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真柳誠 「清国末期における日本漢方医学書籍の伝入と変遷」
『矢数道明先生喜寿記念文集』643-661頁、東京・温知会、1983年。のち誤字等を訂正また追記


清国末期における日本漢方医学書籍の伝入とその変遷について

真柳 誠

 

一、はじめに

 近年日中間の伝統医学交流は双国における書籍、論文の翻訳出版(1)、人物の往来訪問や留学等(2)がますます盛んとなりつつある。そして日中伝統医学史上、かつてなかった本格的な学術交流(3)が始まったといっても過言ではないだろう。これには日中国交回復およびその後の中国国内政治情況の変化が大いに関連しているのは周知のとおりである。だがそれにも増して、根底には今日に至るまでの日中両国における多くの先達の交流にかける、たゆまぬ努力により築かれた相互理解の基盤があったことを忘れることはできない。

 筆者は北京中医学院留学という非常に有意義な機会に恵まれ、当校での研修期間中に多くの日本漢方関係書籍が中国各地に保存されていることを知った(4)(5)。また二百余種にものぼる日本漢方医薬書籍が現在に至る約百年間にいく度も中国で出版され、重視・研究されていることを知るに及んだ。これらのことを日本に紹介することも筆者に課せられた使命の一つと考え、すでに報告してきた(6)(7)。この中国での日本漢方医学書籍の保存と復刊がなければ、ある部分は散佚していただろう。また残存した書でも入手困難に陥っていただろうことは想像に難くない。

 中国において日本漢方医学の研究業績がいかなる経過をたどり紹介され、理解評価されてきたかをたどってみることは、これからの実りある双国の学術交流のために決して無意味ではない、と筆者は考えている。本論ではこの目的に沿って、日本漢方医薬学研究業績が中国に認識され始めた清国末期における伝入書籍と、介在した人物を主体にその変遷を追ってみたい。

二、時代背景

 前報で報告したごとく(7)、中国における日本漢方研究書籍刊行史実の記載は、明治維新(一八六六年、清・同治七年)以降に限られている。そして明治末年とも大略一致する清国末(宣統三、明治四十四年)年頃までには、日本の伝統医学研究業績に対する一定程度の認識と評価が定まったと考えられる。このことを理解するために、江戸末期および明治維新後の漢方界の動向と時代背景を簡単に追ってみることにする。

 江戸中期に興った古方派は、吉益東洞をその筆頭として、伝統医学の新たな日本的発展を促進させた反面、医学古典を自己の見解により批判と改竄を加えていった(8)。江戸後期に至ると、清代に体系化された考証学の手法が医学古典の研究にも応用され始め、江戸幕府医官を中心とする考証学派が形成されて古方派の独善的古典解釈に対する新たな立場を築いていった。そして彼らは歴代の諸医書を博覧援引し、古典を客観的・実証的立場から校勘、整備、解明して多くの研究業績を著している(9)。またこの延長として善本医籍の校刻(10)、さらには亡佚古本草の復元作業も行われていった(11)。この作業のため、彼らの手許には非常に多くの古医書、古文献およびあらゆる関連領域の資料が、時には江戸幕府の権力をも行使して蒐集されていた。このようにして、考証学派は前人未到の研究と業績を築き上げ、明治維新直前にはその頂点に達していたといえる。

 しかし明治維新を迎えるや、明治新政府は矢継ぎ早な西洋医学一本化政策を採り、明治元年(一八六八)に西洋医術採用許可令、明治七年(一八七四)に西洋七科を定める新医制、明治十六年(一八八三)には医術開業試験規則および医師免証規則を定めていった。だが漢医側もこれに対し理論闘争、治療成績比較、漢医組織の結成、政府議会への請願とさまざまな抵抗運動を行うが、明治二十八年(一八九五)に漢医側提出の医師免許改正法案が議会で否決され、そして指導者の相次ぐ逝去に伴い、明治三十五年(一九〇二)には漢医存続運動はまったく終焉してしまう(12)(13)。ここに至り江戸時代まで連綿と続き、独自の発展を遂げてきた日本の伝統医学とその業績は、主人と後継者のほとんどを失ってしまうのである。

 一方、明治維新による一大改変と急速な現代化はたちまち隣国中国の注目するところとなり、清国公使館員(14)(15)(16)をはじめ多くの視察者(17)(18)が来日した。そして江戸時代には幕府の鎖国政策により長崎にのみ固定されていた清国の商人が、大阪、京都、東京にまでその商業活動範囲を広げたであろうことは想像に難くない。

 以上の諸経緯により、江戸末期までに空前の水準に達していた日本の伝統医学の業績は、後継者を失ったまま相次ぐ大医家の逝去(14)に伴い、価値を認められることもなく死蔵され、さらには巷の書肆に流出していった(17)。そしてこれらは当時来日していた博識眼を備えた清国の学者や商人の注目を集めるところとなり、以降さまざまな経過をたどり中国に伝入、紹介されていくことになる。
 

三、楊守敬による紹介とその後の変遷

 清国末民国初の考証学者である楊守敬(一八三九〜一九一五)は、駐日清国初代公使の何如璋に応召して一八八〇年(明治十三、光緒六)、四十一歳の時に来日、わずか一年足らずの間に古書籍三万余巻を蒐集したという。そして四年滞日の後、一八八四年(明治十七、光緒十)には厖大な量の書籍を携えて帰国、その蔵書室を観海堂あるいは飛青閣と称した(14)。一九一五年(民国四、大正四)に守敬が没した後の一九一九年、観海堂旧蔵書は三万五千(七万余とも)元で民国政府に買い上げられ、同(一九一八とも)年に一部分が梁啓超(一八七三〜一九二九)の提唱(一九一六)で創設の図書館(一九二三年より正式な松坡〔蔡鍔将軍の号〕図書館として設立、全蔵書は一九四九年に新中国政府に献本、五〇年より北京図書館に移管された)に分与され、その他は集霊囿に保管された(19)。集霊囿蔵書は一九二六年(民国十五)に北京の故宮博物院へ移管され、さらに上海(民国二十二、一九三三年)・南京・重慶(民国二十六、一九三七年)と国民党政府の移動に従い、民国三十八年(一九四九)には台湾へ移転され、民国五十七年(一九六八)より台北の故宮博物館に収蔵されるに至っている。後に述べるが、この旧楊守敬蔵書の一部はその移動した各地の図書館に現在も保存されていると推測される(*その後の調査より、各地にある楊氏旧蔵書は生前の守敬が一部を民間に譲渡した書で、故宮からの流出はないことが判明した。2000,10,1記)。

