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真柳誠 書評:山田慶兒編『東アジアの本草と博物学の世界』(上・下)
『日本医史学雑誌』
421120-122頁、1996


山田慶兒編『東アジアの本草と博物学の世界』

 一九八九年から五年間、文部省の国際日本文化研究センター(京都)で「東アジアの本草と博物学の世界」のテーマにより山田慶兒教授主宰の共同研究が行われた。志を同じくする同センターの専任教官と来訪研究員および全国の研究者が参加し、交互に発表と討議を交わす二日間の共同研究会が計二七回、調査旅行が三回なされた。同研究会の中間報告集、山田編『物のイメージ・本草と博物学への招待』は昨年四月に朝日新聞社より刊行されたが、本書二冊はその最終報告集にあたる。評者も当共同研究に参加したが、諸事情で本最終報告集には寄稿できなかった。その責も兼ねて、本書を簡単に紹介しようと思う。

 全体で計一二論文が収められるが、なにしろ対象が本草や博物だけに話題も広い。まず目次で示すと、それらは以下のように七分野に大別されている。

 上冊:I分類/U記述/V描写下冊:W施策/V渡海/Y考証/[企画。下冊巻末には索引(人名・書名)もある。

 さてI「分類」では山田慶兒「本草における分類の思想」、木村陽二郎「植物の属と種について」、西村三郎「東アジア本草学における植虫類」の各論文が載る。

 山田氏は中国における事象の分類方法と思想を、本草書ほか歴代文献より抽出して日本のそれと比較し、日本では技術的思考や実用主義・生態学的視点が顕著だったことを明らかにした。

 木村氏はヨーロッパで確立された植物学名と属・種の概念、また日本の本草書で従来用いられていた属・種の相違に着目し、かつて日本の本草学者が漢名に和名をあて、近世以降ヨーロッパ植物学の受容により植物学者が和名に学名をあててきた歴史を分析した。

 西村氏は、かつて西欧博物学でサンゴなどが動物とも植物とも鉱物とも分類できず、ゾフィータ(植虫類)と呼ばれたが、東アジアの本草や博物学では問題視されず、人間に有用な部分のみに注目してバラバラに分類されてきたことから、東アジアでは物自体の本性を見究める思考が弱かったことを指摘する。

 U「記述」では宗田一「幕府典薬頭の手記に見える本草」、白杉悦雄「日本における救荒書の成立とその淵源」、小林清市「清朝考証学派の博物学」、正木晃「漢訳本前期密教教典にあらわれた医療関連記載」が載る。

 宗田氏は今大路親顕の『商山年譜』の記載を中心に、朝廷・幕府への屠蘇調進、江戸の官営薬園、官営薬園の薬種下付、和薬検査、官版『和剤局方』の各々について史実を明らかにした。

 白杉氏は明の『救荒本草』と江戸時代の飢餓を契機として多量に出現した救荒書を、建部清庵の『民間備荒録」を中心に分析し、それらの成立条件を考察している。

 小林氏は『爾雅』釈草篇の各古注を分析したうえで、清朝考証学派がそれら「もの」に対し訓詁学や音韻学を用い、いかなる態度で考証したかを論じる。

 正木氏は前期密教教典に多い医療関連記載を、病因・病種・治療法の各面から検討し、それら現実的マニュアルが中期密教の隆盛した背景にはたした役割を指摘した。

 V「描写」には塚本洋太郎「秘伝花鏡小考」、榊原吉郎「十八世紀の植物写生」、磯野直秀「江戸時代動物図譜における転写」の各論文が載る。

 塚本氏は中国の花卉書として最初に栽培法まで記載した清代の『秘伝花鏡』について、その性格を論じ、日本の園芸書や中国本草書などと比較考察した。

 榊原氏は十八世紀の京都の画風が変化した一因に写生画の問題を提起し、植物写生を中心に検討して十八世紀の写生観を概観するとともに、土佐派の写生帖も紹介する。

 磯野氏は江戸時代の図譜に瓜二つ絵が多出することに注目し、各種動物図譜における転写関係を詳細に追求してその実態を解明、博物図譜の研究にはこうした検討による自筆・実写の確定こそ大前提であることを例示した。

