要旨
イチョウは生きた化石植物とされるが、かつて歴史記録の研究がなく、原産地や出現史にも定説がなかった。そこで中国と日本の文献を調査検討し、以下の結論を得た。11世紀前期にいまの開封に移植され、初めて人々に鴨脚の名で知られた。すぐに種子は銀杏と呼ばれ、12世紀から植物も銀杏と呼ばれた。のち栽培が進み、14世紀初には種子が一般食品となった。その使用から、16世紀初までに種仁・外種皮・葉の外用や内服の効果が認識された。日本への渡来は有力だった鎌倉時代説に検討不足が発見され、結実特徴等より渡来時期は室町時代のおよそ15世紀前期が妥当と認められた。
イチョウの顕著な特徴は雌雄異株で、精子で生殖する。生命力が強く、接ぎ木や挿し木でも根づき、長命で巨木になると乳房状の突起をよく垂れ下げる。一方、種を植えてから最小で十数年、ふつうは30~50年ほど成長しないと結実しない。種子には特有の味覚があり、扇形の葉が黄葉すると黄金色に輝くなどの諸点で、イチョウの愛好家は多い。
さらに葉成分の活性が1960年代にドイツで発見されて以来、化学・薬理の研究が進み、いまや世界の薬用植物の感すらある。
しかしイチョウ史の研究は皆無に等しい。生きた化石、来日したEngelbert Kaempherが1712年に出版の"Amoenitatum exoticarum"でginkyo(銀杏)をginkjoと記し、それで学名のginkgoになった、などの話しかない。これゆえ原産地や出現史にも定説がなかった。
そこで中国と日本の文献を検討し、イチョウの出現と日本への伝来史を解明することにした。なお本稿は現日本で植物をイチョウ、種子をギンナン(銀杏)と呼ぶのに従う。ただし現中国では植物を銀杏(Yinxing)、種子を白果(Baiguo)と呼び、両国では銀杏の文字が違う物を指すことを注意しておきたい。
2-1-1 三国時代(220-65)説
当説5、6)を最初に示唆したのは、明・李時珍の『本草綱目』(1596初版)である。その銀杏条では、梁の『文選』呉都賦にある「平仲」樹に対する唐・李善の注、「劉成曰。平仲之木、果白如銀」9)により、「文選呉都賦注、平仲果、其実如銀。未知即此果否」10) と記す。この孫引き以外に三国時代の出現を示唆する文献はない。ただし時珍は、実体不明の平仲樹の果実が銀色に光った一点から、もしや銀杏かと疑ったにすぎない。それが今のギンナンなら、唐代までに何か記述があっていいが、疑われる記録ですら一切ない。
そもそも3世紀前半のことを6世紀前半に記し、それに対する7世紀末の注だけで物事を類推するのは無理がある。時珍もわずかな可能性を疑ったにすぎない。ただ『綱目』かその孫引きを見て、いきなりイチョウが三国時代に出現していたというのは暴挙である11) 。当説は無視していいだろう。
2-1-2 唐代(618−907)説
当説7)も根拠を記さないが、その可能性は二つしかない。ひとつは『植物名実図考長編』(1880初版)の銀杏条12)
に引用する『酉陽雑俎』文である。そこには雌雄異株で、種子の雌雄を殻(内種皮)の稜線数で見分け、結実する栽培法をいう。まさにイチョウである。『雑俎』は9世紀の書なので、イチョウは唐代には出現し、雌雄異株が認識されて栽培されていた、と判断しても無理はない。
ところが現伝の『雑俎』に当記述、あるいはギンナン・イチョウを疑わせる文はない。『図考長編』の引く『雑俎』と現『雑俎』に、こうした相違があるとも考えにくい。 一方、『図考長編』が銀杏条に引用した『雑俎』以外の全文献は、『古今図書集成』(1728初版)の銀杏部叢考13) にもあり、双方は引用文の終始まで一致する。これは『図考長編』が『図書集成』を転載した以外に起こりえない。そして『図考長編』が引く『雑俎』とまったく同文を、『図書集成』は『種樹書』(1379成)から引用する。つまり『図考長編』は『図書集成』から転載するとき、何かの原因で『種樹書』を「酉陽雑俎」と誤記ないし書き改めた14) 。したがって『図考長編』の引用文からイチョウが唐代に出現していた、と判断してはならない。
もうひとつ唐代出現説の根拠とされそうな記事がある。『広群芳譜』(1708成)の銀杏条15) に『盧氏雑記』から引用する文で、唐の鄭光が酒宴である果物をふざけて貔臍(ヘソ)と呼んだところ、薛保遜が脚杏と呼び直させたので爆笑したという。もちろん鄭光の伝16) にも薛保遜の伝17、18)にも、これを示唆するような記事はない。