 楊守敬は帰国後、ただちに絶大の評価(20)をしている多紀父子等の著作十三種(21)を『聿修堂医学叢書』と名づけ、一八八四年(光緒十、明治十七)に日本で購入した版木を用い、飛青閣より刊行している(6)(7)。この叢書は守敬の没後鉛印に改められ、上海中医書局より一九三五年(民国二十四、昭和十)に復刊されている(図1)。またその翌年には上海世界書局刊行『皇漢医学叢書』にその全書が編入されている。現在に至るまで『聿修堂医学叢書』あるいは『皇漢医学叢書』からの単行本(22)や注釈(23)等は数多く刊行され続けており、このことからも中国での多紀父子兄弟の業績に与えられた評価をうかがい知ることができる。以降楊守敬は『脈経』と『傷寒論』を刻行しているが、均しく中国での校刻であることから、楊守敬の持ち帰った版木は『聿修堂医学叢書』の十三種のみであったろうと推定できる。

 守敬は帰国九年後の一八九三年(光緒十九、明治二十六)に宋本と元明の『脈経』諸本(24)を校勘したものを『景宋本脈経』と題し、景蘇園より刊刻(4)している。本書は当時の通行本中では最善とされていた(25)ので、その後、一九〇五年(光緒三十一、明治三十八)に長沙の徐氏により復刊、さらに一九五七年(昭和三十二)に上海衛生出版社、翌一九五八年(昭和三十三)には上海科技衛生出版社が各々『景蘇園本脈経』を影印出版している(4)(5)

 次に守敬は一九一二年(民国一、明治四十五)、日本の覆刻宋本傷寒論を底本とした復原本を『傷寒論』と題し、武昌医館刊『武昌医学館叢書(全八種)』に編入して刻行した(26)、とされる。これは中国における覆刻影宋傷寒論の嚆矢でもあった。守敬がこの『傷寒論』の底本に用いた日本の覆刻宋本傷寒論とは、『日本訪書志』で彼の主張する影写北宋旧刻本のことであることは疑いないが(27)、このような写本が実在したかどうかは近年、疑問視されている(28)。この疑問を解明する上でもこの武昌医館本『傷寒論』(29)を検証することは非常に重要なことであるが、これは別の機会に譲りたい。この守敬による復原宋本武昌医館『傷寒論』は刊行も少なく、以後覆刻や影印も行われずあまり注目を集めることはなかったようである。しかしこれ以降、一九二三年(民国十二)・同二五年・二七年に上海のツ鉄樵(30)、一九三一年(民国二十)には上海中医局書局(31)が続々と趙開美本宋板傷寒論と称する影印本を刊行している。

 さて楊守敬による『聿修堂医学叢書』の出版は中国において日本人の伝統医学研究業績を体系的に紹介する嚆矢となり、これを契機として以後考証学派に限らず、多数の日本の代表的な伝統医学の著作が中国で出版されるようになった。加えて『経籍訪古志』『日本訪書志』の刊行により識者は日本に多くの善本が保存されていたことを知り、その後の訪日者の中にはこれら善本の閲覧あるいは購入を考えた者もいたであろう。
 

四、楊守敬来日前に中国に伝わった医籍

 最も早期に伝わったと目されるのは、一八七四年(同治十三、明治七)に広東の翰墨園が山脇東洋覆刻の程衍道本『外台秘要方』(32)の版木を購入し、中国で重刊したものである。この山脇本外台は一七四六年(延享三)に覆刻された後、一八三九年(天保十)にも再度重刊されている。したがって山脇本外台の版木が中国に伝わったのは、一八三九年以降、一八七四年以前である(2007,3,12:これは三木佐助〔一八五二〜一九二六〕が神戸在住の広東人華僑の麦梅生と合弁で、一八七一〜七九年まで広東にて日本からの輸入書を販売し、また『外台秘方』『東医宝鑑』(享保九年官版)『医宗金鑑』の和刻版木を売った、という三木の回想録『玉淵叢話』〔1901〕の記載と符合する〔三木佐助著・田中晴美編『注釈付/玉淵叢話』91頁、大阪開成館、2018〕。陳捷『明治前期日中学術交流の研究』〔東京・汲古書院、2003〕220-225頁、王宝平『清代中日学術交流の研究』〔東京・汲古書院、2005〕410頁)。ちなみに一八七四年以降中国で重刊された形跡(4)がないのは、この三度の印刷で版木の摩耗が大きかったからではないだろうか。

 一八七八年(光緒四、明治十一)には、長州の黄学熙が上海で江戸医学館影刻元大徳刊本『千金翼方』、および江戸医学館影北宋(実際は南宋)本『備急千金要方』の版木を同時に購入し、これにより上海で重刊している。この両版木は同年長州の徐敏甫の手に渡り麟瑞堂にて再印、さらにその後光緒年間には蘇州の崇徳書業公所に渡り(2011,2,7補足:プリンストン大ゲスト文庫に光緒戊寅4年(1878)崇徳書業公所重印の江戸医学版『千金方』、同年上海重印江戸医学版『千金翼方』あり)、ここでも再び印行された(2007,6,29補足。両版木は莫縄孫〔貴州独山県出身の目録学者・莫友芝の子〕が蘇州にもたらし、長洲書肆の黄学熙麟瑞堂や蘇州の崇徳書行堂や霊芬閣の援助で印行、この光緒版には上記三書店のうちの一つの朱印が捺される。縄孫は辛亥革命以後は上海に移住し、上海印行版もある。宮下三郎「日本へ来た孫思邈」『千金方研究資料集』3-16頁、大阪・オリエント出版社、1989。しかし「光緒戊寅(1878)上海印行/独山莫縄孫補署検」の木記ある『千金翼方』(京大人文研蔵)もあるので、宮下説の一部と矛盾する)。新中国後、人民衛生出版社は、両版より『千金翼方』(33)(図2)を一九五五・八二年に、は『備急千金要方』(34)(図3)を一九五五・五七・八二年に各々影印出版している。楊守敬の来日以前に中国に紹介された以上の三書は、中国伝統医学研究に欠くことのできない重要古典である。とりわけ元版『千金翼方』と宋版『備急千金要方』はすでに中国で散佚していた善本であった。それゆえこの江戸医学館の業績は中国識者をして驚かしむるに充分であったであろう(2001.2.20追記。当時、上海に渡った岸田吟香が本事情を浅田宗伯宛の手紙に記している。参、『温知医談』明治十三年五月号)。以上の三書に共通している点は、版木が伝わったこと、中国の臨海貿易都市で購入されていることで、何か商人の介在を感じさせる。

