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『漢方の臨床』54巻4号558-560頁、2007年4月

目でみる漢方史料館(224) 岸田吟香の広告錦絵
    解説   真柳  誠


 日本初のジャーナリスト、明治の先覚者と呼ばれる岸田吟香(一八三三~一九〇五)は、日・中にまたがる多彩な活動で知られる。この吟香による美しい錦絵の売薬広告を紹介しよう。

 若き日の吟香は幕末の昌平黌で学んだ。一八六三年に横浜でヘボン(一八一五~一九一一)の眼病治療を受けて全治し、彼の診療と研究を手伝うようになる。 同六六年、ヘボンに同行して上海で日本初の和英辞典、ヘボン『和英語林集成』の活字印刷・校正に従事、日本初のカタカナ活字の版下も作製した。辞書の完成 で帰国した六七年、ヘボンに学んだ眼薬「精錡水」の製造販売を始める。これは硫酸亜鉛の約〇・二%水溶液で、精錡とは亜鉛のZincを中国音漢字で記した 宛字。六八年にも上海へ渡り、精錡水の取次所を置いた。当時は眼病が日・中ともに国民病で、精錡水は両国の伝統薬より著効したからである。

 一八七二年、『東京日日新聞』創刊にかかわり、のち主筆・編集長として筆をふるう。同七五年には銀座で楽善堂を開き、七七年に新聞社を退社すると各種事 業に専念した。精錡水の取次所は日本各地に広がり、八〇年には上海に楽善堂支店、のち中国各地に支店を設置。新聞ほか新旧の各種広告媒体を駆使し、精錡水 は日・中で模造品が出たほど売れた。当時の上海新聞『申報』によると、上海楽善堂は毎年正月に多色刷りの新旧暦兼用カレンダーを上客に贈っている。ほぼ同 時期に吟香は日本でも多色刷りの錦絵(各々約三六×二五㎝)を配布していた。

   図1
 図1(錦絵「
精錡水・楽善堂三薬」、京都大学附属図書館蔵。大きな画像はココを クリック)はそのひとつで、二本の掛け軸に精錡水と楽善堂三薬の広告、手前の机に精錡水の瓶が見える凝ったデザイン。右軸にこうある。「精錡水/此御目ぐ すりは美国(アメリカ)の大医より直伝の名法にして、日本国中ただ我が一家の外には決して類なき妙薬なり。是まで世間にありふれたる目薬は何れも粘りたる 煉薬の類にて、却て目の害となること少からず…」。

図2   
 図2(錦絵「楽善堂三薬」、京都大学附属図書館蔵。大きな画像はココをクリック)の錦絵も凝ったデザイ ンで、和装・洋装の男女が見上げる巨大な石碑に、楽善堂三薬の広告がこう刻まれる。「補養丸/精根を補なひ、元気を養なふの良薬なり。性質の弱き人、また は病後産後の肥立かねたるによし。婦人ちのみちに妙…。/鎮溜飲/りうゐんの妙薬なり。胸膈を開き、脾胃を健かにし、食物のこなれを能し、腹中を調へ…。 /穏通丸/つうじの御薬なり。胸つかへ、腹はり、食物すすまず…」。

 この意表をついた広告は明治前期に流行した錦絵新聞の延長らしく、アイデア・デザインとも基本は吟香のものだろう。画家は「鮮斎/永濯」とあるので狩野派の浮世絵師・小林永濯(一八四三~九〇)で、彫師は「彫銀」とあり、二人とも明治前期~中期の錦絵に名を遺す。

 なお吟香は一八八〇年に築地の校舎で視覚障害者に授業を開始した「訓盲院」の創設に参加、同九八年には中国でアヘン中毒矯正の「戒煙医院」設立も計画した。こうした慈善事業等に精錡水で得た巨万の富を惜しげなくつぎ込んだのは、ヘボンの影響もあったといわれる。
(茨城大学人文学部)