『内外傷弁惑論』『脾胃論』『蘭室秘蔵』解題
一、 李東垣の事跡
『脾胃論』の著や、補中益気湯の創方で名高い李東垣は、金元四大家の一人にかぞえられている。その伝は『元史』巻二〇三の列伝中に収められるが、治験例が主で伝自体は簡略である。しかし直弟子の羅天益が編纂した『東垣試効方』[1](一二六六成)には、至元四年(一二六七)に硯堅が記した詳細な「東垣老人伝」[2]が付されている。長文ではあるが、以下にその全文を翻訳しておこう。
東垣老人李君の諱は杲、字を明之という。家は代々真定(河北省正定地区)の資産家で、大定年間(一一六一〜八九)の初めには、真定や河間(河北省河間県)で一番の大地主であった。幼い頃から群児と異なり、長じては忠信に篤かった。一方、交遊には慎重で、人に冗談を言ったことがない。かつて人が集まる歓楽街に足を踏み入れたこともなく、これは天性の然らしむるところであった。以上の伝より、東垣は一一八〇〜一二五一年の人とわかる。ただいくつかの事跡は年代を記さないので、その背景も兼ねて少し補足しておこう。友人達もこれにはすこぶる頭を悩まし、密議して一席を設け、ホステスにふざけ戯れさせ、杲の衣服を引かせた。すると怒り罵ってその服を脱ぎ、燃やしてしまった。また郷豪が国使を接待した時、府長は杲が妙齢なのに固いことを聞き、ホステスをそそのかして無理に酒をすすめた。辞す間もなく少し飲んでしまったので、遂に大吐してしまった。杲の自愛すること、かくの如くである。
杲は内翰の王従之に『論語』『孟子』を学び、『春秋』は内翰の馮叔献に学んだ。また自宅の空地に書院を建てて儒士を接待し、給のない者には援助した。泰和(一二〇一〜○八)中に飢えた民の多くが流亡した時、杲は全力で施しを与え、多くの人々を救ったこともある。
母の王氏が病に倒れた時、土地の医者数人を招いたが、温涼寒熱のいずれで治療するのか、みな説が違う。百薬を用いてみるも、過失に過失を重ね、遂に何の証もわからずに死んでしまった。医学に無知であったため親を失ったことを悼痛した杲は、良医がいたら就いて学び、再度の過ちを防ぎたいと願った。そこで易水(河北省易水県)の潔古老人張元素の医名が天下に高いのを聞き、大金を払い数年学び、その法をことごとく会得した。
この後、済源(河南省済源県)で監税官の職に就いた。そこではちょうど、俗に大頭天行と呼ばれる疫病が流行していた。しかし当地の医者は方書にその証に合った治方がないので、ただ下しに下すのみで死に至らしめていた。医者が誤治しなければ、病人も死ぬことはない。こう心に想った杲は、寝食を忘れて病源を検討し、標を察し本を求め、一方を製した。これを投与したところ有効だったので、木に刻して衆目の集まる所に掲げた。本方で効のない者はなく、人は仙人の所伝だとして石にきざんだ。もとより杲は医で名をなすつもりはなかったので、人々も杲が医に精通しているのを知らなかったのである。
その後、杲は兵を避けて{サンズイ+卞}梁(河南省開封県)に行き、ようやく医をもって公卿間に交遊した。その効験は別書(『東垣試効方』)に載っている。壬辰(一二三二)の変の後、北渡して東平(山東省東平地区)に寓居。甲辰(一二四四)に至り、郷里に還った。
ある日、杲は友人の周徳父にこう語った。もう年老いたので道を後世に伝えたいのだが、どのような弟子が良いかと悩んでいる、と。そこで徳父は答えて言った。羅天益(謙父)という者がいる。人情に篤く、かねてから業の至らざるを悔み、学に志している。君が道を伝えたいなら、彼がよかろう。他日、羅天益が来た。杲は一見すると、汝が学びに来たのは医者になって金を得るためか、それとも学んで道を伝えるためか、とたずねた。天益は、ただ道を伝えるのみと答え、就学を許されることになった。
天益は日々の飲食を杲に仰ぎ、三年学んでも喜び倦きなかった。ある日、杲は天益に銀二〇両を示し、こう言った。汝の生活がひどく困難なことを知っている。これでは学も中途で終わってしまうのではないか。これを妻子に渡しなさい、と。しかし、天益は強く辞して受けとらない。そこで杲は、大金とて私には惜しくないのに、こんな小額を遠慮するものではない、と言って受けとらせた。杲が期したのは何か、理解されるであろう。
臨終に際し、杲は平素の著述の順次をそろえ、それを内容別に机にならべて天益にこう告げた。この書を汝に託すのは、李杲・羅天益の名声のためではない。天下後世のためである。けっして湮滅させてはならない。これを広め行わせよ。この時、杲は年七二、辛亥(一二五一)の二月二五日であった。
杲が没して、すでに一七年。天益は遺言を忘れず、新たに心がけようとしている。まさに杲の学は、託すところを知っていたのである。
至元丁卯(一二六七)上元日、真定路府学の教授、硯堅述。
まず張元素に師事した年代である。伝によれば、それは母の没後、かつ河南の済源で疫病の治方を創製する前に相違ない。済源でのエピソードは、羅天益が『東垣試効方』巻九に「時毒治験」として記録している。これによると、東垣は泰和二年(一二〇二)に済源へ赴任。その四月に流行した疫病に特効のあった創方を、普済消毒飲子と命名している。すると張元素に師事したのは赴任前で、伝に数年間とあるから、およそ一一九九〜一二〇一年、東垣が二〇〜二二歳の頃と推定される。
東垣が医業を開始するのは、戦乱を避けて河南の開封に行ってからである。しかしその年を伝は記さない。当時、北方を支配していた金朝は、蒙古の侵入で宣宗帝の時に本拠たる満州を失い、一二一四年に北京から開封に遷都した。とすれば、東垣が開封に逃れたのも、およそ一二一四年以降で三五歳を過ぎた頃であろう。
