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真柳誠「漢方薬の気味概念」『日本医事新報』3244号128-129頁、1986年6月28日

漢方薬の気味概念

北里研・東洋医研医史学研究室 真柳誠


〔問〕 漢方薬では、その薬物を表すのに、性味(気味)たとえば「桂枝・性温・味辛甘」が使われるが、性味・気味はどのように定義され、どのように使われているか。歴史的にいつ頃からこの考えが出てきて、今までにどのように変遷しているか。現在使われている性味表はどのようにとらえるべきか。
(愛知M生)


〔答〕 ご質問内容は、漢方薬の気・味について、(1)定義、(2)使われ方、(3)歴史変遷、(4)現在使用される「気味表」のとらえかた、の四点に分けられる。そこで各々に対し、順に説明を加えることにする。


(1)気(性)・味の定義

  薬物の気(性)や味は伝統医学上の概念であるため、近代科学的ないわゆる“定義”はない。しかし、それに代わるべき“定説”的なものはあり、現代中国の伝統医学(中医学)の書物は一般に両概念を以下のように説明している。

  薬物の「性」とは主に寒・熱・温・涼四種の薬性で、古くはこれを「四気」と称した。これらは薬物の作用に対する生体反応を概括したもので、熱証を軽減治療するのが寒・涼薬、その反対が熱・温薬である。寒と涼、熱と温は程度の差で、普通はさらに“大”や“微”が付されて大寒−寒−微寒などと区別がつけられる。また寒涼や熱温の作用が顕著ではない緩和な薬性を“平”とするが厳密には微寒や微温の一部でもある。

  薬物の「味」は習慣上、辛・甘・酸・苦・鹹を「五味」と称するが、他に淡や渋の味が加えられることもある。これら薬味はまた薬物の作用標示でもあり、歴代の用薬経験を総合すると、次のような作用があるとされている。

〔辛〕発散・行気・行血・潤養  〔甘〕補益・和中・緩急  〔酸〕収斂・固渋  〔苦〕泄・燥  〔鹹〕軟堅・散結・瀉下  〔淡〕利湿・利尿  〔渋〕固渋

  また陰陽の属性では、辛・甘・淡は陽、酸・苦・鹹は陰の性格を持つ味である。

(2)気・味概念の応用

  両概念は各々単独に、またはその気・味を共有する薬物の類称として用いられることが多い。たとえば頭痛・発熱・悪寒などの表証に用いるいわゆる発表薬には辛味が共通するが、さらに各薬気の相異から、桂枝などの「辛温」発表薬、薄荷などの「辛涼」発表薬の両類に大別される。また処方や治療法の類称にも、温補剤(人参湯等)、苦寒剤(黄連解毒湯等)、甘温徐熱法(補中益気湯)のように使用される。

  このほか、薬物や処方の効能説明に、前述した気や味の作用・性格が利用されることもあるが、とりわけ薬味をこのように応用することには批判が多い。

(3)気・味概念の歴史変遷

  この方面はこれまで系統的研究がなされていないので、やや多岐にわたるが、筆者の調査と考察結果の概略を述べることにする。

(a)気について
  薬気概念は、悪寒や発熱という疾病の最も普遍的症状に対し、薬物(食物)で人体を暖める・冷やす、というきわめて自然な発想に基づいている。それゆえこの概念の発生は世の東西を問わず、人類による医薬の認議とほぼ同時とも思われる。

  その記載は、伝存の中国医書では前三世紀末頃成立の『五十二病方』に、飲酒で身体を暖める治療法、前九一年に成立の『史記』扁倉伝にはその発想が陰陽論で解釈された「夫れ薬石に陰陽水火の斉(剤)あり」という記述がみえる。七八年頃成立の『漢書』芸文志に至ると、「草石の寒温」という薬気の表現が初めて出現する。

  そして三世紀初にはほぼ原型が成立していた『神農本草経』に総論として前付される序録には、「寒を治するは熱薬を以てし、熱を治するは寒薬を以てす」という完成した薬気概念の記載がみられる。だが各論の個々の薬物には「寒・微寒・平・微温・温」の五段階で薬気が表示されながらも、序録では「薬に…また寒熱温涼の四気あり」と四段階が記され、表現も少々異なっている。両者の相異は恐らく記載時代の前後によるものであろう。

  さらに三世紀中頃の『呉普本草』では、大・小を付した「大寒、小寒、大温、小温」、五世紀末の『名医別録』では「冷」などの表現も加わってくる。以後清代までの歴代本草書の大多数は、総論に「寒熱温涼の四気」などと記述はするが、各論の各薬条には「大寒・寒・微寒・平・微温・温・熱・大熱」の八段階で表示するのが一般的で、かつ「涼」や「冷」はあまり使用されない。だが、今日の中国では涼を徴寒と同義とし、微寒薬が別書では涼薬と記される例がある。なお、現在は「性味、四性、薬性」と記されることが多いが、『神農本草経』以来の伝統的表現に従うならば、「気味、四気、薬気」と記述すべきであろう。