 このほか、中国渡来年度は不明であるが、ほぼこの時期と目される書に多紀元簡著の『観聚方要補』(図4)がある(35)。本書も版木が伝来し、その後一九三一年(民国二十、昭和六)までの間に実に五回印行されている。
 

五、一八八〇年以降清末年までの伝入とその後の変遷

 この頃になると単に渡来した日本刻版木による印行だけでなく、それらの鉛印による重刊、来日者による日本での影刻、印刷、さらには明治以降の漢方医薬書籍の翻訳発行が行われ始める。以下その代表例を年代順に述べてみる。

 一八八一年(光緒七、明治十四)、{(務−力)+女}源県の張金城は日本倣宋刻『経效産宝』(三巻、続編一巻)(36)(図5)の版木を購入、帰安の凌徳の序を加え印行している(*このような倣宋版『経效産宝』が日本で刊行された記録は一切ない。日本の倣宋写本に基づき覆刻したのを、何かの理由でそのように偽ったらしい。台北故宮の楊守敬旧蔵書には本書の倣宋写本のみならず、小島宝素による本書の補訂を彼が刊行を前提に清書させた書まであるので、当版の出版背景には楊守敬の存在が疑われる。2000,10,2補足)。文献(4)によれば、現存する一八八一年以前の刊行本は一八七七年(光緒三)刻の二巻本のみであり、また『三百種医籍録(37)』によれば、明代にはすでに二巻本のみしか伝存していなかったことがうかがえる(38)。『経籍訪古志』には南宋本と断定されている存誠薬室蔵三巻本が記載されており、これを底本に『医方類聚』で校勘、刻行されたのがこの倣宋刻本であろう(39)。したがって、一八八一年以降の刊行で、版式を三巻続編一巻とする「医学大成本」(一九三六年刊)、人民衛生出版社本(一九五五年刊)は皆この日本倣宋刻本の系統であろうと推測される(40)

 楊守敬の帰国四年後の一八八八年(明治二十一、光緒十四)、四明(浙江省旧寧波)出身の王仁乾(タ斎)は多紀元堅著の腹診書『診病奇{イ+亥}(附五雲子腹診法二巻)』を日本で鉛印発刊している。外国人が日本において、日本の著作を印行するのは奇妙なことではあるが、楊守敬も滞日期間中、駐日清国公使の信任を受け、日本に伝存する中国で散佚した善本秘籍を蒐集し『古逸叢書』を編纂し、これを日本で印刷していたのであるから(14)、あながち不思議なことでもない(2007,3,12:当書の出版には以下の背景がある。多紀元堅の子・雲従の弟子で温知社幹部だった松井操は、医理に通じた駐日清朝公使館員の沈梅史や李朝公使館員の感洛基より腹診が両国にないことを知り、沈梅史の勧めで腹診を普及させるために本書を漢訳。浅田宗伯らの診療を受けて腹診を知り、当時中国で楊守敬が重印した多紀元簡・元堅ら『聿修堂医学叢書』に感服していた清朝公使館づきの商人・王仁乾らが、松井の希望をうけて漢訳本を日本で印刷し中国に頒布した)。本書はその後一九三一年(民国二十)、一九三五年(民国二十四)(41)および年代不明の計三回刊行されているが、腹診は中国ではあまり馴染まなかったゆえか、『皇漢医学叢書』にも編入されず、多紀父子兄弟のほかの著作ほどには反響を呼ばなかったようである。

 翌年一八八九年(明治二十二、光緒十五)、清国兵部郎中の傅雲竜が日本で入手した『新修本草』(巻四、五、十二、十三、十四、十五、十七、十八、十九、二十の影写十巻、および小島尚質・尚真による巻三の復元本計十一巻)を日本で影刻し、これを『{纂−糸+艮}喜廬叢書二』として刊行している(42)。本書はその後一九三二年(民国二十一、昭和七)に范行準により再発見され、一九五五年(昭和三十)には、『本草集注残巻』(後述)および『神農本草経(森立之復元本)』等とともに『中国古医学叢刊』に編入され、上海群聯出版社より影印刊行(図6)。また一九五七年(昭和三十二)には上海衛生出版社が、群聯刊本より再度影印刊行している。(2007,3,12:傅雲竜は光緒13年〔1887〕外国遊歴使試験で一番となり、同年8月より同15年〔1889〕10月にかけて日本・アメリカ・ペルー・ブラジル・カナダ・キューバを視察した。1901年没。王宝平『清代中日学術交流の研究』〔東京・汲古書院、2005〕303-333頁)。

 傅雲竜が日本で『新修本草』を影刻した翌年の一八九〇年(明治二十三、光緒十六)、小杭出身で清国横浜領事官の羅嘉杰も、清国公使館随員の陳が日本で入手した「伊澤氏/酌源堂/圖書記」の旧蔵印記ある南宋本『備急灸法』(43)、および羅嘉杰が入手した朝鮮の金循義ら編撰『針灸択日編集』(4)(成立は自序の正統12年、1447。入手したのは曲直瀬養安院旧蔵書からの写本〔多紀氏旧蔵、李朝版の存在は未詳〕だった)を底本に日本で影刻、両書を合冊して羅氏十瓣同心蘭室の名で刊行している。以降両書は中国で光緒17年に江寧藩署から再版され、同18年の計二回刊行されている。また『備急灸法』は一九二三年(民国十二、大正十二)に鉛印に改められ『三三医書(叢書)』に編入、一九五五―一九五七年には人民衛生出版社が羅嘉杰の倣宋刻本を影印発行(図7)している(2000,12,18追記。『備急灸法』の清国再版本は1987年に北京・中国書店から影印発行されている。2007,7,17追記:陳〔矩〕1850-1939は1888-91に来日し、多くの古典籍を蒐集・復刻、来日中の傅雲竜の蒐集・出版に助力している。陳捷『明治前期日中学術交流の研究』〔東京・汲古書院、2003〕298-316頁)。

