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真柳 誠「書籍紹介 福田安典編著『伝承文学資料集成第二一輯 医説』」
『日本医史学雑誌』53巻2号335-338頁、2007年6月20日

書籍紹介 福田安典編著『伝承文学資料集成第二一輯 医説』


 かなり旧聞に属するが、標題の書が平成十四年八月に出版された。当書は中国と日本の医学史研究に資するものであり、五年前の出版物ではあるがここに紹介したい。

 『医説』十巻は中国南宋の張杲(季明)が編纂したユニークな医書で、医家伝や医書・医薬に関連する興味深い逸話等を内容別に出典も明示して引用している。現伝書には一一八九年の羅頊(羅頌とも)序があり、本書は未完成ながら張杲が序を求めてきたと記すので、原本の成立はこのころ。また一二二八年の諸葛興跋では本書の校正・刊行をいうので、この直後に出版されたと思われる。

 南宋版は不完全ながら三点が現存し、南京図書館本は欠葉部分を後述の明・顧定芳仿宋版で補配、北京大学本は当南宋版木による元印で欠葉部分を抄配、日本の宮内庁書陵部本(多紀氏聿修堂旧蔵)は巻九・十のみである。いずれも同一版で、版木は一二二八年の跋刊とされる。明代には一五四三年序の鄧初正校刊本、一五四四年顧定芳序の仿宋刊本、一五四六年序の瀋藩刊本、一六〇九年の張尭直重刊本などがあり、清代にも復刻が重ねられた。朝鮮では瀋藩本に基づく一五六〇年の活字本がある。本書は明代で反響が大きかったようで、兪弁の『続医説』(一五二二自序)や周恭の『医説続編』(一五六九序刊)があり、『続医説』は朝鮮でも恐らく一五六〇年ころに活字出版された。

 日本では『本草色葉抄』(一二八四成)を編纂した惟宗具俊の『医談抄』に『医説』が多数引用される(美濃部重克ほか編著『伝承文学資料集成第二二輯 医談抄』、三弥井書店、平成十八年)ので、一二二八年の南宋版が伝わった影響といえる。標題の当書が「伝承文学資料集成第二一輯」として刊行されたのは、「第二二輯 医談抄」の刊行と関連しているのだろう。なお江戸時代では、一六五九年に『医説』と『続医説』が合刻され、『続医説』は一七六三年にも再印されている。

 さて当書は京大富士川文庫所蔵の一六五九年和刻本を底本とし、その書き入れを含めて福田安典氏が克明に翻字している。当書に後付の福田氏解題によると、あえて和刻本を底本としたのは小島尚質(学古・宝素。一七九七~一八四八)らによる校合の書き入れがあるためという。無論それで大きな問題はないが、どうも底本とした和刻本は小島尚質の手沢本や小島家の旧蔵本と考えられない。

  というのも底本は巻一末尾に「天保壬辰(一八三二)孟冬、与井上延明・小島学古・伴子安、据瀋・朝二本校了。信恵記」、巻十末尾に「天保癸巳(一八三三)仲春廿五日、据瀋・朝二本、与小島学古・井上」の書き入れがあるからである。小島学古や井上延明らと校合したと書き入れる「信恵」という人物は見あたらないが、この人物の旧蔵たることは疑いない。一方、底本末尾には「玄盅子句」の書き入れがある、と解題に記される。玄盅は奈須恒徳(一七七四~一八四一、本姓は田沢氏で奈須家の養子)のことで、その子は信悳(徳)という。すると信「恵」なる人物は文字の似る奈須信「悳」だろう。また底本の目録末尾には「朝鮮本 家大人曽据此本墨校、記以韓字。今復朱筆再校」とあるので、底本に墨校した「家大人」は奈須恒徳、さらに朱筆で再校したのは奈須信悳と推定される。すなわち当書の底本とされた富士川文庫本の書き入れは、奈須恒徳・信悳の父子によるものらしい。当書は底本の蔵印記まで翻字していないので不詳だが、もし奈須恒徳の「久昌院/蔵書」があれば奈須恒徳・信悳の旧蔵に相違ない。

 奈須恒徳は『本朝医談』(一八二二刊)を著し、続編の『本朝医談二篇』(一八三〇刊)には小島尚質が跋を記しており、恒徳と尚質には親交があった。恒徳・信悳が小島尚質や井上延明らと一緒に医書校合を当時よく行っていたことは、後述の台北・故宮博物院にある小島家旧蔵本の書き入れ等より分かる。ともあれ底本が恒徳・信悳の書き入れ旧蔵本であろうと、その校合に小島尚質が参与していたのは間違いない事実である。

 尚質(宝素)の学問は森鷗外の『小嶋宝素』伝で片鱗がうかがえる。また漢籍善本の書誌解題書『経籍訪古志』にある海保元備や渋江抽斎・森立之の序が言及するように、尚質は書誌鑑定と校勘の学に秀でていた。のみならず、医薬書では多紀家につぐ大蔵書家でもあったらしい。幕府医官を任じた小島尚質・尚真・尚絅の父子三代が収蔵した古典籍の大多数は、尚絅の没年に来日した清国�公使�館づきの楊守敬が購入し、守敬旧蔵書の主要部分は台北の故宮に所蔵される。紹介者は台北故宮の小島家旧蔵古医籍の全調査を完了し、その精緻な校勘と鑑識眼に深い感銘をうけた。

