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真柳誠「小建中湯の出典条文と方名の所以」『漢方と最新治療』12巻2号167-170頁、2003年5月

小建中湯の出典条文と方名の所以

真柳  誠
 

Key words  Xiao-jianzhong-tang, source text, reason of naming, Shanghan-lun, Jingui-yaolue

Makoto MAYANAGI:The Source Text of Xiao-jianzhong-tang and a Reason of its Naming
茨城大学人文学部中国科学史研究室:〒310-8512水戸市文京2-1-1
 
 

1.出典と条文

 小建中湯の出典は3世紀の張仲景が著した医書に恐らく遡る。しかし実際の出典は仲景の書に由来し,11世紀に初めて出版されて普及した『傷寒論』『金匱要略』,および『傷寒論』の別伝本『金匱玉函経』である。以後,本方は現代まで広く応用され続けている。まず『傷寒論』と『金匱要略』から条文を引用してみよう。

 『傷寒論』には巻3の太陽病中篇に以下の2条がある。

傷寒,陽脈は{サンズイ+嗇}(ショク)にして陰脈は弦。法はまさに腹中急痛すべし。先ず小建中湯を与え,差(い)えざる者は小柴胡湯が之を主(つかさど)る。

小建中湯方
桂枝三両,皮を去る。甘草二両,炙(あぶ)る。大棗十二枚,擘(つんざ)く。芍薬六両。生姜三両,切る。膠飴一升。

右の六味,水七升を以て三升に煮取る。滓を去り,飴を内(い)れ,更に微(とろ)火に上げて消解せしめ,一升を温服す。日に三服す。嘔家は建中湯を用うるべからず。甜(あま)きを以ての故なり1)

傷寒二三日,心中の悸して煩する者,小建中湯が之を主る2)

 また『金匱要略』には以下の3条がある。
虚労の裏急し,悸し,衄(ジク)し,腹中痛み,夢に失精し,四肢{ヤマイダレ+(峻-山)}疼し,手足煩熱し,咽乾口燥するは小建中湯がこれを主る。

小建中湯方
桂枝三両,皮を去る。甘草三両,炙る。大棗十二枚。芍薬六両。生姜二両。膠飴一升。
右の六味,水七升を以て三升に煮取る。滓を去り,膠飴を内れ,更に微火に上げて消解せしめ,一升を温服す。日に三服す(上巻血痺虚労病篇)3)

男子の黄し,小便自ら利すは,まさに虚労の小建中湯を与うべし(中巻黄疸病篇)4)

婦人腹中の痛むは小建中湯が之を主る(下巻婦人雑病篇)5)

 以上のように原典条文にはおおむね「腹中痛」があり,これに次いで「(動)悸」が記され,背景には虚労があるという。虚とは気の不足状態,労とは身体の衰えなので,虚労は心身双方の衰弱を意味する。こうした心身衰弱時の腹痛を目標とした諸症状に小建中湯を用いることが原典に記されており,後の臨床経験から本方の適応症候群すなわち証がさらに正確に定められ,現在では様々な疾病に応用されるようになっている。
 

2.加味方の条文

 小建中湯はその構成薬味からすると,桂枝湯ないし芍薬甘草湯を基礎処方としている。そして両基礎処方の合方ともいえる桂枝加芍薬湯を前提とし,これに膠飴を加えたのが小建中湯といえる。さらに小建中湯の加味方も『金匱要略』に2首が載る。

 一つは黄耆建中湯で,上巻の血痺虚労病篇に「虚労裏急,諸不足,黄耆建中湯が之を主る」6)とのみ記される。これでは主治文が少なくてよく分からないばかりか,薬味は記載すらない。しかし北宋の林億らが本書を1066年に初刊行した際の注に,「小建中湯に黄耆を加える」とあるので,小建中湯の6味に黄耆が加わった計7味と分かる。

 一方,『金匱要略』と同様の主治条文は7世紀の『千金方』巻197)と8世紀の『外台秘要方』巻178)にあり,ともに上述の7味も明記する。つまり本方は小建中湯加黄耆で間違いないが,黄耆を主薬とするので,黄耆建中湯と名付けられたと理解していいだろう。

 なお『金匱要略』では本方の直前に小建中湯の条文があり,その林億注は『千金方』巻19の小建中湯条7)を引用する。ただし林億注末尾の「六脈倶に不足,虚寒乏気,少腹拘急,羸痩百病,名づけて黄耆建中湯と曰う」の一文だけは,『千金方』や同文を記す『肘後方』巻4虚損羸痩篇9)に見えず,何から引用されたか分からない。

 また当文末の「名づけて黄耆建中湯と曰う」も前とつながりの悪い句だが,どうも林億らは前句を黄耆建中湯の主治と認知して引用したらしい。ならば本方の主治は「虚労裏急,諸不足」と,出典不明の「六脈倶に不足,虚寒乏気,少腹拘急,羸痩百病」になろう。

