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『漢方の臨床』49巻8号1002-1004頁、2002年8月(これに図版を補足した)

目でみる漢方史料館(170)

北京大学図書館所蔵の日本旧蔵古医籍三点     解説  真柳  誠


 十三年前になるが、本欄の第一九回で北京大学図書館に唯一ある現存最古の元版『金匱要略』を紹介した。当館の善本古籍は中国屈指で、その多くは李盛鐸の旧蔵にかかる。李氏は清末の高官で、駐日公使として明治三十一年(一八九八)に来日、書誌学者・島田翰の助力で多量の善本古籍を購入して帰国した。李氏の死後、その蔵書が北京大学に購入されたため、同図書館には日本旧蔵書が多い。むろん古医籍も多々ある。

 一昨年の四月、北京で共同研究の報告会を行ったとき、一日だけ当館に訪書することができた。伝統建築の趣があった以前の館ではなく、壮麗な近代建築だったのにも驚いたが、複写申請した書をその場でスキャンし、フロッピーで渡されたのには驚愕した。こんな経験は以後もない。

 さて当館には梶原性全(一二六六〜一三三七)の医学全書、『万安方』がある。その巻一目次部分には、森立之(一八〇七〜一八八五)の「森氏開萬/冊府之記」、立之弟子の「青山求精堂/蔵書畫之記」、小島宝素(一七九七〜一八四八)の「小島氏/圖書記」、渋江抽斎(一八〇五〜一八五八)の「弘前{醫−酉+巫}官澀/江氏蔵書記」などが捺され、旧蔵者の変遷を示している。


上左:巻十八後補鈔本末尾の森立之没年の識語 上右:巻一目次部分


上 写真1 『万安方』書末識語(北京大学図書館所藏)

下 写真2 同前
 写真1は本書末尾で、右には多紀元堅(一七九六〜一八五七)の「丹波元堅」や、抽斎の「籀斎校定」「鈔寫旡/畢讀/誦亦遍」などの印記もある。以下写真2までは晩年の立之が述懐した自筆識語で、次のように記される。

 この書およそ六十二巻(もと十八を闕く)五十九{竹+冊}(冊)。澁江籀(抽)斎、蘭軒伊澤先生(一七七七〜一八二九)臧本に就き人をして書写せしめ、手ずから綴装す。事は文政季間に在り。籀斎没後、小嶋寶素君架中および久志本占恒室の庫に入る。しかして遂に{艸+(頤−頁)}庭先生(多紀元堅)の臧となす。全巻は籀斎の手校するところ。籀斎、校合に最も精密をなし、蘭・{艸+(頤−頁)}門中に在りて巨擘たり。今この書、わが臧に帰すは固より偶然にあらず。籀斎と余が兄弟の約をなすは、文政己卯(一八一九)に在り。時に余は年十三、籀斎十五。爾後、世海風波に相い浮沈をなし、悲愛を倶にす。前時を想い見れば則ちこれ一夢。嗚乎その人すでに去り、その書なお存す。この書に臨む毎に潜然たらざることなしや。
 明治己卯(十二年、一八七九)二月一日、七十三翁 枳園








写真4 同前書末(同前所藏) 写真3 古活字版『察病指南』巻頭(同前所藏)

 写真3・4は堂々たる古活字本『察病指南』の巻頭と書末で、当本は稀覯に属す。墨筆の訓点や送り仮名は江戸初期の書き入れらしい。これも立之の旧蔵だったことが、写真4にある「森氏」と「青山求精堂/蔵書畫之記」の印記から分かる。


上左:楊上善『黄帝内経明堂』序頭 上右:同書表紙・外題(「双鉤胡蝶式装冊」という)


写真5 同書巻一末尾(同前所蔵)

 写真5は仁和寺本の楊上善『黄帝内経明堂』巻一を斐(雁皮)紙に模写し、裏打ちして胡蝶装に綴じた末尾。斐紙は日本特産につき、幕末から明治初期頃の写本かともおもえる。当時の精緻な模写は、まず文字の輪郭を細筆で「双鉤」に描くという話を仄聞していたが、まさにそれが実証されている。旧蔵者は分からないが、中央の印記は「李盛鐸印」(回文印)と「木齋/審定」で、ともに李盛鐸のもの。双鉤本の楊『明堂』は小島宝素が巻子本として影鈔し、これを来日した楊守敬が入手、それを内藤湖南が(中国で)入手して杏雨書屋に現蔵される。守敬は帰国翌年の一八八五年に双鉤線装本を斐紙に影鈔し、台湾中央研究院傅斯年図書館に現蔵される。すると守敬は日本の斐紙も影鈔用に持ち帰っており、斐紙の当本も守敬が中国で影鈔し、李盛鐸に譲渡したのだろう。

(茨城大学人文学部/北里研究所)