←戻る
真柳誠「現代中医鍼灸学の形成に与えた日本の貢献」『全日本鍼灸学会雑誌』56巻3号336-337頁、2006年5月10日
第55回全日本鍼灸学会学術大会 特別講演③
現代中医鍼灸学の形成に与えた日本の貢献
茨城大学大学院 教授 真柳 誠
中国では清の1822年に宮廷医院内で鍼灸科が廃止されて以来、鍼灸はほとんど民間療法になっていた。一方、日本では明治維新以降、西欧医学を導入して
伝統医師の根絶策を進めたが、鍼灸だけは近代医学も教育した鍼灸師の形で存続し、科学研究もなされてきた。伝統が途絶えていた中国は、これゆえ日本に大き
な刺激と影響を受けたのだった。その程度は中国で出版された日本の鍼灸関連書からもはっきり分かる。
私の調査によると、1910年までの清代に出版された日本の鍼灸書は江戸の著述が1種だけ。1911~48年の民国代には江戸の著述が新たに10種、明
治後の著述が新たに7種、新中国の文革以前1949~66年では明治後の書が新たに16種出版されている。むろん各書は各時代に幾度も復刻されているの
で、出版回数はもっと多い。これに各時代の状況や翻訳出版に関わった人物を重ねると、興味深い傾向と史実が見えてくる。
清末の唐宗海は1884年に『中西匯通医書五種』を著して生理・解剖学より中医理論を解釈、のち中医・西医の長を採る中西匯通派が形成される。匯通派の
モデルとなったのは、明治以後に近代医学も援用した日本の伝統医学研究だった。他方、民国政府も明治政府に倣い中国医学の廃止策を採った。1925年に医
学校での中医教育を禁止、29年には第一次中央衛生委員会議にて中医廃止案を批准する。これに対し全国の中医界は反対活動を展開し、36年の中医条例で合
法地位を獲得、37年には政府に中医委員会を設立させることに成功した。彼らが民国政府への反論に利用したのが江戸や明治後の伝統医学研究書である。その
中国版出版回数は1934年に8回、35年に21回、36年に83回と急増する。しかし37年には3回、38年1回、39年0回に急減してしまう。
1936年でブームが終焉した理由はいうまでもない。1937年の第二次上海事変からの日中全面戦争による反日と戦乱である。
ただし1949年からの新中国では66年の文革発動までに、昭和の鍼灸書が新たに16種翻訳出版され、鍼灸を含めた第二次日本伝統医学書ブームが起きて
いた。鍼灸書の著者は柳谷素霊・代田文誌・長浜善夫・赤羽幸兵衛・本間祥白・間中喜雄ら。翻訳出版を担ったのは承淡�安�や楊医亜など、民国時代から鍼灸の復
興と教育啓蒙を行っていた中医師である。とくに精力的に活動した承淡�安�(1899~1957)は1934~35年の訪日で東京高等鍼灸学校(呉竹学園)等
を参観、帰国後すぐに中国鍼灸医学専門学校を設立した。その門下が1956年から各地に設立された中医学院で教鞭にあたり、60年に刊行された中医学院の
第一版統一教材も編纂している。現代中医学の骨格はこの第一版教材で築かれており、いま日本と中国の鍼灸医学に湯液ほどの齟齬がないのは、以上の歴史経緯
が背景にある。