だが開封も安住の地ではなく、一二三二年に蒙古軍にしばらく包囲された。これが壬辰の変である。『金史』哀宗上本紀には、その時城内で疫病が大流行し、約五〇日間で死者九〇余万人に到した、と記される。城内でこの惨状を目撃したことを、東垣は『内外傷弁惑論』の巻頭に生々しく描写している。
包囲が解けた後、東垣は命からがら開封を脱出したのであろう。それまで彼の手許には、師の張元素の著作がいくつかあったらしい。しかし壬辰の変のため、そのうち『医学啓源』の一書のみが残った、と張建(吉甫)が東垣の求めで書いた「医学啓源序」に記されている。
一方、東垣が逃避した先を、伝は山東の東平のみ挙げるが、その前に聊城(山東省陽穀県)にも行ったようである。これは開封以来の友人で、共に逃避行をした元好問が東垣の『傷寒会要』(佚)に寄せた序[3](一二三八)に記されている。興味深いことに、聊城は成無己(一〇六四〜一一五六頃)の出身地である[4]。張元素や東垣は、無己の医説をしばしば引用するので、聊城に立ち寄ったのも偶然ではないかも知れない。
この元好問の序には、「壬辰の変で私と東垣は一緒に開封を出、聊城・東平で交遊し、もう六年になる。(中略)一二三八年の夏、私が山西の太原に還ろうとする時、東垣の子の執中が本書を携え来て序を求めた」、と記されている。すると東垣は一二三二年に開封を出てから、山東の聊城・東平に逃れ、一二三八年までは東平に居たらしい。
その後、東垣が故郷の河北省真定に帰った年を、伝は一二四四年とするが、少し疑問がある。というのは、『蘭室秘蔵』自汗門と『東垣試効方』巻九に、癸卯(一二四三)年一二月の真定における東垣の治験例が記録されているからである。ただし硯堅の東垣伝とて史実を大きく離れるはずはなかろう。したがって東垣の帰郷年は、一二四三年の末頃と思われる。
さて最後に問題とすべきは、羅天益がいつから東垣に師事したかである。伝によれば、それは帰郷後としかわからない。羅天益の『衛生宝鑑』に寄せた王ツの序(一二八三)では、天益が東垣に一〇数年間親炙したと記している[5]。すると東垣の没年から逆算して、一二三八年頃から師事したことになる。しかしその時、東垣は真定に帰郷しておらず、伝の記述と一致しない。そこで年月が付記された東垣の治験例を各書に調査すると、一二四四〜四六年の間はまるでなく、一二四七〜四九年の間に集中している。さらにその大部分は、天益が師の治験と方論を編纂した『東垣試効方』中の記録である。したがって天益の入門は一二四七年頃の可能性が高く、東垣が没する一二五一年まで、少なくとも五年間は師事したと考えられる[6]。
二、李東垣の著書
東垣の著作と伝えられる書はすこぶる多い。しかし前述の伝に見るように、東垣の生前に著作が刊行された記録はなく、いずれも没後に世に現われたものである。その一部は東垣が臨終の際、羅天益に遺言して伝えた稿本、あるいは天益が師事中に筆記したノートなどに由来するであろう。それらは編成などに天益の手を経てはいるが、およそ東垣の著と考えてよい。
このほか、他の門人や東垣の家族に伝えられた書があったかも知れない。天益の手を経た証拠が見当たらない書のいくつかは、この系統に属する可能性がある。しかし明らかに東垣に仮託した書や、真偽相半ばするものも少なくない。したがってここでは、本解題の三書以外で東垣の著作と認められるもの、また可能性が高いものについてのみ、簡単に記すことにする。
『傷寒会要』
東垣の友人、かつ患者でもあった元好問による序文が伝わるのみで[3]、本書自体は早くに佚したらしい。また刊行された形跡もない。一二三八年に記した元好問序に、「傷寒則著会要三十余万言」というので、かなりの大部だったと思われる。内容については、「其説曰。傷寒家、有経禁・時禁・病禁。此三禁、学医者、人知之。然亦所以用之、為何如耳。会要推明仲景・朱奉議・張元素以来備矣」と引用されている。『四庫全書総目』は王好古の『此事難知』に説明して、本書は佚したので『此事難知』から内容の一、二を窺うしかないという。しかし元好問の序から推すかぎり、両書の内容に共通点はないように見える。
元好問(一一九〇〜一二五七)は遺山と号し、金代の著名な文人[7]。『脾胃論』にも序を寄せているほか、自から『集験方』(一二四二自序、佚)を編纂したり、周候『周氏衛生方』(佚)に序を草したりしている[8]。
『東垣試効方』の硯堅序(一二六六)は、東垣の著作の一つに本書名を挙げる[1]。かつて元刊の九巻本に関する記録もあったが[9]、現存はしない模様。丁光迪は本書の明抄善本の記載より、本書の成立は『内外傷弁惑論』の完成(一二四七)以降、書名は羅天益が東垣の学を修め終えたことを記念しており、天益が本書を刊行したという[10]。恐らくそうであろう。
現存するのは、元刊『済生抜粋』(一三四一)の巻六に収められた一巻の節略本(図1)が最も古い。また『医統正脈全書』(一六〇一)所収の一巻本などもあるが、内容はいずれも大同小異。本邦では済生抜粋本を底本に甲賀通元が訓点を加え、享保十九年(一七三四)に二巻本に改め翻刻されている。
『用薬法象』
李時珍『本草綱目』巻一序例上の歴代諸家本草は本書名を挙げ、「書凡一巻。(中略)祖潔古珍珠嚢、増以用薬凡例。諸経嚮導、綱要活法、著為此書」と説明している。硯堅の「東垣試効方序」が、東垣の著作として記す『薬象論』も同一書であろう。現存本はない。
