現代医療にはたす漢方の役割が増大するにつれ、臨床報告や研究論文に中国医学古典籍の記載を安易に典拠として引用する例が多見されるようになった。その一つに『神農本草経』がある。ところが『神農本草経』はいずれの版本も復原本であり、江戸末の森立之による復原の精度が現段階でもっとも高いことは、中国はおろか日本でも意外に知られていない。
もちろん他の『素問』『霊枢』『傷寒論』『金匱要略』とて、それらが漢代頃のまま現代に伝承された訳ではない。しかし、こと本草書に関しては、梁の『本草集注』から宋の『証類本草』に至るまで、歴代の増補・改訂が雪ダルマ式に重ねられ、中心たる古い部分ほどその影響は大きい。しかも改訂毎にその前の書は不用となる運命のため、全体が伝わるのは最後の『証類本草』系のみである。まして最初の『本草集注』以前は手掛りとなる文献が格段に少なく、それ以前の『神農本草経』の旧態を浮び上らせるのは並みたいていではない。
さいわい日本は古文物の保存率が中国より高いため、江戸末の考証学派の医家らは『新修本草』『本草和名』『医心方』などの古写本を発見。それら善本古文献を駆使して『本草集注』を復原し、この成果の上に森の『神農本草経』が復原・刊行された。ただし個々の字句を復原するための考証は複雑で、森立之の序文と考異よりその全体を窺うのはほぼ不可能といっていい。
一方、二〇世紀初頭になると敦煌や中央アジアから、『本草集注』『新修本草』『食療本草』などの古写本残簡が次々と発見された。これらは宋以前の本草を考察する上で、さらに森立之らの復原をより完璧にする上で、またとない資料である。まず岡西為人氏が『新修本草』の復原を完成された。次はその前の『本草集注』である。これに渡邊氏は真正面から取り組まれた。
当目的のために、氏は着実に研究を重ねられている。とりもなおさず、それは江戸考証学者と同様の軌跡をたどることになるが、より完璧な研究を系統的に結実されていった。宮下三郎氏が本書の跋文に述べられるように、渡邊氏は本草医書の研究にあたり、まず『証類本草』『本草綱目』を書誌学的に体系化された。当成果はその後、岡西氏の『本草概説』に十分に取り込まれている。次いで『本草集注』の復原に進まれ、これに至る考証の過程を多くの「文献学的」研究論文にまとめ、続々と『日本東洋医学会誌』に発表された。これらの「文献学的」研究論文シリーズは問題意識が専門にすぎるためか、当時も今も漢方界や医史学界であまり評価されていないように見受けられる。しかし中国の研究者に与えた影響はすこぶる大きい。一連の古本草を復原された尚志鈞氏、医薬古籍の文献書誌を研究される馬継興氏など、渡邊氏の論考を基礎とする研究業績はかえって中国に多い。
渡邊氏は医学に関し、もう一分野の研究をされている。宮下氏が跋に述べられる応用研究がそれで、白眉は「然が宋より将来の京都・清涼寺釈迦像胎内から発見された内臓模型について、研究班に参加された報告の論文二篇である。氏はこのため、古代中国の解剖といえば華佗のみ挙げられる通説に満足せず、中国解剖史を草した後に臓腑認識の変遷を闡明し、釈迦像内の五臓を研究された。氏の秩序だった研究方法はここにも現われている。
まさしく渡邊氏の業績はゆるぎなく、数十年を経た今も価値はいささかも減じていない。本書には氏の本草医書に関する代表的論文二〇篇が収められているが、その数篇は評者もかつて未見であった。評者が氏の論文に接したのは、岡西氏の『本草概説』に引かれた文献名より『東洋医学会誌』をめくったのがきっかけであるが、今でもその時のショックは忘れられない。そして今、本書に接し当時反復して読んだ記憶が再び蘇った。
すでに没後二十余年とはいえ、私淑し、敬愛してやまぬ渡邊幸三氏の論文が一書となったことは、評者一人の喜びではない。いみじくも宮下氏が述べられるように、森立之をはじめとする江戸医学館の学者による本草学の研究は、のち岡西為人・渡邊幸三・森鹿三氏ら上方の学者により継承・発展されてきた。本書はその中にあって、日本で完成された本草書の体系的研究の水準を示すものとして、斯界への更なる発展に強固な基盤を与え続けるであろうと確信している。
なお本書は書店にて購入できないので、左記の発行者に直接申し込むこと。
[武田科学振興財団杏雨書屋 大阪市淀川区十三本町二−一七−八五 A五判 総五一七頁 一九八七年十一月初版 一〇、〇〇〇円(送料込み)]