』(10世紀後半)及び『図経本草』(1062)は年代的に2と3の間に位置するため、6の考察ではこの順に従い考察することにした。また、訳文中の「根」及び「茎」はそれぞれ現在の「塊茎」及び「葉柄」に相当する。

1 李善注『文選』(7世紀末):巻4蜀都賦[3](カッコ内は李善の注)。

その畑には蒟蒻(音はグジャク)、茱萸、瓜疇、芋(音はウ)区、甘蔗(音はシャ)、辛薑があり、日に暖められて育つのは甘蔗、日陰に育ち広がるのは辛薑である。
(蒟は蒟醤で、樹木の付近に生育する。その果実は桑椹(クワの実)に似て、熟す時に緑色で、長さは二、三寸になる。これを蜂蜜に漬けて保存し、食べると辛く香りがよく、五臓を温め調える。蒻は草である。その根を蒻頭という。大きなものは頭のようだ。肉質は真っ白である。灰汁で煮ると凝固し、酢にあえて食べる。四川の人は珍重する。茱萸は…)。
2 『酉陽雑俎』(860年頃):巻19[2]
蒟蒻の根は椀くらいに大きい。秋になって葉の上の露が滴り落ちるにつれ、根から苗が芽吹いてくる。
3 『政和本草』(1249年刊、晦明軒本):巻11草部[5]
蒻頭の味は辛、体を冷やし、毒がある。腫物、風毒を治す。腫物に擦りつけると良い。これを搗き砕き、灰汁で煮ると餅状になり、味つけして茹でて食べる。これは体をやや冷やし、糖尿病を治す。しかし、この加工をしない生の蒻頭を食べると喉をひどく刺激し、出血する。蒻頭は江蘇の南部、浙江の北部、四川に産出し、葉は由跋や半夏に似て、根は椀のように大きい。日陰に生育し、雨のしずくが葉の下に滴ると結実する。蒻頭の別名は蒟蒻。また斑杖という苗が蒻頭に似た植物があり、秋に花茎がまっすぐ伸び出て赤い実をつける。その根は化膿のひどいできものにつけると良い。根は蒻頭のようだが、猛毒で食べられない。いま『開宝本草』(974年成)の条文に立てた。
4 『王禎農書』(1313年成):百穀譜集之十一飲食類・備荒論[6]
虫害に備えるには、ただ虫を捕える方法だけが災害を防ぐ。しかしイナゴがやって来たところでは、およそ草木の葉まで食い尽くされ、なにも残されない。しかし、ただ芋…を食べない。その他にはドライフルーツ…、山に生えるものでは葛粉…、蒟蒻…などがあり、みな飢えと食物の不足を救う。
5 『本草網目』(16世紀末):第17巻草部6[7]
「釈名」蒻頭、出典は『開宝本草』。鬼芋の出典は『図経本草』。また鬼頭とも。

「集解」志が言うには、蒻頭は江蘇の南部・浙江の北部・四川に生育する。葉は半夏や由跋に似て、根は椀のように大きい。日陰に生育し、雨のしずくが葉の下に滴ると結実する。また斑杖という苗が蒻頭に似た植物があり、秋に花茎がまっすぐ伸び出て赤い実をつけ、根は蒻頭のようだが、猛毒で食べられない。虎杖の別名を斑杖というが、この斑杖とは別物である。

 蘇頌が言うには、江蘇の南部、浙江の北部で白蒟蒻を産出し、鬼芋ともいい、平らな川岸にとても多い。人々はこれを採って天南星としているので、必ず弁別しなければならない。市場でも往々にして白蒟蒻を天南星としている。ただし天南星の表皮はきめ細かく、しっとりしている。蒟蒻は茎に斑点があって花は紫色であるが、天南星は茎に斑点がなく、花は黄色で、これらが異なっている。

 李時珍が言うには蒟蒻は四川に生育し、施州にもあって鬼頭と呼ばれる。福建でも栽培しており、木陰に穴を掘って糞尿を入れ、春に苗が出て五月になったらそこに移す。地上部は30cmから60cmくらいで、天南星と似ている。しかし蒟蒻は斑点が多く、根は越年しても苗を出す。その滴露の説は間違いである。二年を経ると、根は碗や親芋と同じくらいに大きくなる。その表面は白く、味は舌をしびれさせる。秋を過ぎたら根を採り、水できれいに擦り洗う。搗くか切片にし、濃い灰汁でしばらく煮る。また水洗いし、灰水を換えて更に煮る。これを5、6回繰り返すとゲル状に凝固し、それを薄切りにして、酢と五味であえて食べる。灰汁を用いないと固まらない。細長く切り、沸湯でゆがき、調味して食べると、見た目はクラゲの細切りのようである。苗が半夏に似ているという馬志の説、蒟醤は蒟蒻だという楊慎『丹鉛録』の説は、ともに誤りである。『王禎農書』は、飢饉を切り抜ける方法として、山にある葛粉、蒟蒻、橡(ドングリ)、栗を利用する、といっている。ならば、これらは人々に有益なのだ。斑杖というのは、天南星の類で斑点のあるものをいう。