李時珍が本書のオリジナルと指摘する張元素の『潔古珍珠嚢』は、元版『済生抜粋』巻五に一巻本が収められている。しかしこれは節略本で、同じく張元素の『医学啓源』巻下の「薬類法象」が、本来の『潔古珍珠嚢』に近いと思われる。
他方、王好古の『湯液本草』には、「東垣先生薬類法象」「東垣先生用薬心法」の各篇がある。その細目中には李時珍の言と符合するものがあり、多くの内容は『本草綱目』巻一序例上の「気味陰陽」「標本陰陽」「升降浮沈」の篇に、「李杲曰」と題して引かれる文と一致している。また『湯液本草』の各論条中に、「象伝」「東垣云」と題する文も、東垣の『用薬法象』からの引用であろう。
さらに後述の『東垣試効方』巻一は「薬象門」と題し、ここにもほぼ同様の内容が記されている。そればかりでなく、上述の諸書には見えない「薬象陰陽補瀉之図」もある。この図は『東垣処方用薬指掌珍珠嚢』二巻(一四六八初刊)[11]や、それとほとんど同内容の『珍珠嚢』一巻(明初刊『医要集覧』[12]所収)に収められる図と同一である。この両書は『本草綱目』巻一歴代諸家本草の『潔古珍珠嚢』条に、「後人翻韻語、以便記誦、謂之東垣珍珠嚢、謬矣」、と酷評される書と同一であろう。しかし内容に増補改訂が見えるものの、ある部分は上述の各書と相互に同文ないし類文の関係が認められる。
以上のように、本書の系統は張元素の旧文を基本に、李東垣・王好古・羅天益・明人の増訂が複雑に交錯し、各段階をにわかに峻別しえない。なお明代からは、熊宗立校『(新刊太医院校正京本)珍珠嚢薬性賦』二巻、呉文炳考証『(新刻東垣先生精著)珍珠嚢薬性賦』二巻、銭允治校『珍珠嚢指掌補遺薬性賦』(一名『雷公薬性賦』)四巻など[13]、続々と本書の系統を引く「薬性賦」が刊行された。この流行は明・清・民国から現代の中国にも続いているが、それらの内容には、もはや見るべき元素・東垣らの旧はない[14]。
『東垣試効方』
本書は東垣の医論・医方・治験を羅天益が編纂し、薬象門・各病門・雑方門の計二四門九巻としたもの。また硯堅の東垣老人伝と序、および王博文の序を前付する。硯堅の序年より本書の成立は一二六六年、王博文の序年より初刊は一二八○年と知れる。この元刊本は伝存しない。しかし元明間の倪維徳(一三〇三〜七七、字を仲賢、晩年は敕山老人と号した)[15]の翻刻した明初刊本が、上海中医学院図書館に現存している。その影印本が最近出版され[1]、ようやく利用が容易となった。
本書は当解題の三書と重複する内容も多いが[16]、本書のみの医論や治験例が少なくない。前述の諸書のように旧態が失われておらず、今後は東垣の代表著作の一つとして、十分に研究・利用されるべき書といえよう。
『(新刻校定)脈訣指掌病式図説』
明の『医統正脈全書』所収の一巻本(図2)が伝わり、校訂した呉勉学はこれを朱丹渓の著作としている。しかし本書の中に、「予目撃、壬辰首乱已来。……予於内外傷弁、言之備矣」の記載があることから、多紀元胤はこれを東垣の著作と考定した[17]。これに続け、「今略具数語、以足成書、為六気全図」と記されているので、もと『六気全図』の書名であったかも知れない。しかし前後に相当な混乱があるので、元胤はこれを明の本屋のしわざと見ている。
また本書には「題丹渓重修脈訣」という序があり、その末行に「歳在戊申。門生竜丘葉英題」と記されている。岡西為人は、この戊申を一二四八年と推測した[18]。恐らく当序文中に秦越人の名があり、「至於今、千有余年」と記すことを根拠としたのであろう。しかし当序文はその師について、「独先生、以神明之資、洞燭物理」と、東垣にはふさわしくない表現をする点。一二四八年は東垣の存命中で、元好問クラスでもない一介の門人が、その頃に師の書に序を草すことは考え難い点などから、当序の年代と真偽はいささか疑わしい。
以上のほか、『活法機要』一巻(『済生技粋』および『医統正脈全書』所収)も、東垣の著作とされることがある[19]。しかしこれは劉完素『素問病機宜保命集』三巻からの、節略以外の何物でもない[20]。また熊均の『医学源流』には、東垣の書として『瘡瘍論』『医説』を挙げるが、真偽を論ずべき資料は伝存しない。
三、『内外傷弁惑論』
〔成立年代〕
本書は李東垣の著作中で、自序が付された唯一の書である。一二四七年に記されたその序には、本書の草稿ができてから一六年間、そのままにしておいたという。すると東垣が五三歳の一二三二年に、本書の基本的内容は完成していたらしい。この年、東垣のいた開封は蒙古軍の包囲により、疫病とその誤治による死者が続出していた。一二四七から単純に一六を引いて、一二三一年を本書の草稿完成とする見方もあるが[21]、著述の契機がこの壬辰の変にあるのだから、それは当を得ない。
東垣はその後、戦乱を避けて北方の各地を巡りながら、自説に基づく治験を重ねたのであろう。そして一二四三年中に、真定へ帰郷したことは先に考察した。本書巻上(ある版は巻中)の「腎之脾胃虚方」中には、この年(癸卯歳)秋頃と思われる下痢の治験例もある[22]。故郷に居を定めてから、これら草稿の整理を始め、最終的に本書を完成させたのが自序の一二四七年、東垣六八歳の時である。前述のごとく、自分の学術を世に伝えるため弟子を求め、羅天益を入門させたのはこの頃であった。本書の完成と後継者の養成は、東垣にとって恐らく同じ意味があったに相違ない。
〔構成と内容〕