後述するがイチョウの古名は鴨脚だった。それで鴨脚の脚と銀杏の杏が連続する脚杏と呼ばれた果物も、あるいは銀杏かとの判断で『広群芳譜』が引用したのだろう。ただし、それに凹んだ部分があったから冗談でヘソといい、ヘソは下品なので脚に言い換え、杏に似ていたので脚杏と呼んだにすぎない。つまり脚杏はおかしな表現なので一同爆笑しただけで、脚杏の用例は他にない。他にイチョウやギンナンらしき唐代の記録もない。すると脚杏がギンナンだった可能性はまずなく、唐代でもイチョウは人々の前にまだ姿を現していなかったと判断できよう。
2-1-3 宋代(960-1279)説
イチョウが宋代に出現したと初めて明言したのは『綱目』で、その銀杏条10) に「時珍曰。銀杏、宋初始著名、而修本草者不収」という。『綱目』は現在も広く利用され、多くの成書が根拠もあげず当説を記すのは、およそ本書かその孫引きによるからだろう。
なお時珍が「修本草者不収」というのは、銀杏が宋初に著名になったのに、宋政府が増補改修した本草書19)に言及もないからである。これは仕方ない誤認というしかない。
というのも日本にのみ伝承された南宋政府編『紹興本草』(1159成)には、銀杏条20)がちゃんとある。ところが本書の伝本は明代にほとんどなく、時珍も見ていなかった。それで『綱目』は銀杏の初出典を後代の『日用本草』(1329初版)とし、現代版『綱目』の『中薬大辞典』21) もこれを踏襲する。
さて『綱目』は、イチョウの葉がアヒルのみずかきに似るので、もとは鴨脚の名だったといい、ギンナンが宋初に初めて都の卞京(いまの開封市)に入貢されたとする根拠に、梅堯臣と欧陽修の詩を抜粋する。
堯臣(1003-60、字を聖兪)と修(1007-72、姓は欧陽、字を永叔)の詩に、銀杏などが出てくるのを集録した最初は、たぶん『全芳備祖』(1225頃成)だろう。その後集に銀杏条22) があり、堯臣と修の各2篇のほか、後世の詩を計5篇記す。『王禎農書』(1313成)の銀杏条23) にも堯臣の1篇が引かれ、『詠物詩選』(1707成)の銀杏類24) には彼らほかの詩が計5篇採録された。
ただし彼らの詩や、ギンナン・イチョウの古記録をほぼすべて集成したのは『広群芳譜』15) と、これを転載して『綱目』の記事ほかを追加した『古今図書集成』13)である。この両書でも修と堯臣の詩が一番はやく、ともに以下の7篇を採録する。
(1)欧陽修:梅聖兪寄銀杏。 (2)欧陽修:和聖兪李侯家鴨脚子。 (3)梅堯臣:依韻酬永叔謝予銀杏。 (4)梅堯臣:永叔内翰遺李太博家新生鴨脚子。 (5)梅堯臣:鴨脚子。 (6)梅堯臣:鴨脚子。 (7)梅堯臣:無題詩散句さらに堯臣の『宛陵先生集』には別に次のもう1篇が載る25) 。
(8)梅堯臣:代書寄鴨脚子於都下親友。なお修の『欧陽文忠公集』26) では (1)を1054年、 (2)を1057年の作とする。また同書に収められる1053年に修が堯臣に出した書簡27) は、冒頭を「某啓。寄恵鴨脚子甚奇」と書き出す。すると堯臣が1053年にギンナンを送ったので、修はその礼状を出し、翌年これを唱ったのが (1)と考えられる。 (3)は (1)に対する唱和で「去年我何有、鴨脚遠送人」から始まるので、同じく1054年の作だろう。 (4)は1057年作の (2)と同時に唱和しているので、1057年の作と判断できる。
さて(4)28)は李太博29) の家で初めて実った鴨脚子、つまりギンナンを修から贈られたので、堯臣が次の旨を唱う。故郷の宣城郡(いま安徽省宣城県)では鴨脚を栽培し、植えてから30年で実がなる。それを都の宮中に植え、また皇女の婿の家でも実った。これをいただいて故郷を想い出した、と。
ところで堯臣は1053年から55年まで母の死により故郷の宣城で喪に服していた30) 。そして、そこで入手したギンナンを1053年に欧陽修に送った。一方、修は堯臣への礼状でギンナンを「鴨脚子甚奇」、 (1)では「鴨脚雖百箇、得之誠可珍」と表現する。1054年6月から都に復して7月に判流内銓、9月に翰林院学士の官についたが31) 、ギンナンを賞味できる地位ではなかったか、李太博家や宮中のイチョウが1054年にはまだ大量に結実していなかったのかも知れない。1053年まで都にいた堯臣はそうした事情を知っていたからこそ、珍しいギンナンを送ったのだろう。
そして李太博家のイチョウが1057年に初めてたくさん実り、それを翰林院の要職にあった修が入手し、今度は逆に堯臣へ贈った。すると都にイチョウの木が移植、ないし種子が植えられたのはいつなのだろうか。
ヒントは欧陽修が (4)に唱和した(2)32)にある。その大略を以下に訳出してみよう。
