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真柳誠「宗田一先生の思い出」『漢方の臨床』43巻9号1883-85頁、1996年9月

宗田一先生の思い出

茨城大学人文学部教授 真柳 誠



 日本医史学会常任理事、京都の宗田一先生が七月七日になくなられた。

 宗田先生の医史学は、巨著『図説日本医療文化史』(思文閣出版)が示すように、全時代の各分野にわたる。むろん漢方医学の歴史についても、一次史料に基づく詳細な研究を重ねられてきた。著書は他にも数多いが、いつも「ワシはまだ現役や」と精力的に発表されてきただけに、連載中で未完のものが少なからずあり、残念でならない。

 先生が病に伏せられていたのは、しばらく前から伝え聞いていた。六月二十二日の医史学会総会で、京都の石原理年氏から危篤状態でもう面会もできないと伺い、驚き、とても悲しかった。七日の朝、訃報の電話を石原氏よりいただき、八日の通夜に小曽戸氏と京都へ向かう。私は心に多くの先生を師と仰いできたが、さらに宗田先生は親しく教えをいただいた師の一人。そして本当にかわいがっていただいた、とつくづく思う。会場に掲げられた先生の写真はいつものあの温顔である。写真を仰ぎながらこれまでの学恩に感謝を申し上げ、小曽戸氏と会場を後にした。

 私が薬学生のとき、酒井シヅ先生から受けた薬史学の授業は宗田先生の本がテキストだった。もちろん、どのような先生かは存じあげなかった。先生と面識を得たのは一九八四年だったと思う。この年は『医心方』撰進一千年にあたり、北里医史研でも『医心方』の研究発表会を開き、京都からゲストに宗田先生と杉立義一先生をお招きし、ご講演いただいた。その後も宗田先生が上京して宿泊されるたびに夜は大塚恭男先生らと酒宴となった。まもなく北里医史研の顧問になっていただいた。

 大塚先生は酒席で興が乗ると、よく漢詩を書かれる。一方、宗田先生は似顔絵を描かれることがあった。私は八四年六月十六日に四谷の店で描いていただいた私の顔らしき色紙を大事にしている。かなりの酔筆でとても似顔絵とはいえないが、なんとなく鼻と唇は強調してあるので、私の特徴を把握しているといえなくもない。後で知ったのだが、宗田先生は相当な絵心があり、戦中に北方領土に従軍していたとき、暇をみては風景画を描かれていた。戦後それらを絵葉書風にしたものを見せていただいたことがある。淡々としてはいるが、緊張感のあるきれいな水彩画だった。

 先生は大阪の十三にある武田杏雨書屋に週に数回行かれていたので、その日をみはからって杏雨書屋に古医書の閲覧に行ったことが何度もある。一人で行ったとき図々しくも安ホテルの予約までお願いしたことがあり、なんと私のアフター5のため十三の飲み屋街のはずれに宿がとってあったのには恐縮した。

 たいていは杏雨書屋が閉館したあと、十三の駅前でお酒をごちそうになりながらお話をうかがったりしたが、一度だけさらに梅田のホテルのバーまで足を延ばしたことがある。かなりでき上がっていたためか、先生は私と同齢のご子息が最近、とある事故でなくなられたことを口にされた。一回だけみた宗田先生だった。今はご子息と再会されていることだろう。

 もっとも親しくさせていただいたのは最近六〜七年である。それは京都の桂の山奥にある文部省の国際日本文化研究センターで、山田慶兒教授が主宰する隔月の共同研究会に私が参加するようになってからだった。そもそも研究会に参加したのは、すでに参加していた宗田先生が北里医史研からも誰か出たらどうか、と会の様子を教えてくださったことによる。研究会は毎回金土の二日間で、国際日本文化研究センターには阪急桂駅からバスで行く。しかも宗田先生のお宅は桂駅の近く。それで金曜の会の後、だいたいは駅前の居酒屋で先生の蘊蓄に皆で耳を傾けた。そういった席での話題でも、お願いするとすぐに関連文献のコピーを送ってくださった。

 もちろん研究会でも、そのことはあの本、どの論文に書いてあると的確に指摘される先生の博識を皆が頼りにした。そして問題の文献を翌日か次回に必ず我々に回覧され、貴重な古文献でもコピーを許された。「本は一行でも知りたいことが書いてあれば、買う価値があるんや」、という先生の言葉をいまも覚えている。

 この間の思い出はつきない。あるとき朝鮮医学史の泰斗、堺の三木栄先生のことに話が及ぶと、「いま会いに行かんと、もーあかへんで」とおっしゃる。三木先生のお話は大塚先生からたびたび伺い、そのご業績にも私淑していたが、一度も拝眉の機会がなかった。それで宗田先生と堺の長門谷洋治先生にお願いし、三木先生のお宅まで一緒にうかがったことがある。その半年後に三木先生はなくなられた。

 宗田先生は昨年の阪神大震災で自宅書庫の蔵書・文献が書架から崩れ落ち、どうしようもないと嘆かれていた。何十年もかけて書架に蓄積された大量の資料の位置記憶は、まさしく先生の学問と博識の根幹だったに違いない。その配置がひとたび混乱するとどうなるか。私ですら引っ越しのたびに痛感する。先生の場合は混乱どころではなく崩壊だった。しかも元の位置への復元は誰にも手伝えない。また、その頃からご病気が進行していたのだろうか。研究会の帰途お誘いしても、「本の整理でなー」と元気なく帰られる姿がとても痛々しかった。

 最後にお会いしたのは今年一月十九日の共同研究会の新年会のとき。私が茨城大教官に内定した話をご存知で、ひとめ会うなり「よかったなー真柳君」と喜んでくださった。その後、五月に研究会があり、私は授業と重なり参加できなかった。このときらしいが、先生は国際日本文化研究センターの玄関で倒れられ、以後、床に伏せられたままだったという。

 いまも目に浮かぶのは色白の赤ら顔で、「ワシはまだ現役や。なー」と上機嫌でおっしゃっていた先生の温顔である。そのとおり最後まで現役を全うされたが、日本の医史学はまたもや大切な学者を関西から失ってしまった。

 しかし幸せなことに、私は関東のかけだしとしては人一倍、宗田先生の謦咳に接することができた。しみじみ師に恵まれてきたと思う。あらためて宗田先生の学恩に感謝し、ご冥福をお祈り申し上げる。