本書には、書名を『内外傷弁』や『弁惑論』と略称するもの。校訂者が違ったり、三巻本・二巻本・一巻本など、種々の版本がある。しかしいずれも全二六篇より構成され、個々の誤字・脱字による字句の異同を除けば、内容に差はない。
第一篇の「弁陰証陽証」より第一三篇の「弁証与中熱頗相似」は、篇名に「弁」が冠せられるごとく、外感証と内傷証の弁別を中心とする論説である。もちろん、本書の書名もこれに由来する。とりわけ第一篇はその総論ともいうべき内容で、壬辰の変で日々数千人が病死するのを目撃した東垣の体験を基に、外感と内傷を弁別する重要性が強い口調で説かれている。
第一四篇の「飲食労倦論」から第二一篇の「論酒客病」までは本書の各論部分で、飲食不節や暑気・飲酒などによる脾胃や胃腸の内傷が起こる機序を論じ、それらに対応する処方と加減が挙げられている。この各論部分の導入をなすのが第一四篇の「飲食労倦論」である。東垣はここで陰火と呼ぶ、脾胃虚衰から起こる発熱を提起している。そして、これは風寒を外感した発熱とは機序が違うので、『内経』(『素問』至真要大論)の「労者温之、損者温之」を根拠に、温剤でこの発熱を治すという一見矛盾した治療法を唱える。次いで、この見解から立方したものとして補中益気湯を掲げ、立方の趣旨を詳細に解説している。
さらに次篇の「四時用薬加減法」でも、四季の様々な症状に応じた補中益気湯の加減が述べられている。補中益気湯は本書の後に著された『脾胃論』にも多くの加減が述べられており、東垣の本方に対する自信が窺えよう。またこれら立方趣旨や加減などに使用される薬物の効能表現と認識は、従来の本草書にはほとんど見られない。しかし以後、現代に至るまで中国の用薬理論に多大な影響を及ぼすことになった。東垣のこの用薬理論は、師の張元素(潔古)の説を踏襲し、さらに発展させたものである。前述のごとく、『用薬法象』あるいは『薬象論』と名付く東の薬物書が、かつてあったと思われる。しかし現在は、諸書に散在する中から、それを窺うしかない。
さて本書の第二二篇以下は、所々に処方名を挙げてはいるが、再び東垣の内傷に対する治療を述べた総論となっている。ただし、ここではそれまでの温補ではなく、内傷病も場合により寒薬や利水・吐下の剤が必要なことを強調する。そして末篇の「説病形有余不足、当補当瀉之理」は、本書全体の所論内容を概括しており、まさしく本書の結論となっている。
東垣はこれらの論説において、『内経』(『素問』)『針経』(現在の『霊枢』に相当)『難経』『傷寒論』『金匱要略』『和剤局方』『傷寒活人書』『小児薬証直訣』などの文や処方を多々引用し、立論の背景としている。しかし引用文の多くは現伝の各書と必ずしも正確に一致せず、東垣が記憶により文章を意訳している形跡が見える。もちろんこれは東垣一人に限らず、中国医書全般について言えることではあるが。
なお現在の中国や日本で常用されている処方中、補中益気湯以外に朱砂安神丸や生脈散・葛花解醒湯などは、いずれも本書が出典である。
〔版本〕
本書は自序の一二四七年に初刊された、とする見解がある[23]。しかしそのような記録は見当たらず、いささか疑わしい。また清・孫星術の『孫氏書目』は、本書の「宋刻本」を記録する。これも岡西為人が疑うように[24]、本書の成立年と当時東垣の居住していた真定が蒙古の地であることから、南宋で刊行された可能性はあまり考えられない。かつ現在の諸目録書にも本書の宋刊本は記録されていない。現存するのは、いずれも元以降の版本に限られる。そこで現存本を中国・朝鮮・日本の出版地別に、刊行年順に挙げると左記のようである。なお中国の清版以降は、現存多数につき割愛する。
中国刊本
@元刊本 広東省中山図書館所蔵。
A明・正徳三年(一五〇八)熊氏梅隠堂刊「東垣十書」本 国立公文書館内閣文庫および北京・中医研究院図書館所蔵。
B明・嘉靖八年(一五二九)梅南書屋刊「東垣十書」本 国立公文書館内閣文庫ほか所蔵。
C明・万暦十一年(一五八三)周氏仁寿堂刊「東垣十書」本 台湾国立中央図書館および北京・中医研究院図書館所蔵。
D明・万暦二十九年(一六〇一)序刊「古今医統正脈全書」本 国立公文書館内閣文庫ほか所蔵。
E明・万暦二十九年(一六〇一)後 書林楊懋卿刊「東垣十書」本 武田科学振興財団杏雨書屋ほか所蔵。
F明末頃刊「東垣十書(十二種)」 北京図書館ほか所蔵。
朝鮮刊本
@李朝・中宗(一五〇六〜四四)後半頃内医院翻刻梅南書屋「東垣十書」本 個人蔵。
A李朝・英祖四十一年(一七六五)恵民署鉄活字刊「東垣十書」本 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。
日本刊本
@慶長二年(一五九七)小瀬甫庵刊古活字「東垣十書」本 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。
A寛永(一六二四〜四三)頃刊「東垣十書」本 研医会図書館・東京大学総合図書館所蔵。
B万治元年(一六五八)武村市兵衛刊「東垣十書」本 国立国会図書館ほか所蔵。
C万治二・元禄元年間(一六五九〜八八)山本長兵衛重印「東垣十書」本 矢数道明氏ほか所蔵。
D天明八年(一七八八)柳原喜兵衛積玉圃刊単行本 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。
E寛政八年(一七九六)河内屋喜兵衛刊単行本 東北大学附属図書館所蔵。
