中国山東省の省都・済南から南に百数十キロメートル、長距離バスで数時間のところに孔子のふるさと曲阜がある。ここは儒学・儒教の聖地として名高く、すでに紀元前から孔子が祀られてきた。現在の孔廟(孔子廟)は明清代の雄大な建築で、北京の故宮をやや小規模にしたほど。その最奥にある大成殿の左手前に、もとは孔子の弟子・七十二賢を祭祀した西廡という建物がある。いま西廡には歴代の石碑等が多数陳列され、そのなかに山東省で出土した漢代の画像石がある。
針医とみられる人面鳥身の漢代画像石は、これまで八点ほどが出土している。うち四点が孔廟の西廡に保管され、いずれも山東省微山県北部の両城山地域から出土した。同地からは紀元一三〇・一三七・一三九年の年代を刻む画像石が出土しているので、人面鳥の画像石もおよそ二世紀前半、後漢中葉の作らしい。一九八三年の三月、洛陽・長沙・福州などの史跡めぐりに貧乏一人旅をしたとき、人面鳥身の針医みたさに曲阜まで足をのばしてみた。
図1は拓本で有名な縦84センチ・横80センチの画像石。二段目の左端に上半身が人で下半身が鳥の針医がみえ、針医の右の人物のみ冠をつけずに髪をたらす。これは他の針医画像石にもみえ、病人の形容という。上段の赤い色はペンキでつけた整理番号の跡で、別の画像石にも多い。図2は二段目のクローズアップ。左手に砭石様の器具を持って病人の肩付近にかざし、右手は脈診でもしているように見える。針医の翼の先に別な鳥がとまっているのも、なにか意味ありげで面白い。
図3は全体が縦94センチ・横92センチの石で、その上方約3分の2の部分。二段目に図1・2とよく似た人面鳥身の画像があり、頭部のデザインや両手の位置まで酷似する。右側の三人は髪をたらしているので病人だろう。するとこの人面鳥も針医で、右手で病人の手を持つのは脈診かも知れない。左手の先は欠けて不明だが、やはり砭石でも彫られていたのだろうか。
図4は全体が縦45センチ・横
155センチあり、その上段右側の部分。写真より細部まで明瞭な拓本なので、『文物』一九七二年第六期四八頁より転載した。図5(『山東中医学院学報』一九八一年第三期六〇頁より)はその模写で、髪をたらした女性とされる二人の病人と一児、および人面鳥身の針医が描かれる。病人の頭部・肩・腕・手には細い多数の置針が刻まれ、人面鳥も右手に細長い針を持ち、いまにも頭部に刺さんばかり。当然これは砭石でありえず、金属針だろうという。
伝説の名医、扁鵲の鵲は鳥のカササギで、伝説では山東と関係が深い。人面鳥の針医画像石も山東しか出土例がないので、あるいは扁鵲伝説と関連するのかも知れない。
ところで東京は湯島聖堂、その孔子廟の傍らにはかの神農像が祀られている。くしくも両国の孔子廟はともに、医学と縁深い伝説の像を安置する。なんとも不思議な因縁というべきか。