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日病薬誌,Vol.33, No.3, p.315-316(1997) 病院薬剤師のための漢方製剤の知識

抑肝散・肝散加陳皮半夏@ 古典的解説

茨城大学人文字部教授 真柳 誠

1.抑肝散の出典

 抑肝散について、その出典から述べたい。本処方の出典を中国宋代の『小児薬証直訣』とする処方集や解説がある。この『小児薬証直訣』にはいくつかの系統の版本があるが、いずれを見ても抑肝散の記載は見あたらない。ただし類似した症状に用いられる瀉青丸という処方の記述が多数あるので、後述する理由もあって、この書が抑肝散の出典と誤認されたようである。

 さて今のところ確認できる抑肝散の最初の記載は、中国明代の『保嬰撮要』という小児科の書に見える。この『保嬰撮要』全20巻は、明朝の厚生省ともいうべき太医院にいた薛鎧という名医の原作である。これを薛鎧の子で太医院から皇帝の御医にまでなった薛己が注を加え、1556年に出版した。のちに本書は薛己の著書や注釈書を集めた『薛氏医案』という叢書に収められ、現代まで広く流布している。

 なお筆者の調査した範囲で日本への早い渡来記録は、『保嬰撮要』が1646年に将軍家の紅葉山文庫に収められている。『薛氏医案』は元禄6年の1693年、やはり紅葉山文庫に収められたのが最初で、日本へ輸入された記録は幕末までに計22回あった。また、『薛氏医案』の一部は1654年に日本で復刻されている。

2.抑肝散の出典条文

 この『保嬰撮要』巻1に抑肝散が記載されている。そこで、条文を現代語に翻訳すると次のようである。
抑肝散は小児が肝の経絡の虚熱のため痙攣を起こし、あるいは発熱して歯を食いしばり、あるいはひきつけを起こして発熱悪寒し、あるいは粘液を嘔吐し、腹部膨満して食欲不振となり、寝てもむずがるという症状を治す。処方はナンサイコ(南柴胡)とカンゾウ(甘草)が各五分、センキュウ(川{艸+弓})が八分、 トウキ(当帰)と妙ったビャクジュツ(白朮)とブクリョウ(茯苓)とチョウトウコウ(釣藤鈎)が各一銭で、以上を水で煎じて、小児と母親の双方に服用させる。これを蜂蜜で煉り、丸薬にしたものを抑青丸という。
 以上のように、抑肝散はいわゆる腺病質の小児のひきつけや夜泣きなどに用いる処方である。また抑肝散とは言うが、粉末をそのまま服用するのではなく、粉末を煎じて服用するようになっている。これを丸剤にして抑青丸と言うのは、中国の五行説で肝の色が青だからである。

3.抑肝散の命名由来

 ちなみに、抑肝散の抑肝とは肝を抑制するという意味である。前述した条文に肝の経絡の虚熱とあったが、これは肝が所蔵する血の不足から発生した熱のことで、瀉さなければならない実熱とは区別される。それで、熱が亢進して神経症状を起こしていても、これを瀉すのではなく、抑制する意味で抑肝散と名づけられたのだろう。

 なお『保嬰撮要』は抑肝散とともに、小児の肝の実熱を瀉す処方として瀉青丸を記している。先ほど述べたように、抑肝散を丸剤にすると、肝を青に言い換えて抑青丸と呼ぶが、同様に青すなわち肝を瀉す瀉青丸という別処方もある。この瀉青丸は、実は『小児薬証直訣』が出典の処方だった。抑肝散の出典を『小児薬証直訣』とする説があると最初に述べたが、その誤認はこのあたりにあるらしい。

