真柳誠「北宋の医官教育と医書出版」『日本医史学雑誌』59巻2号222頁、2013年6月23日
中国で医官の育成や考試に規定した医書と、それらの校刊は当然連係するが、かつて言及されていない。北宋政府は天聖5年(1027)に『素問』『難経』『諸病源候論』の校刊と『銅人腧穴針灸図経』の編刊をおこなっている。2年後の天聖7年医疾令は唐の開元25年(737)令を一部踏襲し、医官の修学書をこう規定した。「諸医及針学(科)、各分経受業。医学科習甲乙(経)・脈経・本草、兼習張仲景(傷寒論)・小品集(方)等方。針学(科)習素問・黄帝針経・明堂・脈訣、兼習流注・偃側等図・赤烏神針等経」、と。以上の刊行書と修学書で共通するのは『素問』だけなので、天聖令は名目にすぎなかった。ゆえに修学書のみ規定し、考試書を規定しなかったのだろう。当背景もあったにちがいない。1057年に設置された校正医書局は1061年の『嘉祐本草』を嚆矢に、陸続と漢代~唐代の重要医籍を校定・補注して刊行した。
一方、北宋の医官育成は当初、太常寺に所属の太医局が担当していた。1044年に諸科生徒80余人に『素問』『難経』等で講説した記録があり、両書は1027年刊本だっただろう。1060年に太常寺はこう奏言した。太医局の学生定員を120名に制限し、従来の考試は『難経』『素問』『病源候論』『聖恵方』から10問を出題していたが、今後は『本草』から2、3問を出題し、まったく本草に不通の者は採用しない、と。すなわち1027年刊の3書と992年編刊の『聖恵方』を教育と考試に使用していた。今後は本草も考試せよというのは、校正医書局が編刊した上記『嘉祐本草』と1062年の『図経本草』が前提だったに相違ない。
のち校正医書局は『傷寒論』(1065)・『金匱玉函経』『金匱要略』『千金方』『千金翼』(1066)・『脈経』(1068)・『素問』『甲乙経』(1069)・『外台秘要』(1069直後)の9書を大字で校刊した。1076年には太医局が太常寺から独立し、定員は方脈科・針科・瘍科の3科で各100名に拡充された。方脈科では大経の『素問』『難経』『脈経』と小経の『病源候論』『龍樹眼論』『千金翼』の6書、針科と瘍科では上記のうち『脈経』にかわり『甲乙経』とした6書で教育し、毎春の考試も規定された。上記の3科は9科に細分され、方脈科には大方脈科(内科)・小方脈科(小児科)・風科(急性病)・産科、針科には針兼灸科・口歯兼咽喉科・眼科、瘍科には瘡腫兼折傷科・金鏃兼書禁科がふくまれる。1083年には地方に教官を派遣し、人口に応じた人数の医生に『難経』『素問』『傷寒論』『病源候論』『聖恵方』による教育と考試をおこなう法を礼部が奏言した。
あらたに小字本も校定・刊行された。1088年の『傷寒論』『聖恵方』ほか3書、1096年の『千金翼』『金匱要略』『脈経』『嘉祐本草』『図経本草』の5書である。これら廉価な医書の普及により、民間医や外州軍の医療向上をめざしたのだった。
以後は中級医官育成の太医局とは別に、1103年の奏言で三学(太学・律学・武学)とおなじく国子監下に新設された定員300名の医学で、高級医官の育成と考試・出題が規定された。方脈科・針科・瘍科に共通した『素問』『難経』『病源候論』『嘉祐本草』『千金方』の5書、さらに方脈科に『脈経』『傷寒論』、針科に『甲乙経』『龍樹眼論』、瘍科に『甲乙経』『千金翼』の各2書である。医学は1110年に太医局に併入されて太医学と改称された。これら育成は首都・開封が中心だったため、1115年の奏言で地方の州・県にも医学が設置され、ほぼ同様に規定された。当時は1108年に『大観本草』、1116年に『政和本草』、1118年ころに『聖済総録』が編刊され、1113年前後の『外台秘要』『甲乙経』、1121年の『素問』とこれに前後する『脈経』の再校刊もなされている。
以上のように、北宋の医官育成と医書出版は同軌の施策であり、王安石・神宗および徽宗の三舎法による学校教育など科挙制度の改革とも通底していた。