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日病薬誌,Vol.34, No.2, p.213-214(1998)  病院薬剤師のための漢方製剤の知識

疎経活血湯 @処方解説

茨城大学人文学部中国科学史教授 真柳  誠

1.{龍+共}廷賢について

 疎経活血湯は、中国の明時代に{龍+共}廷賢という名医が著した『万病回春』という医学書に初めて収載された処方である。{龍+共}廷賢は中国の金谿という今の江西省撫州市の出身で、1539年頃に生まれ、90才を越えた1632年頃に没した。代々の医家で、父の{龍+共}信も名医とされ、その資料に廷賢が増補し、『古今医鑑』という医書も編録している。彼は幼い時から科挙を目指して勉強し、官僚を志したが及第せず、父の医業を継いだという。各地に留学した後、首都の北京で医名を覇せ、遂に政府と宮廷の医学・医療機関である太医院で御典医となり、郷里に錦を飾った。彼はまたたくさんの医書を著している。最初が前述した『古今医鑑』で、次いで『種杏仙方』『万病回春』『寿世保元』など計8書にものぼり、いずれも生存中に初版が刊行された。それだけ彼の医書も名声が高かったということである。

2.『万病回春』について

 さて疎経活血湯を収載した『万病回春』は彼の第3作目で、およそ48才頃の1587年に脱稿し、翌年に金陵で出版された。金陵は今の南京で当時第2の都であり、出版の中心地でもあった。本書はその後も復刻され続け、明代・清代・中華民国時代・現在の中国まで計20数回も版を重ねている。

 日本でも江戸時代のごく初期に初めて復刻され、{龍+共}廷賢が生存中だけで少なくとも5回出版された。当時こんなスピーディに日本に受容された中国医書は他に例がないだろう。そして和刻版は30回近く出版された。これは中国を凌ぐ回数で、江戸前期頃の約100年に集中しており、しかも当時の医師数は中国よりかなり少なかっただろう。つまり本書が江戸前期の医学に与えた影響は極めて大きく、まさに『万病回春』一色であったと表現しても過言ではない。

 一方、江戸中期以降はパタリと復刻されなくなり、『傷寒論』や『金匱要略』関係の書が数多く出版され、人々に読まれるようになった。それでも本書の影響は現在まで伝わり、今の漢方製剤を出典毎に分けると、本書を出典とする処方の数は『金匱要略』『傷寒論』に次いで第3位となる。

3.出典の記載

 そこで疎経活血湯の出典の記載を見てみよう。『万病回春』巻5の痛風門に載っている。当時の痛風を今のものと同じに理解しても問題はないが、本処方は痛風に適応しないと記載されている。その条文を現代語に直すと次のようになる。
 体中に痛みが走り、昼軽くて夜重いのは血虚である。疎経活血湯を用いる。これは全身刺すような痛みを治す。特に左足の痛みが最も激しい。左に症状が出るのは血の病変に原因がある。さらに多くは酒の飲み過ぎで筋肉の力が失われたところに、風邪・寒邪・湿邪・熱邪などの邪気が体内に侵入している。こうして熱と寒が重なると、筋肉のスジを傷つけ疼痛となる。この痛みは昼に軽いが夜は重くなる。治療方法は経絡の血の流れを促進し、血を活性化して湿邪を除くべきだ。この病は痛風と違う。
 処方は酒で湿らせたトウキ(当帰)が1銭2分、酒で妙めたビャクシャクヤク(白芍薬)が1銭半、酒で湿らせたショウジオウ(生地黄)、米のとぎ汁に浸したソウジュツ(蒼朮)、根茎を除いて酒で湿らせたゴシツ(牛膝)、裏の白い綿を除いたチンピ(陳皮)、皮と頭の尖ったところを除いて妙ったトウニン(桃仁)、酒で湿らせたイレイセン(威霊仙)の以上が各1銭、センキュウ(川{艸+弓})、酒で湿らせたカンボウイ(漢防已)、キョウカツ(羌活)、根茎を除いたボウフウ(防風)、ビャクシ(白{艸+止})の以上が各6分、酒で湿らせたリュウタン(竜胆)が8分、皮を除いたブクリョウ(茯苓)が7分、カンゾウ(甘草)が4分である。以上を刻んで1服分とし、ショウキョウ(生薑)3切れを加え、水で煎じ空腹の時熱いうちに飲む。生もの、冷たいもの、ベトベトしたものを食べてはいけない。
 原文にはさらに他の症状に応じた加味方が続くが、ここでは省略する。

