さて江戸時代までは伝統医学が主流だったが、明治政府は欧米医学を修めた者のみ医師として開業を許可する一方、その医師が伝統医療を行うのは自由とした。これにより熾烈な漢方存続運動が明治中期まで行われたが、結局なにも叶えられなかった。現在もその政策・法律に基本的変更はない。
漢方存続運動をまとめた書に深川晨堂の『漢洋医学闘争史』がある。これによると慶応四年(1868)の太政官布達に西洋医術、明治三年 (1870)の高田藩の建言書に西洋医学が出現する。つまり西洋医学とは、明治初期から欧米医学の意味だった。のち洋医方・西医方・洋医・西医などの表現も出てくる。
ちなみに幕末から国学と漢学を皇漢学といい、のち和漢学と改称されたのに連動するらしく、明治一四年(1881)前後に頻繁に使用された皇漢医学は、その直後から和漢医学と改称されている。そして明治二六年(1893)初版の小泉栄次郎『和漢薬考』の前後より和漢薬の表現が定着したらしい。皇漢医学は昭和二年(1927)の湯本求真『皇漢医学』で再流行し、当時の中国も一部で使用したが、戦後は死語となった。
東洋医学の表現は、存続運動の一環で明治一四年(1881)に設立した和漢医学院を、明治二五年(1892)に東洋医学院と改称したのが早い用例だろう。明治二七年(1894)の『継興医報』第六号の漢方教育のカリキュラムにもみえ、同誌は和漢医術を東洋医学と同義で使用する。このように当初の東洋医学は和漢医学の意味だった。そして戦後に広く定着すると、広義にアジア伝統医学、狭義に東アジアの中国系伝統医学を指すように変化したらしい。
なお東京帝大は明治一〇年代後期から歴史を万国通史の科名で授業していたが、明治二七年の日清戦争を境に国史・西洋史・東洋史に分科し、のち東洋の用語が定着したといわれる。東洋医学の表現が出現したのも、そうした時代風潮と無関係ではなかろう。
中国・韓国は伝統医学を承認しているので、それぞれ中医学・韓医学を正式用語としている。しかし両国でいう西医学・西洋医学のほうは俗称で、やはり正称は医学である。
李氏朝鮮では自国の医学・医師を東医と呼んでいた。日本統治時代に漢方医学と東洋医学・西洋医学の用語が定着したが、解放後に北朝鮮は朝医学と改称。韓国では一九八〇年代から漢方医学を韓方医学に改称、さらに一九八六年から韓医学を正称とし、東洋医学の使用もまれになった。最近では韓医学をTraditional Korean Medicine だけでなくOriental Medicine とも英訳するので、東洋医学の意味も含むらしい。しかし俗称の西洋医学はいまも多用されている。
医療記事は甲骨文からあり、『周礼』天官は医師を食医・疾医・瘍医・獣医に分類し、『史記』倉公伝には淳于意のカルテがある。『漢書』芸文志の方技では医書を医経・経方・房中・神僊に分類、また馬王堆をはじめ各地から医文献や文物が出土している。
しかし医学大系は後漢時代に原形が編纂された古典の『素問』『霊枢』『神農本草経』『傷寒論』『金匱要略』などを基本とする。気を生命源とする本体系は、基礎医学の内経、診断学の脈診、薬物学の本草、薬物治療の医方、物理療法の経穴(ツボ)・針灸・按摩、運動療法の導引、食物療法の食経、性交術の房中など多方面にわたる。
三国から六朝時代にかけては、内経・本草・針灸・脈診・医方などの分野で発展がみられる。隋代には病因・病理書と医方書を政府が編纂、唐代でも政府が医方書・本草書を編纂した一方、医方を中心にそれらを集大成した医学全書や内経の注釈書が著された。
宋政府は医方書・本草書・経穴書を編刊、また古典と唐代までの準古典も校刊して民間に普及させた。唐以前の医書の多くは、この校刊があって今に伝えられたのである。
金元代には一種の復古主義がめばえ、いわゆる金元四大家などが古典を都合よく引用して理論統合をはかった。とりわけ病理・診断・薬理・医方の説明に臓腑概念を多用するが、かれらが宋の刑屍解剖書に触発されていたことは注目していい。
明代には宋医学と金元医学の融合が進む。古典研究も本格化し、論争が盛んに行われる一方、わずかながらヨーロッパ医学の受容が始まった。清代はほぼ明医学の延長だが、温病理論が出現している。
民国時代には現代医学との確執から伝統医学の理論体系化がなされた。これには江戸〜昭和初期の漢方・針灸書が少なからず寄与している。新中国では一九五六年から大学教育が始まり、いま世界でもっとも伝統医学の教育・研究・臨床が普及している。
