台湾所蔵の古医籍は、本年五月段階で計一五三八点の書誌情報がインターネットで公開されている。所蔵先は故宮博物院図書文献館が八一〇、国家図書館(旧中央図書館)が六四八、中央研究院図書館が六四、台湾大学図書館が一四、中央図書館台湾分館が二だった。このように現在のネット公開は台北市内の蔵書に限定されるが、全台湾に今後拡大されても多少増加する程度だろう。
つまり台湾で最大の古医籍蔵書は故宮にある。これまで故宮所蔵医書の旧蔵先は第一が楊守敬の観海堂、第二が文淵閣四庫全書、第三がその他であることは分かっていた。また観海堂旧蔵医書の大多数は、楊氏が明治の来日時に購入したことも知られていた。
そこで昨年、故宮所蔵の全古医籍を実地調査したところ、日本に関連する書は約四〇〇点に及び、ほぼ全てが観海堂旧蔵書だった。うち約三三〇点まで親見し終え、森鴎外の『小嶋宝素』伝ほかを補訂しうる知見等を得たので、これを中心に概略を報告したい。
楊氏が日本で購入した医書の旧蔵者は、第一に小島尚質(宝素)・尚真・尚絅の小島家。第二に江戸医学館と主宰者の多紀家。第三に小島家関係者で、奈須恒徳・森立之・渋江抽斎・伊沢家・山田業広などだった。
小島家本は第一に尚質手沢本、第二に尚真手沢本、第三に尚絅手沢本の順だった。共用された蔵書印は「小嶋氏図書記」「博愛堂記」、読書室号は攷古斎・葆素堂・宝素堂・宝素閣・博愛堂で、写本には「攷古斎鈔本」「宝素堂鈔本」と印刷された稿紙が用いられていた。
幕府医官・小島尚質(一七九七〜一八四七)の字は学古、号は宝素だが、彼が書き入れに用いた自称は観棊生・侫宋・侫宋道人・侫宋処士・侫宋学人・円斎後人・棄踈閑人など。蔵書印は「江戸小島氏八世医師」「小島尚質」「字質読書斎鐙」「尚質」「臣尚質」「尚質之印」「医師臣尚質印」「小島質精校医経」「字学古」「学古氏」「学古氏印」「小島宝素」「宝素堂」「宝素堂所臧医書之記」「葆素堂臧驚人秘{竹+冊}」「葆素所臧」「侫宋(二種)」「聴雨」などが捺されていた。
なお尚質の著作は『国書総目録』と『古典籍総合目録』に、『古刻旧鈔目録』『小島宝素目録』しか載らない。楊氏が彼の全蔵書と著述を購入・帰国し、日本から消失したためである。しかし故宮所蔵の小島尚真『座右筆記』は父・尚質の著作として二三書を列記し、それら自体の所蔵も多くが確認された。
尚質の長男・尚真(一八二九〜五七)は字を抱冲、小字は春沂、号は{木+聖}蔭だが、書き入れでは{木+聖}陰生ないし沂と自称する。蔵書印は「尚真之印」「尚真校読」「尚真校定」「抱冲氏」「{木+聖}蔭生」「{木+聖}蔭」などが捺されていた。彼の著書が日本から消失した状況は父と同様で、『国書』と『古典籍』には、『皇国医籍目録』『今定漢五量考』『宝素堂蔵書目録』の三書しか載らない。前述の『座右筆記』は彼の著述予定書を含めて三四書を列記するが、二八歳の若さで逝世したため約半数しか完成していない。
二男・尚絅(一八三九〜八〇)は兄・尚真の没後にその養子となり、幕府医官を継いだ。尚絅の字は瞻淇、小字は春澳、号は子錦だが、書き入れには不肖孤と自称する。蔵書印は「尚絅校読」「尚絅之印」のみ。明治以降も門弟と古医籍の校読を続けていたことが書き入れから分かるが、もはや幕府医官ではない。楊守敬が来日した時(一八八〇)は正に尚絅の没年で、妻の定は三八歳、嗣子・杲一は未成年だったと思われる。そうした事情が重なり、家蔵の全書籍が楊氏に渡ったのだろう。
その三七年後の一九一七年に鴎外外が『小島宝素伝』を著した時、もはや日本には小島家の家系資料しかなかった。このため、他の医家伝より伝記資料が極端に少ないことは鴎外自身も認めている。これら台湾故宮の小島家旧蔵文献により、『小嶋宝素続伝』の編纂が今後想定される所以である。
1 小島尚質(宝素)の著述(台湾故宮所蔵、小島尚真『座右筆記』による)
経方権量攷・医経釈義・経脈古義・瘡疹類要・胎産学要・傷寒雑病論巻次攷・診視要訣・修製法則・太素補遺・太素攷証・宋朝医事年表・皇朝医略・体療抄・医籍目録・医師令條・医師心得・日用良方・医籍年表・感旧録・皇朝医史・本草経集注・新修本草・経効産宝補証の23書。
2 小島尚真の著述と著述予定書(台湾故宮所蔵、小島尚真『座右筆記』による)
