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真柳誠「『湯液本草』『此事難知』解題 」『和刻漢籍医書集成』第6輯所収、エンタプライズ、1989年9月

『湯液本草』『此事難知』解題

真柳 誠

一、 王好古

 『湯液本草』などの著で知られる王好古は、張元素(劉完素〔一一二六〜一二〇〇頃〕より数年から一〇数年後の人、李東垣の師)[1]、さらには李東垣(一一八〇〜一二五一)にも師事したと伝えられる、金末・蒙古間を代表する医家である。しかし正史はその伝を載せず、また生没や事跡の年代を具体的に記した文献も伝えられていない。

 したがって好古については、その著書の記述や序跋、あるいは張元素や李東垣との関係から推すしかない。幸いなことに好古の書は伝存するものが多く、いずれにも自序等が付されている。そのうち、唯一、好古以外の手になる麻革(信之)の「陰証略例序」[2](癸卯、一二四三)には、次のような好古の略伝が見える。

 海蔵(号)先生王君進之[3](字)は、代々趙州(河北省趙県)の人である。早くより経学に通じ、進士に挙げられた。その後に医を志し、李東垣に就きその学をことごとく伝えられた。その後もさらに軒岐(「内経」)以来の諸医書を精研し、数千年間の学を手中に収めた。かつて私が大梁(河南省開封)に居た時、先生の名は諸公間に高かったが、残念ながら面識を得られなかった。今年の秋、晋州(山西省太原)に来て、先生の館舎にて始めて会ったところ、気は和しているが固く、志も一に定まりまさしく道を会得した人であった。(以下略)。
 またこの六年前になる『医塁元戎』自序[4](丁酉、一二三七)の末尾に、「趙州教授。兼提挙管内医学」とあり、好古は当時そのような公職にもあったことがわかる。著書の成立以外に知れる好古の略伝は、およそこの程度である。よって以下は、好古の各書を検討する中で言及することにしよう。

 なおその前に、問題を一つ片付けておきたい。それは好古らの序跋が、元代の一例を除き、いずれも干支(えと)のみで年号を記さないことである。この風潮は中国北方が他民族に支配された金代の初期、また蒙古が侵入した金代の末期に多く見うけられ、蒙古が中国全土を統一した元代からはあまりない。金初の例としては成無己『傷寒明理論』『注解傷寒論』が干支のみで、いずれも漢人が他民族の元号を嫌ったためという。

 しかし干支は六〇年毎に反復することも関連し、好古の活躍年代を一二〇〇〜六四年頃[5]、また一二〇〇〜一三〇八年頃[6]とする二説が生じている。後説は明確な判断を避け、百年以上の幅をとっているが、その非は後述する。したがって筆者は、とりあえず前説に従って干支を西暦に改めることにする。
 

二、王好古の著作

 王好古の著作と認められる書は、およそ以下のものが伝えられている。

『医塁元戎』

 王好古は本書の跋に[4]、もと辛卯(一二三一)年に完成していたが、丁酉(一二三七)年の春に原稿を盗まれたので、少しずつ想い出し、一〇中の七、八を復元したという。自序は同年の九月二九日付なので、復元に半年ほど費したらしい。また同序は河南以来の臨床経験に基づき本書を著したというので、一二三一年以前に前述略伝のいう河南の開封に居たのは確実で、当時は東垣も同地に居る。

 また『四庫全書総目』の指摘によれば、本書の海蔵黄耆湯条に「東垣李明之先生」、易老大羌活条に「先師潔古老人」と記すので、張元素・李東垣に師事したことがわかる。なお本書名は自序中に、「良医の用薬は臨陣の用兵のごとし」とあるのに由来するという。

 本書の初刊年は不詳であるが、『済生抜粋』(一三四一)巻一〇には一巻の節略本が収められるので、他書の例からみて、それ以前に刊本があったかも知れない。この一巻本は以後、『医統正脈全書』や明末以降の『東垣十書(十二種)』にも転載されるが、利用に耐えない。