江南にある鴨脚の名も物も分からなかった時、都では貢献されたギンナンを貴んだ。そこで好奇心あふれた賢侯が遠路、鴨脚をとりよせて根づかせた。最初やっと3、4個が実ったので、立派な箱にいれて献上すると、宮中に識る人もなく、天子は百金で報酬した。年ひさしくして次第にふえ、今ではたわわに実っている。この珠玉を当家の主人が贈ってくれた。むかしブドウやザクロが初めて伝えられた時も貴重だったが、今はどこにも生えている。月日がたっても物は変わらないが、人の記憶はうすれてゆく。この由来を記し、後世に伝えるのも官のつとめだろう。『欧陽文忠公集』ではこれ以下に自注があり、「都に鴨脚の木はなかったが、馴馬都尉の李和文が南方より屋敷に移植した」32) という。すると (2)で鴨脚の木をとりよせたという賢侯は李和文33) だった。和文とは李遵(988-1038)の謚34) 。彼は大中祥符間(1008-16)に太宗帝の第6女を娶り、永寧里にあった屋敷は佳木を周囲に植えた池や、千里の遠くから運ばせた奇石で有名だった35) 。子孫もこの屋敷に住んだらしく、(2)(4)にいう李太博や李侯は孫の李評である36) 。
すると李和文が江南からイチョウを運ばせ屋敷や宮中に移植したのは、1010年代から1033年の間となろう。植えてから30年で実がなる、と1057年に堯臣が
(4)で示唆的にいうことから逆算した1027年も、この年代範囲に入る。たとえ和文が没した1033年に移植されたとしても、その24年後の1057年になってようやく大量に結実したのだから、はるばる運んできたイチョウは苗木・幼木か、よくて若木だっただろう。堯臣の口吻からすると、宣城から運んできた可能性が高い。
2-1-4 出現説まとめ
以上より、イチョウの出現記録が宋代に始まるのは間違いない。原産地はいまの安徽省宣城県らしく、鴨脚と呼ばれて栽培もされていた。それを李和文が1010年代~1033年にいまの開封市の自宅と宮中に移植し、1057年には李宅で初めてたくさん実った。のち徐々に中国各地へ広まったものと考えられる。
2-2 普及の様相
2-2-1 食用
1057年後もしばらくはギンナンが珍しかった。宋・何遠の『春渚紀聞』13、15)と宋・張邦基の『墨荘漫録』13)によると、宮中には鴨脚の大樹が4本あり、元豊年間(1078-8には幹がみなひと抱えほどだった。うち3本は翠芳亭の北にあり、毎年、数斛37) も実った。ただ太清楼の東の1本には実らず、裕陵(神宗帝、1068-85在位)が嘆いたところ、翌年に数斛も実ったので太清楼で宴をもよおし、侍従に銀杏を分け与えたという。
こうした珍しさもあってか、北宋末期にはギンナンがやや普及していた。神宗帝が宴をもよおした約50年後、徽宗帝(1101-25在位)の時代である。当時の卞京の様子を描写した『東京夢華録』38) は、街頭で売られていた果実の筆頭に炒ったギンナンを挙げ、蒸し餅の上にギンナンなどの木の実をちりばめ、重陽の節句に贈ったと記す。
元代には栽培化が進んだらしい。1313年の『王禎農書』銀杏条は、多量に結実して採取が容易なため、昔ほどの価値がなくなったことを嘆く23) 。食品としてのギンナンは、すでに珍しさもなくなっていたのである。
2-2-2 薬用
南宋には薬用を記す書が初めて出現した。1159年の政府編纂『紹興本草』で、銀杏条は次のように記す20) 。
銀杏。宋の時世に出現した果実。…炒るか煮て食べ、生食すると害がある。各地に産出するが、宣州(宣城)産の大きなものがよい。…銀のような色で、形が小さな杏に似るので銀杏と名づけられた。葉が鴨の脚のようなので、鴨脚子ともいう。人々は生の外種皮をホクロに塗り、よい効験を得ている。過去の本草書には記載がないので、いま果部に収めた。紹興の新添品である。このように銀杏が初めて本草書に収載されたのは、外種皮の外用効果からだった。外種皮にはウルシ様成分があって皮膚をかぶれさせ21) 、前述 (4)の詩でも堯臣が「核を剥けば手に膚なし」28) と記していた。これを逆用してホクロに外用したのだろうが、のちの本草書はこれを記さない39) 。
元代では1329年初版『日用本草』の銀杏条40) が初めて別名に白果を挙げるが、薬効はいわず、多食・生食やウナギと食べたり、小児への不可をいう41) 。1330年の『飲膳正要』銀杏条42) も生食の不可をいうのみ。1367年頃の『飲食須知』銀杏条43) は毒性と、種仁で洗濯すると油汚れを落とすと記す。
明代では1476年の『滇南本草』が初めて白果を正名、銀杏を別名とし、千個食べると死んだり、小児への毒性をいう一方、ギンナンの内服・外用による効果と、皮膚病に葉・樹皮の外用を初めていう44)。1505年の『本草品彙精要』は銀杏で立項して生食の不可をいい、ギンナンは頻尿を止め、葉末と小麦粉をこねた餅は下痢を止めると記す45) 。
