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日病薬誌,Vol.32, No.6, p.637-638(1996) 病院薬剤師のための漢方製剤の知識

猪苓湯合四物湯@ 古典的解説

北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部室長 真柳  誠

  本処方は文字どおり猪苓湯と四物湯の合方で、両処方はともに中国の医書が出典である。しかし猪苓湯と四物湯を合方するのはどうも中国に先例が見当たらず、日本での経験から始まったと思われる。それで、中国に対し日本を意味する本朝を付け、この合方の出典として一般に本朝経験方と呼ぶ。こう呼ぶ場合は日本の古医書に記載は見えるが、一体だれが最初に使い始めたのかはっきりしない処方に限る。しかし最初の用例と断定できないにしても、早い記載例というものならある。

1. 江戸〜明治初の記載

 『日本医師会雑誌』には平成4年まで「古医書における漢方の使い方」という処方解説が連載されていた。平成4年1月刊行の第107巻1号に、大塚恭男先生が本処方の解説を古医書から引用されている。これによると、幕末の本間棗軒の記載が最も早いようである。本間棗軒は水戸の人である。水戸藩医の原南陽に就き、ついでシーボルト、さらに華岡青洲にも学び、のち水戸烈候の侍医、また弘道館教授を任じた人で、漢方・蘭方・外科・内科の全てに通じた名医であった。

 刊行された本間棗軒の最初の著作『瘍科秘録』は1837年に自序を記しているが、そこに本処方について次のようにある。「血淋は黄連阿膠湯、竜胆瀉肝湯、八正散、猪苓湯を選び用いる。また多く血が出る者には、犀角地黄湯、八味丸、四物猪苓湯の合方を用いる」。これでは本処方を出血の多い血淋に用いるとしか分からないが、棗軒の『内科秘録』には二ヶ所でもう少し詳しく説明している。

 この『内科秘録』は幕末の1864年に初版が出ている。本処方への記載の一つは次のようである。

尿が白く濁る原因はいろいろとあるが、これには尿血、遺精、久淋、消渇などの処方を選び用いる。長年の経験によれば、八味地黄丸で治した例が多く、しばしば血を交えて下す者には猪苓湯、四物湯の合方を与える。
 また、次のような血淋と尿血の区別、及び本処方の治験例も記している。
尿血は血淋と紛らわしいため、世の医者はみだりに血淋として扱ってしまって区別しないが、原因は自ずと異なる。尿血は膀胱病であり、血淋は尿道病である。その証も尿血は痛みがなく出血することが多く、血淋は渋り痛みが甚だしくて出血は少ない。とくと明察して誤治してはならない。(中略)61歳の男が尿血を煩い、治ったり、再発したりしてすでに3年が過ぎた。出血は段々と多くなり、会陰のあたりが張り痛み、小便瀕数となって、少しも安静する事がない。時に汗を発し、精神恍惚となって、或いは健忘、或いは妄語云々(中略)。これは尿血の最も変証となったもので、治方は猪苓、四物の合方でいったんは治るが、全治するものは少ない。鮮血が多く出て止まらない時は{艸+弓}帰膠艾湯。凝血がしばしばでるものは、犀角地黄湯。小腹虚冷、小便瀕数で、血が偏虚するものは八味地黄丸。気の偏虚するものは補中益気湯が良い。この証は疼痛がないのを常とするが、まれに陰茎中の渋り痛み、小便瀕数で淋のごときものあり、これには竜胆瀉肝湯、猪苓湯加木通車前子を選び用いる。(以下略)。
 さて本間棗軒に次いで本処方について言及しているのは、幕末から明治に活躍した浅田宗伯である。ただし宗伯が明治9年の1876年に自序を記した『方読便覧』のみに記載があり、それも「猪苓湯合四物湯、血淋を治す」とだけの至って簡潔な説明に過ぎない。

