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『漢方の臨床』54巻5号730-732頁、2007年5月

目でみる漢方史料館(225) 大英図書館所蔵の敦煌医薬文書(3)『張仲景五蔵論』
    解説   真柳  誠


 図1 S.5614(14頁)『張仲景五蔵論』冒頭(大英図書館蔵)

 『張仲景五蔵論』は仲景の名に託し、唐代頃に作成された。その研究報告は日中ともに多いが、今回初めてカラーで紹介したい。

 『五蔵論』の名は『隋書』経籍志に初出し、仲景作とする『五蔵論』は北宋の『崇文総目』が最初。のち『通志』芸文略や『宋史』芸文志に「張仲景五蔵論一 巻」等が著録され、敦煌では『張仲景五蔵論』四点が発見された。さらに李東垣の師、張元素が一一八二年に序を記した本書も存在する。元素一門が引経などの 臓腑用薬説を提唱した背景には、彼らが見ていた北宋の刑屍解剖記録『存真環中図』(一一一三)と本書の影響も考えるべきだろう。日本では九世紀『日本国見 在書目録』の「五蔵論一巻」が初出で、一二世紀の『薬種抄』に『耆婆五蔵論』、一四世紀の『万安方』『福田方』に『五蔵論』の引用がある。このように『五 蔵論』は漢字文化圏に広く流布したが、のち次第に散佚していった。

 図1・2はAurel Steinが敦煌より将来し、いま大英図書館にあるS.5614の一部。表紙を除き計七葉(第五紙のみ半葉)を綴じた約三〇×二一・五㎝の蝴蝶装冊子で、 およそ一〇世紀の筆写とされる。紙の両面に墨書されるので、現在は各紙を表裏に剥離し、間に料紙を入れて中打ちされ、表紙を第一頁として第二八頁まで現代 の頁数が鉛筆で記入される。全体は「占書」『張仲景五蔵論』『平脈略例』の順で記され、『平脈略例』後半には内容の異なる「五蔵脈候…」「占五蔵…」の二 篇がある。図1は第一四頁『張仲景五蔵論』巻頭で、「五蔵論一巻 張仲景撰/普(薬)名之部。出本於医王皇(黄)帝□…/有一千余巻。耆婆童子、妙閑□… /何能備矣。…」とある。図2は第一六・一七頁で、頁が左右に完全に開く蝴蝶装の特徴がよく分かる。








図2 S.5614(16・17頁)『張仲景五蔵論』(同前)



  ところで、『高麗史』の文宗十二年(一〇五八)には『傷寒論』『張仲卿五蔵論』等の刊行が記され、『傷寒論』の刊行は中国より七年早い。この張仲「卿」だ が、現代の韓国音で卿と景は共にkyeongなので、高麗時代でも同音だった可能性が高く、それで仲景が仲卿に転訛したのだろう。というのも朝鮮時代の 『医方類聚』(一四七七)は『五蔵論』を引用し、その佚文が敦煌本や元素本『張仲景五蔵論』とよく合致するからである。










 『医方類聚』は一五三種以上の中国医書から類集するが、うち四〇種ほどはすでに現存しない。それゆえ多紀元堅らは『医方類聚』より佚書三五種を輯佚していた。その一つに『五蔵論』がある。


図3 採輯本『五蔵論』封面(小島尚真・森立之旧蔵、京都大学附属図書館蔵)  図4 採輯本『五蔵論』第7葉(同前)

 図3は喜多村直寛(学訓堂)が所有の木活字(聚珍版)で一八五一年に序刊した採輯本『五蔵論』の封面で、彼は翌年より『医方類聚』も木活字で復刊し始めている。図4の 四行目以降に「薬名之部所出。医王黄帝、造針経暦有千余巻。薬姓名/品、若匪神仙、何能備著。…」とあるように、S.5614『張仲景五蔵論』冒頭とかな り似る。なお当書の多紀元胤跋(一八二〇)は弟の元堅が採輯した(一八〇九)と記し、これを『崇文総目』著録の「耆婆五蔵論一巻」かと疑っていた。

(茨城大学人文学部)