岸田吟香が中国で販売した日本関連の古医書
真柳誠・陳捷
明治維新以後に来日した楊守敬・李盛鐸・羅振玉・丁福保ら清国の学者は、日本に保存されていた中国古典籍や日本の研究書に注目し、購入・帰国している。その中に多量の医学書があることはたびたび報告した。
他方、清末・中華民国頃の伝入らしい日本の古医書が、上海中医薬大学図書館や上海市中医文献館に少なからずある。大多数は来日した清国学者と無関係で疑問だったが、これに関連する岸田吟香(一八三二〜一九〇五)の活動に気づいたので報告したい。
岸田吟香は一八六六年(慶応二、同治五)に上海へヘボンに随行し、ヘボン『和英語林集成』の印刷に従事。同六八年(明治元、同治七)に上海に再渡して精リ 水の販売所を設置。同七五年(明治八)に銀座で精リ水調合所(楽善堂薬舗)を開き書籍も販売。同七八年(明治十一、光緒四)に上海に再々渡して楽善堂薬房 分店を設置し書籍も販売。同八○年(明治十二、光緒六)にも上海に再々々渡して楽善堂分店を中国各地に開設した。このように彼が中国で書籍を販売したのは 知られていたが、実態は未検討だった。
新たに気づいた資料は扉に『楽書堂書目』とある線装本一冊(東京大学総合図書館蔵)で、叙文と凡例によると、 一八八四年(明治十七、光緒十)の初版に増補し、同八七年(明治二十、光緒十三)に印刷されたらしい。版心や書末の「東瀛岸吟香謹啓」から、岸田吟香の上海楽善堂販売目録と分かる。
全体は扉・叙文・凡例と、@楽善堂発兌銅板石印書籍地図画譜上巻、A楽善堂発兌東洋本新旧書籍、B楽善堂発兌書籍目録下巻、C楽善堂蔵板書目、D上海楽善 堂薬房発售各種妙薬目録からなる。@ABは品名と価格を一行に記し、まれに冊数・著者等もある。中国版・日本版の別は記述しない。Cでは品名・著者名・冊 数・価格の他、ほぼすべてに簡単な解説があり、 一八八七年の楽善堂書房主人識語もある。Bでは計四四製剤の名称・価格・効能が光明精リ水を筆頭に記される。
さて@は計三一七点の書籍等を載せ、うち医書は漢籍が一書のみ。『大日本輿地図』など明らかな日本編纂物もあるが、多くは中国版と推測される。
Aは計六四四点を載せ、うち医薬書は一二二点。「東洋(日本)本新旧書籍」と名うつので、多くは日本版の漢籍や国書だが、日本から逆輸入の中国版・朝鮮版も混入する。価格は@よりやや高価に思える。
Bは計六三〇点を載せる。うち医書は二五点で、みな漢籍だが和刻のある書もみえ、日本からの輸入書も混在するようだ。また日本からの輸入版木で一八七四年(明治一一、光緒四)に上海で印刷した『影宋本千金方』等も記される。価格はAよりやや低い。
Cは計三九点を載せ、うち医書は7点。「楽善堂蔵板書目」と名うつように、『原版玉機微義』『針灸素難要旨』など、上海楽善堂が日本から輸入した版木で印刷した書が多い。楽善堂自身が活字出版した書もある。
以上@ABC全体の計一五二〇点中、医書類は一六五点にのぼった。いま上海の各図書館にある日本関連の古医書は、こうした岸田吟香の販書とも大いに関係するだろう。
なお明治十三年(一八八〇)五月の『温知医談』は岸田吟香からの手紙を浅田宗伯が紹介し、「上海では日本の版木による重印医書が高価で販売され、邦人が誇 るに足る」の旨をいう。張玉範「李盛鐸及其蔵書」も「李盛鐸は一八八〇年に岸田吟香を知り、海外の金石図籍を購入し始めた。明治維新から日本人が古籍を軽 視するので、岸田は帰国して集めた古書を上海で売り、李氏は多くの日本古刊本・活字本・旧抄本を購入した」と記す。
以上のごとく、岸田吟 香は上海で一八七八年には書籍も販売していたが、同八〇年の再々々渡で李盛鐸などと知りあい、浅田宗伯ヘの手紙のように日本伝存古書の大々的販売を思いつ いたらしい。そして日本からの輸入書等を売り出した目録が同八四年の初版で、徐々に取り扱い範囲を拡大した増補版が今回見出した同八七年に印刷の目録とな ろう。