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真柳誠「韓国伝統医学文献と日中韓の相互伝播」『温知会会報』34号208-215頁、1994年12月
(九州大学韓国言語文化研究会『韓国言語文化研究』6号41-48頁、04年4月に転載)(04,7図版を増補)→韓國語版

韓国伝統医学文献と日中韓の相互伝播

真柳  誠

 
要旨:日本への韓国伝統医学の伝来は6世紀に記録が始まる。そして10世紀の日本医書が引用することで、韓医籍最古の書名が知られる。現存最古の韓医籍も日本に保存される。このように古代から受容され続けてきた韓医学は、豊臣秀吉の侵略を契機に最大の影響を日本に与えた。その中心は多量な李朝版医書と出版技術の伝来である。影響は医書の利用や普及にとどまらず、版式や字体の模倣までおよんだ。他方、韓医籍や韓版医書の学術性も高く評価され続け、復刻が重ねられていた。それら文献には日中韓にまたがる多様な伝承経緯と変遷が認められ、結果的には漢韓医籍の散逸を防いだ場合もあった。以上の例より、日中韓の伝統医学が渾然一体となって変化、そして発展してきた側面を考察した。
Abustract − Literatures of Traditional Korean Medicine and their Mutual Propagation between Japan, China and Korea. MAYANAGI Makoto (Department for the History Medicine, Oriental Medicine Research Center of the Kitasato Institute, 5-9-1 Shirokane, Minato-Ku, Tokyo 108, Japan). Journal of the Onchi Society 34, 208-215(1994)

The first record of the introduction of traditional Korean medicine into Japan dates from the 6th century; the name of the oldest Korean medical work is known from its citation in a Japanese medical book written in the 10th century; and the oldest extant Korean medical book has been preserved in Japan. As these examples show, traditional Korean medicine was continuously transmitted into Japan from ancient times. However, its most pronounced impact on Japan came about as a result of Toyotomi Hideyoshi's invasions of Korea in the late 16th century. The influences of Korean medicine on Japan were mainly caused by the introduction of a large number of medical books printed in the Yi dynasty and of the techniques of publication. Those influences could be found not only in the utilization and wide dissemination of such medical books, but also in the imitation of the book style and the character sets employed. In addition, those medical books written by Koreans or printed in Korea, whose scholarship continued to be regarded very highly, were reprinted many times throughout the Edo period. There were various transitions and circumstances in the transmission of these works between China, Korea and Japan, but by this transmission some Chinese and Korean books which have otherwise been scattered or lost have been preserved. From these above cases it is noted that the traditional medicine of China, Korea and Japan was largely transformed and developed as one body of knowledge.
 

1  緒言

「不通朝鮮医学、不可以説日本及中国医学」

  故・三木栄氏は『朝鮮医学史及疾病史』を完成させた1948年、自序にこの一文をあえて漢文で誌した1)。漢字が3国の歴史的通用文字で、医学も一体不可分だからである。それからもう半世紀近い。

 東アジア3国の永い伝統医学の歴史は、厖大な数の医学文献を現在に伝えている。そのため伝統医学研究には、歴史的医学文献の掌握が欠かせない。しかし医書は実用書ゆえ、経書などよりはるかに自在に変化してきた。この伝承にともなう書誌の多様な変化が、文献の正確な掌握を困難にしている。

 一方、伝統文化の研究は自国中心が普通で、おおむね伝統医学研究の現況もその例外とはいえない。しかし東アジアの伝統医学は漢字という通用文字により、容易に国境や海峡を越えていた。そして各民族医療の血肉となり、同時に文献にも変化が加わっている。日中韓の3国ではこれが著しい。3国相互の文献伝播を軽視するなら、その歴史背景を等閑に付すなら、あるいは無根の経験医療に陥る危険性が高いのである。

 いま現在、日中韓の伝統医学は固有の歴史と特徴を持ちつつも、かつてない相互往来の高潮を迎えている。これに鑑み、本稿では韓国の伝統医学文献を中心にして、その多様な変化にかいま見える歴史背景を分析し、日中韓の相互伝播を考察することにした。
 