1596年の『本草綱目』も銀杏で立項、上述書を承けて内服・外用による多くの効果、また具体的な使用法や処方をいう10) 。ただし時珍は『紹興本草』『滇南本草』『本草品彙精要』を利用できなかったので、イチョウ樹皮とギンナン外種皮の外用、イチョウ葉の内服と外用には言及しない46) 。のちの本草書もおよそ『綱目』を踏襲したので、それらの薬用は書物上から消滅していった47) 。
このようにギンナンの食用から、まず生食・多食と小児への毒性が元代14世紀までに認識されたが、薬効への言及は見当たらない。ギンナン外種皮の外用は南宋12世紀にのみ記録がある。明代の15世紀末から16世紀初には、ギンナンとイチョウ葉の内服・外用効果が認識された。しかし16世紀末の『綱目』がギンナンの効果のみ総括した影響で、葉などを使用する後の記録は発見できなかった。
2-2-3 栽培
農書でイチョウを最初に採録したのは宋代1225年頃の『全芳備祖』22) だろう。しかし銀杏で立項して詩を列挙するのみで、栽培法や植物特徴などの記載はない。
元代にはイチョウの栽培知識が普及したらしい。1313年の『王禎農書』23) は銀杏で立項し、イチョウは成長すると太くなり、雌雄異株で雌雄の種子を一緒に植えると結実するといい、詳しい栽培法、銀杏の採取加工法、調理法, 小児への毒性などを記す。1344年の『崑山県志』13、15)は、枝を挿し木しても根づき、大樹には乳状の突起ができるという。
1379年の『種樹書』13) は銀杏で立項し、雌雄の種子を一緒に植えて結実させるため、銀杏の殻の稜線が3本は雄、2本は雌という鑑別法を初めて記した。この説は後世に広く普及したが、現在は疑問視されている2)。
明代では1502初版の『便民図纂』48) が銀杏で立項し、種からの若木に雌樹の枝を接ぎ木し、結実させる方法を記す。逆に、1633年前に編纂の『農政全書』49) は雌樹の幹に雄枝を接ぎ木しても結実するという。
このようにイチョウの栽培技術は、元代の14世紀初期から発達し、明末の17世紀初期にはほぼ完成されていた。
2-2-4 普及のまとめ
ギンナンの食用は北宋11世紀に記録が始まり、元代14世紀初には一般食品となった。これはイチョウ栽培の普及とほぼ並行している。その食用経験から元代14世紀までにまず毒性、ついで明代15世紀末から16世紀初には内服や外用の効果が認識された。しかしギンナンの効果のみ記した『綱目』の影響で、後それ以外の部位の薬用は記録からほぼ消滅していった。他方、イチョウの植物名は南宋から銀杏に変化し、鴨脚の名が文献記録から消滅する一方、種子を白果と呼ぶのが元代14世紀に出現し、明代15世紀から普及し始めた。
当説を紹介する文献2)はあるが、根拠までは記さない。イチョウ科の化石が日本でも発見1)されていることに遠因するのだろう。
もしイチョウが日本で自生し続けてきたのなら、古文献に何かの記載があってもいい。そこで平安時代までの次の文献を調査してみた。
712成『古事記』50)、 720成『日本書紀』51)、 733成『出雲国風土記』52)、 782頃成『万葉集』53)、 797成『続日本紀』54)、 840成『日本後紀』55)、 869成『続日本後紀』55)、 879成『日本文徳天皇実録』55)、 898-901成『新撰字鏡』56)、 901成『日本三大実録』57)、 918頃成『本草和名』58)、 922-931頃成『和名抄』59)、1001成『枕草子』60)、1010頃成『源氏物語』61)、 1081-11世紀末頃成『類聚名義抄』62、63)。しかしイチョウやギンナン、また関連語句の片鱗すら発見できなかった。以上の15文献は奈良初期から平安末期までを網羅し、分野は史書・辞書類・物語類・薬物書である。これらに記録がないのなら、イチョウの日本原産説は対象外としていい。
樹齢千年以上の大木が日本各地にあり、対馬島琴村のイチョウは千五百年という。それで古く百済の僧侶が、仏教とともにイチョウをもたらしたらしい、とする説である64) 。もしそうなら、平安時代までに一切の記録がない、ということはありえない。したがって当説は否定されるべきだが、同時に根拠とされた大木の樹齢も疑うべきだろう。
伐採した年輪で千年などという樹齢を数えた例を筆者は知らない。他方、その多くは何々という古人が植えたといい、どうも古人の年代から樹齢を逆算している。しかも古人が植えたという伝承が、その時代にさかのぼる史料で裏づけられる例を筆者は知らない。