以上、本書の現存版は元・明刊本が七種、朝鮮刊本が二種、日本刊本が六種を数えることができた。これらの内、「東垣十書」所収本は別稿の「『東垣十書』解題」を参照されたい。単行本の内、中国の@本は未見のため不詳。日本のD本はCの後印本である。E本は未見であるが、書名・巻数の特徴や刊者からみて、Cの後印本のように思える。
よって今回の影印復刻には、訓点・送り仮名が刻入されている点と、書き込みや虫損・汚損等の少ない点より、矢数道明氏所蔵の日本C「東垣十書」所収本を底本に選択した。
四、『脾胃論』
〔成立年代〕
本書には李東垣の自序がなく、直接に成立年を知ることはできない。ただし友人の元好問と門人の羅天益の序が各々あるので、推定は可能である。
元好問は序に次のようにいう。
かつて壬辰の変の五六十日間、百万人近くの人が飲食労倦で没したが、皆これを傷寒のためと思っていた。その後、東垣の内外傷と飲食労倦傷を弁じた一論を見て、世医の誤りを知った。学術に暗いと、かくも人を誤るものである。東垣の著論はすでにこれを指摘しているが、世医はにわかに理解できない。そこで、さらに『脾胃論』を著した。東垣の両書は、千年の惑を去るものといえよう。もしこの書が刊行されるならば、もはや壬辰のごとき薬禍は起こるまい。一二四九年七月、遺山・元好問序。この序にいう、東垣が先に著した「内外傷と飲食労倦傷の一論」とは『内外傷弁惑論』に相違ない。これは羅天益の序に、「我東垣先生、作内外傷弁、脾胃論」と記すことからも明らかである。すると東垣は、『内外傷弁惑論』を完成(一二四七)した後、本書の整理に着手[25]。元好問序の一二四九年に、本書を完成させたとみなせる。東垣はこの時七〇歳、没前二年である。
〔初刊年代〕
さてここで、これら東垣の著作の初刊年と刊行者を問題にしたい。初刊本はいずれも現存しないが、諸書の序跋などより推定可能だからである。
元好問は『脾胃論』に序を寄せて、もしこの書が刊行されるならば(「此書果行」)と希望を述べている。『内外傷弁惑論』の東垣序には、当書を読んだ范尊師の言葉として、同じく「謂、此書果行」と記されている。いずれも刊行を前提とした序文の口調には見えない。そして硯堅の東垣伝に、臨終に際し東垣は著書を羅天益に託し、これを広め行なわせよ(「推而行之」)、と遺言したとある。すると東垣の著書は、周囲の希望にもかかわらず、生前には刊行しえなかったらしい。
一方、硯堅が『東垣試効方』に寄せた序(一二六六)は、東垣の著として『医学発明』『脾胃論』『内外傷弁』『薬象論』を挙げ、その学を受けた者(羅天益)は、それらを刊行して東垣の道を世に広めよ、という。ならば東垣没後一五年の一二六六年にも、羅天益は東垣の遺書を刊行できていないと思える。
東垣関係の書で刊行の意図がはっきりと記されている一番古い序は、『蘭室秘蔵』の羅天益序(一二七六)である。天益は当書を、「不止一身行之、欲人人行之、又欲天下万世行之」というので、その初刊が一二七六年であるのは疑いない。そして『脾胃論』の羅天益後序も、これと同年同月に記されている。そこには「東垣先生之学、医之王道也。観此書可見矣」と『脾胃論』を世に公開する旨を述べるので、これも刊行を前提にした序といえよう。しかし『内外傷弁惑論』については、このような序跋がなくはっきりしない。
ところで『内外傷弁惑論』『脾胃論』『蘭室秘蔵』の現存古版を見ると、いずれも書名下の著者名は「東垣老人 李杲 撰」となっている。ところが同一古版でも、「東垣十書」所収の東垣以外の書では「海蔵 王好古 類集」や「金華 朱彦修 撰」などとなっており、「老人」を付す例がない。「老人」と記すからには、それは門下生の言であろう。すると『内外傷弁惑論』も、あるいは『脾胃論』『蘭室秘蔵』と一括し、天益が一二七六年に刊行した可能性が高い。これはその一〇年前、硯堅が『東垣試効方』の序に、東垣の書は一括して読まねばならない(「必須合数書而観之」)と記すのを承けたのかも知れない。
さて『衛生宝鑑』[5]に載る羅天益の治験例を見ると、東垣没後二年の一二五三年頃から、治療活動を始めている。また一二五四年以降は、度々徴用されて蒙古(元)軍の軍医として各地を巡っている。その頃からは高官の治験も多い。恐らくこの功績が認められたのであろう。天益は元初の頃に太医となっている。その年代は定かでないが、一二八○年に王博文が記した『東垣試効方』の刊行の序に、「太医羅君」とあるのが最も早い。翌一二八一年に硯堅が記した『衛生宝鑑』の序にも、「太医羅先生」といい、また天益は東垣の書を少なからず出版したという。
このように東垣・天益の書が、一二七六年から急に出版されたのは、けっして天益の出世と無縁ではなかろう。しかも東垣の書がそこで一括されていることは、後に『東垣十書』なる叢書が出現する核を、すでに提供していたと考えられる。
ともあれ東垣の遺志を守り、没後二五年に満を期して出版にこぎつけた天益の義は篤い。『衛生宝鑑』の自序は天上の東垣に対して書かれており、敬慕の念にあふれている。また天益の『内経類編』(佚)に友人の劉{馬+因}が記した序に[26]、東垣の死後三〇年の今も天益は先師を祠り、平生のごとく仕えている、ともいう。まさしく、東垣あって元素が伝わり、天益あって東垣が伝えられたものといえよう。
(2001,6,1補:元・忽思慧が元朝宮廷料理のために著した『飲膳正要』三卷には、「補中益気」の効能を記す料理が多数ある。「補中益気」は李東垣がキーワード化した表現であり、羅天益が元の太医となっていることからすると、忽思慧は羅天益と面識があったか、少なくとも東垣の書を見ていたと推測してもよい。もしそうなら、『飲膳正要』は東垣学説を最初に受けた書ということになろう)