2  韓籍と韓版の伝統医学文献

2-1 韓籍と韓版

 韓籍とは韓民族が著した歴史的文献をいい、中国民族による漢籍、日本民族による和書と区別する。他方、韓版とは韓半島で印刷出版された文献で、著述者の民族を問わない。これは中国版・日本版でも同様である。一方、伝統医学文献の多くは実用書だが、歴史的文献なら他の古典籍と書誌の相違は基本的にない。この韓籍と韓版の医書誌について、筆者は寡聞にして三木栄氏以上の研究を知らない。したがって本稿は、多くが三木氏の業績に負うことを予め述べておかねばならない。

 なお韓版は特徴ある型押した表紙、大本が多く、日本紙や中国紙より厚めで繊維も長く強く、全体に重く、独特な肉太の字体などの点に留意すれば、中国版や日本版との混同はまずない。江戸初期の医書で韓版そっくりに模倣出版した例もあるが、著者名等の日本的特徴で判別可能だろう。ただし韓半島ではほとんどの時代で固有の年号を用いず、日本統治時代以外は中国の年号が多用された。当理由と中韓の人名は判別し難い点からか、中国では韓籍を漢籍に、さらに韓版を中国版に誤認する例が実に多い。中国の書誌情報には注意が必要である。

2-2 韓医籍

 韓半島の三国から新羅時代の医書に『百済新集方』『新羅法師方』があったことを、丹波康頼が 984年に著した『医心方』の引用文(図1)より知ることができる2)。10世紀からの高麗時代には『済衆立効方』『御医撮要方』『郷薬救急方』などの韓医籍があり、多くは刊行されていたことも後代の引用文などから推定できる3)。ただし現存するのは『郷薬救急方』だけらしく、唯一その李朝再版本が宮内庁書陵部のみに所蔵される。

 李朝時代の韓医籍は獣医等の関連分野を含め200書以上あった4)。調査が進み、写本でのみ伝わる書なども網羅されれば、実数はより増えるだろう。一方、医書の出版は李朝の初期に多かったらしい。しかし後述のように豊臣秀吉軍が略奪したので、李朝初期の韓医籍は多くが日本に現存し、韓版漢籍も含め総計70部以上に達するという5)。『東医宝鑑』など李朝中後期の韓医籍は中国にも多く現存する6)。他方、李朝時代は木版(整版)印刷とともに、活字印刷が盛んに行われた。むろん当時の技術では印刷数に制限があり、医書でも李朝活字本は現存がきわめて少ない。

 李朝医書の白眉は勅撰の『郷薬集成方』『医方類聚』『東医宝鑑』などで、とくに『東医宝鑑』(1613年初版)の評価は高い。また1477年に30組が活字印刷されただけの『医方類聚』全266巻は、唐・宋・元・明初の医書153種以上の引用からなり、日中韓3国で最大の医学全書。その所引書のうち40種ほどは佚書で史料価値が高く、江戸末期の医官らは所引文から30数書を輯佚したほどである7)

2-3 韓版漢医籍

 およそ唐代に相当する新羅は、唐令にならった医学教育制度を692年に制定し、漢医籍を教科書に定めている8)。そのひとつ漢代の『針経』9巻は中国の北宋代すでに失われていたが、高麗には現存していた。そこで1091年の北宋政府の求めで高麗政府は『針経』を献上、1093年に北宋で初出版されている。この北宋版『針経』9巻は南宋代の1155年に書名を『霊枢』、巻数を24巻に改めて復刻された9)

 しかし高麗『針経』も北宋版『針経』も南宋版『霊枢』も今はなく、以後の『霊枢』系統のみ現存する。つまり本書は漢代『針経』9巻→唐→新羅→高麗『針経』9巻→北宋版『針経』9巻→南宋版『霊枢』24巻→以後の版本として、現代に伝えられてきた。新羅・高麗での伝承がなければ、中国医学の最基本古典のひとつが失われた可能性は十分にあっただろう。ちなみに『針経』は日本でも大宝律令からテキストに指定されていたが、その伝本は平安以降に散逸していったらしい。

 ほぼ北宋から元代に相当する高麗時代では、1058年と1059年に『五蔵論』などの漢医籍も出版されていた10)。しかし伝本はいずれもなく、『医方類聚』に一部の引用文が保存されている。一方、中国の明初から清代にほぼ相当する李朝時代に復刻された漢医籍は、書目数で80種ほどの現存が知られている11)。すべて宋代から清代までの医書で、李朝版が伝存唯一や最善本の場合もある。とくに明の1425年に序刊された針灸書の劉瑾『神応経』は、数奇な経緯で現在に流布して興味深い12)