「気味」辛、体を冷やし、有毒。李廷飛が言うには、体をやや冷やし、人にはまったく益がなく、冷え性の人は沢山食べてはいけない。未加工の生で食べると喉をひどく刺激して血が出る。

「主治」腫物・風毒の患部上に擦りつける。搗き砕き、灰汁で煮て餅状にし、調味して食べると糖尿病を治す。出典は『開宝本草』。

「発明」機は『三元延寿書』にこうあるという。ある人が{ヤマイダレ+祭}を患い、どのような物でも治らなかったが、隣家が蒟蒻を作っているのを見て、食べさせってもらったら美味しく、それで沢山食べてしまったところ{ヤマイダレ+祭}が治った。また頸部リンパ節潰瘍の患者数人がこれを沢山食べたら、みな治った、と。

6 考察

 まず、上記の文献のなかで一番古い『文選』であるが、この『文選』の文章はもともと左思[8]の『蜀都賦』[9]から引用されたものである。したがって、「蒟蒻」という字を確認できる最古の文献は『蜀都賦』ということになる。しかし、『蜀都賦』につけられたいくつかの注によると「蒟蒻」という字には二通りの解釈が存在する。一つは「蒟蒻」で一つの植物をあらわす考え方である。もう一つは「蒟」と「蒻」でそれぞれ別々の植物をあらわす考え方である。しかし、これ以前の記載にさかのぼるのは非常に困難なため、どちらの説が正しいか確かめるのは難しい。仮に前者の説が正しければ、『蜀都賦』が成立した時代までその記録をさかのぼる事ができるが、李善は後者の説を支持しており、こちらの説のほうが正しければ、「蒟蒻」という植物はそもそも「蒻」という名前であったことになる。

 また、後に蒟蒻の別名として「蒻頭」が現れるが、それはこの『文選』が出処と思われる。ただし、上記の訳文を読めばわかるとおり『文選』においては「蒻頭」は蒟蒻の根の意味で用いられている。それが10世紀後半の『開宝本草』の時代までには「蒻頭」が植物名として扱われるようになった。これは蒟蒻が塊茎の部分のみ利用されるためと思われる。

 『酉陽雑俎』では塊茎の大きさと苗が生じる仕組みについて述べている。塊茎の大きさを表すのに椀を例えに出したのはこの書で初めて確認できる。以後塊茎の大きさを示す際は椀が例えに用いられるようになった。苗が生じる仕組みについてもこの記述が確認できる文献のなかで最古の記述である。この苗が生じる仕組みは5の『本草網目』で否定されるまで少なくても3の『政和本草』の時代まで信じられていたようである。

 『開宝本草』では分布の記載が四川のみから江蘇の南部・浙江の北部へと広がった。また、葉や生育地について蒟蒻の生態がより詳しく記載されるようになり、蒟蒻の薬用も初めて現れた。薬用についての記載からは食用のみでなく患部につけるといった外用が行われていたこともわかる。製法に関しては、煮る前に「搗き砕く」という工程の記載が加えられた。一方、蒟蒻は体を冷やし、毒があり、生で食べると喉から出血するといった記載がはじめて見られる。扱いに注意を要する植物であることが述べられている。

 『図経本草』からは当時蒟蒻と天南星がよく間違われていたことがわかる。また、市場に蒟蒻が出回っていたこともわかる。                                                                              
 『王禎農書』からは珍味とされてきた蒟蒻が当時飢饉対策にも役立てられていた可能性が示唆できる。
『本草網目』では福建での蒟蒻の栽培の様子が述べられ、こんにゃくの製法についてもかなり詳しく書かれている。いままで ただ細かくしたコンニャクイモを灰汁で煮るという記載しか見られなかったが、本書ではこれを5、6回繰り返すという記述が見え、製法に工夫が施されていたことがわかる。また、李時珍は蒟蒻をよく観察しており、『酉陽雑俎』から記載が見られた滴露の説の誤りを指摘している。

