真柳誠「漢字文化圏全古医籍の集計と考察」『日本医史学雑誌』62巻2号155頁、2016年6月20日
漢字文化圏における全古医籍を集計し,検討した.著者が日本人なら和籍,中国人なら漢籍,ベトナム人なら越籍,朝鮮半島人なら韓籍と呼び,同一書は別版本や別写本を区別せずに1種とした.
和籍は佚書を含め,1900年までに伝統医薬書13203種・博物等2518種・蘭学書約1500種があった.16世紀から著述が増加したのは,実力ある学医が社会地位を得られる時代になったからだろう.17世紀以降は急増しており,医官や半官半民の学者による著述と,多数の門人による写本の存在が大きい.背景には江戸前期後半から貨幣経済が全国に浸透し,相当量の医薬知識が商業出版された要因もある.江戸前期までは京坂を中心に臨床系漢籍の影響が圧倒的だったが,江戸中期からは中国を離脱する一方で蘭学の影響も大きかった.後期は江戸を中心に自国化が顕著に進行していた.
現存漢籍は1911年までに7311種,1949年までと年代未詳書も加えると11758種あった.著述は唐代まで微増に止まり,著者は医官が多い.北宋からやや増加した背景には,政府の校刊と貨幣経済の浸透,医家の名声と収入の向上が推定できる.当傾向が明代から加速したのは,進士の道から医に転じた学医の著述と,商業出版が拡大した要因も加わっていた.それが清末まで持続していたことは,現存書の80%が刊本だったことでわかる.医薬知識が商品として公開されたため,書名中の「秘」字含有率は和籍より低く,後世ほど低下していた.
ベトナムは高温多湿と戦乱のため,14世紀以降の越籍しか現存しない.1945年以前の361種と博物植物の2種を確認できたが,調査が進めば500種前後まで増加するだろう.現在まで伝承された初期段階の著者は進士一族から医に転じた名医が多く,ベトナムの南薬を強調する等の特徴があった.阮朝後期まで貨幣経済が未発達で,刊本は政府か寺院の非商業出版が主だったが,ほぼ現存しない.商業出版物は19世紀以降だけが現存していた.現存書の大多数は民間医の写本で,多くは歌賦形式で自国化を強調し,諳誦が特徴的学習方法だったと分かる.当背景もあり,古典漢籍のベトナム刊写本や研究書が一切なく,唯一の『医宗心領』巻1も「内経要旨」だった.
1911年までの韓籍は佚書を含めて218種と博物等9種を確認できた.早期は百済・新羅時代の医方書があり,高麗時代には漢籍を政府が重刊している.朝鮮政府も古典等の漢籍を重刊する一方,巨大な病門別医方書と自国化を郷薬・東医で強調した全書を編刊し,韓医学の伝統を形成していた.法医学・救急医学の重視や,四象医学など他国にない特徴もある.朝鮮時代は貨幣経済の未発達ゆえ政府が医薬書を編刊したが,主に医官向けで,商品としては流通していない.商業出版は19世紀後半から始まる.医官の身分は侍医でも中人,民間医は常民で,科挙を受験できる両班階級と隔絶されていた.さらに現在の公的図書館は民間医の備忘録に類する写本をほとんど蒐集していない.これら要因が重なり,現存書が少ないと理解できる.韓籍全体では臨床系が主で,漢籍古典の研究書がほとんどない点は越籍と同傾向だった.
各国全体では医方書が最多で,他分野もほぼ同様に発達していた.日韓越は中国医学を受容しつつ,自国化していた.各国の人口・医家数と著述数には強い相関性があり,各比率は中韓越でほぼ一致していた.日本だけ対人口の医家数が他国の4~4.4倍,医家の著述率が他国の5.7倍だったのは,科挙制度がないため医家の地位と収入が高く,商品化された医薬知識が普及していた要因もある.韓国・ベトナムでは漢籍古典関連の著述が殆どない一方,日本の著述数は中国を上まわっていた.これにも科挙がなく,商品経済が普及し,島国ゆえ中国に占領されなかった要因がある.ゆえに中国文化への親近感を持続し,漢籍古典を研究したのだった.