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『漢方の臨床』42巻6号658-660頁、1995年6月

目でみる漢方史料館(85)

唐代の薬価記録−トルファン出土物価(市估)文書        解説  真柳  誠


 生薬価格の記録は近世以降にままあるが、中世以前となると日中ともにほぼ皆無にひとしい。ところが唐代の薬価を記録した公文書が、京都・龍谷大学の大谷文書に唯一まとまって所蔵されている。今回これを同大図書館のご好意で紹介しよう。

 いま銀行と呼ぶように、隋唐代の各都市には金銀行や絹行そして薬行など同業商店街を意味する「行」が、長安の東市だけでも二百二十行あったという。そして唐政府の関市令により、市の官員が各行の品目別等級ないし高値・安値による時価を参照し、十日ごとに三段階ときに九段階の公定市価を決定・記録していた。当時これを市估と呼び、物品の公費購入などに利用したが、取引価格を規制するものではなかったらしい。

  長安から二千数百kmの交河郡城(現在のトルファン)は西州の中心地で唐代の人口数万、当地でも市估が記録されていた。その天宝元年(七四二)夏頃の記録がのち廃紙とされ、トルファン郊外アスターナやカラホージャの墓室内で装飾などの材料に再利用されていたのである。この一部が龍谷大学蔵大谷文書の物価文書で、大谷光瑞の命により中国西域・中央アジアを探険した橘瑞超が、第三回第二次の探査で一九一二年頃に発掘したらしい。いずれも裁断などで不完全ではあるが、これまで仁井田陞・池田温・小田義久ら各氏の研究により相当に明らかにされ、三〇以上の紙片に約八〇薬の薬価が判読できる。

写真1(三〇五四は大谷文書番号で以下同)は右上の「菓子行」より果物の行の市估、また「交河郡都督府之印」の印から同都督府の倉曹参軍事に提出されたことが分かる。「乾葡萄壱勝  上直銭拾柒文  次拾陸文  下拾伍文/大棗壱勝  上直銭陸文  次伍文  下肆文」と記すので、干葡萄と大棗の上中下等品各一升はそれぞれ一七・一六・一五文と六・五・四文だった。一文は開元通宝一枚の値。写真2は中央の「菜子行」以下に蔓菁子・蘿蔔子・葱子とあり、タネ屋の行の市估と分かる。

  ところで唐代は薬物の度量衡に小制を用い、重さは通常の両の三分の一ゆえ「小両」と記した。一方、写真3・4・5はもと墓室の天蓋装飾部分。これと靴底状の写真6・7は薬名のみで、単位がみな「壱小両」なので薬行の市估と推定できる。判読可能な薬名は順に、兔絲子・亭歴子・[蛇]床子・薏苡人・萎蕤・[恒]山・獨活・羌活(写真3)、决明子・菴閭子・蜀柒[漆]・猪苓・貫衆・大戟・茵芋(写真4)、伏苓・[呉?山?食?]茱萸(写真5)、天門冬・酸棗・犀角・白石脂(写真6)、[代?]赭・昆布・白芷・知母(写真7)である。

  これら薬価はかなり正確に市価を反映しており、都とも大差はなかったと考証されている。そこで一処方六味で各三小両とすると通常生薬で百文前後となり、玄宗ごろの豊作時でも27.5kg分の米価にあたると宮下三郎氏は換算する。この時代かくも遠隔地まで多種の薬物が流通していたが、とうてい庶民が普通に利用できる薬価ではなかろう。当文書が語るものは多い。

(北里研究所東医研・医史学研究部)