2. 大塚敬節先生の記載

 浅田宗伯以降、明治後半から大正時代にかけて漢方は一度絶滅の危機に瀕した。昭和初期より近代医学を修めた医師を中心とした漢方復興運動が起こったが、その中心を担ったのが大塚敬節先生・矢数道明先生・木村長久先生たち、当時の各流派の二代目である。これに薬学の清水藤太郎先生が加わり、古方・後世方・折衷三派4人の共著『漢方診療の実際』という書が昭和16年の1941年に出版された。

 その腎臓結核に対する処方の筆頭に猪苓湯が挙げられ、「もし血尿著しいものには四物湯を合方する」と記している。この本は昭和29年の1954年に改訂初版がでて、そこでは腎結核の筆頭に四物湯合猪苓湯を挙げ、次のように記している。「膀胱障害を起こして尿意瀕数、排尿時疼痛を主訴とするものに用いる。腎臓摘出後になお膀胱障害の残存しているものにも良く効く」。

 一方、大塚敬節先生は、昭和38年の1963年に『症候による漢方治療の実際』という症候別の本を出版され、その排尿異常の項で第4番目に本処方を挙げている。そこでは昭和28年の治験例を詳しく記し、「私がこの処方を腎、膀胱結核に用いるようになったのは、亡友、小出寿氏の経験にヒントを得てからである」、 と述べている。こうした経緯からすると、現在の漢方の臨床に本処方の応用を蘇らせたのは、大塚敬節先生の御貢献のようである。

3. 猪苓湯と四物湯の出典

 さて本処方の元である猪苓湯と四物湯について簡単に説明したい。四物湯はもちろん、トウキ(当帰)、センキュウ(川{艸+弓})、シャクヤク(芍薬)、ジオウ(地黄)の四味からなるので、そう命名された処方である。出典は中国の北宋時代の国定処方集『太平恵民和剤局方』で、陳師文が12世紀の初めに編纂したその第一版から収載されている。『和剤局方』は、のち150年間にわたり第5版まで増補・改訂が繰り返されたので、本書が出典の処方でも第何版で採用されたのかに注意しなければその年代はいえない。

 なお四物湯のルーツは一般に『金匱要略』の{艸+弓}帰膠艾湯と考えられており、それからガイヨウ(艾葉)、カンゾウ(甘草)、アキョウ(阿膠)を除くと四物湯になる。

 もう一方の猪苓湯は、3世紀初めの張仲景が著した書に由来する『傷寒論』『金匱玉函経』や『金匱要略』が出典である。もちろんチョレイ(猪苓)が主薬ゆえ、猪苓湯と命名された処方である。ただ不思議なことに、チョレイが配剤された処方は仲景のこれら医書に猪苓湯・五苓散・猪苓散の三方しかなく、チョレイは古くはさほど常用されなかった薬物のようである。類似薬のブクリョウ(茯苓)が多くの処方に配剤されるので、少し奇妙に思う。これにはチョレイと名付けられた古い意味が関係するのかもしれない。

4. 猪苓の語義

 1世紀から2世紀にできた『神農本草経』はチョレイの別名に猪矢を記し、それに500年頃の『本草集注』で陶弘景は「チョレイは塊で皮が黒く、ブタの糞に似るからこう名付けられた」、と注釈している。もちろん中国で猪とはブタのことで、イノシシではない。

 一方、晋の司馬彪は古典の『荘子』への注釈で、「チョレイの古い名称はブタの陰嚢と書く」と記している。ところでブクリョウの和名マツホドのホトとは、『古事記』『日本書記』によれば陰部のことで、結局マツホドとは松の睾丸、ないし陰嚢の意味になる。

 ブクリョウやチョレイの苓の古い文字に、陰嚢ないし睾丸の意味があったことがこれからもわかる。つまり、チョレイとはブタの糞、ないし陰嚢、ないし睾丸という意味だったらしい。

 いずれにせよ、これではあまり服用する気になれない。張仲景の時代にはこれらの意味がまだ知られていたのだろう。チョレイが張仲景の3医書の中でわずか三方にしか配剤されていなかったのは、こういった理由があったのかも知れない。

(日本短波放送 3月13日)