当説の提唱者も記すように、イチョウは寿命が長いため、適所に成育すると相当な巨木になる。この巨大さゆえ樹齢が大きく見積もられてしまい、その地に縁ある古人と関連づけた伝承が生まれたと判断すべきである。各伝承はおしなべて、著名な古人が手ずから植樹したという同一パターンにあるのも、推測から生まれたことを傍証しよう。
3-3 鎌倉時代(1192-1333) 渡来説
当説を最初に提唱したのは大槻文彦『大言海』と思われ、1919年の自序部分と「イチャウ」項に考証がある65)。自序部分の論旨は、今の中国で鴨脚を「やちゃお」と発音してイチョウに似る。『下学集』など古辞書は銀杏に「イチャウ」の傍訓がある。「ぎんなん」に音便する前の「ぎんあん」は宋音なので、「いちゃう」も宋音であり、樹齢 700年ほどを越すイチョウが日本にないのは、鎌倉時代に禅宗とともに銀杏が宋から伝えられたためである、という。
「イチャウ」項では、いま鴨脚を広東で「いちャお」、揚子江北で「やちャお」と発音する。鴨の日本漢音は「あふ」、呉音は「えふ」なので、え→い→やに転音した。脚を「ちゃ」というのは、明応中(1492-1501)の饅頭屋本『林逸節用集』で行脚に「アンジャ」と傍訓する例があり、林家は宋代に帰化した。沖縄では脚半を「チャハン」という。植物学者によると日本のイチョウは巨木でも樹齢 700年ほどである。ならば 700年前の鎌倉時代には日中の禅僧が往来したので、彼らが銀杏を伝えて植えた。そのとき中国は宋代なので、「いちゃう」も宋音だという。
当説は新村出が賛同し、『広辞苑』も「語源的には鴨脚の近世音ヤーチャオより転訛したもの」66) と記す。ほとんどの日本語辞典・語源書も踏襲し、「いちょうは鴨脚の宋音ヤーチャオに由来する」67) などと記す。
しかし当説には疑問がある。大槻が語源の結論とする「イチャウは鴨脚の宋音」の音韻説も問題だが68) 、もし鎌倉時代に禅僧らがかくも特徴的な樹木を植えたなら、なにか記録に残っていいだろう。しかも禅僧らの五山文学に鴨脚・銀杏・イチャウ・ギンアンの文字は発見されない69) 。医薬書でも1214成『喫茶養生記』70)、1284成『本草色葉抄』71)、 1302-0成『頓医抄』72)、 1313-27成『万安方』73) ともに記述を発見できなかった。
そして大槻が挙げるように、室町時代の『下学集』 (1444成) や『尺素往来』 (1481前成) から、やっと銀杏・鴨脚の文字が日本の記録に出現する。ただし『下学集』74) では銀杏の右にイチヤウ、左にギンキヤウと振り、その異名に挙げる鴨脚にはアフキヤクと振る。イチヤウはあくまでも銀杏の音としてギンキヤウと併記され、鴨脚の音とはされていないのである。
『尺素往来』75) に鴨脚はなく、ただ銀杏にギンアンと振る。1486年の『類集文字抄』76) や1492-1500年前後の『新撰類聚往来』77) にも鴨脚はなく、銀杏にイチヤウとのみ振る。これらを調査した小林も、室町時代の古本ではたいてい銀杏にイチヤウと振り仮名を施している、という78) 。つまり室町時代のイチヤウは銀杏の音か訓で、鴨脚の中国発音という意識はなかった。
しかも『下学集』『尺素往来』は銀杏を植物名として樹木に分類し、果実類には記さない。銀杏を果実に入れ、樹木に記さなくなるのは『新撰類聚往来』が最初である。すると『下学集』の1444年、一般に結実していなかったので銀杏を樹木名とした。そして『新撰類聚往来』の15世紀末頃になると結実が増え、銀杏は果実名に変化したと考えるべきだろう。もし鎌倉末期でもイチョウが植えられたなら、『下学集』の時代には広く結実しており、銀杏が樹木名とされたはずはない。
中国記録の検討結果にひるがえりたい。植物名としての鴨脚は北宋11世紀に都でも一時使われたが、すぐに種子に銀杏の呼称が生まれ、南宋以降は植物も銀杏と呼ぶようになっている。鴨脚は古名ないし方言として、別名に記述されるだけだった。日本で最初の記録が出現した室町中期に、銀杏を樹木名とするのは明かにそうした中国の影響である。ならば日中の僧侶たちが、マイナーな鴨脚の発音を植物名として日本に伝えるだろうか。
このように音韻以外の検討でも、イチャウが鴨脚の宋音という説には疑問が多い。鎌倉時代にイチョウらしき記録が発見されないことも互考するなら、より後代の渡来だった可能性こそ想定すべきである。
ところで鎌倉幕府の史書、『吾妻鏡』の承久元年(1219)1月27日には79) 、鎌倉鶴岳(岡)八幡宮で実朝が公暁に殺された記事がある。一般には、このとき公暁はイチョウのかげに隠れ、機会をうかがっていたという。なら当時それは身を隠せるまでの太さに成長していたので、イチョウの渡来は遅くても平安末期になってしまう。いま鶴岡八幡宮に登る石段の左にある高さ30mの巨木イチョウは、それゆえ樹齢千年を公称する。