 すなわち室町時代の1473年、畠山氏使節副使の僧・良心が本書と日本の和気・丹波氏の廱疽灸法「八穴灸法」を李朝に献上。翌1474年に李朝政府は両書を合刻し、その李朝版が豊臣秀吉の侵略で日本に再来し、江戸時代の1645年に再復刻された(図2)。1990年には江戸の再復刻版に基づく活字本が北京の中医古籍出版社から再々復刻され(図2)、この中国再々復刻版は日本・韓国にも輸出されている。

 以上のように本書は明版→室町畠山氏→李朝版→江戸版→北京版→日本・韓国という、550年以上にわたる3国間の伝承をたどり現代に流布しているのである13)。ただし中医古籍出版社本の点校者は本書が李朝版を介しているのにまったく気づかず、伝承経緯ばかりか年代関係まで甚だしく錯誤した前言を記しているのは誠に遺憾というしかない。
 

3  日本と韓医籍・韓版漢医籍

3-1 古代の渡来人と韓医籍・漢医籍

 日本の要請で百済から採薬使の施徳・潘量豊と固徳・丁有陀が554年に来日している。恐らく彼らは医薬書も持参していたと推測して問題ないだろう。一方、渡海して高句麗と戦った大伴連狭手彦は、562年に帰国のとき呉人子孫の智聡を高句麗より連れ来たった。この智聡は「内外典・薬書・明堂図164巻」等の漢医籍を将来したと言う。これが日本に医書が伝えられた記録上の最古である。602年には百済僧の勧勒が来日して「方術之書」等を持参しているが、それがいかなる書かは記録にない14)

 このように百済や高句麗から日本へ来た人々の中に、医薬知識を持つ人は多かったと思われる。日本の『医心方』に『百済新集方』『新羅法師方』が引用されるように、渡来人のもたらした韓籍・漢籍の医書も少なからずあったろう。また鎌倉幕府の金沢文庫旧蔵書に韓版があるので、鎌倉や室町時代にも対馬などを介した交易で韓籍や韓版がもたらされていたのは疑いない。ただし医学についての目立った影響は、日本が中国と遣隋使で直接交流を開始する以前の6世紀末頃までだった。

3-2 豊臣秀吉の侵略と伝来医籍

 日本に大量の韓医籍や韓版漢医籍が伝来したのは、いうまでもなく1592〜98年間の2度にわたる豊臣秀吉の侵略による15,16)。1592年に秀吉軍が略奪した書籍は、船数艘・笥数十・車数台・数千巻ともいう。当理由で16世紀までのあらゆる書籍が、韓半島からほとんど失せたらしい。さらに活字ばかりか印刷工まで連れて来たので、日本では医書も活字出版が急激に流行した。それ以前に日本で印刷出版された医書(整版)は、わずか数書しかないのである。活字技術の伝来が当時の日本医学に与えた影響は、実に巨大だったと言わねばならないだろう。

 当時伝来した相当量の医書が、宇喜多秀家や秀吉などから曲直瀬正琳(養安院)に贈与されたらしい。三木栄氏は養安院に所蔵されていた医学関係の韓籍と韓版漢籍の書名、約50種を諸史料より採録している。前述の李朝版『神応経』も、その写本を養安院が所蔵していた。むろん養安院以外の経路で伝存する韓医籍も多い。例えば李朝で1477年に30組しか印刷されなかった『医方類聚』は、加藤清正軍の戦利品と伝えられる1組を多紀元簡が仙台の工藤平助から購入、それが明治以後に大学東校→内閣文庫→宮内庁書陵部と伝えられて現存する17)。李朝版(上掲写真1)は世界にこの1組しかない。

 他方、のち古活字医書の出版に関与した曲直瀬玄朔は、秀吉の命で1592年に毛利輝元の治療に渡海。その地で韓版の漢医籍『山居四要』を入手し、輝元の求めで抜粋書を和語にて作成していた(図3)。韓版を介して漢医籍を日本が受容した一例である。

  以上は書籍に限らず、医人も捕虜とされたらしい。江戸の1780年に刊行された木村元貞『針灸極秘伝』の序(図4-1)が、慶長年間に李朝医官の金徳邦が永田徳本に授けた術に由来する、と記すからである。このような記録がある李朝からの渡来医人は、伝存史料のみで10名を越す。

3-3 李朝版の影響と古活字版医書


 
 

