真柳誠(東京・北里研究所附属東洋医学総合研究所 医史文献研究室)
[目的]薬物の作用を臓腑経絡との親和性から説明や解釈する引経・帰経説は、金代以降の比較的新しい薬性論である。とりわけ帰経説は現代の中国でも広く利用されている。しかしその現実性はともあれ、提唱者は莫然と12世紀末頃の張元素と一般に考えられているにすぎず、形成の史的解明も十分になされていない。そこで引経・帰経説が金代で形成された過程を検討し、その背景を考察した。
[方法]引経・帰経説の初期形成に関与したと判断され、著者が相互に面識ないし師弟関係にあった下記文献の記載を調査・検討した。1.劉完素『素問病機気宜保命集』(1186年作)、2.張元素『医学啓源』(1200年前作)、3.王好古『伊尹湯液仲景広為大法』(1234年作)、4.王好古『湯液本草』(1248年作)。
[成績]1.には一部の薬物について、「杏仁 益肺」「細辛 少陰頭痛」「熟地 通腎経」のように、作用を臓腑・三陰三陽・経絡の概念を用いて表現する記載が見られた。2.には薬味と五臓の関係のほか、大部分の薬物に引経ないし帰経の概念を用いて表現する記載が見られた。3.には刑屍解剖に基づく北宋の楊介『存真環中図』(1113年作)から転載した臓腑解剖図、臓腑と経絡を連結させた図、五臓六腑の病変に対応した薬物、などの記載が見られた。4.には2.をさらに拡充かつ整理した記載が、総論とほぼすべての薬物について見られた。
[結論]『内経』医学と『傷寒論』を結合させた彼らの本草論は1.2.3.4.の年代順で発展し、その一つとして引経・帰経説も形成されてゆく過程が明らかに認められた。この背景として、彼らの少し前に初めて出版物となり普及した、『内経』『傷寒論』『本草』の理論的統合を彼らが目指したこと。具体的に臓腑を描いた解剖図に衝撃を受けた彼らは、臓腑経絡と薬能相関の表現に引経・帰経説を用い、理論的統合の手段としたことが強く示唆された。