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真柳誠「『宋板傷寒論』系諸版の検討」『日本医史学雑誌』54巻2号157頁、2008年6月20日
54 『宋板傷寒論』系諸版の検討
真柳 誠(茨城大学大学院人文科学研究科)
A study on some editionswhich originated from
the “Songban Shanghan-Lun”
Makoto MAYANAGI
日本・中国ともに伝統医学の最基本古典とされる3世紀の『傷寒論』は、北宋政府の1088年翻刻小字本に基づき、明の趙開美が1599年に序刊した『仲景全書』所収の『宋板傷寒論』が最善本とされている。しかし趙開美『仲景全書』にも初版のA版、その修刻B版、A版に基づく明末清初重刻のC版があり、うちB版が善本であることを一昨年の本会で報告した。
その後も調査を進めたところ、A版は北京中国中医研究院・上海図書館・上海中医薬大学、B版は台北故宮博物院・瀋陽中国医科大学、C版は東京の内閣文庫だけにあり、諸目録に見える他機関の趙開美本は皆別版だった。一方、趙開美本に由来すると考えられる『傷寒論』諸版もあるので、ABC各版との関係を検討してみた。
@清初の張卿子『集注傷寒論』は、『注解傷寒論』の成無己注から張卿子まで全26家の注を集成するが、経文はB版の『宋板傷寒論』と『注解傷寒論』に基づいていた。本書の成立は1644年以降と考えられ、清初の聖済堂版などが現存する。一方、本書は万治2年(1659)初版の和刻『仲景全書』に、趙開美版『宋板傷寒論』『注解傷寒論』の代わりに収められた。当和刻初版の『集注傷寒論』には清・聖済堂版の内封が模刻されている。その際、『集注傷寒論』の上欄に「宋板」「成本」との経文校異が日本で刻入され、この頭注はC版に基づくと判断された。当和刻版は寛文8年(1668)・宝暦6年(1756)・寛政元年(1789)にも出版されているが、いずれも初版と同一版木による後印本である。
他方、和刻本には『注解傷寒論』の経文を抜粋した所謂『小刻傷寒論』以外に、「翻刻宋板」「校正宋板」等をうたう『傷寒論』もある。
嚆矢はA寛文8年(1668)の岡嶋玄提翻刻『宋板傷寒論』およびその復刻本で、全文はC版に基づいており、一部は@本の経文を参照して改められたらしいことが分かる。
B寛政9年(1797)の浅野元甫校刊『校正宋板傷寒論』は書式を大きく改め、節略も多くて判然としないが、A本に基づいたらしい。
C天保15年(1844)の稲葉元煕校刻『新校宋板傷寒論』は節略が多く、趙開美本の版式も失うが、本文は概ねA本に基づき、他に@本の経文も参照している。
D安政3年(1856)の堀川舟庵『翻刻宋版(影刻宋本)傷寒論』は、紅葉山文庫のC版(現在の内閣文庫本)にほぼ基づくが、一部を@本ないしA本の系統で改めたらしい。
E民国元年(1912)の武昌医館校刻『傷寒論』もほぼC版に基づく。その原底本は紅葉山文庫のC版を安政2年(1855)11月以前に幕府医官の小島尚真が能書家に模写させ、さらに尚真がC版で子細に校訂した影写本である。これを清国公使館付きで来日した楊守敬が明治14年(1881)2月〜3月頃に購入した。守敬は帰国後、光緒27年(1901)までの段階で、小島影写『宋板傷寒論』から趙開美の付加と判断した部分を切り落とし、また小島影写『注解傷寒論』の目録も一部切り取って利用、双方を貼り合わせて版下とした。さらに一部の字句をAD本で改め、守敬の指導で影刻に上達した武漢の陶子麟により宋版風の字体で刻板されたのが当E本である。
以上のように「翻刻宋板」等を冠する『傷寒論』は、いずれも主に明末清初のC版に由来し、趙開美原本のA版・B版に及ぶ版本は一点もなかった。したがって、これらをテキストして研究や利用する価値はない。今後は宋版の旧を伝え、誤刻が最少の趙開美翻刻B版『宋板傷寒論』をテキストとすべきである。
*本研究は日本学術振興会平成19年度科学研究費基盤研究(B)「中国古医籍が日・韓・越の伝統医学形成史に与えた影響の書誌学的研究」による。