〔構成と内容〕
本書は版本により、二巻本・三巻本・四巻本の違いや、校訂者が異なったりなかったりする。ただ細かな相違を除き、いずれの版本も内容は同一で、全体は医論三六篇と方論六三篇よりなる。なお本書は『済生抜粋』巻七にも収められているが、これのみは大幅な節略が加えられた一巻本で例外。
本書に先立つ『内外傷弁惑論』は、外傷と内傷を区別して治療する必要性を主に論じていた。本書はこれを一歩進め、書名のごとく治療における脾胃の重視を強く主張している。これを以て東垣は補土派、と呼ばれる。
ちなみに本書は百近くの論を集成しているが、その多くは帰郷後に書きためておいたものらしい。また書末の二篇で体力の衰えを嘆き、精神的養生を述べたりしているので、晩年の様子が窺える。前著は一六年間あたためていただけに、論旨が首尾一貫していた。が、本書は最晩年の二年で旧稿を寄せ集め、加筆して一書としたためであろう。一部の論旨に重複が見えたり、あるいは前著の転載であったり、いささか繁雑な感は否めない。
しかし内容の是非はともあれ、後世に多大な影響を及ぼすだけの名論も多い。巻頭の二篇、「脾胃虚実伝変論」「脾胃勝衰論」はその筆頭といえよう。次の「肺之脾胃虚論」は前著の転録。また次篇の「用宜禁論」には、時禁・経禁・病禁・薬禁などの語があり、失なわれた東垣の『傷寒会要』の一篇であったと思われる。以下の諸篇、とりわけ方論については前著との重複が多い。しかし処方の解説や加減については、その後の経験による説の付加も見られる。硯堅が『東垣試効方』の序で、東垣の書は合わせ読まれるべきだというのは、この故であろう。
一方、前著にはなかった特徴の一つに、キーワードを並べた類の医説や図説の使用が、本書の一部に見られる。本書の元好問序がいうように、前著の医論が凡医に理解しえなかったため、このような方法を利用したのであろう。もちろんそれは、張元素が弟子の教育用に編纂したと伝えられる『医学啓源』、さらには元素に影響を与えた劉完素の『原病式』にも見られる記載方式である。およそ、その源は劉温舒の『運気論奥』などを経て、唐代頃まで遡ることが可能である。しかしこの方式は一面、明代からの歌訣や歌賦の大流行へも連なり、医学の俗化を生んだ。本書を含め、東垣の正統な著作が業書本以外では後にほとんど復刻されず、却って歌賦化された東垣らの『珍珠嚢』系統のみが独り歩きしたのは、這般の事情を物語っている。
なお前著にない治験が、「調理脾胃治験」中に数例収められている。その内の二例は一二四八年(戊申)のもので、衰弱にもかかわらず、臨床と著述の双方を行っていたことがわかる。実際、当時の治験例は他に『東垣試効方』中に多見されるが、そのうち本書にふさわしい例のみが選ばれたらしい。また現在の日本でも常用される半夏白朮天麻湯は、本書に載る頭痛の症例に東垣が創方したもので、方意も詳しく解説されている。
〔版本〕
先に考察したように、本書は一二七六年に羅天益の手で初刊されている。この初刊本の存在は、かつて記録も報告もなされていない。一方、武田科学振興財団杏雨書屋は、至元十三(一二七六)門生羅天益序刊本なる『脾胃論』三巻(貴四一八)を、蔵書目録[27]に著録している。しかし残念なことに、本書は明初刊「東垣十書」本であった。また他の元版は済生抜粋本のみで、現存はいずれも明以降の版本に限られていた。それら明・朝鮮・日本の刊本は左記のようである。なお煩を避け、清以後の中国刊本は割愛する。また『内外傷弁惑論』の版本ですでに挙げた叢書本については、「弁@」本などのように、刊年・刊者・叢書名・所蔵先の記述を省略した。
明刊本
@建文元年(一三九九)〜永楽二十二年(一四二四)間・簡王刊「東垣十書」本 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。
A「弁A」本 他に同右書屋所蔵。
B正徳(一五〇六〜二一)頃建刊本台湾国立中央図書館所蔵(図3)
C「弁B」本。
D「弁C」本。
E「弁D」本。
F「弁E」本。
G「弁F」本。
朝鮮刊本
@「弁@」本。
A「弁A」本。(図4)。
日本刊本
@元和(一六一五〜二三)頃刊古活字「東垣十書」一〇行二〇字本 昭和五十五年『井上書店目録』所載。
A「弁A」本。
B「弁B」本。
C「弁C」本。
D天明八年(一七八八)泉本八兵衛等刊単行本 大阪府立図書館・東北大学附属図書館ほか所蔵。
以上の各版のうち、「東垣十書」本は別稿の解題を参照されたい。中国のB本は@の翻刻。日本の@本は中国A本の翻刻。日本のD本はCの後印である。今回の影印復刻には、前書と同理由により矢数道明氏所蔵の日本刊C本を底本に選択した。
五、『蘭室秘蔵』
〔成立年代〕
本書に東垣の自序はなく、他は羅天益の序(一二七六)が唯一である。これによると、本書六巻は先師李東垣先生の所輯であり、天下万世に広めたいという。すると本書はもと六巻本として、一二七六年に初刊されたことになる。しかし東垣が完成させた年はわからない。
他方、本文中には次のような記述が見出される。「先師の頭痛を、潔古は厥陰と太陰の合病と診断した(頭痛門)」「ある富者が先師に治療を求めた(陰萎陰汗門)』。この口調は東垣の門下生以外にありえず、少なくとも当部分に関する限り羅天益の手になることは疑うべくもない。しかし天益の筆と見られる記述が多数あるわけではなく、年の記された治験も東垣が生前の一二四八年の症例(内障眼論・抜雲湯条)を最後とする。
