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真柳誠「消息 第十一回国際東アジア科学史会議」『日本医史学雑誌』51巻4号663-665頁、2005年12月
消息 第十一回国際東アジア科学史会議
二〇〇五年八月十五日から十九日にかけて、ドイツ・ミュンヘン市のドイツ博物館でInternational Society of theHistory of East Asian Science, Technology, and Medicine (ISHEASTM)国際東アジア科学技術医学史学会による11th International Conference on the History ofScience in East Asia (ICHSEA 2005)第十一回国際東アジア科学史会議が開催された。主催はミュンヘン大学医史学研究所所長・教授のPaul U.Unschuld博士。著名な中国医学史研究者として知られ、ドイツ語・英語を含めた著書は数多く、『黄帝内経素問』『難経』の英文訳注書もある。
会議には世界各国から一二七人が参加し、うちISHEASTMの会員が七〇名、非会員が五七名だった。これを参加者の国・地域別でみると、中国二五、ドイツ二三、アメリカ一七、台湾十五、日本一四、イギリス九、韓国八、フランス七、オランダ・スイス各二、オーストリア・カナダ・イタリア・シンガポール・スペイン各一となる。以上はウンシュルト教授からいただいた数字だが、欧米の機関に属するアジア人も少なくなかったので、参加者の国籍ではなく、所属機関の国別数字だろう。
発表は三会場でほぼ並行して行われた。抄録集によると全演題は計一〇三(うち少なくとも一題は欠演)に及ぶ。それらを各発表の筆頭者が所属する組織から国別に集計すると、ドイツ二三、中国二一、アメリカ十二、台湾一一、日本一〇、イギリス・フランス各七、韓国四、オランダ二、スイス・スペイン・イタリア・オーストリア・カナダ・シンガポール各一となる。また各演題が主な対象とした国・地域でみると、中国五九、台湾三、中国―西洋一三、中国―アラブ一、中国―琉球一、中国―日本二、台湾―日本一、日本六、日本―西洋四、韓国―日本一、韓国二、韓国―西洋一、韓国―中国一、ヴェトナム三、ヴェトナム―西洋一、東アジア三、アラブ一だった。さらに各演題の分野を大別すると、医薬五一、天文・暦学一二、機械・技術八、数学七、生命倫理五、科学全般・西学各四、工芸・地理・道教各二、人類学・計量・物理・農学・植物・考古学各一となる。
各演者・タイトル・要旨等は以下のウェブページhttp://www.igm.med.lmu.de/aktuell/ichsea.htmlで閲覧できる。ともあれ以上の参加者・演題内容から、いかに多様な発表が行われたか、また大きな傾向もご理解いただけるであろう。本学会員からは以下の六発表があった。
八月十六日
・Wolfgang MICHEL(九州大学)「十七世紀日本における西洋の蒸留技術とヨーロッパ・日本間の植物学的相互影響」
・John MOFFETT(ニーダム研究所)ら「「青蒿」の治療的特徴」
八月十八日
・Harm BEUKERS(ライデン大学)「日本江戸時代の西洋医学紹介における図画の役割」
・月澤美代子(順天堂大学)「日本の明治初期におけるドイツ医学の導入と人体解剖模型の製作開始」
八月十九日
・真柳誠(茨城大学)「周辺国における中国医学受容の史的傾向―現存古医籍の調査研究から」
・Andrew E. GOBLE(オレゴン大学)「中世日本における「業病」パラダイム―梶原性全のハンセン氏病への関与」
今回の会議は筆者にとって初めての参加だったが、多彩な演題と数の多さに圧倒された。同時に各国、とりわけヨーロッパの研究者が東アジアとくに中国の医学史・科学技術史に大きな関心を持ち、真摯に研究している現況がつぶさに理解できた。これは主催したウンシュルト教授のミュンヘン大学医史学研究所関連の発表が多いばかりでなく、ケンブリッジのニーダム研究所やロンドン大学東洋アフリカ学部の中国科学医学史部門が近年、ウェルカム財団の支援によりきわめて活発に研究活動していることの反映であろう。
講演・発表は相互にいささか離れた三会場でほぼ同時に行われたにもかかわらず、皆が移動を厭わず会場を行き来し、いずれの会場でも発表後に質疑応答が制限時間いっぱいまで交わされていた。むろん一部には耳や目を疑う発表や、失笑をかった質問もあったが、筆者の見聞範囲では最新の研究成果が欧米の研究者からも多数発表されていた。いささか残念だったのは中国からの参加者のかなりが、自らの発表時以外は会場にあまり姿を現さなかったこと。欧米の中国研究はレベルが低いという声も彼らから聞こえたし、英語だけの発表・討論に不慣れなことや、観光に出かけたい気持ちも少しは理解できる。しかしあまりに失礼と思えたので、中国の一友人に夜郞自大ではないかと、つい嫌みを言わざるをえなかった。
会場の運営は実にスムーズで、発表時間のずれこみなども一切なかったのは、座長の任をウンシュルト教授や彼の研究所員とご家族で主に担い、時間を厳格に管理したことが大きい。また各会場とロビーにはテクニカルスタッフもいて、発表用パワーポイントファイルの受付と試験放映をしたため、会場で放映画面がフリーズするような困った場面は見なかった。
会議以外にも初日を除いた毎晩、会場や出し物に趣向を凝らした懇親会があり、ビールやワインで昼間の緊張をいやすことができた。特に印象的だったのはドイツ博物館長の招待宴で、何と博物館の飛行機史展示会場で開催された。メッサーシュミット戦闘機やロンドンを爆撃したV1・V2ロケットまで現物が展示してあり、宴席の頭上には様々な飛行機が天井から吊され、ドイツの工業力をまざまざと実感できる。いささか驚いたのは招待宴の冒頭にあった中国科学院自然科学史研究所の劉頓所長のイブニング・スピーチだった。主旨は清朝末期におけるドイツを含む八国連合軍の侵略や日清戦争の敗北が近代軍事技術の軽視に起因したこと、いま中国人はこの歴史教訓を忘れていない等だったため、展示物と相まって会場が凍りついたように感じられた。中国人の間からもTPOをわきまえないとの意見が後日あったほどである。
会議の中間にあたる十七日は全日の小旅行としてアルプス山麓のBerchtesgadenまで大型バス二台で行き、十六世紀から始まったという岩塩採掘場を見学した。独特なトロッコに乗って全体が一種の博物館になっている過去の坑道奥深くまで入り、採掘技術史等の説明を受け、まさに科学技術史の会議にふさわしい見学会であった。
このように会議の五日間は朝から夜まで盛りだくさんのスケジュールに追われ、心身共に疲れたというのが本音である。しかし当会議では小さなトラブルすら見かけなかったし、かくも周到に準備された国際会議は初めて体験した。仄聞によるとウンシュルト教授は各種財団から五万ユーロを調達し、この数ヶ月は本会議の準備だけに費やしたという。この場を借りて氏の熱意と努力に感謝申し上げ、労をねぎらいたい。
(真柳 誠)