本日は扇桃炎などに用いられる処方、小柴胡湯加桔梗石膏について古典的解説をする。
本処方のオリジナルである小柴胡湯は、中国後漢時代の3世紀初め、張仲景という人が著した原書に由来する『傷寒論』や『金匱要略』などに記載された処方である。しかし、これにキキョウ(桔梗)とセッコウ(石膏)の二味を加えた本処方を開発したのは日本で、江戸時代のことと考えられる。それで本処方の出典は、ふつう『本朝経験方』と記される。
本朝とは日本のことで、つまり日本で誰が作った処方かは不明だが、経験的に使われてきた処方という意味である。別に『本朝経験方』という書物もあるが、必ずしもこの本が出典ということではない。
さて、本処方について古くからどのような記述が日本の医書にあるだろうか。『日本医師会雑誌』108巻8号の長谷川弥人先生のご報告によると、幕末から明治の初めに活躍した浅田宗伯の著書にみえるのが記録としては古いと思われ、その『勿誤薬室方函口訣』『麻疹心得続録』『方読便覧』『橘窓書影』に各々記載がある。
『勿誤薬室方函回訣』の記述は次のようである。「時毒(主に頚部・頭部が発赤する流行性の病のこと)、頭瘟(頭部・面部の丹毒のこと)の類は、その初めは葛根湯加桔梗石膏で発汗すべきで、発汗後も腫れ痛みが治らないときは小柴胡湯加桔梗石膏がよく、そのつぎを大柴胡湯加桔梗石膏とし、さらに牛蒡?蓮湯とする」とある。
『麻疹心得続録』には次の記載がある。「小柴胡湯加桔梗石膏は麻疹が発した後、胸脇苦満、嘔吐、煩渇し、飲食が進まない者を主る」とある。
『方読便覧』では二ヵ所に記載がある。「頭瘟(頭部・面部の丹毒)には小柴胡湯加桔梗石膏を用いる」とあり、いま一つは聴覚障害の「耳聾には小柴胡枳桔湯を用い、毒を解し、核を散ずる」と記している。
『橘窓書影』の記載は次のようである。「私が麻疹を治療する場合、そのはじめは鋭意発散し、熱を清ますを主とする。葛根加升麻牛蒡子、あるいは葛根湯加桔梗石膏で治るものがある。邪気が表裏の間に散漫し、嘔し、渇し、煩悶し、咽が痛んで食を欲せず、皮膚の間に隠々と発疹するものは、小柴胡湯加桔梗石膏で治る場合がある。云々」とある。
このように浅田宗伯はいわゆる折衷派の立場から、頭部や顔面の炎症・化膿、および麻疹の初期を過ぎた段階で小柴胡湯証の場合に本方を応用していた。
これを古方家の立場から更に広い応用を開発したのは、大正から昭和初期に活躍した湯本求真先生であろう。その著書『皇漢医学』第二巻に小柴胡湯の加味方を計15首記し、その一つに小柴胡加桔梗石膏湯をあげている。そして、本方の適応症を「先輩の論説治験」という項目で自己の意見を附記しつつ述べている。
例えば明代の徐春甫が著した『古今医統大全』から、「小柴胡は瘰癧、乳癰、便毒、下疳、および肝経部分の一切瘡瘍、発熱潮熱し、あるいは飲食を思うこと少なきを治す」と引用し、これに対して「余曰く、これらの諸症には本方に桔梗・石膏を加え、あるいはこれに黄解丸を兼用すべきの多し」という。また、明代の呉綬が著した『傷寒蘊要』から、「もし胸隔痞え、満ちて寛ならず、あるいは胸中痛み、あるいは胸下痞え満ち、あるいは胸下痛むときは小柴胡湯より人参を去り、枳実・桔梗二銭を加え、柴胡枳殻湯と名づく」と引用する。
これに「余曰く、この症には小柴胡湯と枳実芍薬散の合方、つまり小柴胡加枳実芍薬湯を処すべきものにして、(中略)これは小柴胡湯・排膿散・排膿湯の合方の意となる。余の経験によれば、この二合方証は肺結核にすこぶる多し。もし熱盛ん、口舌乾燥等あるときはさらに石膏を加うべし」と付記している。