 さてもう一つの小建中湯加味方だが,『金匱要略』下巻婦人産後病篇に以下の(内補)当帰建中湯条文10)が載る。

千金内補当帰建中湯。婦人産後に虚羸不足し,腹中の刺痛止まず,吸吸と少気し,或いは少(小)腹中の急摩痛,腰背に引くを苦しみ,食飲する能わざるを治す。産後の一月,日に四五剤を得て服すが善たり。人をして強壮たらしむに宜し。…
 構成薬味の部分は割愛したが,桂枝加芍薬湯に当帰を加味した処方で,大虚には膠飴をさらに加えるとの指示がある。つまり婦人の産後衰弱を背景とする腹中痛等の諸症状に,小建中湯の応用として当帰を加えた当方が創方されたと考えられる。

 なお北宋の林億らは『金匱要略』を校訂刊行する際,底本に欠落が多くて不完全だったため,『千金方』『外台秘要方』から仲景の処方と認められる条文を『金匱要略』に付方として引用増補した。したがって当方に「千金」を冠するのは,『千金方』から引用したことを意味する。
 

3.方名の所以

 本方の薬味は前述のように桂枝湯の桂枝・芍薬・生姜・甘草・大棗を基本とし,これに膠飴を加えた6味からなる。また桂枝湯より芍薬が倍増されている。したがって桂枝加芍薬膠飴湯なのであるが,それが小建中湯と呼ばれるには当然所以がある。

 ところで小建中湯に対するのは大建中湯だが,このように大小を冠して処方に命名するのは,どうも張仲景医書の処方が最初らしい。無論それら大小の処方は,構成薬や適応証に共通性がある。かつ相対的に大は実証,小は虚証に用いられ,さらに大より小の処方が汎用されて代表的という傾向もある。

 それゆえ古くは,単に建中湯といえば小建中湯を指したらしい。これは葛洪(283-343)の『抱朴子』巻5至理篇に「黄耆建中之湯(黄耆湯と建中湯)」11),および『肘後方』巻4に「建中腎瀝湯法(建中湯と腎瀝湯の法)」9)の記述があることなどで分かる。

 一方,建中の意味を最初に議論したのは12世紀の成無己『注解傷寒論』と思われ,巻312)に次の記載がある。

建中は建脾也。内経に曰く。脾の緩を欲せば,急ぎ甘を食し以て之を緩む。膠飴・大棗・甘草の甘,以て中を緩む也。…
 このように成無己は建中の中を中焦,つまり脾胃の意味に解釈した。以後この説が一般化し,現代の中国でもそう解釈する書しかない。日本でも浅田宗伯(1815-94)が『勿誤薬室方函口訣』の小建中湯条13)で次のようにいう。
此方は中風虚して腹中の引ぱり痛を治す。すべて古方書に中と云うは脾胃のことにて建中は脾胃を建立するの義なり。…
 宗伯の当書は現在も広く読まれているので,およそ日中ともに建中とは「脾胃を建立」する意味に理解されているだろう。しかし本来の意味はいささか違うといわねばならない。

 例えば6世紀初の旧態が残る敦煌出土の『輔行訣臓腑用薬法要』には,「建中補脾湯」の名で小建中湯と同一薬味の処方が記される14)。この方名は「中を建て,脾を補う湯剤」なので,中と脾は明らかに区別されている。また当時もし中が脾の意味に認識されていたなら,たぶん「建脾湯」と命名されていただろう。とすると古くは建中の「中」に,いったい何の意味を込めていたのだろうか。

 この考証を山田業広(1808-81)は「小建中湯の中,脾土の謂いに非ず」という論文に記し,未刊の『医学管錐内集』に収めていた15)。当論文はいささか長い漢文なので,要点を摘録すると以下のように記されている。

『傷寒論』『金匱要略』『脈経』等には小建中湯が小腹痛,つまり「下焦」の腹痛も治す記載がある。ならば建中の中を,「中焦」と判断することはできない。けっきょく「中」とは『傷寒論』『金匱要略』の小建中湯条文にある,腹中痛の「腹中」全般を指しているのである。
 まさしく卓見といわねばならない。すなわち建中湯とは「腹の中を建て直す湯剤」の意味であり,その基本方とされたが小建中湯だったのである。
 

文献

1) 張仲景:傷寒論,東京・燎原書店,影印趙開美本,146-147,1988.

2) 文献1),147.

3) 張仲景:金匱要略,東京・燎原書店,影印趙開美本,52,1988.

4) 文献3),109.

5) 文献3),146.

6) 文献3),53.

7) 孫思バク:備急千金要方,北京・人民衛生出版社,影印江戸医学館本,350,1982.

8) 王トウ{壽+火}:外台秘要方,大阪・東洋医学研究会,影印南宋版,335-336,1981.

9) 葛洪:肘後備急方,北京・人民衛生出版社,影印劉自化本,85,1982.

10) 文献3),140.

11) 王明:抱朴子内篇校釈(増訂本),北京・中華書局,113,1985.

12) 成無己:注解傷寒論,北京・人民衛生出版社,影印趙開美本,55,1982.

13) 浅田宗伯:勿誤薬室方函口訣,東京・津村順天堂,132,1981.

14) 叢春雨:敦煌中医薬全書,北京・中医古籍出版社,115,1994.

15) 山田業広:医学管錐内集,慶應義塾大学医学情報センター所蔵(490.9-Ig-3),自筆稿本,巻12,1875.