 以上をまとめると以下のようになる。

 中国において「蒟蒻」という字を最初に確認できるのは『蜀都賦』の成立した3世紀後半から4世紀初めであり、実際にこんにゃくの基原植物が確認できるのは7世紀末ごろである。初めは四川での食用が確認されている。『開宝本草』の成立した10世紀後半までには江蘇の南部・浙江の北部でも蒟蒻の分布が確認できるため、この地域でも蒟蒻の食用が行われていた可能性が指摘できる。『図経本草』が刊行された1062年までには市場で蒟蒻が取引されるようになって、『本草網目』が成立した16世紀末までには福建での蒟蒻の栽培が確認されている。製法については『文選』の頃からコンニャクイモを灰汁で煮るという基本的な作り方は変わっていないが、『本草網目』の頃には細かくしたコンニャクイモを煮る際、灰水を換えて5、6回煮るといった工夫がなされていた。また、食べる際にも細く切ってクラゲに似せて食べるなどの工夫がなされていた。蒟蒻の薬用については少なくとも10世紀後半までに始まっていたがわかった。
 

第3章 日本の古典籍に記載された「蒟蒻」および考察

 今や多様な製品が海外に輸出されるまでになった日本のこんにゃくだが、中国からの加工法の伝来がなければ、現在のこのこんにゃくを取り巻く状況はまずなかったであろう。そこでこの章では、わが国にいつ蒟蒻及びその加工法が伝わったか、どのように普及していったか、を古いものから年代順に挙げた日本の文献をもとに考察してみたいと思う。この章も第2章と同様、まず文献ごとに考察し、最後にそれらをまとめる形をとった。

1 『本草和名』(918年頃成)[10]

蒟蒻の別名は蒻頭で、和名をコニヤクという。
2 『和名抄』(922-931年頃成)[4]
『文選』の蜀都賦注に蒟蒻がある。その音は「クジャク」、和名は「コニヤク」。(以下は狩谷の注)下総本『和名抄』では、「栩」の字が「枸」になっている。…。(以下は本文)その根は肥えて白く、灰汁で煮ると凝固し、酢であえてこれを食べる。四川の人はこれを珍重する。(以下は狩谷の注)蜀都賦に、その畑には蒟蒻・茱萸がある、とある。劉逵の注に次のようにある。蒟は蒟醤で、樹木の付近に生育する。その果実は桑椹に似て、熟す時に緑色で、長さは二、三寸になる。これを蜂蜜に漬けて保存し、食べると辛く香りがよく、五臓を温め調える。蒻は草である。その根を蒻頭という。大きなものは頭のようだ。肉質は真っ白である。灰汁で煮ると凝固し、酢にあえて食べる。四川の人は珍重する、と。『和名抄』が引用しているのはこの劉逵の注で、それによると蒟と蒻はまったく別物である。また『説文』に、蒟は果実、とある。蒟はいま俗に金麻と呼ばれているようなものであり、蒻はいわゆるコンニャクである。ところが唐宋以来、蒻を誤って蒟蒻と呼ぶようになったのだ。『本草和名』は『新撰食経』を引用して蒟蒻を収載している。『酉陽雑俎』に、蒟蒻の根は椀のように大きい、とある。『開宝本草』に、蒻頭は別名を蒟蒻という、とあるのがそれらに該当する。源順は『和名抄』で蜀都賦中の蒟と蒻を一つのものとしてしまったが、これは誤りである。…。考えるに、『説文』に蒻は若い蒲、とある。これは敷物を作るものなので、コンニャクとは別物である。
3 『医心方』(986年成)[12]
蒻頭は『本草拾遺』につぎのようにある。味は辛、体を冷やし、毒がある。腫物や風毒を治し、腫物に擦りつけると良い。これを搗き砕き、灰汁で煮ると餅状になり、味つけして茹でて食べる。これは体をやや冷やし、糖尿病を治す。しかし、この加工をしない生の蒻頭を食べると喉をひどく刺激し、出血する。蒻頭は江蘇の南部、浙江の北部、四川に産出し、葉は半夏、根は椀のようである。日陰に生育し、雨のしずくが葉の下に滴ると結実する。蒻頭の別名は蒟蒻。斑杖という植物もあり、根と苗が蒻頭に似ている。しかし斑杖は秋になって花をつけ、花から赤い実がまっすぐ伸び出る。その根は化膿したできものにつけると良いが、蒟蒻のようには食べられない。
4 『本朝食鑑』(17世紀末刊)[13]
「集解」春に苗が生え出、五月になったら移植する。地上部は30cmから60cmくらいで、天南星と似ている。しかし蒟蒻は斑点が多く、秋に紫色の花が開き実をつける。根は越年しても苗を出し、二年を経ると根は椀か親芋ぐらいの大きさになる。外は黒く、中は白くて紋理がある。喉を刺激する味があり、また舌がしびれる。秋過ぎに根を採り、水に浸し、外の黒い皮を縄で擦り落とし、よく洗い細かく搗き砕いて餅状にする。これを濃い灰汁でしばらく煮てから、水で洗う。更に灰水を取り換えて煮、これを5、6回繰り返すとゲル状に凝固する。食べるときは再度湯で少し煮、アクを除く。あるいはワセの稲ワラと一緒に少し煮てもゲル状に凝固し、しかも味が良い。京都の丸山寺の僧侶が作るのは最も美味しい、といわれる。江戸では総州鍋山の産品が良い。また左倉産もあり、色が黒く、きめがやや粗い。灰汁ではじめ煮るとき、石灰を少し入れるとそうなるという。その味は独特だが、美味いというほどでもない。「気味」甘く、体をやや冷やし、少し毒がある。「主治」糖尿病、腫物を治すが、多く食べてはいけない。癲癇の患者は食べてはいけない。  
5 『大和本草』(1709年刊)[14]
 