ところで『脾胃論』は、東垣がかねてから書きためておいた論を、晩年の二年間で加筆編纂したものであった。とすれば東垣の草稿を基本に、羅天益が一部補足して編纂したのが本書、と推測されよう。東垣伝にはこれを傍証する記載がある。
すなわち東垣は臨終に際し、平素の著述を順序だて(原文「平日所著書、検勘為帙」)、内容別に分類(「以類相従」)した上で天益に託し、これを世に広めよ(「推而行之」)と命じていた。「平素の著述を順序だて」というからには、各々は断片的な原稿で、一書になってはいない。そして各原稿を内容別に分けていることは、『蘭室秘蔵』が病門別に分けられている点と一致する。さらにこれを世に広めよと託したことは、東垣の定めた順次と分類で一書に編纂し、刊行するのを天益に命じたことになる。
ちなみに「蘭室秘蔵」という書名の所以も、これを傍証する。『四庫全書総目』が指摘するように、『素問』には「霊蘭之室」なる語句があり、『霊枢』にも見える[28]。いずれの用例も、黄帝が岐伯の述べたことに満足し、これを黄帝の書庫「霊蘭の室」に秘蔵させ、妄りに人に伝えるな、というものである。すると本書名の謂は、東垣の「霊蘭の室」に秘蔵されていた書である。もちろん自らを黄帝に比すなど、たとえ東垣でもあろうはずはない。ならば本書の序に、「吾師弗自私蔵、以公諸人」と記す天益が、この書名を付けたと考えられる。
また本書や『東垣試効方』を見ても、東垣が没した一二五一年とその前年の治験例は記載がない。一二四九年に『脾胃論』を完成させた後、もはや東垣には臨床や本書を編纂する余力が残されていなかったのであろう。そして臨終を迎え、本書の完成と出版を天益に託したのである。
したがって本書の成立は、東垣原著と考えれば、彼が没した一二五一年。東垣原著・天益編と考えれば、天益が序を付し刊行した一二七六年ということになる。ただし天益の編纂終了は、実際のところもう一〇年遡る可能性が高い。それは天益が師事中に筆録した治験・処方・医論を、本書に増補した内容となっている。『東垣試効方』が、一二六六年に成立(硯堅序)しているからである。いずれにせよ、本書の内容は東垣のものであるから、一二五一年の成立、とするのが最も妥当かと思われる。
〔構成と内容〕
羅天益の序に、本書の初版が六巻と記されていたことは前述した。現存の版本では、六巻本・三巻本・二巻本の相違。また天益序の有無、校訂者(薛己または呉勉学)の相違や有無など多様である。しかしいずれも全二十一篇の病門より構成され、個々の字句の異同を除けば内容に差はない。なお『済生抜粋』巻一六所収の一巻本は、節略本につき例外である。
東垣の著作は、まず『内外傷弁惑論』で内傷・外傷を論じ、次に『脾胃論』で内傷の論を深化させた。そしてこの立場から、各病門別の論と治療処方を集大成したのが本書である。病門別の方論書は中国医書の典型であるが、本書の病門分類と順次はさすがに東垣らしい。第一篇の飲食労捲門に始まり、次いで中満腹脹門・心腹痞門・胃院痛門と、まさしく脾胃の内傷から起こる病症である。全篇はこのように内科の病門のみならず、眼耳鼻口歯など頭部の五官科、そして婦人科・外科・小児科の順に各病門がたてられている。
ところで一般に方論書は病門別にまず医論があり、これに治療処方を載せるのが普通である。本書もこれを外れるものではないが、いくつかの病門には方のみで論がない。例えば心腹痞門・嘔吐門など。あるいは一門中に二論や三論あったりする。一方、本書の羅天益増補版といえる『東垣試効方』全二四門中、論を欠くのは末篇の雑方門のみである。両者のこの相違は、天益が師の原稿とその分類・配順にほとんど手を加えず本書とし、その遺言を守ったこと。しかしこれでは体裁を幾分欠くので、新たに自己の見解で再編し、増補版の『試効方』を作成した経緯を物語っている。
本書に収載される処方は、その病門別方論書の性格ゆえ、前二著よりはるかに多い。およそ二八○首にのぼる収載方は、多くが東垣の創製にかかる。これら東垣創製方の特徴は、既製の旧方に拘泥せず、病症の標と本の分析に基づく薬物の自在な組み合わせ、および加減にある。むろん東垣以前の旧方とて、いずれも誰かが創製したことには相違ない。ただそれらは、処方運用の経験から固定されたものである。筆頭は、東垣らが反発した『和剤局方』所載方といえよう。
この反発を契機とした創方の試みは、主張の重点を異にはするが、すでに劉完素.張元素・張子和らにより着手されていた。そして李東垣は、それらの所説を修正・発展・追加し、処方を理詰めで組むための説を完成させたといえる。ただ脾胃内傷に偏するきらいはあるが。したがって現在に至る中国医学が、臨床の骨子としている弁証論治・理法方薬の考え方は、東垣によってその基盤がほぼ確立されたといっても過言ではない。
一方、東垣の処方は十数味を越えるものが多く、一般に多味と評される。経験から洗練された処方と異なり、病に臨み処方を組めば、いきおい症状に応じ薬味が増える傾向もなしとはしないだろう。さらに東垣の処方とて、命名され著作中に固定化された以上、後の運命は『局方』の処方と変わらない。むろん本書所載の処方で現在も常用されるものは多く、本書を初出とする処方では、腰痛門の(当帰)拈痛湯などが著名である。
〔版本〕
本書は元刊本以下の諸版が現存している。それらは左記のようであるが、清以降の中国刊本は割愛する。また前二著の版本に挙げた叢書本は、「弁@」本・「脾@」本のように記述を省略したが、所在が別な場合は注記した。
