真柳 誠
東洋医学を含めた世界の伝統医学は経験の蓄積が次第に体系化されて現代にいたっており、この過程で数多くの古典籍が著されてきた。それらは近代医学のない時代に病と真摯に直面し、治療を重ねてきた記録であり、現代でも臨床に役立つ情報は多い。
とりわけ中国文化圏の東洋医学は古きを貴ぶ中国の尚古思想のため、医学古典を核とした逆ピラミッド型の厖大な体系が形成されてきた。それを要約する試みは歴代にわたってなされ、こうした入門書は近現代でも著されている。しかし近現代の言葉に完全に翻訳できない古典医学の概念を核とするため、入門を過ぎた段階からは古医籍の読解が必要とされ、それには漢字学・文献学とともに学説史・人物史などを基礎とした医史学の知識も求められる。
いま現在、中国大陸は医史学教育でかなり理想的なシステムが実行されている。計二七校ある伝統医薬大学の中医学部・中薬学部・針灸学部には、各医学古典(内経・傷寒論・金匱要略・温病)・古文(医古文)・学説史(各家学説)・文献史(医史文献)・医学史(中国医学史・針灸学史・中国薬学史)の研究室がある。いずれも必修科目として学部生に授業され、それらの修士や博士の課程を持つ大学もある。また中華全国中医学会の下に医史学・医史文献学・医古文・各家学説の学会、中国薬学会の下に薬史学の学会があり、しばしば合同で一〜二年ごとに学術大会を開催している。あるいは台湾・香港・日本・韓国・欧米から講演者を求め、ここ数年はほとんど毎年なんらかの国際シンポジウムを行っている。
しかし最近の市場経済の進行により、さほど直接収入にめぐまれない当分野は学生の人気が凋落し、研究者も医学古典籍の出版社に転職する例などが少なくない。医史学関連で修士や博士の学位を取得しても研究室に残らず、別な基礎研究や臨床研究の機関に就職してしまう場合すらある。このため若い後継者の数が逼迫しつつあり、かつて中堅の友人から日本ではどう対処しているのかと、返答に困る質問を受けたことすらあった。
日本には伝統医科大学がそもそもないので、およそ中国とは様相を異にする。唯一、北里研究所東洋医学総合研究所の医史学研究部が二名の専任と十名ちかい客員の陣容で重責を担っており、日本のみならず中国・韓国の伝統医学界でも評価が高い。
一方、平成元年から始まった日本東洋医学会の認定医制度では必須の基礎分野として医学史の知識を求めており、平成七年から毎年実施している認定試験では医史学関連の問題を初歩的内容ではあるが出題している。このため平成六年と八年に各々出版された『認定試験参考問題集』にも、「T.基礎の1.歴史」の項目で医史学の例題を設定。東洋医学会の東京都部会は「江戸の先哲医家に学ぶ」のテーマで連続講演を行い、認定医の点数としている。毎年の学術大会でも医史学のセッションがおおむねあり、口演は五題前後のことが多い。
このように医史学は東洋医学の基礎分野として評価が高く、質問を受けたり講義・講演を求められることは少なくない。近年は研究を志す若手が増加傾向にあるが、教育や研究の場がほとんどない点は従来と大差なく、将来にも続く問題となっている。筆者も従事しているように、日本史・中国史・科学史と連携した教育・研究活動はかなり現実性が高く、検討すべき方法とはいえよう。しかし医学生や医学を志す高校生に対する教育啓蒙はむろん行えない。
ちなみに、いささか話題はそれるが、平成九年十一月の文部省教育課程審議会答申により、高校の物理と数学の教育に科学史が導入された経緯はかなり参考となるだろう。歴史を敬遠しがちな理系生徒に、歴史的素養を科学史として育成する方針を文部省がとったからである。さらに現在の高校までの教育には保健科目しかなく、この知識では高度化した医療に十分に対応しえないことが問題視され始めていると仄聞する。高校段階あるいは大学段階での一般医学教育に医学史も導入されるよう、今からなんらかの構想を医史学会として準備しておくべきではないだろうか。若い人たちに医学史を伝えるためには、長期的展望も当然あってしかるべきと考えている。