日陰に植えてもよい。市場で売っているものは自家製のものに劣る。製法は3、4種類あり、かたいのが良い。市場品は少ない原料から多く作るので柔らかい。虚冷の人にはよくない。癲癇の人が食べると発作を起こすので、決して食べてはいけない。李時珍が言うには、細長く切って沸湯でゆがき、いろいろ味つけして食べ、形はクラゲの細切りのようだ、と。それが中国のクラゲを切ったのに似ているため、このように言ったのである。細く切り、よく煮て、このように作れば害はない。また大きく切り、よく煮て火を通し、冷まして再び煮たものは害がない。

その葉や茎は他の草よりも早く枯れる。その根に灰を覆せてはいけない。そうすると根が枯れやすいからだ。

6 考察

 上記の文献中最も古く、日本最古の本草書でもある『本草和名』には蒟蒻の別名、日本名が記されているのみであるが、本書によって当時日本に蒟蒻という植物が既に紹介されていたとわかる。また、本書の注に「蒟蒻」は『新撰食経』に、「蒻頭」は『本草拾遺』にその名が出てくると記されているが、『新撰食経』は原本が散逸しているうえ、中国側に記録が一切残っていないこともあり、作者も成立年も分からない。『日本国見在書目録』(891〜897頃の成)に著録されるので、897年以前の成立としかいえない。ただし陳蔵器の『本草拾遺』も同様に散逸書だが、成立は739年である。さらに『日本国見在書目録』に著録の他書と勘案するなら、『新撰食経』は隋唐代の作である可能性が高い。

 次は『本草和名』成立からほんの数年から十数年後に成立した『和名抄』であるが、この書では蒟蒻の加工法と食べ方が述べられている。おそらくこれが日本において記録上最も古い蒟蒻の食用の記述ではないかと思われる。江戸時代の学者、狩谷エキ斎が本書に詳しい注を付けている。それによれば蜀都賦の劉逵の注から本書が著されたということである。また、狩谷は著者である源順の誤りを指摘し、蒟蒻の名称のルーツについても論じている。ただ、『蜀都賦』に出てくる「蒻」と『説文』の「蒻」の相違がなぜ生じたかまでは論及していないのでそのことについては次の章で考察したいと思う。

 続いては『医心方』である。この頃になると記載内容が前二書に比べると格段に豊富になってくる。この書で初めて述べられている主なことは、蒟蒻の植物的性質、薬効等である。薬用については加工品であるこんにゃくだけでなく、蒟蒻の根を生のまま使う方法まで紹介されている。本書により日本人は蒟蒻が食品として利用できるだけでなく、食べると体に良く、薬として外用できるものだと知るわけである。このようなことがわが国においてこんにゃくが普及していく素地となったのではないだろうか。また、淡白な味が日本人に向いていたということもあるかもしれない。

 次の江戸時代の『本朝食鑑』からは、日本におけるこんにゃく食の充実ぶりが伺える。製法はこれまでの記載にみられたものより詳細に書かれており、その記述を読むと以前より手間ひまをかけて作られるようになったことがわかる。大まかな作り方は第2章の『本草網目』中の記載とほぼ同じだが、最後に再度湯で煮てアク抜きをするという工程が付け加えられている。また、ワセの稲ワラと一緒に少し煮るなどそのバリエーションも紹介されていたり、日本各地のこんにゃくについての記述があったりと、この時代にはこんにゃくが相当広く普及し、定着していたことが想像できる。