だが14世紀初の『吾妻鏡』は公暁が石階の際で機を窺っていた79) 、14世紀後半の『増鏡』は女装してカモフラージュしていたといい80) 、1374年以前の『承久記』にもイチョウに隠れていた等の記事はない78) 。
管見範囲では上原がこれを俗説と断じ2)、江戸・万治年間(1658-60) の中川喜雲『鎌倉物語』に初出し、その20年後に刊行の『新編鎌倉志』が転載したという。前書は1659年の初版で、のち1700・1735・1752年にも刊本があり、後書は河合恒久の著で1685年に初版が出て、1713年に復刻されている81) 。1692年の『本朝食鑑』銀杏条もこれを踏襲し、さらに今このイチョウは四、五百歳だが枯れずに大きく茂っている82) 、と記す。このように鶴岡八幡宮のイチョウは当時から巨木だったため、広く当説が浸透し、あたかも史実のごとく現在も信じられてしまったのである。
以上のように、大槻説は室町の音韻から類推するのみで史料的根拠がない。公暁が鶴岡八幡宮のイチョウに隠れて実朝を殺した、というのも後世の俗説にすぎなかった。渡来時期はもう少し下げる必要がある。
3-4 室町時代(1392-1573) 渡来説
当説については、「室町時代か鎌倉時代に渡来したという説をなす人がある」2)と紹介されるが、そうした文献は発見できなかった。そこで以下、筆者の見解を述べたい。
筆者の拙い調査で、次の医薬書と字書にはイチョウ関連の記述がなかった。
1363頃成『福田方』83)、 1379-81成『康頼本草』84)、1454成『撮壌集』85)、1456成『延寿類要』86)、 1469-86成『伊呂波字類抄』87)、1491成『太一続稿』88)、 1492-1501成『続添鴻宝秘要抄』89) 。以上のように、イチョウ関連の記述は南北朝~室町の医薬書になく、前述した室町の字書類の一部にのみ出現する。中国記録の検討でも知られたが、ギンナンはかなり普及して食用・薬用経験が蓄積しなければ医薬書に記載されない。すると南北朝~室町時代には、まだ広く普及していなかったらしい。
一方、最初に記録した1444年の『下学集』は、銀杏にイチヤウという呉音や漢音以外の音を振るので、書物上の文字ではなく、外来音で当時そう呼ばれた樹木がすでにあったと分かる。ただし異名の鴨脚には漢音でアフキヤクと振り、わざわざ葉形に由来するという語源を記した上、「風(霜)林、鴨脚を収む」という山谷(黄庭堅、1045-1105)の詩まで引く。その前の榛栗にはハシバミ、後の木犀にはモクセイと「桂也」の記述しかないのに。ならば鴨脚の名は耳慣れない言葉だったに違いなく、ギンナン・イチョウに関する知識も当時まだ一般化していなかったらしい。
するとイチョウの日本伝来が『下学集』より数百年も前ということはありえない。先の検討で、イチョウが中国全土に普及し、ギンナンの商品価値が下がったのは14世紀初だったこと。鎌倉・南北朝の文献記録が発見されないこと。前述した1492-1500年の『新撰類聚往来』から果実に分類され、ギンナンの普及開始を示唆すること。ギンナンは植えてから、ふつう30~50年ほどしないと結実しないこと。以上を互考するなら、伝来が『下学集』の1444年を50年以上さかのぼることはない。よって、およそ室町時代前期の15世紀前期に日本へ伝来したと推定したい。
3-5 渡来のまとめ
日本への渡来時期を検討したが、原産説・大和時代説は考察の対象外だった。今もっとも普及している大槻の鎌倉時代説は、日本の音韻から推測する。しかし中国におけるイチョウの出現と普及、中国近世音韻の検討、植物の特徴、鎌倉~室町の文献調査のすべてに認識や根拠の欠落ないし薄弱があり、妥当な推測とは認めがたかった。これらを再検討した結果、室町説に妥当性があり、およそ15世紀前期に伝来したものと推定された。
(1)原産地はいまの安徽省宣城県だったらしい。これを北宋の11世紀前期に、李和文がいまの開封に移植して初めて人々に知られ、のち中国各地へ広まった。
(2)イチョウは11世紀に鴨脚と呼ばれ、ギンナンも鴨脚子だったが、すぐに銀杏の名称が普及した。南宋からはイチョウも銀杏と呼ばれる一方、ギンナンを白果と呼ぶ のが14世紀に出現し、15世紀から普及し始めた。
(3)ギンナンは14世紀初に一般食品となり、イチョウ栽培の普及とほぼ並行していた。
(4)ギンナンは14世紀までに毒性、15世紀末から16世紀初には内服や外用の効果が認識された。ギンナン外種皮やイチョウ葉の薬用も開発されたが、16 世紀末から消滅した
