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真柳誠「大塚恭男先生を追慕する」『漢方の臨床』56巻4号615-620頁、2009年4月

大塚恭男先生を追慕する

茨城大学教授  真柳 誠

 

 大塚恭男先生が二〇〇九年三月八日にご逝去され、もう二週間がすぎた。九日に訃報を受けたとき、いいようのない空しさにおおわれ、どうしても仕事に手が着かない。それで急ぎあちこちに連絡した後、帰宅して先生の思い出を妻と語りつつ夜を過ごした。十一日の通夜では懐かしい先生の温顔を仰ぎ、初めて悲しみがわき上がってきたが、今も空しさが心を占めている。時に思い出しては、大塚先生とつぶやいてしまう。一昨日の朝ようやく、これが心に穴の空いたような気持ちなのだと気づいた。

矢数道明・大塚恭男両恩師と共に(1986年7月23日矢数所長退任記念祝賀会)〔他は左より筆者・土屋伊磋雄・小曽戸洋・平馬直樹各氏〕
 私は矢数道明先生と大塚恭男先生に仕えさせていただき、多くを学び、人生の恩師と尊崇している。道明先生と永別したときは沈痛の一方で、感謝の気持ちに満たされていた。どうして恭男先生では心に穴が空いてしまったのだろう。うまく整理できないが、師と仰ぐ以上に先生が大好きで、心のボスとしていたからかもしれない。私は北里東医研に在籍した十三年間、公私ともに先生にかわいがっていただき、主人に従う子犬のように慕い続けてきた。でも永別がこんなに早く来るとは。

 先生に初めてお会いしたときのことは今も憶えている。一九八三年七月に中国留学から帰国した後、小曽戸洋氏らのお誘いをいただき、東医研で医史学を研究したいと決意した。道明所長からは留学中に幾度となくお手紙をいただいていたので、このことを相談申し上げると、医史学研究室長を兼任されていた大塚副所長が同意なさるなら宜しいでしょうとのこと。そこで恭男先生の面接を受けたのだった。

 緊張して副所長室に入ると先生はにこやかに、何を研究したいのですかと質問される。そこで当時ずっと考えていた本草の薬性論ですと答えると、すかさず『呉普本草』で神農や黄帝などの流派ごとに異なる薬性を記すのをどう思いますかと尋ねられ、吃驚した。恥ずかしいことに、恭男先生の医史学・本草学のご研究をまったく存じ上げなかったのだから。ただ運のいいことに、私は当時中国で内部出版だったガリ版刷り『呉普本草』をコピーし、『神農本草経』と読み較べなどしていた。これが尚志鈞という本草学者の重輯で、解説に多紀元胤・森立之・岡西為人の業績が何度も引用されているなどと述べ、冷や汗だらけで面接をなんとか通過した。それから先生への師事が始まる。

 本草がお好きだった先生は度々語られた。「見えない病気相手の医方より、見える薬物相手の本草は具体的に研究できる」「本草は記述年代が分かりやすいので、歴史研究に向いている」などなど。また大プリニウス『博物誌』にあるサソリ毒とトリカブト毒の相殺記事より、『呂氏春秋』にある「萬菫不殺」とは、萬(サソリの象形)と菫(トリカブトの古名)の毒が相殺する意味と喝破された。これは二千年の訓詁を正すご研究で、永遠に遺る業績である。私もサソリの咬傷にトリカブト末を使う治療が今本『肘後方』にあるのを見つけ、先生に報告して喜んでいただいたことがあった。大黄の薬用がローマ・中国ともに一世紀に始まることも、ギリシャの万能解毒薬テリアカがらみで先生にお教えいただいたひとつ。ドイツ・オーストリア留学で医史学に興味を持たれ、帰国後は順天堂の医史学研究室で小川鼎三教授の最初の門人となられた、大塚先生ならでは研究成果といえる。こうした東西医薬の比較研究は江戸の考証医学者ができなかった仕事、と先生は述べられていた。私も先生に倣い、漢字文化圏の医学史を比較研究するようになった。