さて中国医学は仏教と前後して日本へ伝来したともいい、その江戸時代までの伝来傾向は他の中国学芸と大差ない。ただし輸入のみに頼れない薬物、文字だけでは分からない技術などの問題で選択的受容と日本的発展がなされてきた。九八四年に撰進の現存最古の日本医書『医心方』はほぼ中国書の引文からなるが、脈診部分を除去したり、日本で入手可能な薬物による治療法のみ引く傾向がある。九一八年頃の薬名字典『本草和名』も日本産との同定で物産学や名物学の色彩が濃い。
多様な日本化は江戸前期からで、針灸の技術革新、固定処方の運用による適応症の明確化、独自の古典研究などがはじまる。一八世紀前半には清初の『傷寒論』研究の影響で『傷寒論』への復古をいう古方派が出現した。かれらは実証主義から五行説・臓腑説さらに陰陽説や伝統的薬能まで疑う。その一方、腹診技術を復元・発展させ、処方適応症と構成薬の分析から薬能を帰納するなどした。これに対し従来の医学に立脚するのを後世方派、双方の長所を採るのを折衷派と呼ぶ。
ただし古方派の一部は『傷寒論』をかなり独善的に解釈する。それもあって江戸後期に清朝考証学を導入した考証学派が幕府医官を中心に興った。かれらの精緻な研究が清末から民国時代に伝えられ、理論体系化に寄与したのは前述したとおり。その研究は明治初期まで続いて多くの研究業績を遺したが、いまもって一部しかのりこえられていない。じつに偉大な日本化のひとつといえよう。
針療法は人体のツボ(経穴)などに金属針を刺し、ツボの配合、針の金属種と太さ、刺す手技・方向・深さ・時間などで効果が違う。灸は、ヨモギの乾燥葉をつきつぶして得たモグサをひねり、ツボの上などで燃やす療法で、ツボの配合、モグサの品質とひねり方、燃やす方法と回数などで効果が異なる。針と灸は併用されることが多く、刺した針頭でモグサを燃やす灸頭針などの方法もある。
針灸の起源を『素問』異法方宜論は「{石+乏}石は東方より、灸炳は北方より、九針は南方より来たる」と記すが、信憑性は定かでない。この{石+乏}石とは石ばりで、切開や排膿などに漢代ごろまで使用されたが、金属針の普及で廃れていった。九針は金属針で、漢代から普及したらしい。河北省満城県の劉勝(靖王、前一五四〜一一三在位)墓からは金針と銀針が出土し、山東省微山県から出土した二世紀前半の画像石には人面鳥身の針医が描かれている。針療法は{石+乏}石の発展と思われるが、入れ墨から開発されたとの説もある。
モグサ(艾)や灸の記録は先秦からあり、馬王堆出土医書には灸療法のみで針療法がないので、灸の開発が先といわれる。モグサで灸するのは、ヨモギの葉をいぶして邪気をはらった風習に由来するのかも知れない。
なお今日の日本は新字で針灸と書かず、ふつう辞書は旧字の鍼灸を用い、公文書は旧字を使えないので「はり灸」とする。これは当用漢字で「針」が新字と規定された当時、裁縫用は針でいいが、人体用は鍼だと針灸界が主張したことによる。ただし誤認で、『集韻』に「針は鍼也」とあるように、古くから鍼の略字として用いられていた針を当用漢字が採用したにすぎず、いずれが裁縫用か人体用かの区別は本来ない。中国や日本の古医書にも針の略字は多出する。
語源は『淮南子』に本経篇、『呂氏春秋』に本生篇・本味篇、『論衡』に本性篇があるように、本とは本源の探求をいう。また『漢書』芸文志に「経方は草石の寒温に本づく」とあって薬物を草石と呼び、うち草薬が主なのは今も変わらない。この本と草から薬物学を本草と呼んだのだろう。
のち本草は有用天然物学、さらに有用・無用を問わない天然物学へも発展するが、その主な目的は以下の三点に整理できる。
第一は物の真偽と良劣を判別し、各々が由来する動・植・鉱物を解明すること。ために同名異物・異名同物などの考証が要求され、名物学にも発展した。また産地・採取時期・薬用部位の物産学、乾燥・加工・保存の炮製学、重量・体積の度量衡も品質保証に必要で、それら歴代記録が本草に集積された。
第二は作用の網羅と整理で、これに五味・四気・毒の三概念が初期段階より各薬物に規定された。酸・苦・甘・辛・鹹の五味は作用成分の象徴で、およそ現代の栄養素に相当する。寒・熱・温・涼の四気は病体を暖めたり冷やす作用を帰納した概念。さらに生体への有用性を有毒・無毒に総括する。一方、効能を古くは「下痢を治す」のように症状で表現した。唐代前後から「胃腸の冷えを治す」のように病理・臓腑を介した表現が増加し、宋末からこれに五味・四気を組み合わせた薬理説が出現。これは金元代から流行し、明代から効能表現の主流となり、現中国にいたる。ただし日本では江戸中期以降、それら薬理説の思弁性を批判する立場が主流である。