(b)味について
  中国の薬物書中、五味に関する最も古い記載は、前述『神農本草経』序録にある「薬に酸鹹甘苦辛の五味あり」である。また同書の各薬物条にも各々の薬味が表示されている。しかし、このように薬物の味をいちいち五種の味で表記することに何の意味があるのか、同書には一切説明されていない。

 ところで、これとほぼ同時代の医書に由来すると考えられる『素問』『霊枢』には、五味の作用・副作用・禁忌症、五味と臓腑・身体器官との親和性、五味による養生・治療などの論説が多数収録されている。それらは主に食物の味に関する論説なので、『周礼』天官に記録される古代中国の「食医」という医官等との関連が疑われる。また、各論説の背景にある五行説には様々な発展段階がみられ、多くは各々の五行論理から味の作用等が演繹・整理されている。

 つまり古代中国では味を栄養の象徴とみなし、それゆえ、薬物の如く顕著ではない食物の効能推定に、各時代・各流派毎に各々の五行論理から味の作用等が論説されたものと考察される。

  このような五味に関する論は主に食養生の方面で八、九世紀頃まで盛んに行われたらしく、古くは三世紀初の張仲景の著作に由来するとされる『金 要略』の第二四篇、また七世紀中期・孫思邈著『千金方』巻二六などに五味と食事治療・養生等の記載がみられる。

  そのほか『五行大義』や『医心方』には、現存しない隋・唐以前の諸「食経」等から多くの五味と食養に関する佚文が引用されている。それらは特に季節・時期との関連で味や食物の宜禁を定めた論が多く、これを発展させて“五運六気”理論に整理・思弁化したものとして、『素問』に王冰が補入(七六二年)した「運気七篇」中の諸論説を挙げることができる。

  以上のように五味論説は本来、食養思想と密接な関係にあったと推測されるが、これが具体的な薬物治療に応用された記載は、『褚氏遺書』『元和紀用経』など一〇世紀以前の医書中にもある程度見出される。そして宋代を経て一二世紀初・金代以後は、主に『素問』『霊枢(針経)』中の五味論説が、薬物や処方の効能解釈、あるいは逆に効能解釈に都合よい薬味の設定に大々的に応用され始めてくる。さらにそれは薬気の概念と組み合わされて、「引経報使」「帰経」「昇降浮沈」説などいわゆる“金元薬理説”が提起される基盤ともされている。

  これらはその後、部分的には修正を経ながらも現代の中医学にまで受け継がれている。だがわが国では、江戸中期の古方派出現を契機とし、『素問』『霊枢』流の五味論説を薬物や処方の効能解釈に応用することは慎まれるようになっている。

  困みに『神農本草経』は各薬物に一種の味しか表記していないが、陶弘景がこれを修訂(五〇〇年頃)した際、『名医別録』所記の味が異なるものは両者の味を併記している。これ以降一薬につき一種以上の味を表記することが一般となっているが、現存文献中で一薬多味の最も早い記載は、『呉普本草』の引く『扁鵲(経)』にある「紫葳(の味)、苦鹹」だろう。

  恐らく『神農本草経』の段階では、薬味は品質判定や鑑別の意味を兼ねて、その薬物に最も顕者な一味が表記されたものと思われる。だがその後、より正確に味を表示するためや、同薬名でも基原植(動・鉱)物、用薬部位、産地、採取時期等の相違から書物により味が別々の場合、さらに実際にはない味を薬物の効能に適合するよう五味論から演繹・新定した場合、などの理由で一薬多味の表記が一般化したと考えられる。しかし同一薬物に対し、歴代の本草書間で異なる味が表記されている場合、それが上述のどの所以によるのかを論定することはきわめて難しい。

(4)「気味表」の評価

  現在、わが国の漢方医学参考書のあるものには「気味表」が付録され、和漢薬書も多くは各薬に気味が記載されている。ところが、それらは相互に必ずしも一致していない。もちろんこれは日本に限らず、昨今の中国も同様である。その原因はそもそも歴代の本草・薬物書に、往々にして同一薬名に対し異なる気味が記載されており、現在の編者が各自の判断で任意の気味をそれらより選定しているからに他ならない。

  時代や場所が違えば同一薬名でも異物である可能性は大きく、ましてや編者が同一ではない各本草書間で、気味が相異するのは当然である。したがって「気味表」には、現在使用の薬物と同一物を記述している本草書の掲げる気味を引用するのが最も理想的である。だが、その判定は実際上不可能に等しい。それゆえ主観を一切加えず、同一薬名につき歴代本草書の記載を網羅するのが次善ではあるが、そのような「気味表」も存在しない。現時点では『証類本草』『本草綱目』『中薬大辞典』の各薬物条から、歴代の気味の記載をみるのが最も正確といえよう。

  だが気味は薬物の効能のある面を、気と味の両概念で整理したものにすぎない。それゆえ薬物の効能の簡称化と記憶に便利ではあるが、それ以上の価値を持つものではない。現在通行している諸「気味表」も、以上のような意味において理解されるべきであり、また臨床に利用されるべきであろう。