4.抑肝散の応用

 抑肝散はもともと小児の処方であるが、『保嬰撮要』が母親にも服用させると記していたように、現在では大人にも応用される。しかし、こうした応用の開発は中国ではなく、もっばら江戸時代の日本でなされた。また抑肝散の腹証についても治験が集積された。大人への応用と腹証の早期の記載は、江戸後期からの医学考証学の基礎を築いた目黒道琢が残している。その『餐英館療治雑話』から関連部分を現代語に直して抜粋してみよう。
抑肝散は大人の半身不随にも効果がある。その証は左側に攣急があり、みぞおちから腹部正中線上に攣急と動悸がある。これはみぞおちに気が聚まっており、腹診しても心下痞を触知しないが、患者は痞えるという証に効果がある。この証には怒りを覚えるかと問診し、それがあれば必ず効く。また不眠症にも応用でき、やはり上述の腹証と症状を目標とすべきで、特に癇癪もちの不眠症に効果がある。
 以上の応用と腹証は、幕末の名医・浅田宗伯が著した『勿誤薬室方函口訣』にも転載され、本処方が現在も広く応用されるきっかけとなった。ただし浅田宗伯はこれらを和田東郭の口訣と記しているが、その根拠は分からない。

5.抑肝散の加味方

 さて抑肝散は江戸時代に広く用いられ、いくつかの加味方も開発された。例えば和田東郭は打撲傷・喘息、また口が荒れて乳を吸うことができない小児、さらに風邪でもないのに熱を出したり、むずがる癇癪もちの小児などに抑肝散加芍薬を用いている。この加味方は幕末にかけてかなり普及したようだが、幕末の山田業広は「芍薬を加えなくても良く効く」との反対意見を『椿庭先生夜話』に述べている。芍薬を加えると四逆散のニェアンスも出てくるが、「それでは肝の気を疎通させることになり、抑肝散本来の意図とは合致しない」というのが反対理由のようである。

 一方、幕末の水戸藩医・本間棗軒は抑肝散にレイヨウカク(羚羊角)を加え、癲癇の人事不省などに応用している。レイヨウカクとはキョンという鹿の一種の角で、鎮静作用がある。

6.抑肝散加陳皮半夏について

 さて、現在最も良く用いられている加味方が抑肝散加陳皮半夏で、抑肝散より応用範囲が広いと言われている。これは抑肝散に二陳湯を合方し、ショウキョウ(生薑)を除いた処方で、このため停滞した痰飲を去る作用が抑肝散より強くなっている。この加味方も日本で開発されたらしいが、開発者を正確に特定できないので、本朝経験方と呼ぶ。本朝とは中国に対して言う日本のことで、『本朝経験』という本が出典という意味ではない。

 この抑肝散加陳皮半夏は、江戸時代の書では浅井南溟の作とされる『浅井腹診録』に記述がみえる。その文章が矢数道明先生の『臨床応用漢方処方解説』に引用されているので、以下に現代語訳してみよう。

臍の左側付近からみぞおち付近にかけて強く動悸するのは、肝が虚した上に痰飲と火熱が盛んになっているからである。この証の患者数百人を、北山人は抑肝散加陳皮半夏で治した。陳皮は中程度、半夏は多めに用いる。この秘訣は一子相伝で他に漏らしてはならない。
 以上のように、抑肝散加陳皮半夏は北山人という人の開発らしいが、それが誰かは確証がなく、それで本処方を本朝経験方と呼ぶしかない。ただし、道明先生は『北山友松子医案』に二陳湯を加味した治験が多いことから、北山人とは北山友松子らしいと推測されている。

 なお『浅井腹診録』に記録された本処方の口訣が注目され、応用がさらに広まったのは昭和以降の事と思われる。大塚敬節・矢数道明・清水藤太郎各先生の『漢方診療医典』、敬節先生の『症候による漢方治療の実際』、そして道明先生の『臨床応用漢方処方解説』に次々と収載され、適用症状がより一層明確になり、応用が広まったのである。抑肝散と抑肝散加陳皮半夏のルーツは中国明代の『保嬰撮要』にあったが、その応用は日本の江戸時代から始まっていたのである。

(日本短波放送 1996年11月13日)