 節略のないものでは、次の一二巻本がある。

@嘉靖二十二年(一五四三)顧遂序刊本 広東省中山図書館所蔵。
A嘉靖四十一年(一五六二)魏尚純跋刊本 国立公文書館内閣文庫所蔵江戸写本。
B万暦二十一年(一五九三)序刊厳昌世校本 国立公文書館内閣文庫所蔵。
C弘化二年(一八四五)加賀保生院書塾刊木活字本 大阪府立図書館石崎文庫ほか所蔵。
D弘化四年(一八四七)山田順庵刊木活字本 国立公文書館内閣文庫所蔵。
『陰証略例』

 本書には丙申(一二三六)年秋の王好古後序がある。それによると本書は三回稿を重ね、初稿は傅夢臣らの写したものが河南に、これに数論を加えた二稿が郷里(趙州)にある。壬辰(一二三二)年から本年までの五年間に、増補改訂を加えこの三稿とした。まだ至らぬ点もあり、諸郡にこれを明らかにできる者を求めたが、いない。いつの日かまた李東垣先生に再会し、これをたずねれば、少しは気も安まるだろうに、という。

 すると本書は一二三二年以前に河南で初稿ができている。その年まで河南の開封には東垣もいたので、壬辰の変以後、東垣と好古は別れて北へ逃避したのであろう。本書の本文巻頭には、その壬辰年四月の自序があり、初稿の成立年を示している。ただその末尾に、海蔵「老人」古趙王好古序、とあるのは問題である。「老人」を冠すなら、当時少なくとも五〇歳には達していなければならない。これは後の衍文の可能性が大いにあるが、もし真に受けると、好古は東垣とあまり年齢差がないことになる。

 さて本書の最も新しい序は、先述の麻革序(一二四三)で、好古が麻革に話した言葉も引用されている。これによると、人の大疾である傷寒は、陽証より陰証の弁別と治療が難しい。そこで一〇余年間研究し、岐伯から潔古老人までの精要をまとめ、自己の説を加え三〇余条の本書にした。これを刊行したいので、麻革に序を求めた、という。むろん、本書名はこれに由来する。

 本書がその直後に刊行されたことは、麻革序の後に「門人、皇甫黻・張沌・宋廷圭・張可・戈{愨−心+弓}英同校正。燕山呉玉君美、助縁」とあり、宋廷圭の名は好古の治験にも出てくることから知れる。この初刊本は伝わらず、かつては以上の記載等が一切節略された、『済生抜粋』巻一一所収の一巻本しかなかった。しかし清末に至り、大蔵書家の陸心源が本書の旧写本を入手。これを彼の『十万巻楼叢書』に刻入したので[2]、再び世に現れた。

『伊尹湯液仲景広為大法』

 本書には甲午(一二三四)年六月の王好古自序(題辞)がある[7]。それによると、仲景の書が伊尹の湯液に基づくことを知る者は少ない。これを言ったのは、潔古老人や東垣李明之先生など一〇数人のみである。そこで軒岐(「内経」)の七方十剤、炎帝(神農)の四気七情を取り、仲景の経絡標本でこれを総括し、(医)和・扁(鵲)の虚実部分を補足して本書とした、という。本書名の謂である。

 この序は刊行について記さないので、当時出版されたか否か不詳。また『済生抜粋』や『東垣十書』『医統正脈全書』等にも収載されない。現存する刊本には、国立公文書館内閣文庫所蔵の嘉靖十三年(一五三四)刊四巻本があり、同文庫にはその江戸写本もある。中国の{革+(邯−甘)}県古物保存書には巻数不詳の明刊本、上海中医学院図書館には三巻の写本がある。

 この他、かつて一巻本もあったらしいが、現存の記録を筆者は知らない。

 以上の三書および後述の二書以外、『湯液本草』の第一自序(戊戌、一二三八)に、好古は自著として『{ヤマイダレ+斑}論萃英』『銭氏補遺』を挙げる。前者は『済生抜粋』巻一四に節略の一巻本のみがあり、これを『医統正脈全書』『東垣十書(十二種)』が転載している。好古の自著たることは内容より明白であるが、序跋等がないので、成立の経緯は不詳。後者は銭乙の『小児薬証直訣』に補遺した書と思われるが、伝本はない。
 