 1592年の侵略でもたらされた李朝の活字技術で、前述のように日本の医書出版は一挙に盛行した。これを古活字版医書といい、江戸初期の約1630年代まで続く。350年後の現在も50種以上の古活字版医書が現存するので18)、その約40年間に恐らく200種近くは出版されただろうか。多くは漢籍であったが、李朝の活字技術が医学を日本に広く普及させた文化功績は極めて大きい。嚆矢とされる1595年刊の『医方大成論』と『本草序例』は、ともに日本で漢籍から抜粋・改編した書である19,20)。この『本草序例』(図4-2)の底本は李朝版だったという。両書はのちも復刻が重ねられ、江戸初期にかけて大流行した。
 
 
 
 
 

 初期古活字版の字体は李朝版にもちろん似るが、李朝活字も明代前期から中期の字体に影響を受けている。したがって字体が変化しつつ間接的に伝えられたことになるが、後期の古活字版はやや日本化する。なお古活字版の版面は全般にかなり幅広で、これも李朝版の影響だろう。曲直瀬玄朔が出版に関与した1605年刊の古活字版『玉機微義』は21)、版面・字体・用紙から表紙まで李朝版に酷似する(図5)、という例すらあった。

 この活字版は整版より誤字の訂正が容易なため、正確な版本ができる。それで江戸初期の医塾用に多種の医書が私家出版されたのだろう。ただ日本独特の訓点や送り仮名が付けられず、また少数しか印刷できないので、のち医書も商業的な整版に移行していった。
 
 

3-4 韓医籍・韓版医書と江戸の復刻

 古活字版医書の時代は約40数年で終る。1640年代からは李朝版にかわり、明後期の万暦版の影響を受けた整版医書が徐々に出てきた。しかしそれは印刷技術の変化にすぎず、韓医籍や韓版医書の影響はまだ続く。例えば京都・大森文庫所蔵の李朝版『経史証類大観本草』(左写真)は前述の養安院旧蔵書で、元版を復刻した善本である。当理由で幕府医官の望月三英は李朝版『経史証類大観本草』を底本に校訂し22,23)、三英没後の1775年になって子息・草玄の労でやっと和刻が完成した。和刻唯一の『証類本草』だった。同書も元版→李朝版→江戸版と変遷したので、『山居四要』と同様に韓版を介して漢籍医書を日本が受容した例といえる。

 一方、江戸時代では鎖国体制のため、李朝医書の渡来が希だった。それで『東医宝鑑』の内容に注目した徳川吉宗は、医官に校訂させて復刻し、1724年と1730年に京都の書店から発売した。江戸時代初の官版医書である。1799年にも大坂で同版木にて後刷りされ、1811年と1837年には各一部が清国に輸出されていた24)。明治になると同版木まで清国に輸出され、句読訓点のみ削り去った版木による後印本も清国で1890年に出版されている25)。これは韓籍が李朝版→江戸版→清版の順に復刻され、日本・中国に受容された例といえよう。

 なお江戸の将軍即位に応じて12回にわたり来日した朝鮮通信使は、良医や医員と呼ばれる医官を同行していたことが多い。彼らは鎖国の日本に来た数少ない外国人医家だったので、対馬と江戸を往復する各地で日本の医家が彼らを訪問した。その医事問答などを集めた記録は多く、中には医書に関する質疑応答も見られる26)

3-5 喜多村直寛の『医方類聚』復刊

 江戸後期から明治初年に再流行した近世の活字版には医書が多く、100種近くも出版された27)。再流行の理由は、量より質と低経費を求めた学術性の高い医書の刊行が、この時代になって必要とされたからといえよう。当然多くは自費的な非商業出版で、中には小論文に類する書や趣味的な書もある。

 とりわけ多量に活字版を出版したのは、かつて幕府医官を任じた喜多村直寛である28)。直寛は1851年から1873年にかけて17種もの書を自費出版した。しかもその中には漢籍類書の『太平御覧』1000巻・153冊や、韓医籍の『医方類聚』266巻・264冊など、きわめて厖大な書が含まれている。『医方類聚』については幕府から百両の借金までし、10年を費やした活字復刊を1861年に自力で完結したのだった。

 1876年に李朝政府と明治政府の修好条約が締結されるとき、直寛は格好の礼品として自家版『医方類聚』の贈呈を申し出た。そして明治政府から李朝政府に献上された。自国に失われて久しい本書に接した李朝の医官らは、直寛の義挙を大いに賛えたという。しかし李朝政府の礼状を受け取る直前、直寛はその生涯を終えている。