第三は使用法の体系化で、とくに他薬との相乗作用を単行・相須・相使・相畏・相悪・相反・相殺の七情で規定することが六朝以前より盛んに議論された。薬物特性や病状に応じた煎剤・散剤・丸剤などの剤型、時間・分量・年齢・体力に応じた服用法も早くから議論されている。
薬物や有用物、さらに天然物全般の情報を集積し研究する分野を中国で本草という。ここでは以下の代表的本草書を紹介する。
『神農本草経』
三六五種を載せる。一〜二世紀の成立だが、秦の薬名もみえ、漢以前の内容があるのは疑いない。書名の神農はもちろん仮託である。本書は魏晋南北朝までに各種伝本が派生していた。そこで陶弘景が五〇〇年頃に上薬と中薬の各一二〇種、下薬一二五種の三六五種に整理すると同時に別の三六五種も増補、さらに加注した『本草経集注』を編纂した。本書全体は『本草経集注』でしか伝わらない。
内容は総論部の序録に上中下薬の定義、薬物の配合原則、五味・四気・毒の薬性などが記される。各論部は上中下薬に三分、薬ごとに正名・別名・五味・四気・毒性・産出地・採取時期・適応症が記される。とくに無毒で長期服用が可能な長生薬を上薬、有毒で短期のみ服用可能な治療薬を下薬、その中間を中薬と三分するのは、人間への有用性で自然物を類別する中国本草だけの視点である。
『本草経集注』
陶弘景が五〇〇年頃に編纂した前述書で、全称を『神農本草経集注』という。『神農本草経』文を朱筆、三世紀頃の薬物書『名医別録』文を墨筆で書き分ける。『名医別録』から三六五種を増補して計七三〇種とし、注を墨筆の細字双行で加えて本書三巻を編纂。のち注文も大字にして七巻本に改めた。三巻本の断簡がトルファン、七巻本の巻一が敦煌で発見されたが、完全な伝本はない。
陶弘景は本書総論部分の序録にも自注および合薬分剤料理法・諸病通用薬などの諸篇を増補。各論部分では玉石・草木・虫獣・果・菜・米食の六類に自然分類し、その中で上中下分類を併用、さらに実物不明の有名無実薬を巻末に一括した。これらの形式は後述の『新修本草』『証類本草』も踏襲する。
『新修本草』
唐の六五九年、高宗の勅で七巻本『本草経集注』全文を核に蘇敬らが八五〇種に増補、また加注した二〇巻本で、中国全土に頒布された世界初の国定薬物書。日本へは奈良時代に伝来して平安末期まで広く研究利用された。京都の仁和寺に鎌倉写本の巻四・五・一二〜一五・一七〜二〇が幕末まであったが、現在その一部は転写本のみ伝わる。敦煌では巻一・一〇・一七・一八の一部が発見された。
本書は唐の南北統一と国際交流で薬種が増加したこと、南方で編纂した『本草経集注』の陶弘景注には北方物産の情報が不充分だったことを主な理由に編纂された。そのため陶弘景注の全文を収録するが、ほぼ毎条に強い反駁の注が加えられている。
『証類本草』
宋政府も前代の本草書を核に国定本草書を編刊した。それらは九七三年の『開宝新詳定本草』から、一一五九年の『紹興校定経史証類備急本草』まで計九回に及ぶ。いずれも原刊本は伝存しないが、一一〇八年の『経史証類大観本草』三一巻、一一一六年の『政和新修経史証類備用本草』三一巻、一一一九年の『本草衍義』二〇巻の三書のみ後世たたび復刻されて全体が現伝する。『経史証類大観本草』を『大観本草』、『政和新修経史証類備用本草』を『政和本草』と略称し、両書まとめて『証類本草』という。
約一七五〇種を載せる両『証類本草』は、『神農本草経』を核に歴代本草書のほぼ全文を雪ダルマ式に集積している。そのため各文献への遡及が容易で、史料価値がきわめて高い。現代の復刻本も多い。
『本草綱目』
明・李時珍の編纂。全五二巻に一八九二種を載せる。一五九二年頃の成立で、一五九六年初版の金陵本が日・中・米に計一一点現存する。日本へは一六〇七年に初渡来と通称されるが、一六〇四年以前の渡来が正しい。現在まで中国・日本で夥しく復刻、各国語にも翻訳され、巨大な影響を与え続けている。
『証類本草』までの上中下三分類と雪ダルマ式編成が利用に不便なので、本書はすべて自然分類で配列。各薬物ごとに名称・形状・作用等の項目を立て、歴代の記述を再編している。金元以降の薬理説も博採した。これにより史料性より名物・博物・臨床などの面が強調されたが、引用文は省略・改変・誤謬が多く、注意して利用しなければならない。