三、『湯液本草』

〔成立年代〕

 本書には王好古の自序が三つあり、各々は戊戌(一二三八)夏六月、丙午(一二四六)夏六月、戊申(一二四八)仲夏晦日に記されている。その第一序に本書を著した経緯が記されるので、基本内容は一二三八年にできている。その後、あるいは修正が加えられたかも知れない。したがって最終的な成立は、第三序の一二四八年とするのが妥当であろう。しかしいずれの序も刊行には言及しないので、当時刊行されたかは不詳である。

 ところで本書の巻二(六巻本による)には、「薬味専精」と題する至元庚辰六月の治験例が記されている。至元の年号は元代に二度あり、都合の悪いことに、前至元十七年(一二八○)と後至元六年(一三四〇)が庚辰年である。いずれにせよ、本書の第三序より後にこの治験が記されたことになり、問題である。そこで崔掃塵らはこの文を決して後人の挿入ではないと断定し、代わりに好古序年の干支を六〇年後にずらして解釈。本書は一二九八年に成立し、一三〇八年に刊行されたという[8]。ただし第三序を刊行の年とする根拠は記さない。

 しかしこの解釈では、一三〇八年まで好古は存命しており、当時百歳以上でなければ張元素に師事するのは不可能。当時もし八○歳位なら、晩年の東垣(一二五一没)にかろうじて師事できよう。が、東垣側にそのような記録は一切ない。すると元素・東垣に師事したというのは、好古の虚言になる。また好古の各著が引く元素・東垣の言は、多く両人の現存書には見えないので、これも好古の偽撰となる。両人を深く敬慕する旨を各書に記す好古に、そのようなことが可能であろうか。

 当問題を筆者は次のように考える。第一の可能性は、好古の序と同様、本来の治験年は「庚辰」だけであり、後に何者かが「至元」を付加した場合である。この可能性は、後述の『此事難知』の序年にもある。むろん年号を記さなければ、庚辰は金代の一二二〇年に相違ないが、好古がこの治験をなすには各著書の成立年からみて早すぎる。

 第二の可能性は、誰かが後に当治験文を付加した場合である。東垣の晩年の直弟子である羅天益が著した『衛生宝鑑』(一二八一成、一二八二初刊)の、巻二一に示唆する記載が見える[9]。その巻末には、『湯液本草』の問題文と同名の、「薬味専精」と題した文がある。文章も冒頭の「至元庚辰六月」から末尾まで、個々の修辞以外は違わない。とすれば、『湯液本草』の文は、後に『衛生宝鑑』より挿入されたのか。逆に『衛生宝鑑』が『湯液本草』より引用したか、のいずれしかありえない。

 そこで両文を仔細に検討すると、『湯液本草』の文に修辞の省略が多々見うけられた。内容も脾胃の虚弱に対するもので、所説は好古のものより東垣流に近い。羅天益は蒙古(元)の軍医に徴用されたほどであるから、元の年号を記しても不思議はなく、『宝鑑』所載の他の治験例も同様である。したがって当文は、『宝鑑』初刊の一二八二年以降、誰かが『湯液本草』に付加したことはほぼ疑いない。よって崔らの解釈には根拠がなく、本書はやはり一二四八年の成立と認められる。

〔構成と内容〕

 本書は版本により、二巻本・三巻本・六巻本の違いや、校訂者が異なったりなかったりしている。あるいは好古の三序の内、一つないし二つが欠けていたり、干支年の記載を落とすものもある。ただ細かな字句の相違を除き、いずれも本文の構成・内容は同一である。

 内容は大別して、多くの薬理や用薬法の論説と図説からなる前半の総論と、草・木・果・菜・米穀・玉石・禽・獣・虫の順に計二四二種の薬物を収載する後半の各論よりなる。

 なお先に論証したように、前半部分の「薬味専精」は『衛生宝鑑』巻二一からの転載であった。同書同巻からの転載はこれに限らない。文章のみならず、篇名・注記文までそっくり引用しているのは、「薬性要旨」「気味厚薄寒熱陰陽升降図」「升降者天地之気交」「用薬升降浮沈補瀉法」「君臣佐使法」「治法綱要」の六篇。「薬類法象」は『宝鑑』の「{口+父}咀薬類」を節略したものである。本書ではいずれも「東垣先生薬類法象」、あるいは「東垣先生用薬心法」と題する部分にこれらが転載されている。したがって、東垣所伝文を好古と天益が別個に引載した、との仮定も可能ではあろう。この可能性を示唆する文献に、張元素の『医学啓源』がある。