 次いで『大和本草』からは、製法のバリエーションが3、4種類存在するとの記述から、この当時、製法の工夫が盛んに行われていたことが予想できる。このことは上記『本朝食鑑』の考察でも述べた日本におけるこんにゃく食の普及、定着を裏付ける一つの根拠になるだろう。また、市場で売っているものは自家製のものに劣るとの記述からは、商品としてのこんにゃくと自家製のこんにゃくがこの当時併存していたことがわかる。
以上のことをまとめると以下のようになる。

 日本においてこんにゃくの基原植物が伝来したのは少なくとも『本草和名』が成立した10世紀前半より前で、その数年から十数年後には蒟蒻の食用も知られるようになった。10世紀後半には蒟蒻の具体的な特徴や薬用が伝わり、これが日本における蒟蒻普及の契機になったのではないかと思われる。江戸時代の17世紀末になると既に蒟蒻の食用が広く普及しており、こんにゃくの製法に日本独自と思われる工夫が見られ、京都や江戸にこんにゃくの名産地も生まれた。18世紀初めにはこんにゃくの製法は3、4通り存在し、市場で売っているものより、自家製のほうが美味しいとされていた。
 

第4章 蒟蒻の名と物―その混乱と変遷

1 ガマからコンニャクへ

 第2章と第3章では蒟蒻の歴史を国別にみてきたが、蒟蒻の名称について一つの疑問が残った。それは第3章で、後でこの章で取り上げるといったことである。蒟蒻はもともと「蒻」という名称で呼ばれていた可能性があることは第2章の考察で最初のほうに述べたが、この辺りのことを第3章で取り上げた狩谷エキ斎が『和名抄』の注で詳しく論じていた。狩谷エキ斎の結論は以下のようである。コンニャクはもともと「蒻」と呼ばれていたが、唐宋時代あたりから間違って「蒟蒻」と呼ばれるようになった。『説文』では「蒻」は敷物の材料に使う若い蒲を意味していて、コンニャクの材料になる「蒻」とは別物である。

 狩谷の結論はここまでである。では、なぜ蒲を意味していた「蒻」が全く別の植物である蒟蒻を意味するようになったのだろうか。この点に疑問を持ったので私なりにその変遷を考えてみたいと思った。

 まずはこの議論で用いる3種の植物について、予め説明を載せておきたいと思う。

図1 ガマ(『世界有用植物事典』より)
 まずはガマの説明からしたいと思う[15]。ガマ(蒲)はガマ科ガマ属の多年生植物で、学名はTypha latifoliaといい、湿地の浅い水底から直立する。高さは約2mになる。根茎は泥の中を横にはい、ここから直立茎を出す。葉は線形で、長さ1-2m、幅は1-2cmで無毛。6-8月に茎頂に穂状花序をつける。花序の上部は雄花群で、この部分は細い。各雄花は3本の雄しべだけからなり花柄基部に長い毛がある。花粉は4個が癒合している。花序の下部は雌花群で、上部より太く、直径1.5-2cmになる。葉や茎は敷物や籠すだれを編むのに用い、若芽は食用にされた。その葉で編んだ円座やむしろから、それぞれ蒲団、蒲簀などの名が起こった。

図2 ショウブ(『世界有用植物事典』より)
 次はショウブ(菖蒲)の説明をしたいと思う[16]。ショウブはサトイモ科ショウブ属の多年草で学名は、Amorphophallus caramusといい、湿地を好み、根茎は太く、地表を横にはい、2列互生に葉を出す。葉は線形で長さは40-150cm、幅は2-3cm程。葉間から花茎を出し、円柱状の肉穂花序に多数の花を密につける。乾燥させた根茎は痛み止め、止瀉や芳香性健胃剤に使われる。
 
 
 
 
 
 

図3 コンニャク(『世界有用植物事典』より)

 コンニャクの説明は第1章の記述を参照されたい。

2 どのような混乱が生じていたか
 
 それでは本論に入ろう。「蒻」は『説文』の時代まで蒲を意味していたのは前述の通りである。それが、なぜ『文選』が成立した7世紀末には属も科もまったく異なる蒟蒻を意味するようになったか。蒲から突然蒟蒻に意味が変化したと考えるのは不自然である。そこでとりあえずガマ科とサトイモ科の植物について『世界有用植物事典』を用いて調べてみることにした。するとサトイモ科の植物のなかに蒲に似た植物を発見した。それは図2のショウブであった。葉の形や穂の形等外見上は図1のガマに非常に似ており、同じサトイモ科であるコンニャクよりずっと似ているといえる。現在のような植物分類学の知識を持たなかった当時の人達は、この二つの植物を見て同じ仲間であると判断しても何ら不思議ではない。現にショウブは漢字で書くと「菖蒲」であり、「蒲」という字が含まれていることからも当時ショウブが蒲の仲間である思われていたと判断するのは妥当であろう。これが一回目の混乱である。