4.構成薬味の作用

 さて本処方名の疎経活血湯であるが、まさに読んで字の如く、疎経とは経絡を疎通して気の流れを促進すること、活血とは血の機能を活性化することである。こうした作用を目的に作られた湯液処方なので疎経活血湯と名付けられたと考えられる。また原文では前述のように、この疎経と活血により湿邪も除くと記されていた。本処方の構成薬を見ると、疎経つまり経絡を疎通する作用があるのはイレイセン・ボウイ・キョウカツ・ボウフウ・ビャクシなどで、これらには同時に鎮痛作用もある。活血に働くのはトウキ・センキュウ・シャクヤク・ジオウという四物湯の構成薬、およびトウニン・ゴシツなどである。また湿邪を除くのはソウジュツ・ブクリョウ・ボウイ・ビャクシ・リュウタンで、さらにチンピ・カンゾウ・ショウキョウで、全体の調和と健胃作用が図られている。

 本処方の作用について、矢数道明先生の『臨床応用漢方処方解説』では山田業精の論評を引用している。山田業精は父の業広に漢方を学んだ明治前期の人で、東大医学部前身の大学東校で一時西洋医学を修めた上、当時の漢方存続運動の中心を担った人である。彼は次のように述べている。

この方いたって多味雑駁なるをもって、あるいは相殺して用いざるものあり。(中略)しかれども、今これを実際に験するに優れりと思わる。余が家、この方を常用して、しばしば偉功を奏す。按ずるにこの方、四物湯より出て、清湿化痰湯の意を帯ぶ。故によく筋絡中の滞血を疎通し、風湿を駆逐す。主治の文、賢語多し。「すべからく遍身走痛、刺す如く、筋脈虚空、風湿寒を被り、熱に寒を包み、則ち痛み筋絡を傷る」の数句に着目すべし。必ずしも足の左右、および昼軽く夜重しの文に拘泥すべからず。「宜しく以て経を疎し、血を活かし、湿を行らすべし」「 これ白虎歴節風に非ざるなり」の二句、その方意を尽くすというべし。
 以上の業精の文章で白虎歴節風というのは痛風のことである。

5.治験例

 また、道明先生は治験例として山田業精が記した次の文も引用している。
池ノ端の菓子屋の娘。年は十九。産後の下り物が多く、続いて右足が大いに浮腫をきたして疼痛甚だしく、痛み忍び難く、昼夜眠ることができない。食欲不振、口渇、時に発熱し、下痢日に二〜三行。小便不利、腹は硬くて膨満し、圧痛があった。脈は浮数で、舌には白苔がある。父・業広はH血が原因であるからといって、疎経活血湯を与えた。五日後その痛みは大半去り、浮腫は左の脚に移って右脚は全く去った。しかし、続いて同じ処方を与えて全く癒えた。
 このように本処方は日本で現在まで使われ続け、腰部より下肢にかけての筋肉・関節・神経の痛みでH血の証がある場合に良い、といった口訣が形成されてきた。一方、中国では本処方を用いることが現在ほとんどない。出典の『万病回春』が日本ほど広く読まれなかったためもあるだろう。と同時に、原文の記載すべてには必ずしも拘泥せず、治験を重ねる中から適応する証を明確にしていく、という日本の口訣に見られる伝統が中国ではあまりないことも関係しているかもしれない。
(日本短波放送 1997年10月15日)