 『医学啓源』は東垣の手を経て[1]、あるいは羅天益により一二八一年の少し前に刊行されたかと疑われ[10]、そこには『湯液本草』や『宝鑑』との同文・類文が少なくない。これを先に掲げた以外の『湯液本草』の篇名で挙げると[11]、以下のようである。「五臓苦欲補瀉薬味」「臓腑瀉火薬」「用薬法象」「五味所用』「随証治病薬品」「用薬凡例」「制方之法」「用薬各定分両」「用薬酒洗曝乾」「用薬根梢身例」。

 好古が元素に師事していた時、あるいは東垣に師事していた時、『医学啓源』の元となる稿本を見ていたことはありうる。しかし尊敬する両師の論を、「〜云」とも記さず転載することは、本書の後半の記述形式が必ず「〜云」と明記する例を見ても、まず考えられない。したがって以上に掲げた各篇は、本書が成立した後、何者かが増補したものと考えられる。確証はできないが、それは『医学啓源』や『衛生宝鑑』の初刊以後のことであろう。

 ともあれ現行の本書において、前半部分には後代の竄入が少なくない。本書の王好古第一自序には、編纂意図と構成が述べられている。これを勘案して現行本を見ると、前半の中頃に「海蔵老人湯液本草」と題するので、あるいはそれ以降が本来の姿かも知れない。

 本書は自序にいうごとく、元素の『潔古珍珠嚢』を基本とし、東垣の『用薬法象』の説などを含め、およそ四〇余家と好古の説からなっている。その内容と形式は従来の本草書とおよそ異なり、本草学の概念すら一変させたと評してもよい。本書に集成された、元素・東垣・好古の所説が後代に与えた影響はすこぶる大きく、現代中国のいわゆる中薬学にも影を落としている。なお本書の内容解析については、岡西為人の好著[12]を参照されたい。

〔版本〕

 本書の初刊年は不詳であるが、次のような元以降の版本が現存している。なお清からの版本は省略する。

元刊本

@後至元元年乙亥(一三三五)刊本 浙江図書館所蔵。未見。当版を検討すれば、前述の増補経緯と年代が判明するかも知れない。

明刊本

@明初刊黒口本 北京・中医研究院図書館所蔵。白綿紙印本なので、他書の例からみて遼藩刊「東垣十書」所収本か。
A正徳三年(一五〇八)熊氏種徳堂(梅隠堂)刊「東垣十書」本 国立公文書館内閣文庫所蔵。
B嘉靖八年(一五二九)梅南書屋刊「東垣十書」本 同右文庫ほか所蔵。
C万暦十一年(一五八三)周氏仁寿堂刊「東垣十書」本 台湾国立中央図書館所蔵。
D万暦二十九年(一六〇一)序刊「古今医統正脈全書」本 現存多数。
E万暦二十九年(一六〇一)後書林楊懋卿刊「東垣十書」本 武田科学振興財団杏雨書屋ほか所蔵。
F明末頃刊「東垣十書(十二種)」本 北京図書館ほか所蔵。

朝鮮刊本

@成宗十九年(一四八八)頃内医院刊乙亥活字本 藤田亮策氏所蔵(図1)。三木栄『朝鮮医書誌』によると、現存は下巻のみで首尾数葉を欠く零本とある。
A中宗頃(一五〇六〜四四)内医院翻刻梅南書屋「東垣十書」本 矢数道明氏ほか所蔵。
B英祖四十一年(一七六五)恵民署鉄活字刊「東垣十書」本 武田科学振振興財団杏雨書屋所蔵。