 W「施策」では笠谷和比古「徳川吉宗の享保改革と本草」、田代和生「享保改革期の朝鮮薬材調査」、大庭脩「徳川吉宗の唐馬輸入」、安田健「江戸時代の鳥獣とその保護」という、江戸時代の政策に関する論考がまとめられている。

 笠谷氏は吉宗政権の薬種国産化政策を主題とし、同政策の実施過程の事実関係確定を中心に、政策目的と歴史的意義を論究する。

 田代氏は従来注目されることのなかった享保改革期の朝鮮薬材調査の実施の背景を、吉宗側近の医官・林良喜と対馬藩宗家の動きに焦点をあてて明らかにした。

 大庭氏はかつてほとんど研究されていなかった吉宗の唐馬輸入について、その背景・経緯・実態・影響等の史実を乗馬法・馬医術まで含め解明した。

 安田氏は江戸中期以降の幕府および地方大名領の鳥獣行政と鳥獣の棲息状況の詳細を、関連資料によって紹介する。

 V「渡海」には白幡洋三郎「本草学と植物園芸」、川島昭夫「海峡の植物園―ペナンとシンガポール」、三木亘「イスラム圏の香料薬種商」の三篇が載る。

 白幡氏は江戸時代の本草害・園芸書にみえる視覚による認識ないし見分けの分析から、本草と園芸の関心の違いは「知る」姿勢の相違にあったことを論じる。

 川島氏はイギリスが十八世紀末〜十九世紀前半に経営したペナンとシンガポールの植物園について、設立・実態・消滅の歴史を明らかにし、植民地経営・資源獲得と植物研究の関係を考察する。

 三木氏はイスラム圏の香料薬種商の性格と現在までの歴史さらに現状を、長年のフィールドワークによる体験を交えつつ多面的に叙述している。

 Y「考証」では桜井謙介「生薬の変遷 常山について」、高橋達明「小野蘭山本草講義本編年攷」、杉立義一「稲生恒軒・若水の墓誌銘について」が載る。

 桜井氏は漢代から中国本草に記載されて現代も使用される「常山」という生薬の歴代記載を分析し、同定される植物が複雑に変遷してきたことを明らかにし、同名という点のみで安易に古代の薬物を現代の薬物と同一物に考えることの危険性を警告する。

 高橋氏は小野藺山が約三十年にわたり『本草綱目』を講義し、その定本として『本草綱目啓蒙』の刊行を開始する以前に書写された様々な段階の厖大な数の写本群を蘭山の見解の変遷から系統づけ、各系統の編年を解明している。

 杉立氏は稲生家の墓地から近年発見の、銅版にきざまれた伊藤東涯撰文の恒軒夫妻の墓誌銘と松岡玄達撰文の若水の墓誌銘ほかを翻字して読み下し、さらに両者の年表を作成して稲生家の学統を明らかにした。

 [「企画」には小野芳彦「本草綱目を読むためのコンピュータツール」がある。小野氏は『本草綱目』を一例に、こうした漢文の博物的古典籍をコンピュータで処理・解析・応用するための諸問題についての対応方法や、マルチメディアのデータを持つハイパーテキストなど将来的可能性を提示する。

 以上、的はずれも多々あろうが、かけ足で紹介した。本書は十八世紀を中心とした東アジアの本草・博物学を様々な分野から議論しただけに、全書にはそれらの立体的な展開と様相、それを研究するうえでの問題点が凝縮されている。当方面はこれまで白井光太郎・岡西為人・上野益三らにより系統的研究が重ねられてきた。本書は多人数の諭集ゆえ統一性をいささか欠くが、それゆえ従来の研究になかった新鮮な資料と視点に満ちている。今後こうした史的研究が本草・博物学にも一層必要となるであろう。

(真柳 誠)

〔思文閣出版・京都市左京区田中関田町二―七、電話○七五―七五一―一七八一、一九九五年七月二一日発行、A5判、上冊三五二頁・下冊三六四頁、定価各七五○○円〕