日本でも江戸時代のごく初期に初めて復刻され、{龍+共}廷賢が生存中だけで少なくとも5回出版された。当時こんなスピーディに日本に受容された中国医書は他に例がないだろう。そして和刻版は30回近く出版された。これは中国を凌ぐ回数で、江戸前期頃の約100年に集中しており、しかも当時の医師数は中国よりかなり少なかっただろう。つまり本書が江戸前期の医学に与えた影響は極めて大きく、まさに『万病回春』一色であったと表現しても過言ではない。
一方、江戸中期以降はパタリと復刻されなくなり、『傷寒論』や『金匱要略』関係の書が数多く出版され、人々に読まれるようになった。それでも本書の影響は現在まで伝わり、今の漢方製剤を出典毎に分けると、本書を出典とする処方の数は『金匱要略』『傷寒論』に次いで第3位となる。
体中に痛みが走り、昼軽くて夜重いのは血虚である。疎経活血湯を用いる。これは全身刺すような痛みを治す。特に左足の痛みが最も激しい。左に症状が出るのは血の病変に原因がある。さらに多くは酒の飲み過ぎで筋肉の力が失われたところに、風邪・寒邪・湿邪・熱邪などの邪気が体内に侵入している。こうして熱と寒が重なると、筋肉のスジを傷つけ疼痛となる。この痛みは昼に軽いが夜は重くなる。治療方法は経絡の血の流れを促進し、血を活性化して湿邪を除くべきだ。この病は痛風と違う。原文にはさらに他の症状に応じた加味方が続くが、ここでは省略する。
処方は酒で湿らせたトウキ(当帰)が1銭2分、酒で妙めたビャクシャクヤク(白芍薬)が1銭半、酒で湿らせたショウジオウ(生地黄)、米のとぎ汁に浸したソウジュツ(蒼朮)、根茎を除いて酒で湿らせたゴシツ(牛膝)、裏の白い綿を除いたチンピ(陳皮)、皮と頭の尖ったところを除いて妙ったトウニン(桃仁)、酒で湿らせたイレイセン(威霊仙)の以上が各1銭、センキュウ(川{艸+弓})、酒で湿らせたカンボウイ(漢防已)、キョウカツ(羌活)、根茎を除いたボウフウ(防風)、ビャクシ(白{艸+止})の以上が各6分、酒で湿らせたリュウタン(竜胆)が8分、皮を除いたブクリョウ(茯苓)が7分、カンゾウ(甘草)が4分である。以上を刻んで1服分とし、ショウキョウ(生薑)3切れを加え、水で煎じ空腹の時熱いうちに飲む。生もの、冷たいもの、ベトベトしたものを食べてはいけない。
本処方の作用について、矢数道明先生の『臨床応用漢方処方解説』では山田業精の論評を引用している。山田業精は父の業広に漢方を学んだ明治前期の人で、東大医学部前身の大学東校で一時西洋医学を修めた上、当時の漢方存続運動の中心を担った人である。彼は次のように述べている。
この方いたって多味雑駁なるをもって、あるいは相殺して用いざるものあり。(中略)しかれども、今これを実際に験するに優れりと思わる。余が家、この方を常用して、しばしば偉功を奏す。按ずるにこの方、四物湯より出て、清湿化痰湯の意を帯ぶ。故によく筋絡中の滞血を疎通し、風湿を駆逐す。主治の文、賢語多し。「すべからく遍身走痛、刺す如く、筋脈虚空、風湿寒を被り、熱に寒を包み、則ち痛み筋絡を傷る」の数句に着目すべし。必ずしも足の左右、および昼軽く夜重しの文に拘泥すべからず。「宜しく以て経を疎し、血を活かし、湿を行らすべし」「 これ白虎歴節風に非ざるなり」の二句、その方意を尽くすというべし。以上の業精の文章で白虎歴節風というのは痛風のことである。
池ノ端の菓子屋の娘。年は十九。産後の下り物が多く、続いて右足が大いに浮腫をきたして疼痛甚だしく、痛み忍び難く、昼夜眠ることができない。食欲不振、口渇、時に発熱し、下痢日に二〜三行。小便不利、腹は硬くて膨満し、圧痛があった。脈は浮数で、舌には白苔がある。父・業広はH血が原因であるからといって、疎経活血湯を与えた。五日後その痛みは大半去り、浮腫は左の脚に移って右脚は全く去った。しかし、続いて同じ処方を与えて全く癒えた。このように本処方は日本で現在まで使われ続け、腰部より下肢にかけての筋肉・関節・神経の痛みでH血の証がある場合に良い、といった口訣が形成されてきた。一方、中国では本処方を用いることが現在ほとんどない。出典の『万病回春』が日本ほど広く読まれなかったためもあるだろう。と同時に、原文の記載すべてには必ずしも拘泥せず、治験を重ねる中から適応する証を明確にしていく、という日本の口訣に見られる伝統が中国ではあまりないことも関係しているかもしれない。