 それでは外見上異種と判断されていたとしてもおかしくないショウブとコンニャクはなぜ混同されたか。その原因はショウブとコンニャクの生態及び利用法の類似と当時の研究方法にあるのではないかと思う。

 ショウブとコンニャクはいずれも多年草であり、湿地に多く分布していて、根茎は肥えていて、薬用に供する。このような特徴をもつ2種類の植物は本草書に記載される内容もおのずとに似てくるだろう。前に述べた実際には間違いである滴露の説が『本草網目』まで数百年間記載され続けたことからも想像できるように、当時の研究者は書物を中心に研究を行い、研究対象の実物を見ずに著述を行っていた可能性が高い。もしそうであるとするならば、文献中にあらわれたショウブとコンニャクを混同した可能性も充分考えられるのではないだろうか。これが2回目の混乱である。

3 結論

 以上をまとめると、次のようになる。最初に「蒻」と呼ばれるガマ科の植物があり、これに似ているショウブも同種の植物と考えられたため同様に「蒻」と呼ばれるようになった。そして、ある研究者が「蒻」と呼ばれていたショウブの文献上の記載を見て、生態や用法が似ていたためコンニャクをこれと混同した。そして、ついにコンニャクを「蒻」と呼ぶに至った。ガマからコンニャクへはこのような変遷があったのではないか、というのが私の考えである。
 

おわりに

 学名をAmorphophallus rivieri Durieu var. konjac (A. konjac )という蒟蒻はサトイモ科コンニャク属の植物で、和名はコンニャク、中国名は魔芋。夏緑多年草で、地下に直径30cmをこえることもある大きな球茎を有し、東南アジア大陸部に分布する。

 蒟蒻の根茎であるコンニャクイモに含まれるグルコマンナンは、水を吸収すると膨張して、非常に容積が大きくなり、粘度の高いコロイド状態を呈す。これに石灰水その他のアルカリを加えて加熱すると、凝固して半透明の弾力のある塊になる。これが本研究テーマの「こんにゃく」である。

 今回の調査と考察の結果は次のようである。中国で一番古い関連記載は『文選』だった。が、『文選』の文章はもともと『蜀都賦』からの引用なので、「蒟蒻」という字を確認できる最古の文献は『蜀都賦』であったということになる。さらに『蜀都賦』の注によると、「蒟蒻」で一つの植物をあらわす考え方と、「蒟」と「蒻」でそれぞれ別々の植物をあらわす考え方の2通りの解釈が存在していた。仮に前者の説が正しければ、蜀都賦が成立した時代までその記録をさかのぼる事ができるが、『文選』に注をつけた李善は後者の説を支持しており、こちらの説のほうが正しければ、こんにゃくの基原植物はそもそも「蒻」という名前で呼ばれていたことになる。

 蒟蒻に関する記載はその後、中国では16世紀末の『本草網目』まで確認できる。その歴史の中で、食用にされていた蒟蒻の薬用が始まったのが遅くとも10世紀後半で、腫物・風毒・糖尿病に用いられた。こんにゃくの製法については基本的な部分は千年ほどの間で大きな変化は見られなかった。16世紀末には多少の工夫が見られたが、日本ほどは発展しなかったようである。

 日本では10世紀前半には中国から蒟蒻が伝来していた。その後間もなくこんにゃくの製法も伝わった。続いてより具体的な蒟蒻の特徴や薬用が伝わり、このことが蒟蒻が日本に根付く契機になったと思われる。17世紀末にはこんにゃくは広く普及、定着していたことが、こんにゃくを作る際稲ワラといっしょに煮たり、アク抜きをしたりといった日本独自の工夫が盛んに試みられていたことや各地にこんにゃくの名産地が生まれていたことから推測できる。この頃には生のコンニャクイモからこんにゃくを作る場合、既に現在とほぼ同じような製造工程が確立されていたと考えられる。日本は中国から知識を受容しつつも、独自にそれを発展させていったのである。

 そして最後に「蒟蒻」という2字が文献上に見られるようになってから、当初「蒟蒻」という字の意味に揺らぎがあり、ガマ科の植物を意味した「蒻」がなぜサトイモ科のコンニャクを意味するようになったかを探った。その結果、コンニャクと同じサトイモ科のショウブがガマに似ていたことがその変遷に大きくかかわっていたのではないかと結論づけた。

 蒟蒻の物と名、それから製造された「こんにゃく」には日中間にまたがる多様な歴史があり、今日の豊かなこんにゃく文化はそのようなの歴史の上に成り立っているものであるとことがわかった。
 

