中国では人体を流れる「気」のルートである経脈と、その上に点在して針灸などの治療部位とされる経穴(ツボ)を絵図に描き、唐代まで「明堂図」などと呼んでいた。北宋時代には針灸教育と当時の資格試験のため、医官の王惟一(約987〜1067)がネパール人仏師の協力で、体表に経脈を描いて経穴を穿った銅製の人体模型2体を鋳造(1027)した。後これを「明堂銅人形」と通称し、紙面に描かれていても「明堂銅人形図」などと呼ぶようになる。そうした絵図は王惟一の『銅人{月+兪}穴針灸図経』(1026)以降、針灸医書などの多くに載せられるが、掛け軸になるような大きな刷り物は明版から現存し、日本でも江戸時代から作製されている。
展示の本軸は縦118.9×横123.9cmの紙本を、幅132.2×縦152cmに麻布で装幀する。経脈・経穴を3図に描いた写本で、右が側面、中央が正面、左が背面の図。経穴の位置を探すのに必要な骨格を墨で塗り、いささか纏う服は唐風。経脈を色分けし、末端に臓腑名を墨筆、手足の三陰三陽経脈名を朱筆で記す。経穴は○ないし□で表し、穴名を墨書する。下掲の『明堂銅人形図』を模写したものではないが、指先や手掌の様式はやや似る。江戸中期の筆写か。