日本刊本

@元和(一六一五〜二三)頃刊古活字「東垣十書」一〇行二〇字本 大東急記念文庫・武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。
A寛永(一六二四?四三)頃刊「東垣十書」本 研医会図書館所蔵。
B万治元年間(一六五八)武村市兵衛刊「東垣十書」本 国立国会図書館ほか所蔵。
C万治二・元禄元年間(一六五九〜八八)山本長兵衛重印「東垣十書」本 矢数道明氏ほか所蔵。

 以上のうち、「東垣十書」本については、別稿「『東垣十書』解題」を参照されたい。

 今回の復刻にあたっては、訓点・送り仮名が刻入されている点、書き込みや虫損・汚損が少ない点より、矢数道明氏所蔵の日本刊C「東垣十書」本を底本に選択した。
 

四、『此事難知』

〔成立年代〕

 本書には「至大改元(一三〇八)秋七月二十有一日。古趙王好古識」、と記された自序がある。序の文面も本文内容も明らかに好古の所筆であるので、これに従えば彼は一三〇八年まで生存していたことになる。好古の活躍年代を一二〇〇〜一三〇八年とする前述の説は[6]、根拠を記さないが当序年をその下限としたのであろう。しかしこれでは、あまり不合理であるのはすでに述べた。したがって、「至大改元」に何かの誤りがあるに相違ない。

 これを初めて疑ったのは清末の陸心源である。彼は復刻した『陰証略例』に跋文を付し、その末尾で「本来は至改元(一二六四)であったのが、刊行の時に至改元になったのではないか」、と指摘した。たしかに草書などにくずせば、元が大に訛る可能性は大いにあり、この類の訛字が版本や写本間に極めて多いことは常識である。したがって岡西も当見解を引用し[13]、好古を一二〇〇〜六四年の人とする。任の説[5]もこれを襲っている。
  しかし筆者には、まだ少し納得のいかない点がある。それは当自序冒頭に「予読医書幾十載(歳)矣」、と好古が記している点である。「幾十」には莫然とした何十、あるいは数十の意味があるが、多くても五〇年ほどを指すことはないだろう。好古は一二三一年に『医塁元戎』の初稿を草し、それ以前に開封で医名が高かったので、医を学び始めたのは遅くとも一二二〇年代と推測される。それより幾十年というなら、一二六四年は少し後すぎるのではないか。さらに好古の他の著述は、その初稿と完成が一二三一〜四八年の間に連続している。ところが本書の成立を一二六四年とすると、他書の最後である『湯液本草』の一二四八年から一六年も離れてしまう。

 一方、他書の自序から推せば、本書も干支のみで、好古は元号を記さなかった可能性がある。ならば現伝本に「至大改元(戊申年)」とあるのは、本来「戊申(一二四八)」のみであり、後に何者かが干支を年号に置き換えた。その際、一二四八年はまだ元朝の年号がないので六〇年ずらし、一三〇八年の至大元年としたのではなかろうか。もしかかる推測が許されるなら、上述の不自然さは解消されうる。

 いずれにせよ現伝自序の年号から、本書の成立を一三〇八年とすることはできない。したがってここでは一二四八年、あるいは一二六四年の可能性を提起するにとどめ、後考を俟つことにしよう。

〔構成と内容〕

 本書は版本により、二巻本と四巻本の違い、あるいは校訂者が異ったりなかったりしている。しかし『済生抜粋』巻九所収の節略一巻本を除けば、内容上の差はない。またいくつかの版本は書名を「東垣先生此事難知集」などに作り、各巻頭に「東垣李杲明之撰」と記すが、それが誤伝たることは王好古の自序より明らかである。割合短文で、本書の著述経緯と内容も述べているので、以下に全文を翻訳しておこう。

 私は医を学んで幾十年になるが、仲景の一書(『傷寒論』)を最も尊敬している。しかし読んでみても、その趣意に洞達するのは難しい。国中を巡り、これを教えてくれる師を求めてみたが、いなかった。寝てもさめても考え悩んだところ、天があわれみ、李東垣先生の秘伝を私に授けてくれた。これが少しずつたまり、ようやく一書となった。一語一言のすばらしさは名状し難く、終始は無端の円璧のように連なっている。このような見聞を嫌悪する人もあろうが、学徒はそれでいいのであろうか。聞いたことも見たこともないというのは、過ちより恥ずかしい。本書に『此事難知』と名付けたのは、師の教えによっていないからである。