 (2001,2,20追記。一八九〇年に孫渓と朱曜之〔上海・掃葉山房〕は和刻『(訂正)東医宝鑑』の訓点等を削り重印、掃葉山房は一九〇八年に鉛印で復刻、一九一七年の上海公益書局石印本と民国間の上海錦章図書局石印本・上海千頃堂書局石印本も和刻本に基づく。当版は前述の三木佐助が広東人の麦梅生と合弁で一八七一〜七九年までに広東にて日本からの輸入して販売したもので、もとは徳川吉宗が細川桃庵らに校訂させ、一七二四年に復刻(一七三〇と一七九九に後印)した幕府初の刊行医書で、底本は朝鮮一六一三年の内医院活字本)。

 一八九七年(光緒二三)には『黄帝内経太素』存二三卷と『明堂』存巻一を翻刻している。むろん中国に伝入した仁和寺本からの写本に基づく。

 (2001,2,20追記。光緒二十五(一八九九)年に浙江書局が重印した『張氏医通七種』(『張氏医通』『本草逢原』『診宗三昧』等七種の叢書)は、享和二(一八〇二)年に前田安宅が翻刻(一八〇四にも再印)した思徳堂の版木による)。

 一九〇一年(明治三十四、光緒二十七)には、羅振玉が両江、湖広両督の命により教育視察の目的で訪日している。羅振玉はその時東京の古書店にて多数の医書を買い求め、その多くは旧森立之蔵書であったといわれている(17)(2001,2,20追記。『羅氏振玉蔵書目録』〔遼寧図書館蔵、稲葉君山写〕には森立之旧蔵書一五部のほか、日本刊・写の医書が多数著録される)。この中には森立之の復元による『本草集注』の第二次稿本、および『新修本草』の影写本十巻(巻四、五、十二、十三、十四、十五、十七、十八、十九、二〇)等があり、前者は羅振玉より直接黒田源次、岡西為人に譲渡され、後者は八十年後の一九八一年に上海古籍出版社より原本同大の線装本として影印出版されている。その後、羅振玉は日本に亡命中の一九一五年(大正四、民国四)、京都で小川琢治博士より敦煌石室出土『本草集注序録』の写真を譲り受け、後これを(模写して)『吉石{今+酉+皿}叢書』に編入して影印刊行している。本書はその後范行準により再発見され、一九五五年に影印刊行されたことは前述のとおりである。しかしこの敦煌石室出土『木草集注序録』は一九〇八年(明治四十一、光緒三十四)、大谷光瑞の命を受け中央アジア探検に向かった橘瑞超が敦煌石室より持ち帰った(実際は明治四十五年〔一九一二〕に橘を迎えに行った吉川小一郎が王円{竹+録}より購入し,それを吉川より先に帰国した橘が持ち帰った。赤堀昭:敦煌本『本草集注』解説,上山大峻:敦煌写本本草集注序録・比丘含注戒本〔龍谷大学善本叢書16〕,法蔵館,京都,pp.220-231〔1997〕)ものであることを忘れてはならない(45)。(2001,2,20追記。民国十三年に東方学会が鉛印した唐・{咎−口+曰}殷『食医心鑑』〔羅振玉の光緒三十四年跋あり。東京・研医会図書館ほか蔵〕も、羅氏が一九〇一年の来日時に購入した「青山求精堂蔵書画之記」・森氏蔵印二種と多紀元堅・森約之の識語がある写本に基づく。当書は多紀元堅らが朝鮮の『医方類聚』から一八四一年に重輯したもの。参、岡西『宋以前医籍考』1341頁)

 一九〇九年(宣統元、明治四十二)には、上海の丁福保が盛宣懐の命を受け、日本の医学発展情況を考察する目的で訪日している。丁福保はこの訪日で、日本が大胆に西洋文化を吸収しながらも「和魂洋才」といわれたごとく、自己の文明を失っていないことに感銘している(2001,2,20追記。丁氏については松枝茂「日支医学交流上の人 丁福保」『日本医史学雑誌』13392号、昭和十九年十月に詳しい。写真付き)。そして帰国翌年の一九一〇年には上海で「中西医学研究会」を設立させ(18)、また『化学実験新本草』を著し、日本の生薬学研究を広く紹介している。以降丁福保は『医界の鉄椎』(46)(一九一一、宣統三年)、『臨床漢方医典(中名・漢方医典)(46)』(一九一六、民国五年)、『漢薬実験談』(一九一八、民国七年)を翻訳出版し、明治以降の漢方医薬学を中国に紹介する嚆矢となった。

 享和三(一八〇三)年刊の近藤隆昌『藤氏医談』二巻の版木も中国に伝わり、重印年・書店とも無記だが清末・民国間に重印されたことが内蒙古図書館所蔵本の料紙(宣紙)と中国四針眼原装からわかる。

 以上清末期の中国における日本漢方医学の伝入とその変遷を簡単に述べてみたが、これを概括すると、早期の伝入と紹介の形態は来日者による書籍、版木の購入とその刊行が主体であり、楊守敬と彼に便宜を与えた森立之(14)のこのことに果たした功績は特に大きかったといえよう。その後中華民国に移行する前後(日本では明治末期)より徐々に明治以降の新たな日本漢方医学の著作が中国で紹介され始め、民国一九年には『皇漢医学』が翻訳紹介され、陸淵雷等の中西匯通派に大きな影響を与えたことは日中双方ともによく知られている。このようにして民国末までには、実に一六〇種以上の日本漢方医薬書籍が中国で発行紹介されることになるが、その間の事情については紙面の都合上別の機会に譲りたい。