(5)日本への渡来は鎌倉時代説がこれまで有力だったが、イチョウを鴨脚の宋音と推定したことからの誤認と判断さ
れた。
(6)日本の記録は15世紀中期に樹木としての銀杏に始まり、15世紀末から銀杏が果実に分類され始めるので、イチョウの結実特徴から室町時代のおよそ15世紀前期に伝来したと推定された。
[謝辞]本拙論の執筆には茨城大学の上田武教授、故・清水登教授、鈴木健一助教授、東京外国語大学の平井和之講師より多くの資料とご教示を賜った。各氏のご厚意に深甚の謝意を申し上げる。
2) 上原敬二『樹木大図鑑』第 1巻 20-36頁、東京・有明書房(1961)。
3) 中国樹木志編輯委員会『中国樹木志』第 1巻 154-158頁、北京・中国林業出版社 (1983)。
4) ただし変種は文献2)によると4種、中国の栽培品種は文献3)によると12種ある。
5) 董源『中国植物之最』37頁、北京・中国旅行游出版社(1987)。
6) 徐江森ら「銀杏小史」、『農業考古』2号 253-256頁(1988)。
7) 北村四郎『草木図説 木部(下)』 772頁、大阪・保育社(1977)。
8) およそ成書は宋代出現説をいうが、根拠を挙げて検討する例を筆者は知らない。
9) 肅統『文選』85頁、北京・中華書局影印倣宋版(1977)。
10) 李時珍『本草綱目』30-51b~52b、上海・上海科学技術出版社影印金陵版(1993)。
11) なお文献6)は根拠を示さず、しかもおびただしい誤認の上に三国説を述べる。
12) 呉其濬『植物名実図考長編』 898-899頁、台北・世界書局(1975)。
13) 陳夢雷『古今図書集成』草木典2651−54頁、台北・鼎文書局(1985)。
14) 本書は編纂者が明初に処刑されたので唐の郭橐駝(植木屋)の著として出版された。『図考長編』が「酉陽雑俎」と記した原因かも知れない。
15) 汪灝ら『広群芳譜』3323−31頁、台北・新文豊出版公司(1980)。
16) 欧陽修ら『新唐書』5853頁、北京・中華書局(1975)。
17) 劉昫ら『旧唐書』4091頁、北京・中華書局(1975)。
18) 上掲文献13) 、5003頁。
19) 974刊『開宝本草』、1061成『嘉祐本草』、1062刊『図経本草』、1092成『重広本草図経』、1108刊『大観本草』、1116刊『政和本草』、1119刊『本草衍義』をいう。
20) 王継先ら『紹興校定経史証類備急本草』37頁、北京・鄭金生ら輯刊(1991)。
21) 江蘇新医学院『中薬大辞典』 684頁、上海・上海科学技術出版社(1977)。
22) 陳景沂『全芳備祖』 987-990頁、北京・農業出版社(1982)。
23) 王毓瑚『王禎農書』 144頁、北京・農業出版社(1981)。
24) 張玉書ら『詠物詩選』5177−79頁、台北・広文書局(1970)。
25) 梅堯臣『宛陵先生集』、『四部叢刊正編』第43冊、353頁、台北・商務印書館(1979)。
26) 欧陽修『欧陽文忠公集 (1)』、『四部叢刊正編』第44冊31・32頁、台北・商務印書館(1979)。
27) 欧陽修『欧陽文忠公集 (2)』、『四部叢刊正編』第45冊1208頁、台北・商務印書館(1979)。
28) 上掲文献25)、 436頁。
29) 文献13) は太博を太傅に誤刻する。
30) 筧文生『梅堯臣(中国詩人選集二集3巻)』、167-168頁、東京・岩波書店(1962)。
31) 上掲文献26) 、18頁。
32) 上掲文献26) 、87頁。
33) 文献22) もこれを引用するが、和文を和父に誤刻する。文献13) と文献15) はこれを修の文章に引かない一方、ほぼ同文を宋・阮閲の『詩話総亀』から引用し、ともに和文を文和と誤記する。さらに広く読まれている文献10)は李和文の行為に一切言及しない。
34) 昌彼得ら『宋人伝記資料索引』 761-762・1056-57頁、北京・中華書局(1988)。
35) 脱脱ら『宋史』13567-69頁、北京・中華書局(1985)。
36) 上掲文献30)、 148頁
37) 宋代の1斛(100升)は約95リットル。
38) 孟元老(入矢義高ら訳注)『東京夢華録』79・299・384・401頁、東京・岩波書店 (1983)。
39) のち皮膚疾患への外用効果を記すのは文献10) が唯一と思われるが、李時珍は外種皮でなく、種仁の効果として記録している。
40) 呉端『日用本草』6-11a、嘉靖 4(1525)跋刊、龍谷大学冩字台本(690.9-449-1)。
