さて今のところ確認できる抑肝散の最初の記載は、中国明代の『保嬰撮要』という小児科の書に見える。この『保嬰撮要』全20巻は、明朝の厚生省ともいうべき太医院にいた薛鎧という名医の原作である。これを薛鎧の子で太医院から皇帝の御医にまでなった薛己が注を加え、1556年に出版した。のちに本書は薛己の著書や注釈書を集めた『薛氏医案』という叢書に収められ、現代まで広く流布している。
なお筆者の調査した範囲で日本への早い渡来記録は、『保嬰撮要』が1646年に将軍家の紅葉山文庫に収められている。『薛氏医案』は元禄6年の1693年、やはり紅葉山文庫に収められたのが最初で、日本へ輸入された記録は幕末までに計22回あった。また、『薛氏医案』の一部は1654年に日本で復刻されている。
抑肝散は小児が肝の経絡の虚熱のため痙攣を起こし、あるいは発熱して歯を食いしばり、あるいはひきつけを起こして発熱悪寒し、あるいは粘液を嘔吐し、腹部膨満して食欲不振となり、寝てもむずがるという症状を治す。処方はナンサイコ(南柴胡)とカンゾウ(甘草)が各五分、センキュウ(川{艸+弓})が八分、 トウキ(当帰)と妙ったビャクジュツ(白朮)とブクリョウ(茯苓)とチョウトウコウ(釣藤鈎)が各一銭で、以上を水で煎じて、小児と母親の双方に服用させる。これを蜂蜜で煉り、丸薬にしたものを抑青丸という。以上のように、抑肝散はいわゆる腺病質の小児のひきつけや夜泣きなどに用いる処方である。また抑肝散とは言うが、粉末をそのまま服用するのではなく、粉末を煎じて服用するようになっている。これを丸剤にして抑青丸と言うのは、中国の五行説で肝の色が青だからである。
なお『保嬰撮要』は抑肝散とともに、小児の肝の実熱を瀉す処方として瀉青丸を記している。先ほど述べたように、抑肝散を丸剤にすると、肝を青に言い換えて抑青丸と呼ぶが、同様に青すなわち肝を瀉す瀉青丸という別処方もある。この瀉青丸は、実は『小児薬証直訣』が出典の処方だった。抑肝散の出典を『小児薬証直訣』とする説があると最初に述べたが、その誤認はこのあたりにあるらしい。
抑肝散は大人の半身不随にも効果がある。その証は左側に攣急があり、みぞおちから腹部正中線上に攣急と動悸がある。これはみぞおちに気が聚まっており、腹診しても心下痞を触知しないが、患者は痞えるという証に効果がある。この証には怒りを覚えるかと問診し、それがあれば必ず効く。また不眠症にも応用でき、やはり上述の腹証と症状を目標とすべきで、特に癇癪もちの不眠症に効果がある。以上の応用と腹証は、幕末の名医・浅田宗伯が著した『勿誤薬室方函口訣』にも転載され、本処方が現在も広く応用されるきっかけとなった。ただし浅田宗伯はこれらを和田東郭の口訣と記しているが、その根拠は分からない。
一方、幕末の水戸藩医・本間棗軒は抑肝散にレイヨウカク(羚羊角)を加え、癲癇の人事不省などに応用している。レイヨウカクとはキョンという鹿の一種の角で、鎮静作用がある。
この抑肝散加陳皮半夏は、江戸時代の書では浅井南溟の作とされる『浅井腹診録』に記述がみえる。その文章が矢数道明先生の『臨床応用漢方処方解説』に引用されているので、以下に現代語訳してみよう。
臍の左側付近からみぞおち付近にかけて強く動悸するのは、肝が虚した上に痰飲と火熱が盛んになっているからである。この証の患者数百人を、北山人は抑肝散加陳皮半夏で治した。陳皮は中程度、半夏は多めに用いる。この秘訣は一子相伝で他に漏らしてはならない。以上のように、抑肝散加陳皮半夏は北山人という人の開発らしいが、それが誰かは確証がなく、それで本処方を本朝経験方と呼ぶしかない。ただし、道明先生は『北山友松子医案』に二陳湯を加味した治験が多いことから、北山人とは北山友松子らしいと推測されている。
なお『浅井腹診録』に記録された本処方の口訣が注目され、応用がさらに広まったのは昭和以降の事と思われる。大塚敬節・矢数道明・清水藤太郎各先生の『漢方診療医典』、敬節先生の『症候による漢方治療の実際』、そして道明先生の『臨床応用漢方処方解説』に次々と収載され、適用症状がより一層明確になり、応用が広まったのである。抑肝散と抑肝散加陳皮半夏のルーツは中国明代の『保嬰撮要』にあったが、その応用は日本の江戸時代から始まっていたのである。