 以下2007,3,12補足:岸田吟香の販書活動

 岸田吟香(一八三三〜一九〇五)は一八六六年(慶応二、同治五)に上海へヘボンに随行し、ヘボン『和英語林集成』の印刷に従事。同六八年(明治元、同治七)に上海に再渡してヘボンに伝授された目薬・精リ水の販売所を設置。同七五年(明治八)に銀座で精リ水調合所(楽善堂薬舗)を開き書籍も販売。同七八年(明治十一、光緒四)に上海に再々渡して楽善堂薬房分店を設置し書籍も販売。同八○年(明治十二、光緒六)にも上海に再々々渡して楽善堂分店を中国各地に開設した。このように彼が中国で書籍を販売したのは知られていたが、実態は未検討だった。

 新たに気づいた資料は扉に『楽書堂書目』とある線装本一冊(東京大学総合図書館蔵)で、叙文と凡例によると、一八八四年(明治十七、光緒十)の初版に増補し、同八七年(明治二十、光緒十三)に印刷されたらしい。版心や書末の「東瀛岸吟香謹啓」から、岸田吟香の上海楽善堂販売目録と分かる。

 全体は扉・叙文・凡例と、@楽善堂発兌銅板石印書籍地図画譜上巻、A楽善堂発兌東洋本新旧書籍、B楽善堂発兌書籍目録下巻、C楽善堂蔵板書目、D上海楽善堂薬房発售各種妙薬目録からなる。@ABは品名と価格を一行に記し、まれに冊数・著者等もある。中国版・日本版の別は記述しない。Cでは品名・著者名・冊数・価格の他、ほぼすべてに簡単な解説があり、一八八七年の楽善堂書房主人識語もある。Bでは計四四製剤の名称・価格・効能が光明精リ水を筆頭に記される。

 @は計三一七点の書籍等を載せ、うち医書は漢籍が一書のみ。『大日本輿地図』など明らかな日本編纂物もあるが、多くは中国版と推測される。Aは計六四四点を載せ、うち医薬書は一二二点。「東洋(日本)本新旧書籍」と名うつので、多くは日本版の漢籍や国書だが、日本から逆輸入の中国版・朝鮮版も混入する。価格は@よりやや高価に思える。Bは計六三〇点を載せる。うち医書は二五点で、みな漢籍だが和刻のある書もみえ、日本からの輸入書も混在するようだ。また日本からの輸入版木で一八七四年(明治一一、光緒四)に上海で印刷した『影宋本千金方』等も記される。価格はAよりやや低い。Cは計三九点を載せ、うち医書は7点。「楽善堂蔵板書目」と名うつように、『原版玉機微義』『針灸素難要旨』など、上海楽善堂が日本から輸入した版木で印刷した書が多い。一八八七年前後に印刷した『玉機微義』五〇巻・『針灸素難要旨(針灸節要)』三巻、および未詳年重印の『傷寒古方通』三巻は、それぞれ一六六四年(一七八四年後印)と一七一五年(一七五三年後印)と一七九五年(一七九六年後印)の和刻版木を使用する。さらに楽善堂自身が活字出版した書もある。なお『玉機微義』の和刻版木はのち杭州の通徳堂に渡り重印された。

 以上@ABC全体の計一五二〇点中、医書類は一六五点にのぼった。他に楽善堂が一八八八(光緒一四)年に出版した岸田吟香輯の『花柳弁証要論』もある。いま上海の各図書館にある日本関連の古医書は、こうした吟香の販書とも大いに関係するだろう。

 なお明治十三年(一八八〇)五月の『温知医談』は岸田吟香からの手紙を浅田宗伯が紹介し、「上海では日本の版木による重印医書が高価で販売され、邦人が誇るに足る」の旨をいう。張玉範「李盛鐸及其蔵書」も「李盛鐸は一八八〇年に岸田吟香を知り、海外の金石図籍を購入し始めた。明治維新から日本人が古籍を軽視するので、岸田は帰国して集めた古書を上海で売り、李氏は多くの日本古刊本・活字本・旧抄本を購入した」と記す。

 以上のごとく、岸田吟香は上海で一八七八年には書籍も販売していたが、同八〇年の再々々渡で李盛鐸などと知りあい、浅田宗伯ヘの手紙のように日本伝存古書の大々的販売を思いついたらしい。そして日本からの輸入書等を売り出した目録が同八四年の初版で、徐々に取り扱い範囲を拡大した増補版が今回見出した同八七年に印刷の目録となろう。
 

六、中国に現存する日本漢方医学書籍

 以上述べてきたことから明らかなごとく、日本伝統医学研究は明治初期に壊滅的打撃をこうむり、その時期に少なからぬ書籍類が中国に伝入したことだろう。事実このことは、筆者が図書館内でのみ閲覧を許されている文献(4)、(5)に記載される莫大な漢方古書の数からも明らかである。筆者は『傷寒論』『金匱要略』関係書籍に限ってその所蔵情況を以前報告したが(6)、今回は清末期前後に中国に伝入したと思われる書籍中、歴史的価値の高いものを列記する。

1、『学医規則等六種』:稿本、中医研究院図書館所蔵、書口に「博採舎信好堂」とある。

 @『医学読書記』(附、勿誤薬室学規):浅田宗伯撰(漢文)。

 A『診病治病訣 附立法治療書 引内外科病目』:河野通定撰(漢文)

 B『医学心得大方略、医学修業次序』:高橋宗翰撰(日文)。

 C『栗園医訓五十五則』:浅田宗伯述(日文)。

 D『和漢医学講習所教学規則』:温知社編(日文)。

 E『東洋医法保存論(一名漢洋優劣論):著者不明(日文)。

 本文献は明治十六年(一八八三)に和漢医学講習所(東京温知医学校)が開校した時に作成されたものと思われる。

2、『雑病広要』三三巻、多紀元堅纂:皮紙清稿本、中医研究院所蔵、嘉永六年(一八五 三)森友信之抄蔵、安政二、三年(一八五六―七)鈴木孚 筆枇校、書口には「存誠塾 竹西草堂」とある。