 先生は沢山の患者さんを待たせないため、いつも昼食が夕方になってしまう。そして夕方の用件がないときは、しばしば私たちを副所長室(のち所長室)に招き入れて下さる。これが無上の楽しみだった。先生の机の後の棚には、当時の私たちには縁遠かった美酒が沢山ある。それで勝手に大塚酒庫などと呼んでいたが、センベイをつまみにグラスを傾け、貴重なお話を拝聴した多くの楽しい時間を、いま夢のように思い出す。

       温顔の大塚先生
 学会や研究会の宿泊先でも、一同でお話をうかがったことは数え切れない。毎年の東洋医学会と医史学会の学術総会、富士市での東西比較医学史シンポジウム、道明先生の主唱で発足した東洋医学研究機関連絡協議会の会合などなど。先生は気どらない飲み屋がお好きで、ご自宅近くの店にはよく皆でお伴させていただいた。酔うと必ず漢詩を口ずさみ、時には揮毫される。運良くいただけた揮毫は日付・場所のメモと一緒に横浜の自宅に保存してあるが、いま茨城にいて見ることができない。

 漢詩以外にもマッカーサーの「Old soldiers never die, they just fade away(老兵は死なず、ただ消え去るのみ)」や、井伏鱒二の名訳「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」をしばしば口にされた。九六年の四月末、茨城大学に赴任する挨拶でご自宅へうかがったときには、「人生朝露 芸術千秋」と揮毫された写真の色紙をいただいた。これはヒポクラテスの箴言「Life is short, the Art long(人生は短く、術のみちは長い)」を先生がみごとに漢訳されたもので(郭沫若訳か)、以来ずっと研究室に掲げている。するとよく揮毫された「人生無別離 誰知恩愛重(人生別離なくんば、たれぞ恩愛の重きを知らん)」も、どうやらご自作の句らしい(小曽戸氏メモに蘇軾作と)。こうした別れの言葉をいつも口にされていたので、先生との永別にも無常感だけを強くおぼえるのだろうか。

 先生の話題は私たち相手のせいかほとんど医史学がらみで、尊敬する学者の話が多かった。岡西為人先生では、京都のご自宅を訪問したときのこと、晩年にお見舞いに行くと酸素テントの中で著書のゲラ校正をされていたこと。三木栄先生では、医史学会が終ると「おい大塚君、一杯やろうか」とよく誘われたこと。九二年十二月に三木先生の訃報を朝刊で知り、外来を終えた先生と二人でなんとかお通夜に間に合うよう、堺までとんぼ返りしたのも思い出す。かつて先生は宮下三郎先生の研究に感銘を受け、杏雨書屋に初めて訪ねると本人自ら「そんな人知りまへんなー」と、とぼけられたことを楽しそうに何度も話された。私も親しく学ばせていただいた宗田一先生とは、本当に楽しく痛飲されていた。みな上方の医史学者で、今はもう宮下先生だけになってしまった。

 私は大塚先生のご紹介により、三木先生・宗田先生・宮下先生・山田慶兒先生など多くの先生方と知遇を得てきた。また一九七一年にウィーンで開催されたアジア比較医学史の会議で、先生はもっとも若い発表者だったウンシュルト氏と出会い、以来ずっと氏の才を高く評価されていた。そのご縁で私もウンシュルト氏と親しくさせていただいている。みな先生のおかげである。ウンシュルト氏には三月九日に先生の訃報をメール連絡し、追悼文を翌日いただいたので大塚家に転送、また本誌にも載せてもらうことにした。

     先生からいただいた揮毫
 先生のご業績はとても多いが、東洋医学界と医史学界への貢献も大きく、その恩恵を私たちは受け続けている。医史学会の常任理事として東洋医学史の研究を牽引されてきたこと。小川鼎三先生のあとを承け、谷口財団による東西比較医学史国際シンポジウム(一九七六~九八)を酒井シヅ先生と開催され、アジアと欧米の若手研究者の交流と育成に努められたこと。このシンポジウムには私も二度参加させていただき強い刺激を得たが、先生たちと過ごした泊まり込みの楽しい日々は忘れられない。しかし私たちにとって最大の恩恵は、道明先生に協力されて北里東医研に医史学研究室(医史研)を開設されたことだった。矢数・大塚両所長のもと、存分に研究させていただいたおかげて今の私たちがある。