 たとえば台北故宮には尚質手沢本の『医説』がある。これは顧定芳仿宋本を模写した上で、鄧初正本から顧遂と羅頊の序を転録し、「此の二序、小字嘉靖本の載す所也。今ま此の本の首に冠するは嘉靖二本の源流、自から異なるを別つ所以也。坊刻の羅序は文字に異有り、而して此れ則ち祖本たる耳」と書き入れている。つまり彼が小字嘉靖本と称する鄧初正本は顧定芳本と別系統で、坊(和)刻本は顧定芳本の系統と判断していた。内閣文庫には天保十五(一八四四)年の尚質手跋本『医説』写本があり、底本は顧遂校訂の鄧初正本なので、やはり台北故宮の顧定芳本の模写と近い時期に筆写されたのだろう。こうした版本系統を判断する一根拠となった校勘の経緯と結果が、今回翻字された和刻本にある書き入れから分かるのである。

 尚質は侫宋学人と自称したように宋版の重要性を認め、その旧姿を校勘で復原することに精力を傾けていた。『医説』は多紀氏の聿修堂に宋版があるものの、巻一~八が欠落していた。また明の各翻刻本にも版式や文字で優劣が混在している。『経籍訪古志』と小島尚真の『医籍著録』(台北故宮所蔵)によると、顧本は版式・字体が仿宋ではあるが、文字に問題がある。張尭直本は顧本に基づき、版式を改めているものの文字は顧本より宋版の旧を保存している。和刻版はこの張本に基づく。鄧初正本は版式に宋の旧はないが、文字は顧本より優れている。瀋藩本は諸版と別系統の文字で何に基づくか不詳だが、宋の避諱らしき文字と諸葛興の校正らしい増補が項目にあり、朝鮮本はこの瀋藩本にすべて基づく。以上からすると、理想論は宋版系の顧本を底本とし、その文字を別系の瀋藩本で第一に校勘し、第二に同系の張本と鄧本で校勘すると、宋版の旧姿が浮かび上がるかもしれない。富士川文庫の和刻本にある書き入れは、この第一段階の作業に該当するといえよう。

 ところで彼らは一八三二年冬から一八三三年春にかけての『医説』研究会で、校異を書き込む底本に和刻本を使用した。それは宋版→顧本→張本→和刻本という復刻関係があるために、宋版系の和刻本を選択したのではない。そうした関係が分かったのは十年も後のことである。和刻本が基づく張本は京都の高階家にのみ所蔵されていた。この存在と版本書誌が江戸医学館の学者らに知られたのは、尚質らが天保十三(一八四二)年秋に上洛して行った名家の蔵書調査(国会図書館所蔵『河清寓記』、日大医学部図書館所蔵『小島宝素尺牘』)によってだった。また尚質が鄧本を写したのは一八四四年、顧本も同時期の模写らしいので、一八三二年冬段階では「瀋・朝二本」で校異の結果を書き込むのに和刻本を使用するしかなかったといえる。

 小島家旧蔵各書にある書き入れから想像するに、小島父子と友人らが持ち回りで開催した同読や校読という研究会は、ふつう以下のような形式だったらしい。参加者は各々ある版本を担当する。そして誰かが某版本の原文をたぶん頭から音読し、これと違う文字が別本にあると担当者が指摘、それを「○字、某本作△字」のように担当本に書き入れる。それゆえ入手が比較的容易で、書き入れしても問題のない和刻本を用い、瀋藩本で校勘したらしい。さらに瀋藩本と版式まで一致する朝鮮本も校勘に使用したのは、両本が必ずしも親子関係ではなく、ある祖本から別個に生まれた兄弟関係である可能性も疑っていたためかもしれない。この校勘を行った結果、朝鮮本は瀋藩本にすべて基づく親子関係という『医籍著録』および『訪古志』の判断が生まれたと思われる。

 ただし和刻本に対し、そのルーツたる顧本、さらに顧本より文字が優れるとされる張本や鄧本で、第二段階の校勘を彼らがしたかどうか。それを伝える史料等の存在は紹介者の管見範囲にない。しかし現在では、顧本が台北・新文豊出版公司から一九八一年に影印出版された。また顧本で補配した宋版の一九三三年影印本が、『続医説』和刻本とともに上海科学技術出版社から一九八四年に再影印出版された。したがって両影印本と当書を校異するならば、宋版の旧姿を相当正確に求めることが可能だろう。以上は当書の解題「一、諸本と底本」にいささか問題を感じたので、紹介者の卑見も交えて贅言を述べた。

 当書の解題「二、『医説』の享受と展開」では日本に及ぼした本書の影響を、浅井了意の『伽婢子』における説話形成や、平賀源内の浄瑠璃作品『神霊矢口渡』などを挙例して述べる。このように鎌倉時代から江戸時代にかけて『医説』が受容され、医学・文学や関連領域にまで及ぼした影響は相当に大きい。また江戸後期になると、小島尚質や奈須恒徳らにより本書の詳細な校勘と書誌研究も行われていた。それらは従来の医史学研究で等閑視されていた分野および視点といっていい。

 当書はこうした様子を伝えるために、奈須恒徳らによる書き入れを含め、和刻本の訓点や送り仮名までを克明に翻字している。その労は賞賛に値する。当書の刊行によりユニークな中国医史に富み、また日本医史にも関連する本書が、今後は容易に研究利用できるようになった。ただし当書が日本の伝承文学資料集成の一環として出版されていたため、およそ斯界には知られていなかった。五年前の出版物ゆえ遅きに失した誹りを免れ得ないが、当書の価値からあえて紹介に取り上げた次第である。
 (真柳 誠)
〔三弥井書店 東京都港区三田三―二―三九 A五判 総三九〇頁 二〇〇二年八月二十三日第一刷発行、定価九〇〇〇円(税別)〕