注と文献

[1]堀田ほか『世界有用植物事典』81頁、東京・平凡社、1989。

[2]桜井芳人『総合食物事典』241頁、東京・同文書院、1960。

[3] 肅統『文選』78頁、北京・中華書局影印倣宋版、1977。原文は「其園、則有蒟(倶宇)蒻(弱)、茱萸、瓜疇、芋(于句)区、甘蔗(之夜)、辛薑、陽{艸+區}(許于)、陰敷(蒟、蒟醤也。縁樹而生。其子如桑椹、熟時正青、長二、三寸、以蜜蔵而食之辛香、温調五臓。蒻草也。其根名蒻頭、大者如頭。其肌正白。可以灰汁煮則凝成、可以苦酒淹食之。蜀人珍焉。茱萸…)」。

[4] 段成式『酉陽雑俎』(『学津討原』所収本)169頁、台北・新文豊出版公司、1980。原文は「蒟蒻、根大如椀。至秋葉滴露随滴、生苗」。
               
[5]張存恵『重修政和経史証類備用本草』283頁、台北・南天書局有限公司、1976。原文は以下のごとし。
蒻(音弱)頭。味辛、寒、有毒。主癰腫、風毒。摩傅腫上。擣碎、以灰汁煮成餅、五味調和、為茹食。性冷、主消渇。生戟人喉、出血。生呉蜀。葉似由跋、半夏、根大如椀。生陰地、雨滴葉下、生子。一名蒟蒻。又有斑杖、苗相似、至秋有花直出、生赤子。其根傳癰腫毒甚好。根如蒻頭、毒猛、不堪食。

[6] 王毓瑚『王禎農書』169-170頁、北京・農業出版社、1981。原文は「備虫荒之法、惟捕之乃不為災。然蝗之所至、凡草木葉靡有遺者、独不食芋…。其余則果食之脯、…、棲於山者有葛粉、…、蒟蒻、…、皆可以済饑救倹」。

[7]李時珍『本草網目』514頁、北京・中医古籍出版社、1994。原文は以下のごとし。
「釈名」蒻頭(開宝)、鬼芋(図経)、鬼頭。
「集解」志曰、蒻頭出呉、蜀。葉似由跋、半夏、根大如椀、生陰地、雨滴葉下生子。又有斑杖、苗相似、至秋有花直出、生赤子、根如蒻頭、毒猛不堪食。虎杖亦名斑杖、与此不同。「頌曰」江南呉中出白蒟蒻、亦曰鬼芋、生平沢極多。人採以為天南星、了不可弁。市中所収往往是此。但南星肌細膩、而蒟蒻茎斑花紫、南星茎無斑、花黄、為異爾。「時珍曰」蒟蒻出蜀中、施州亦有之、呼為鬼頭。{門+虫}中人亦種之、宜樹陰下掘坑積糞、春時生苗、至五月移之。長一二尺、与南星苗相似、但多斑点、宿根亦自生苗。其滴露之説、蓋不然。経二年者、根大如碗及芋魁、其外理白、味亦麻人。秋後採根、須浄擦、或搗或片段、以{酉+嚴}灰汁煮十余沸、以水淘洗、換水更煮五六遍、即成凍子。切片、以苦酒五味淹食。不以灰汁則不成也。切作細絲、沸湯{サンズイ+勺}過、五味調食、状如水母絲。馬志言其苗似半夏、楊慎丹鉛録言蒟醤即此者、皆誤也。王禎農書云、救荒之法、山有粉葛、蒟蒻、橡、栗之利、則此物亦有益于民者也。其斑杖、即天南之類有斑者。

「気味」辛、寒、有毒。「李廷飛曰」性冷、甚不益人、冷気人少食之。生則戟人喉出血。
「主治」癰腫風毒、摩傅腫上。擣碎、以灰汁煮成餅、五味調食、主消渇。開宝
「発明」機曰、按三元延寿書云、有人患{ヤマイダレ+祭}、百物不忌、見隣家修蒟蒻、求食之美、遂多食而{ヤマイダレ+祭}愈。又有病腮癰者数人、多食之、亦皆愈。

[8] 西晋の人。字は太沖。賈謐のもとで秘書郎の職についたが、その賈謐が失脚すると彼は郷里に帰り、著述に専念した。后妃と繋がりがあったらしく、左思もそれを自慢したので郷里の人には重んじられなかったとも言われている。以下のWebページによる。
http://ha6.seikyou.ne.jp/home/anmt/home/setumei.html