 当初は研究室といっても小曽戸氏が非常勤で書庫の一角で研究する状態だったが、氏が常勤になってからは徐々に研究室の体制が備わってきた。私も八三年九月から九二年三月まで非常勤、のち常勤として九六年四月まで医史研に在籍させていただいた。恭男先生は八二年に副所長、八六年から九六年六月まで所長を勤められたので、このほぼ全期間に仕えることができた私は幸せというしかない。不得意だった英文サマリーを、先生に真っ赤に直していただいたことまである。そして道明先生を後ろ盾、恭男先生をボスとし、医局から花輪壽彦・安井広迪・平馬直樹ほかの各氏、外部からも客員研究員が続々と参加して医史研は多くの研究と仕事を達成してきた。

 八〇年代は研究会を幾度も開催し、みな三十代で血気盛んゆえ、最後は取っ組み合いになるほど真剣な議論を重ねたこともある。医史学会総会では医史研の演題が十題ほどになり、そのパワーで学会の空気が一変したと思う。ついには大塚軍団と呼ばれたが、それを先生はとても満足げにされていた。先生をボスとした最大のイベントは、一九八七年の第八八回医史学会総会だろう。白金の北里大学を会場に、先生は会頭として「隋唐の医書にみる精神病とその治療」を講演された。私たちは嬉々として準備に奔走したが、とても助かったのは先生が派手な演出等を好まず、万事質素にするよう申されたこと。それで予算があまり、総会後に伊豆まで一泊の慰労会に出かけたのを、いま楽しく思い出す。

 ただ東医研第三代所長となられた八六年からは、診療を終えた後も会議などが多くなり、先生の蘊蓄を拝聴できる機会は徐々に少なくなっていった。この時期、先生は『中国本草図録』全一一冊の日本語版企画を中央公論社から引き受けられ、先生の監修と私の翻訳編集により九三年に完結したのも思い出ぶかい。これで科名・種名や植物学用語・化学成分・病名ばかりか、色彩表現まで日中の相違と翻訳関係を私は習得することができた。すでに翻訳出版されていた日本語版『中薬大辞典』に先生はご不満だったので、私たちの訳に満足していただけたのがとりわけ嬉しかった。

 先生のお宅にも年始のご挨拶や大塚敬節先生ご蔵書の目録作成などで、よく伺わせていただいた。そうした時いつも先生の書斎で食事やお酒をいただいたが、目を引くのは普通には見ることができない貴重なご蔵書の数々。ヨーロッパや中国関係が多いが、それらを手に取り、ひとつひとつ入手の経緯や内容を説明される先生のご様子が今も目に浮かぶ。みな先生あってのことと深謝せずにはいられない。しかし、もう二度とお目にかかることができなくなってしまった。

 私は先生よりちょうど二十歳下だが、初めて拝眉させていただいたとき、柔和だがリーダーとしての風格に私は惹きつけられた。このとき先生は五十三歳だった。三木栄先生のお通夜の帰途、車中で三木先生の思い出をしみじみ語られた先生は六十二歳だった。そうした先生に馬齢だけ近づいた今、先生に仕えた楽しい日々を思い出している。先生からいただいたご数々のご恩に、どう感謝申し上げたらいいのだろう。竹林の七賢、とくに稽康に共感されていた先生ゆえ、こう申し上げればちょっと微笑んでいただけるかもしれない。

 私は虚にして往き、先生の恭しく泰然とした仁愛につつまれた。いま幽居された先生を追慕し、いただいた大きな教えと充実した日々、そして学恩の重さをかみしめている。

 先生のご冥福を衷心より祈り申し上げます。

二〇〇九年三月二十二日