3、『櫟蔭先生遺説』、多紀元簡撰:多紀元堅手抄本、中医研究所蔵。

4、『蘭渓平言、聿修堂架蔵記』、多紀元徳、元簡撰:稿本、中医研究院所蔵。

5、『諸病源候論解題』一巻、山本恭庭撰、『剳記』三巻、元簡撰:皮紙抄本、中医研究院 所蔵、書口に撫松亭叢書実事求是書楼蔵とある。

6、『神農本草経解故』八巻、鈴木良知撰:稿本、中薬研究院所蔵、書口に撫松亭叢書実 事求是書楼蔵とある。

7、『本草序例纂考』、忠貞編:稿本、中医研究院所蔵、書口に稽古堂とある。

8、『針灸甲乙経』:歩月楼梓行古今正統正脈全書単行本、中医研究院所蔵、小島宝素、尚 真による朱墨批校がある。

9、『太平聖恵方』全百巻:日本写本、南京図書館所蔵(底本は宋本)、北京大学所蔵〈(@) 永正十一年(一五一四)写本、存一〜二〇巻、(A)年代不明写本、巻九一に欠頁、中 医研究院所蔵(六七〜一〇〇巻)〉。

10、『金匱要略』:元刻本、北京大学所蔵、楊守敬の跋がある。

11、『医籍著録』、小島尚真編:北京図書館所蔵、楊守敬の収蔵印がある。(北京図書館が日本写本より影写したもの)

12、『{艸+止}園臆草』、五巻:多紀元簡の手写本と推測される。日録後には元簡の朱色識語があり、書上には「奚暇斎(元堅)読本記」とある。以前は全五巻が上海中医学院に揃っていたが、現在は二巻のみ所蔵されている(47)
 

七、おわりに

 本拙文では、ほば明治時代に相当する清朝末期における日本漢方医薬学研究業績の伝入過程と変遷の大略を、その間に介在した人物と書籍を主体にまとめてみた。しかし最後に改めて強調しなければならないことは、この時代における書籍等の伝入は日本から中国のみに一方的にあったのではなく、一九〇六年(光緒三十二、明治三十九)には巨万の旧陸心源蔵書が日本の財力により中国から買い取られ、静嘉堂文庫として現在も保存されていること、また前述のごとく一九〇八年(光緒三十四、明治四一)には敦煌石室の文物が日本に持ち去られていることなど、逆の事例も多数存在していることである。このように双国の文化財や学術資料に対する認識の低かった不幸な時代の損失は、逆説的に解釈することが許されるならば、双国の文化・学術の研究理解に少なからず寄与し、新たな交流の基盤となっているともいえる。そして双国伝統医学の交流と理解協力のためには、この過去の不幸な歴史を乗り越える地道な努力と研究をもってなされねばならないと筆者は痛感している。

 本拙文を、日中伝統医学の交流と協力、そして相互理解に昭和初期より現在に至るまで一途に努力され、価値ある伝統医学を辛酸の時代から現代に甦らせたばかりでなく、今なお身をもって我々にこれからの道を指し示して下さる偉大な矢数道明博士の喜寿を祝す言葉とさせていただくことは、無学と若輩の身ゆえ無上の光栄と思わずにはいられない。敬愛する道明博士が今後もますますご健康で研究を続けられ、私どもを指導下さることを衷心より願っている。この場を借り、私にたびたび励ましのお便りと当地にては得難い品々を送って下さった道明博士の暖かいお心遣い、そして私の留学をご支援下さった村山慶吉氏、岸本直二氏、根本光人氏に深謝申し上げる。

 本拙文の作成にあっては、畏友、小曽戸洋氏の業績に依存すること大であったことを追記する。
 

文献および注

(1)日本では『中医臨床』が一九八〇年に創刊、また同じく一九八〇年に創刊された『現代東洋医学』で多くの中国論文をとり上げている。中国では一九七八年に『国外医学、中医中薬分冊』が、一九八〇年には『日本中医資料』『日本医学介紹』および『国外薬学―植物薬分冊』が創刊され、大量の日本の漢方医薬学関係論文を翻訳紹介している。またこのほか全中国で三○種ほどある中医薬関係雑誌にも多くの日本の論文、記事が掲載されている。

(2)日本から中国(北京中医学院および広州中医学院)への長期留学生(二年以上)は中途退学者を含め国交回復後以降一九八二年までに一九名おり、一カ月〜半年の短期研修を含めると百名以上になるであろう。

(3)一九八〇年より日本医師東洋医学研究会主催の学術講習会が中国より著名中医を招き、毎年数回開催されている。また神奈川県衛生部は一九七九年から上海中医院の著名中医師を神奈川県リハビリテーションセンターに招き、毎年一年間の中医薬学の講座を開いている。中国では一九八一年十月北京にて日中双方の研究者が参加し「日中傷寒論シンポジウム」が開催され、一九八二年十月には南陽市にて「中華全国中医学会張仲景学説学術討論会」が全中国中医研究代表者および日本代表団参加のもとに開かれている。