41) 加熱したギンナンでも多食で中毒した報告はいまも多い。
42) 忽思慧『飲膳正要』 137頁、北京・人民衛生出版社(1986)。
43) 賈銘『飲食須知』36頁、北京・人民衛生出版社(1988)。
44) 蘭茂『滇南本草』19-20頁、昆明・雲南人民出版社(1975)。
45) 劉文泰ら『本草品彙精要』巻34、清写本、個人蔵。
46) 文献21)724頁はイチョウ葉を白果葉の名で収載するが、薬用初出を『滇南本草』より後期の『本草品彙精要』と誤認する。
47) 文献21)725頁は、白果根の名でイチョウ根と根皮の薬用を記す。
48) 鄙瓔『便民図纂』51頁、北京・農業出版社(1982)。
49) 石声漢『農政全書校注』 807-808頁、上海・上海古籍出版社(1979)。
50) 高木一之助ら『古事記総索引』、東京・平凡社(1994)。
51) 六国史索引編集部『日本書紀索引』、東京・吉川弘文館(1969)。
52) 加藤義成『校本出雲国風土記』、平田市・報光社(1968)。
53) 正宗敦夫『万葉集総索引』、東京・平凡社(1974)。
54) 六国史索引編集部『続日本紀索引』、東京・吉川弘文館(1967)。
55) 六国史索引編集部『日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録』、東京・吉川弘文館(1965)。
56) 昌住『新撰字鏡』、大阪・全国書房(1944)。
57) 六国史索引編集部『日本三大実録索引』、東京・吉川弘文館(1963)。
58) 深根輔仁『本草和名』、東京・日本古典全集刊行会(1926)。
59) 源順(正宗敦夫編)『倭名類聚鈔』、東京・風間書房(1970)。
60) 榊原邦彦ら『枕草子総索引』、東京・右文書院(1967)。
61) 池田亀鑑『源氏物語大成』巻6索引篇、東京・中央公論社(1956)。
62) 正宗敦夫『類聚名義抄仮名索引』、東京・日本古典全集刊行会(1940)。
63) 正宗敦夫『類聚名義抄漢字索引』、東京・日本古典全集刊行会(1946)。
64) 向坂道治『イチョウの研究』23-32頁、東京・風間書房(1958)。
65) 大槻文彦『大言海』第1巻 6-8・296頁、東京・富山房(1932)。
66) 新村出『広辞苑』 153頁、東京・岩波書店(1991)。
67) 松村明『大辞泉』 158頁、東京・小学館(1995)。
68) 茨城大学清水登教授のご教示によると、現在の音韻研究では地方差を考慮しても、鴨脚の宋音が日本人にイチャウに聞こえる可能性はまずなく、銀杏の近世音から転訛した可能性がより高いとのことだった。
69) 茨城大学鈴木健一助教授のご教示による。
70) 栄西『喫茶養生記』、京都・法蔵館(1942)。
71) 惟宗具俊『本草色葉抄』、東京・内閣文庫(1968)。
72) 梶原性全『頓医抄』、東京・科学書院(1986)。
73) 梶原性全『万安方』、東京・科学書院(1986)。
74) 著者不詳『下学集』 132頁、東京・新生社(1968)。
75) 一条兼良『尺素往来』、『日本教科書体系往来編』第2巻 510頁、東京・講談社(1967)。
76) 著者不詳『類集文字抄』、『続群書類従』第30輯下 318頁、東京・続群書類従完成会(1985)。
77) 丹峰和尚『新撰類聚往来』、『日本教科書体系往来編』第4巻 382頁、東京・講談社(1970)。
78) 小林祥次郎「いちょう」『群馬県立女子大学国文学研究』5号36-42頁(1985)。
79) 著者不詳『(新訂増補国史体系)吾妻鏡』 747-753頁、東京・吉川弘文館(1986)。
80) 白井喬二ら『日本逸話大辞典』第3巻1284頁、大阪・東方出版(1978)。
81) 国書研究室『国書総目録』第2巻 216・218頁、東京・岩波書店(1989)。
82) 人見必大『本朝食鑑』 386-388頁、東京・日本古典全集刊行会(1933)。
83) 有隣『有林福田方』、東京・日本古典全集刊行会(1936)。
84) 著者不詳『康頼本草』、上掲文献76)435-466頁。
85) 飯尾永祥『撮壌集』、上掲文献76)268-315頁。
86) 竹田昭慶『延寿類要』、『続群書類従』第31輯上 219-244頁、東京6.続群書類従完成会(1984)。
87) 著者不詳『伊呂波字類抄』、『復刻日本古典全集』本、東京・現代思潮社(1978)。
88) 高橋英因『太一続稿』、江戸前期写本、龍谷大学冩字台文庫本(690.9-443-2)。
89) 坂浄雲『続添鴻宝秘要抄』、内閣文庫所蔵江戸写本(195-28)。