新校正本草経・避諱攷・本草地名考・医方月令・補欠肘後百一方新校正・経方類要・経験摘英方(丙午脱稿、分為三巻、装為一冊)・経方叢鈔・文稿・書目四種・経験丸散膏方・病名古義・諸書記聞・視聴雑鈔・医経校勘記・本草彙言類方・皇朝医籍攷・傷寒論注・金匱要略注・素問注・霊枢注・難経注・医経釈義・経穴古義・医学紺珠・医籍年表・医籍{(纂−糸)+良}詁・修製古義・候脈要訣(病源七傷寒候相病之法、視色聴声観病之所、…)・群書鈔方・治疾方攷証・金匱玉函経・元和紀用経・類纂歴代名医論要の34書
3 書物の移動:以下の多くは森立之が仲介(参考:森立之「清客筆話」)
小島家→楊氏
(奈須家・啓迪院→)小島家→楊氏
(小島尚質→村田章→小島家→)杉垣{竹+移}→楊氏
(啓迪院・養安院→)杉垣{竹+移}→楊氏
(養安院→久志本家→小島家→渋江家→)森立之→楊氏
(伊沢家→小島家・渋江家→)森立之→楊氏
(野間家→)森立之→楊氏
森立之→楊氏
多紀家→楊氏
(伊沢家・多紀家・小島家→)山田家→楊氏
(武田文庫→渋江抽斎→多紀家→)寺田望南→楊氏
*東京古書店→楊氏(故宮目694頁の『傷寒論正義』は、中に「日本橋通四丁目十番地/和漢書籍売買所/東京 松田幸助」の陽刻印を捺す領収書を挟む)
4 調査記録の一例
台北故宮新目下冊685頁の記載「黄帝内經太素存二十三卷(缺卷一、四、七、十六、十八、二十、二十一凡七卷)二十三冊。(隋)揚上善撰。日本影古鈔本。楊守敬(彼の識語等はなく、別の24冊本にある)、日本小島質、孤尚絅等手書題記」
2000年8月4日・2001年8月20日。箱號503、天字0667號、觀字596號、故觀號なし。
日本包背原裝、薄茶色中手表紙、書高26・5×幅19・0cm。外題は表紙に「黄帝内經太素卷第二(〜三十)」、右下に「全廿三冊」を墨書。第23冊の見返しを剥がし、楊氏寫眞藏書票を貼る。序なし、各卷頭毎に目録あり、卷首に「黄帝内經太素卷第二 攝生之二/通直郎守太子文學臣楊上善奉 勅撰注」、以下目録・本文。料紙は薄葉雁皮紙、無界、無邊、無版心、無魚尾。毎半葉、7行・行14字、小字雙行・行19字。缺卷あれば各冊表紙に墨筆し、本文所々に寶素が朱筆で甲乙・靈樞・素問による校異、また按語を記す。
第1冊末葉に寶素が朱筆で「天保壬寅(13年、1842)四月廿八日、與澁江籀齋(1805-58)、伊澤柏軒(1810-62)、同照素靈二經一校、於葆素堂中、質/弘化二年(1845)九月二日、參素問靈樞甲乙經校勘」、ウラ表紙左下に「二月十四日郵來」の墨記。第2冊(第3卷)に朱筆等の校異はないが、書末に墨筆で「太素經見存廿三卷。家先君從尾張國傳鈔卷第三、先兄在日、為人借失、茲以丹波元堅本手自補寫、尚不負先君捜索古經之意云。明治三年庚午八月、不肖孤尚絅謹識」の識語あり。第3冊(卷5)本文には藍界線とヲコト点があり、寶素の朱筆で靈樞等との校異、書末に墨筆で「文政庚寅(13年、1830)八月廿九日、得之於尾張淺井正翼。校讀一過、謹藏于寶素堂、小島質誌」、欄外に「文政十三年八月六日書寫之 冢(塚)原植」の墨記あり。第4冊は本文を靈樞本神にあて、ウラ表紙左下に「三月七日郵來」の墨記。第5冊は靈樞經脉第十にあて、ヲコト点あり。第6冊ウラ表紙左下に「辛卯正月廿四日郵來」の墨記。第7・8冊ウラ表紙左下に「正月五日郵來」、第9・10ウラ表紙左下に「三月七日到來」の墨記。第11冊ウラ表紙左下に「二月七日」、第12冊は「二月十四日寄來」の墨記。第13冊(卷17)末尾に「本云。保元元年潤九月廿六日、以家本移點校合了、蜂田藥師船(?)人本云々 憲基」の奥書、書末に蜂田藥師について續日本記・本草和名をひき簡單に考證する。第14・15冊ともにウラ表紙左下に「四□前一日郵來」の墨書。第16冊ウラ表紙左下に「二月廿七日郵來」、17・18冊ウラ表紙左下に「二月十四日郵來」の墨書。19冊(卷27)末に「天保辛卯三月望、据尾張淺井正翼三經樓鈔本鈔補斯一張 質 花押」の墨書。第20・21・22冊は特記なし。第23冊ウラ表紙左下に「四月十四日來」の墨書、當冊は卷次不明だが表紙右下に「淺井正封云、是當卷第廿二」の墨記あるにより、故宮目は計7卷を缺とする。
「小嶋氏/圖書記」「尚質/校讀」「字/學古」「小島質/精校/醫經」および楊氏の藏印記5種。僅かに蟲損。