(4)中医研究院・北京図書館:『中医図書聯合目録』、一九六一。

(5)上海中医学院図書館:『上海中医学院中医図書目録』、一九八〇。

(6)真柳誠:中国に保存されている日本刊(写)傷寒論:金匱要略関係書目録、『漢方の臨床』二九巻九・一〇号。

(7)真柳誠:中国に於て出版された日本の漢方関係書籍の年代別目録;中国所在漢方関係図書、著作者、出版の国別分類表、『漢方の臨床』投稿中。

(8)この代表的な著作に東洞の『薬徴』『古文傷寒論』がある。『薬徴』の説には卓見が少なくはないが、気味をはじめとする薬性論を否定した影響は現在にまで至っている。

(9)これら考証学派の著作がまず中国の学者の注目するところとなり、その殆んどの書が中国に於て刊行されている。(7)参照。

(10)『医心方』『備急千金要方』『千金翼方』『医方類聚』が代表的である。

(11)小島宝素『新修本草』、小島尚真・森立之ら『本草経集注』、森立之『神農本草経』である。

(12)矢数道明:『明治百年漢方略史年表』『漢方の臨床』、一五巻三号、四十四〜六六頁、一九六八。

(13)矢数道明:『明治一一〇年漢方医学の変遷と将来』、春陽堂書店、一〜三五頁、一九七七。

(14)小曾戸洋ほか:漢方文献の善本を所蔵する図書館とその利用法・二、『薬学図書館』二七巻一号、二五〜三二頁、一九八二。

(15)李鉄君ほか:医学交流結善録、『中華医史雑誌』十一巻二号、一〇六〜一〇七頁、一九八一。

(16)呉徳鐸:『新修本草』後記、上海古籍出版社、一九八一。

(17)(16)の羅継祖による跋。

(18)許立言ほか:清末中西医学研究会、『中国科技史料』2,七七〜七九頁、一九八一。

(19)李希泌等:『中国古代蔵書与近代図書館史料』三八一頁、中華書局、一九八二。(2007,3,12:守敬没後の観海堂旧蔵書の移動は、呉天任『楊惺吾先生年譜』〔167-168頁、台北・芸文印書館、1974〕により補訂した)

(20)楊守敬『聿修堂医学叢書』序、上海中医書局、一九三四。

(21)楊守敬の序(20)によれば、この叢書には本来元簡の『霊枢識』および元堅の『雑病広要』を纂入したかったのだが、均しく活字印刷であり版木がないので、代わりに版木を所有している多紀雅忠の『医略抄』、小坂元祐の『経穴籑要』を加えると述べている。

(22)一九二〇年成都福昌公司『傷寒広要(元堅撰)』(鉛印)、一九二二年上海中華書局『救急選方(元簡撰)』(鉛印)、一九二八年紹興六也堂『傷寒広要』(鉛印)、一九三一年上海六也堂『傷寒論述義(元堅撰)』(鉛印)、同年上海文明書局『救急選方』(鉛印)、一九三四年上海中医書局および上海千頃堂書局『薬治通義(元堅撰)』(鉛印)、一九三八年上海文明書局再版『救急選方』等。

(23)一九一二年廖平注、成都存古書局六訳館医学叢書『薬治通義輯要』『脈学輯要評』、一九三一年何廉臣注、上海六也堂書局『新増傷寒広要』、一九四八年上海章巨膺医室、一九四九年上海新中医学出版社、一九五四年上海千頃堂薬庵医学叢書『傷寒輯義按』。

(24)楊守敬は『日本訪書志』(文献37)で「余徒日本得宋刻何氏原本、又兼得元、明以来諸本」と述べているが、岡西(文献25)も小曾戸(『東洋医学善本叢書8』脈経総説三三八頁、一九八一)も『景蘇園脈経』の底本は楊守敬の主張する宋刻何氏原本ではなく、明刊倣宋何大任本ではないだろうかと推測している。

(25)岡西為人:『中国医書本草考』三五頁、南大阪出版センター、一九七四。

(26)馬継興:『中医文献学基礎』(中)中一九七頁、中医研究院、一九八二。

(27)『日本訪書志』で楊守敬は「……。余乃無意得之、帰後屡勧人重刻、竟無応者。…」と述べている。(文献37)

(28)小曽戸洋:「楊守敬『日本訪書志』『留真譜』所蔵「影北宋本傷寒論」の検証―附説:現行影趙開美本傷寒論懐疑」張仲景学説研究会講演旨集、三四―三八頁、日本東洋医学会、一九八二。この報告によれば、台湾国立中央図書館架蔵旧楊守敬蔵『影北宋本傷寒論』なる書は、趙本宋板に基づく写本を切り貼りして趙開美校刻以前の旧に復そうとしたものである。

(29)最近筆者が北京中医学院図書館蔵『武昌医館傷寒論』を実見したところ、その書影は『留真譜』および台湾故官博物院図書館所蔵の楊守敬旧蔵『影北宋本傷寒論』とも一致するが、字体は微かに異なる。本書には守敬の題記や跋もなく、充分な検討も行っていないので早急な結論は下せないが、筆者は小曽戸等が実見した楊守敬旧蔵本はこの武昌医館本を刻するための前段として作成されたのではないかと疑っている。

(30)この書影が一九八一年の「日中傷寒論シンポジウム」の際、日本側に渡され、その注記に商務印書館刊と誤記されていたためか、その様に日本に伝わっている。だが商務印書館は承印処であり、印刷および発行はツ鉄樵により行われている。本書は六冊本(傷寒論研究四巻を後附)で筆者の実見によれば書式、字体等全て堀川翻刻趙開美本宋板傷寒論と完全に一致している。また堀川本の返り点が接する部分の界が均しく切れていることからも、小曾戸の指摘〈注(28)〉するごとく、本書は堀川本の返り点を消去した後に影印されたものである。

(31)文献(4)(5)によれば日本で翻刻した趙開美本宋板傷寒論より影印とある(2007,3,12:当本を2006年9月に購入した。外題に「影印宋本傷寒論」と印刷する線装4冊の袖珍本で、多紀元堅序・堀川未済跋およびレ点・一二点も遺す堀川本の完全な影印だった。当時の定価は連史紙本2.4元、有光紙本1.4元)。

(32)この山脇東洋による覆刻の経緯および書式については『東洋医学善本叢書八』小曽戸洋:「外台秘要方の書誌について」、二〇四〜二〇六が詳しい。

(33)本書は一八二八年(文政十二)に江戸医学館より翻刻されたものである。しかし遺憾なことに一九八二年に人民衛生出版社が再度黄学熙印行本より影印した本書の内容提要には「今拠清翻刻元大徳梅渓書院本加句縮影出版」と誤記されている。

(34)本書は一八四九年(嘉永二)に刻刊されたものである。人民衛生出版社の一九五五年版は「江戸医学影北宋本」と明記するが、一九五七年版には「現拠影刻北宋本、断句影印発行」とのみ記している。

(35)何故ならば楊守敬は『聿修堂医学叢書』の序で多紀父子兄弟の研究業績を絶賛した後に、「会有以原板求售者、乃傾嚢購帰」という程多紀父子兄弟著作の版木を捜し求めたのである。故に、もし当時この『観聚方要補』の版木がまだ日本にあったのならば、当然守敬の購入するところとなり、また『聿修堂医学叢書』に編入されていたはずであろう。