このように湯本求真先生は、小柴胡湯証で熱証が強い時にセッコウを加味したり、化膿や喀疾のある時にキキョウを加味したりすることを『皇漢医学』に記している。本書は昭和二年に刊行され、昭和期の漢方復興時代に広く読まれたので、本処方も昭和初期から広く用いられるようになった。ところで本方の由来について湯本先生は、小柴胡湯加石膏と小柴胡湯加桔梗の合方、と『皇漢医学』に記している。そこで各々の由来についても調べてみたところ、やはり日本で応用された加味方らしいことがわかった。
小柴胡湯加石膏は湯本先生が多用した処方で、「一種の消炎、解凝剤たるや明らかなり」と断言している。この加味方に近いのは小柴胡湯と白虎湯の合方で、清代の兪根初が著した『通俗傷寒論』に柴胡白虎湯の名で載っている。略して柴白湯とも呼ばれた。柴白湯からコウベイ(梗米)・チモ(知母)を除くと小柴胡湯加石膏になるが、この加味方はどうも中国の書物には見当らない。しかし日本では18世紀後半頃から応用されていたらしい。
古い記録では、饗庭家に入門した津田玄仙の『饗庭家口訣』や『饗庭家秘訣』に小柴胡湯加石膏の応用がみえる。饗庭家の祖、饗庭東庵は江戸初期の人で、後世方派の始祖・曲直瀬道三の二代目になる曲直瀬玄朔に師事している。饗庭東庵はのち金元医学のうち石膏剤を重視する劉河間ら寒涼派の説を唱えたので、後世方別派と称せられている。すると小柴胡湯に石膏を加える応用は、江戸初期から後世方別派の饗庭家で行われていたのかもしれない。
ところで江戸初期の後世方派もこのように張仲景の処方を多用しており、必ずしも後世方一辺倒ではない。江戸初期から和刻されていた『傷寒論』や『金匱要略』の出版には、曲直瀬玄朔一門が関与していた。18世紀後半に曲直瀬塾の塾頭を任じた目黒道琢も、その著『餐英館療治雑話』の小柴胡湯口訣に、「頭痛裂けるが如く、熱甚だしき者、石膏を加えて効あり」と記している。
一方、江戸中期に起こった古方派でも、小柴胡湯加石膏を応用している。古方派の泰斗、吉益東洞の子で18世紀後半の吉益南涯は、「小柴胡湯加石膏は、耳の前後が腫れるものを治す」と記している。南涯に学んだ華岡青洲も、「柴胡加石膏は胸脇のみならず、頭目の病にも用ゆ。柴胡は血のこり、気のあつまるを散じ、石膏は伏したるしこりを解き、或いは解散す、ともいえり。概していえばこりて腫れるをなすようの所を引くものなり」と述べている。
さて小柴胡湯加桔榎石膏のもう一方のルーツである小柴胡湯加桔梗について、湯本先生は「小柴胡湯に桔梗湯ないし排膿湯を合方した意となる。玩味すべし」と指摘している。確かにその通りで、小柴胡湯に排膿や去痰の作用が加わると考えてよいだろう。中国では清代の『張氏医通』という書に、小柴胡湯に枳実・桔梗を加味した柴胡枳桔湯があるが、桔梗一味を加えた処方は見当らない。他方、日本ではよく行われた加味方のようで、18世紀中頃の吉益東洞の治験を集めた『東洞先生投剤証録』に小柴胡湯加桔梗の記載がある。
以上のように小柴胡湯加桔梗石膏には、熱証に対する小柴胡湯加石膏、および化膿症や喀疾に対する小柴胡湯加桔梗という、二つの処方が前提になっていると考えられる。そして二処方の背後にはさらに白虎湯や排膿湯・桔梗湯もあるらしい。かくもシンプルな加味方が日本でのみ広く応用され続け、さらに小柴胡湯加桔梗石膏に至った。これは張仲景の処方を十分に吟味しつつ応用する、日本独自の臨床経験の賜といってよいだろう。