 人は本書を傷寒の書とみなし、上は軒岐の経(「内経」)に合し、中は越人の典(『難経』)に契し、下は叔和の文(『脈経』)に符すことを理解しえないだろう。しかし本書には、その言外不伝の秘がすべて載っているのである。

 本書について普通の解説書は、東垣の師伝による傷寒の論説を好古がまとめた、と記している。しかしそうではなく、東垣ならこう述べるであろう、と好古が考えたことをまとめたのが本書らしい。劉完素や張元素の伝も、霊的体験で彼らが医学に開悟したことを記す。しかし好古の場合、仙人などではなく、東垣の秘伝が天より授けられるのであるから、いかに敬慕していたかが察せられる。

〔版本〕

 本書は元刊本以下の諸版が現存している。それらは左記のようであるが、清以降は煩を避けて省略した。また『湯液本草』で挙げた叢書本は「湯@」本のように記述し、所在が異なる場合のみ注記を加えた。

元刊本

@至大元年戊申(一三〇八)刊本 蘇州市図書館所蔵。
A不詳元刊本 浙江図書館所蔵。

明刊本

@成化二〇年(一四八四)恵王刊「東垣十書」本 沈陽医学院図書館所蔵。
A「湯@」本。
B「湯A」本。
C「湯B」本。
D「湯C」本。
E「湯D」本。
F「湯E」本。
G「湯F」本。

朝鮮刊本

@「湯A」本。
A「湯B」本。

日本刊本

@慶長(一五九六〜一六一四)頃古活字本 東京大学総合図書館所蔵。目録によれば二巻本で、呉勉学校とある。書名は「東垣先生此事難知集」に作る。
A「湯@」本 研医会図書館・武田杏雨書屋所蔵。
B「湯A」本。
C「湯B」本。
D「湯C」本。

 以上のうち、元刊@A本、明刊@本、日本@本の刊年は、いずれも未見につき真偽不詳。いま目録の記載にしたがった。また東垣十書本の諸版については、別稿の「『東垣十書』解題」を参照されたい。

 今回の影印復刻にあたっては、『脾胃論』と同理由により、矢数道明氏所蔵の日本刊D本を底本に選択した。
 

五、師弟関係

 王好古前後の師弟関係は、かつて任応秋が易水学派として作図している。しかし直接の師事系統は不完全なので、私見を交え左のように作図した。
 

注と文献

[1]真柳誠ら「漢方古典文献解説26 金代の医薬書(その二)」、『現代東洋医学』一〇巻四号、一九八九。

[2]王好古『陰証略例』、陸心源『十万巻楼叢書』本(厳一萍『百部叢書集成』影印収録)、一八七九。

[3]多紀元胤『(中国)医籍考』(北京・人民衛生出版杜、一九八三)六七四頁の引く、『伊尹湯液仲景広為大法』の王好古題辞には、好古の字を「信之」と記す。そのためこの字を採用する解説書は多いが、これは「進之」の誤写であろう。

[4]前掲注[3]所引文献、六七五頁。

[5]任応秋『中医各家学説』七六頁、上海科学技術山山版杜、一九八○。

[6]李濤「金元時代的医学」、『中華医史雑誌』一九五四年第二号。

[7]前掲注[3]所引文献、六七四頁。

[8]崔掃塵ら「湯液本草校点記」、『(点校)湯液本草』一九五頁、北京・人民衛生出版社、一九八七。

[9]羅天益『衛生宝鑑』三五六頁、北京・人民衛生出版社、一九八七。

[10]『衛生宝鑑』の硯堅序(一二八一)は、羅天益が元素や東垣の本を少なからず刊行している、という。

[11]『湯液本草』と『医学啓源』間の同文類文は、一部の篇名を異にする。

[12]岡西為人『本草概説』一八○頁、大阪・創元社、一九七七。

[13]岡西為人『中国医書本草考』一六〇頁、南大阪印刷センター、一九七四。

[14]前掲文献[5]、六五頁。