(36)本書は唐の{夊+卜+曰}殷撰による現存最古の産科専門書である。史書には『宋史』芸文志に初めてて「{夊+卜+曰}殷産宝、三巻」の記載がある。清末蔵書家葉徳輝の『{自+(郎−良)園読書誌』には日本倣北宋刻本として、「『経效産宝』三巻、続編一巻。…『四庫全書総目』未録、爾来蔵書家志目亦不列其名。宋・晁公武『郡斎読書誌』作『産宝』二巻、云“唐・{夊+卜+曰}殷撰。…段集備験方薬三百七十八首以献。其後周{廷+頁}又作三論附於前”。今此本二百六十一方、続編周{廷+頁}救急方論二十一、産後論十八、覈与晁志稍有異同。医方伝鈔者多、不必晁氏所見即為定本也」と記述している。『経籍訪古志』では「経效産宝、三巻。宋刊本、存誠薬宝蔵、首二頁旧人補鈔。唐節度随軍{夊+卜+曰}殷撰集、…是書不記刊行年月、検其版式為南宋本無疑。…『医方類聚』所引題目無経效二字、文字頗有異同、而此為劣。…」と存誠薬室蔵本の説明をしている。(文献(37)より援引)

(37)賈維誠:黒竜江科学技術出版社、二九四〜二九五頁、一九八二。

(38)明『国史経籍史』:「{夊+卜+曰}氏産宝、二巻。唐・{夊+卜+曰}殷」。明『世善堂蔵書目録』:「産宝論、二巻、唐{夊+卜+曰}殷。」

(39)文献(4)によれば、湯渓範氏棲芬室蔵書(現在は中医研究院図書館が所蔵)に、日本人による『医方類聚』からの復元写本二巻がある。ちなみに『医方類聚』は朝鮮の金礼蒙等により編纂された医学類書で、一四七七年に朝鮮で出版されている。後代朝鮮、中国双国ともに散佚したが、多紀家に本書の残本(一二巻を欠損)が、秘蔵されていた。そして喜多村直寛はこの残本に諸書を参考して原書二六六巻の旧に復し、一八六一年に江戸学訓堂より木活字出版を完成させた。このことから、『医方類聚』からの復元『経效産宝、二巻』および倣宋刻本は江戸末期の所作と推測される。

(40)人民衛生出版社影印本の「内容簡介」には「現拠光緒年間影刻北宋本加句縮影、並補抄目録印行。原書存有個別譌誤之処、統按中国医学大成本序以修訂」と記載されていることから、人民衛生社本と中国医学大成本は版が異なることがわかる。中国医学大成本は三巻続編一巻の鉛印本であり、文献(4)によれば医学大成本以前に刊行されている三巻続編一巻本は日本倣宋刻本のみである。このことから医学大成本は日本倣宋刻本を鉛印に改めたものであり、人民衛生出版社本は、日本倣宋刻本を底本にし影印したものと推測される。

(41)台湾漢医研究室より『診腹学講義』と書名を改変して出版されている。

(42)『{(纂−糸)+艮}喜廬叢書』の傅雲竜および陳の跋によるとその経過は、駐日清国公使館員陳(衡山)が西京人家蔵『新修本草』影写本(巻四、五、一五計三巻)を入手、そしてこれを傅雲竜に贈呈した後、傅雲竜自身もさらに巻三(復元本)と巻一二、一三、一四、一七、一八、一九、二〇の影写本を入手し、以上計一一巻を一八八九年に影刻刊行している。

(43)本書は南宋の聞人耆年の著作で一二二六年(宋宝慶二)に刻行された一巻本である。文献(37)によれば、羅嘉傑倣宋刻本が中国に伝わる以前は、史書にも各家蔵書志にも本書の記載はなく、早くに散佚したものと想像される。『経籍訪古志』には「備急灸法、一巻。宋刊本、寄所寄楼蔵」とある(2000,12,18追記。台北故宮新目録711頁には本書の宋淳祐5年刊本が著録される。これを実見したところ小島宝素家旧蔵で、宋刊本とは認められず、明嘉靖版と思われた。同席した昌彼得氏にも鑑定をお願いしたところ、小生と同意見を示された)。また人民衛生社出版本を見ると、孫炬郷の序の第一項に、「伊沢氏酌源堂図書記」の印記がある。一方、羅嘉傑の序に「……貴陽陳衡山(陳)……喜捜石渠金匱之書。曾於扶桑都市得南宋孫炬郷旧刻団練使張公換所著備急灸法一巻。……将原本(備急灸法)並余所得針灸択日編―併付梓俾……」とある。さらに本文第一頁にも「貴陽陳」の印記がある。以上より本書は「寄所寄楼」→「伊沢蘭軒」→不明→陳と流転し、最後に羅嘉傑により影刻され中国に帰来したものと推測される(2000,12,18追記。陳矩(、1850-1939)は貴州省貴筑県(現在の貴陽市)の人、号は衡山。貴陽の名家の出で、兄の陳田は蔵書に富んだことで知られる。科挙には及第しなかったが、光緒14年(1888)夏に貴州省遵義出身で第四代駐日公使・黎庶昌との縁で公使館の随員として来日、同17年(1891)に黎庶昌の離日とともに帰国。在日中は傅雲龍の『日本金石志』の編纂を助け、古書を博捜した。石田肇「藤野真子と陳矩」『東洋文化』復刊85号54-62頁、2000年9月による)(2005,1,26追記。陳矩の日本訪書については陳捷『明治前期日中学術交流の研究』298-316頁〔東京・汲古書院、2003年〕に詳しい)。

(44)一四四七年(李世宗二九)に朝鮮の全循義等により編集された針灸書。本書を未だ実見するには至っていないので、内容は不明。文献(4)によれば、羅嘉傑の影刻本以前の版本は現在伝わっていないようである。

(45)岡西為人:『本草概説』五三頁、創元社、一九七七。

(46)この両書の翻訳発行は日本における出版のわずか一年後であり、このことから丁福保がいかに日本の医学に注目していたかが理解できる。

(47)呉佐欣:多紀元簡的一則手跡、『中華医史雑誌』四期、三二〇頁、一九八二。