  1965年、ソウルの東洋医科大学(現在の慶煕大学校医科大学韓医学科)はのべ4893名を動員して直寛版を模写し、影印出版した29)。ようやく『医方類聚』が故国に普及したのである。のち台湾からもソウル版のリプリントが出た。1982年には北京の人民衛生出版社が直寛版に基づく活字本を出版し、中国・日本に流布している。ただし北京版の1〜4冊目は内容の一部を迷信的との判断で削除し、さらに全冊にわたり引用文を劣悪な通行版本で改めるなど、その妄改には目を覆わざるをえない。ともあれ韓医籍の『医方類聚』は、李朝版→直寛版→韓国版→台湾版あるいは李朝版→直寛版→北京版という、3国間・約 500年の時空をへた伝承経緯がある書として特筆されるべきだろう。

3-6 明治期の医書流出

 明治政府は伝統医学を公認せず、植民地とした台湾・韓半島でも基本的に同様の政策を実施した。一方、中国大陸はかろうじて伝統医学を存続しえた。そのため日本でほとんど無価値となった伝統医学文献の多くは急速に散逸し、国外では主に清国人の購入するところとなった。

 当時来日し文献を蒐集した中国の学者には、1890年に来た楊守敬30)、1898年に来た李盛鐸31)、1901年に来た羅振玉32)、1909年に来た丁福保らがいる33)。うち楊守敬の蔵書が最大で、現在は台北の故宮博物院に大部分が保存されている。李盛鐸の蔵書はこれに次ぎ、いま北京大学図書館にある。それらには日本旧蔵の韓医籍・韓版医書も少なくない。もちろん彼らの蒐集、さらに復刻により消滅を免れた貴重文献も数多い34)

 例えば李朝医書の『医方類聚』『針灸択日編集』『東医宝鑑』『済衆新編』等には現代の中国版もあり、前3書については日本版を介している。すなわち明治維新後に来日した清の羅嘉傑は、養安院の旧蔵書にもあった『針灸択日編集』の写本を入手し、それを1890年に日本で復刻。さらに清国で翌年と翌々年に羅嘉傑本が再版され、この再版本は1987年に北京の中国書店で影印復刻(図6)されて国外にも輸出された13)。したがって李朝韓籍→日本写本→日本版→清版→北京影印版→日本・韓国という変遷を経ている。

 中国に流出したのは医書のみならず、版木にもおよんだ。前述した『東医宝鑑』も一例である。このように当時の中国で日本の版木を購入し印刷した医書は23種、日本で入手した漢韓医籍を復刻したのは10種、日本の文献から復元出版した漢籍医書は4種、和医書は46種も出版されている32,35)

 日本は江戸時代までの約1300年間、ほぼ一方的に中医学・韓医学を受容してきた。そうして蓄積された文献や研究の一部が、皮肉にも暗黒の明治時代に日本を離れ、ようやく近隣国のかつての学恩に幾許なりとも報いたのである。
 

4  結語

 日本・韓国の伝統医学は中国の影響下に発展しつつ、各々に固有の医学を築いてきた。しかし中国の影響のみ一方的に受け続けてきた訳ではない。3国相互の往来は特に医学文献で顕著だった。かくして渾然一体となって変化・発展してきた側面がある。

 もしいま文献の相互往来が与えた影響を国ごとに論じるなら、もっとも他2国の恩恵をこうむったのは日本の伝統医学、と断じておよそ問題ないだろう。中国のみならず、韓国伝統医学が日本に与えた影響も多方面におよんでいたことを、歴史事実は充分に物語っている。それは、のち日本が伝統文献を伝承し保存し、斯界に貢献することにも連なっていた。さらに同類の事象は一人日本に限らず、韓国伝統医学にも存在することをいくつか例証した。

 歴史の大河は民族・文化、そして国境も海峡も容易に超越して連動させる。伝統医学といえども、その例外ではありえない。今後、各国の研究協力がより一層進展するなら、さらに当方面の史実が解明されるに相違ない。同時にそれは、現代における新たな相互発展の歴史も創出するであろう。

