石島弘著『水戸藩医学史』


真柳 誠

   かつて中国の医史学研究者を北里研究所東医研に案内したとき、書庫の医史学の書架を見てため息をついた。中国でもっとも医史学書を所蔵する中医研究院医史文献研究所所長の鄭金生教授であるが、日本でかくも多くの医学史研究書が著されているのを知らなかったという。中国にはこうした研究書がほとんどないので今後は見習わなければ、と鄭氏が話したのは各科ごとの歴史研究、そして各地域ごとの医学史研究だった。

   まさしく日本の医史学には、『京都の医学史』はじめ地域医学史の名著が数多くあり、活発な研究が連綿と続けられている。本誌でも以前、地域の医史学の特集があったが、これはそうした研究の厚みがあってこそだったといえよう。

   この伝統に石島氏の『水戸藩医学史』が新たな1頁を加えた。約二七〇年におよぶ水戸藩医学の歴史である。

   本書は以下の十章からなる。第一章:藩主の病歴、第二章:藩政の隆替、第三章:人命尊重の思想、第四章:水戸藩の医療行政、第五章:水戸藩初期の医書、第六章:水戸藩中期の医書、第七章:水戸藩晩期の医書、第八章:水戸藩医学史の周囲、第九章:水戸藩における儒者と医師の交流、第十章:水戸藩医学の特色。以下、石島氏の自序に記される各章の概略を紹介しよう。

   第一章〜第二章では歴代藩主の動静、その家族の健康・死因等を調査し、ついで藩政の隆替を時代を追って探っている。第三章では殉死の禁、救民妙薬の頒布、笠原水道の敷設、お救い制度創設とお倉設置、育子分家取り立てなどを一連の「人命尊重の思想」として納めている。

   第四章の医療行政・医学教育では、光圀や斉昭が藩主の地位にありながら、進んで医薬学を研修した形跡のあることが注目される。そのせいか学問としての医学はもちろん、医療担当者や医療制度等に関する深い識見を持っていた。『救民妙薬』を始めとする多くの医薬学著述や、弘道館医学館の設置、藩内各地の郷校設置と医師の研修、医療普及と防疫活動に力を注いでいた。このような藩主の意図は藩政に影響し、医薬学の進歩ももたらした。この第四章から第七章は本書の中核というべきもので、豊富な資料に拠って解説と考察がすすめられ、水戸藩の医学・本草学の実力を示している。そして初期の輸入医学より、やがて中期の水戸藩医学の自立となり、晩期には他に類を見ない光輝ある業績を挙げるにいたった過程が述べられる。

   第八章では基礎医学としての解剖学、応用医学としての針灸学を観察し、また水戸藩の代表的疾患を各々の時代について、疾病観とそれに基づく医療の変遷を検討している。

   第九章では水戸藩の医師たちが、藩の儒者との交流のうちに支援をうけ、ときには激励され、ときには鋭い批判を浴びながらも、幕末藩内外の動乱の中で精進を続けていた様子が描かれる。第十章は水戸藩医学の特色として、原南陽と本間家の蔵書目録、水戸藩医家墨跡、水戸藩医学史年表などがあり、本書のまとめとなっている。

   本書は別添の人名・事項索引を含めて千頁ちかい巨著で、とても一気に読み通せる書ではないが、ここに発掘され、明らかにされた史実には計り知れない価値がある。今後は江戸期の医学史研究にも必須の文献となるだろうし、後世に残る名著といっても過言はない。

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