[9]三国時代の魏・呉・蜀の都をそれぞれ論じてその優劣を競わせた、左思の代表作。この賦が広まると、印刷の無かった当時、皆がこれを書き写そうとしたため、洛陽では紙が飛ぶように売れ、そのため紙の価格が暴騰したと言う。そこから、ベストセラーのことを「洛陽の紙価を高める」と言うようになった。以下のWebページによる。
http://ha6.seikyou.ne.jp/home/anmt/home/setumei.html

[10] 深根輔仁『本草和名』下巻、54a葉、東京・日本古典全集刊行会、1926。原文は「蒟蒻、一名蒻頭、和名古尓也久」。

[11] 源順(狩谷エキ斎箋注)『箋注倭名類聚鈔』巻第9、43b-44a葉、東京・朝陽会、1921。原文は以下のごとし。
文選蜀都賦注云、蒟蒻。(以下原注)栩弱二音、古邇夜久。(以下狩谷注)下総本栩為枸、…。(以下本文)其根肥白、以灰汁煮則凝成、以苦酒淹食之。蜀人珍焉。(以下狩谷注)蜀都賦、其圃則有蒟蒻、茱萸。劉逵注云、蒟醤也。縁樹而生。其子如桑椹、熟時正青、長二、三寸、以蜜蔵而食之辛香、温調五臓。蒻、草也。其根名蒻頭、大者如頭。其肌正白。可以灰汁煮則凝成、可以苦酒淹食之。蜀人珍焉。此所引即是、按依劉注、蒟与蒻正為二物。説文亦云、蒟、果也。蒟今俗呼如金麻、蒻所謂古邇夜久是也。而唐宋以来俗誤蒻呼蒟蒻。本草和名、引新撰食経、有蒟蒻。酉陽雑俎云、蒟蒻根如大椀。開宝本草云、蒻頭一名蒟蒻是也。源君遂以蜀都賦蒟蒻為一物、誤。…。按説文、蒻、蒲子、以為平席、此不同。
 
[12] 丹波康頼『医心方』1263-1264頁、上海・上海科学技術出版社、1998。原文は以下のごとし。
蒻頭拾遺云、味辛、寒、有毒。主癰腫風毒、摩傅腫上。擣碎、以灰汁煮成餅、五味調和、為茹食。性冷、主消渇、生即戟喉出血。生呉蜀。葉如半夏、根如椀、好生陰地、雨滴葉下生子。一名蒟蒻。又有斑杖、根苗相似、至秋有花、直出赤子。其根傳癰毒、於蒻不食。

 [13 ] 人見必大『本朝食鑑』上、266-267頁、東京・日本古典全集刊行会、1933。原文は以下のごとし。
「集解」春生苗、至五月移之。長一・二尺、与天南星苗相似。但多斑点、秋開紫花結子。宿根亦生苗、経二年者根大如椀及芋魁。外黒、内白、有理。味戟人咽、亦麻舌。秋後採根、浸水以縄子擦去外黒皮、而洗浄細搗碎作餅。以{酉+嚴}灰汁煮十余沸、以水淘洗、換水煮五、六遍、成凍子。用時復煮湯四、五沸、去悪汁而食。或与早稲草同煮数沸、則作氷様、而味佳。京師丸山寺僧造之最称美味。江都以総州鍋山之産為佳。又有左倉之産、色黒而略粗。謂初以灰汁煮時入石灰少許、則然。其味亦殊而不足為佳也。
「気味」甘、冷、有小毒。
「主治」消渇、癰腫、然不可多食。若患癇症者可忌之。

[14]貝原益軒『大和本草』第一冊176-177頁、第二冊293頁、東京・有明書房、1983。原文は以下。
陰地ニウヘテモヨシ。市ニツクルハ自製スルニシカス。製法三四様アリ、堅キヲ良トス。市人ハ其多キヲムサホリテ柔ニス。虚冷ノ人ニハ宜シカラス。癇症ノ人、之ヲ食ヘハ発ル。必禁スヘシ。時珍云フ、切リテ細絲ト作シ、沸湯ニ瀉キ過シ、五味ニテ調へ食フ。状ハ水母絲ノ如シ。唐クラケヲ切タルニ似タリ、故ニカクイヘリ。細ク切リ、ヨク煮テ、此ノ如ク製スレハ、人ヲ害サズ。又大キク切リテ能ク煮熟シ、冷テ再煮タル、人ヲ害サズ。
其葉茎他草ヨリ早ク枯ル。其枯ル其根ニ灰ヲヲホフベカラズ。枯ヤスシ。(原文は基本的にそのまま引用したが、全体に句読点を付した。また、大和本草については、一部に返り点及び、送り仮名が付されているため、その箇所については書き下しに改めた)。

[15]前掲注[1]1069-1070頁

[16]前掲注[1]42-43頁