 漢方医学の研究と東アジア伝統医学の学術交流に挺身されてきた師・矢数道明先生の卆寿に際し、さらなるご健勝を祈念して拙稿を捧げる。

[本稿の要旨は1994年 6月3-4日、韓国の国立ソウル大学天然物科学研究所の主催で同大学にて開催されたフォーラム "Harmonization of Traditional Medicines and Modern Sciences" における招待講演で、"The Influences of Traditional Korean Medicine on Japan" と題して発表した。これを敷衍し、和文としたのが本稿である]
 

文献

1) 三木栄『補訂  朝鮮医学史及疾病史』序文 4頁、思文閣出版(1991)。

2) 小曽戸洋「『医心方』引用文献名索引(一)」、『日本医史学雑誌』32巻 1号89-118頁(1986)。

3) 三木栄『増修版  朝鮮医書誌』3-12頁、学術図書刊行会(1973)。

4) 文献3)、12-164・259-319頁。

5) 文献3)、422頁。

6) 中国中医研究院図書館『全国中医図書連合目録』703頁、北京・中医古籍出版社(1991)。

7) 文献3)、348-352頁。

8) 文献1)、13-15頁。

9) 友部和弘・小曽戸洋・真柳誠「『霊枢』の古版−『針経』の刊行事実」、『日本東洋医学雑誌』40巻4号293頁(1990)。

10) 文献3)、165-168頁。

11) 文献3)、170-258頁。

12) 文献3)、195-197・333-334頁。

13) 蕭衍初・真柳誠「中国新刊の日本関連古医籍」、『漢方の臨床』39巻11号1431−1444頁(1992)。

14) 真柳誠「中国本草と日本の受容」、『中国本草図録』9巻218-229頁(1993)。

15) 文献3)、377-381頁。

16) 文献1)、187-192頁。

17) 真柳誠「現存唯一無二の『医方類聚』初版」、『漢方の臨床』39巻10号1248−1250頁(1992)。

18) 小曽戸洋・関信之・栗原萬里子「和刻本漢籍医書出版総合年表」、『日本医史学雑誌』36巻 4号 459-494頁(1990)。

19) 小曽戸洋「『医方大成論』解題」、小曽戸洋・真柳誠編『和刻漢籍医書集成』第7輯『医書大全・医方大成論』解説17-25頁、エンタプライズ(1989)。

20) 真柳誠「日本漢方を培った中国医書20−本草文献(その7)」、『漢方と中医学』19号3頁(1993)。

21) 小曽戸洋「『玉機微義』解題」、小曽戸洋・真柳誠編『和刻漢籍医書集成』第5輯『玉機微義』解説2-10頁、エンタプライズ(1989)。

22) 渋江全善・森立之ら『経籍訪古志』巻7医部、『近世漢方医学書集成53』396頁、名著出版(1981)

23) 文献3)、337-338頁。

24) 福井保『江戸幕府刊行物』80−83頁、雄松堂出版(1985)。

25) 文献3)、321頁。

26) 吉田忠「朝鮮通信使との医事問答」、『日本文化研究所研究報告』第24集27−69頁、東北大学(1988)。

27) 多治比郁夫「近世活字版の医書・本草書」、『大阪府立中之島図書館紀要』第20号30−51頁、大阪府立中之島図書館(1984)。

28) 真柳誠「喜多村直寛による『医方類聚』の復刊」、『漢方の臨床』39巻12号1488−1490頁(1992)。

29) 岡西為人『中国医書本草考』128-133頁、南大阪印刷センター(1974)。

30) 小曽戸洋・原中瑠璃子・小林茂三郎「漢方文献の善本を所蔵する図書館とその利用法−その2  台湾国立故宮博物院所蔵楊守敬観海堂本」、『薬学図書館』27巻1号25−32頁(1982)。

31) 蘇精『近代蔵書三十家』25-30頁、台北・伝記文学出版社(1982)。

32) 真柳誠「清国末期における日本漢方医学書籍の伝入とその変遷について」、『矢数道明先生喜寿記念文集』643-661頁、温知会(1983)。

33) 高毓秋・真柳誠「丁福保与中日伝統医学交流」、『中華医史雑誌』1992年3期175-180頁(1992)。

34) 真柳誠・関信之・蕭衍初・森田傳一郎「中国に保存される日本伝統医学文献の孤本」、『日本医史学雑誌』38巻2号19-21頁(1992)。

35) 真柳誠「中国において出版された日本漢方関係書籍の年代別目録」、『漢方の臨床』30巻9号47−51頁・同10号32−41頁(1983)。

(北里研究所・東洋医学総合研究所/医史学研究部)