元刊本
@刊年・刊者不詳三巻本 北京図書館・台湾国立中央図書館所蔵。いずれも未見であるが、巻数は羅天益初刊本と違う。台湾所蔵本は旧北平図書館の蔵本。その記録[29]によれば「明善堂」「安楽堂」の蔵書印記がある。この両印は前述の明刊「脾@」本にもある[26]ので、あるいは明刊か、またかつて元刊本の所蔵記録[29]は多いが、その一つ『平津館鑑蔵書籍記』が記す元刊本の版式と書名の特徴は、明・正徳三年熊氏刊「東垣十書」本と全同。
A至正元年(一三四一)刊『済生抜粋』本 現存多数。影印本も刊行されている。
明刊本
@「脾@」本 台湾国立中央図書館所蔵。同館蔵書目録に「明初葉刊黒口巾箱本」と著録される。
A黒口三巻本 台湾国立中央図書館および北京中医研究院(残頁)所蔵。
B「弁A」本 他に北京中医研究院所蔵(残)。
C「弁B」本。
D「弁C」本。
E「弁D」本。
F「弁E」本。
G「弁F」本。
朝鮮刊本
@「弁@」本。
A「弁A」本。
日本刊本
@「弁A」本 他に武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。
A「弁B」本。
B「弁C」本。
以上の諸版本のうち、「東垣十書」本は別稿の解題を参照されたい。なお明刊B本には羅天益の序がなく、戊申年(一二四八)の王好古序を前付するが、これは『湯液本草』のものである。今回の影印復刻には、前書と同理由により矢数道明氏所蔵の、日本B本を底本とした。
注と文献
[1]李杲著・羅天益編『東垣試効方』、影印明倪維徳校刊本、上海科学技術出版社、一九八四。
[2]この伝は李濂『医史』にも引用されている。『東垣試効方』の伝で意味不明な字句については、『医史』の引用文によった。
[3]多紀元胤『(中国)医籍考』四一二頁、北京・人民衛生出版社、一九八三。
[4]真柳誠「『傷寒明理論』『傷寒明理薬方論』解題」、『和刻漢籍医書集成』第一輯、東京・エンタプライズ、一九八八。
[5]羅天益『衛生宝鑑』序七頁、北京・人民衛生出版社、一九八七。
[6]丁光迪(『中医各家学説・金元医学』二七七頁、江蘇科学技術出版社、一九八七)は、天益の入門を一二四三年とする。これは東垣の帰郷年を、天益の入門年と考えるからであろう。なお任応秋(『中医各家学説』七二頁、上海科学技術出版社、一九八○)、裘沛然ら(『中医歴代各家学説』一一六頁、上海科学技術出版社、一九八四)、李聡甫ら(『金元四大医家学術思想之研究』一五八頁、北京・人民衛生出版社、一九八三)、李雲ら(『中医人名辞典』五五七頁、北京・国際文化出版公司、一九八八)は、 いずれも十数年間師事したと記すが、根拠を挙げない。
[7]前掲注[6]所引『中医人名辞典』八二頁。
[8]前掲文献[3]、六七九頁。
[9]岡西為人『宋以前医籍考』一〇〇四頁、台北・古亭書屋、一九六九。
[10]丁光迪『東垣学説論文集』四四頁、北京・人民衛生出版社、一九八四。
[11]本書は{幵+(邯−甘)}譲(遜之)が郷里の農家で発見し、御医の黄楚祥にその残欠を補足してもらい、一四六八年に初刊。これを一四九三年に桂堂が重刊。これと劉開(復真)の『脈訣理玄秘要』(一五二八年、司馬泰序刊)を朝鮮の宋文翰が一五四七年に合刻している。この朝鮮刊本は宮内庁書陵部に二部現存し、一つは『経籍訪古志』著録の聿修堂旧蔵本。一つは毛利出雲守高翰が幕府に献上したもので、これは前者と同版だが『脈訣理玄秘要』を欠く。
[12]当叢書(明初刊黒口本)は台湾国立中央図書館のほか、大陸の六図書館に現存する。また清の一六九九年にも文盛堂が翻刻している。
[13]以上の諸書は、いずれも国立公文書館内閣文庫所蔵。
[14]この系統をかたる偽書の最右翼に、『東垣食物本草』七巻がある。本書も銭允治が万暦四十八年に刊行したもので、これを日本では慶安四年に翻刻し、東垣の名とは関係なく江戸初期の食療本草書に影響を及ぼした。本書の訳注本は『中国古典新書続編』(明徳出版社)に収められ、一九八七に出版されている。
[15]前掲注[6]所引『中医人名辞典』七二九頁。
[16]本書の編成と内容は、とりわけ現行の『蘭室秘蔵』と類似している。『済生抜粋』巻十六所収の『蘭室秘蔵』節略本も、その書名下に「東垣先生試効」とやや小さな字で記すので、当時の『蘭室秘蔵』は『東垣試効方』と大差なかったのかも知れない。
[17]前掲文献[3]、二〇九頁。
[18]岡西為人『中国医書本草考』一五八頁、南大阪印刷センター、一九七四。
[19]前掲注[6]所引『中医各家学説』七五頁。
[20]真柳誠ら「漢方古典文献解説26・金代の医薬書(その二)」、『現代東洋医学』一〇巻四号、一九八九。
[21]前掲注[6]所引『金元四大医家学術思想之研究』一六○頁。
[22]この治験は『脾胃論』巻下の調理脾胃治験にも転載されている。
[23]賈維誠『三百種医籍録』二六五頁、ハルピン・黒竜江科学技術出版社、一九八二。
[24]前掲文献[9]、九九一頁。
[25]ただし本書末尾の「遠欲」と題する文は、「残躯六十有五」というので、一二四四年に書かれている。したがって一部には従来の草稿を交えており、一二四七年以降よりこれらの整理と著述を開始した、と考えられる。
[26]前掲文献[3]、二四頁。
[27]武田科学振興財団『杏雨書屋蔵書目録』七三八頁、京都・臨川書店発売、一九八二。
[28]『素問』霊蘭秘典論篇第八、同書六元正紀大論篇第七十一。『霊枢』外揣第四十五、同書刺節真邪第七十五。
[29]前掲文献[9]、一〇〇〇頁。