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真柳誠「『素問玄機原病式』『黄帝素問宣明論』解題」
『和刻漢籍医書集成』第2輯所収、東京・エンタプライズ、1988年9月

『素問玄機原病式』『黄帝素問宣明論』解題

真柳 誠






一、劉完素について

 金元四大家の一人で、両書の著者・劉完素の伝は、『金史』本伝に見える。ただし記載は簡略で、河間(今の河北省河間県)の人であり、字を守真、号を通玄処土と称したこと。著書に『運気要旨論』『精要宣明論』『素問玄機原病式(以下『原病式』と略す)』の三書があり、それらは異人の陳先生に勧められた酒に酔った後、悟りを得て著したこと。および凉剤を好み、心火を降して腎水を益する治療を主としたこと、などが記されるのみである。しかしながら、彼の生没年代や著書・事跡などの詳細は、諸書の序跋文などからある程度窺うことが可能である。

〔生没年代〕

 劉完素の晩年の著『素問病機気宜保命集』(以下『保命集』と略す)には、金・大定二十六年(一一八六)の自序[1]がある。当序文は本人が年号を記した最後のものである。それによると、彼は二十五歳で『内経』の研究を志し、三十余年間研鑽の後に当書を完成したという。すると一一八六年の年齢は五十五〜六十歳となり、生年は逆算しておよそ金の天会四年から十年の間(一一二六〜三二)と推測される。なお生年を一一一○年とする説[2]、約一一二〇年とする説[3]、一二二六年以前とする説[4]もあるが、根拠はいずれも薄弱か明記していない。

 一方、李湯卿の『心印紺珠経』(一三六八前)には、金の章宗皇帝(一一九〇〜一二〇五)が劉完素を三回徴召したが受けず、それで高尚先生の号を授けた、という逸話が記される。同様の記述は馮惟敏の「重刻劉守真先生宣明論序」(一五六九)にも見え、章宗皇帝の徴召は承安年間(一一九六〜一二〇〇)という。ならば劉完素は承安年間にも健在であり、没年は一二〇〇年以降、享年は少なくとも六十九以上と推測されよう。なお、河北省河間県劉守(真)村には彼の墓と墓碑があり、その写真(図1)がかつて報告されている。また同地にはかって「劉翁廟」とその中に完素の像があったが、それらは日本軍が破壊したとのこと。さらに同県の学東には万暦四十二年(一六一四)建立の「高尚劉守真君廟碑」、同省の保定市には「劉守真廟」があり、北京や鄭州の「薬王廟」にも完素の像が祀られている。しかしその後に文化大革命を経ているので、現況は不詳である。
 

〔著者と成立年代〕

『原病式』

 本書は劉完素の最も早い著作と目される。これは本書の初刊に際し、友人の程道済が寄せた序文(一一八二)より推定し得る[5]。当序によると、程道済は天徳四年(一一五二)に腰脚疼痛を患い、二年間苦しんだ後、完素の高弟・董系の治療で治癒した。そして董系に医術を麻学び、『原病式』を入手、その後に劉完素と知りあったという。つまり董系の治療を受けた一一五四年の少し後に、『原病式』はすでに成っていたらしい。完素の推測生年からすると、当時彼は二十代後半から三十代前半となる。これは『保命集』自序に「二十五歳で『内経』研究に志した」と記すこととおよそ符合する。

 ところで程道済の序文には、彼が出張先の{(刑−リ)+(郁−有)}台で面識を得た孫執中の要望と援助により本書を刊行する、と大定二十二年(一一八二)に記されている。すなわち、その成立から初刊まで、約三十年の期間があることになる。一方、本書の劉完素自序は記年がなく年代不詳であるが、そこには後述の二書名も挙げられている。したがって当自序は、成立時ではなく刊行直前に書かれたものである。そしてこの間、内容にもいくらかの修訂が加えられたであろうことは想像に難くない。とすれば本書の最終的な成立年は初刊の一一八二年、彼が五十代前半の頃としてもよかろう。

『内経運気要旨論』

 『拝経楼蔵書題跋記』に記録の元版『(校正)素問精要宣明論方』には、大定十二年(一一七二)の劉完素自序がある[6]。そして当序には「僕今詳『内経』編集運気要妙之説。七万余言。九篇分為三巻。謹成一部。目之曰『内経運気要旨論』。備聖経之用也」、と記されている。これより推せば『内経運気要旨論』三巻の成立は、彼が四十代前半の一一七二年以前と知られよう。他方、前述の『原病式』自序でも「編集運気要妙之説。十万余言。九篇三部。勒成一部。命曰『内経運気要旨論』。備見聖経之用矣」、と同様のことを記す。ただし「勒(刻)成一部」。というので、本書は『原病式』より先に刊行されていたことが了解できる。すなわち本書の初刊は一一八二年以前、と推定可能である。

 しかし、この九篇三巻の初刊本は早くに失われたらしい。現存するのは元版の『(新刊)図解素問要旨論』と称する八巻本(静嘉堂文庫所蔵)が最古で、同書には金刊本もあったことが記録[7]に見える。当書には劉完素と直弟子の馬宗素の序(いずれも記年はない)があり、それによると馬宗素が原本の九篇三巻に図解等を加え、九巻本に重編したらしい。その後さらに八巻本となった所以は、巻四に第四篇と第五篇を重複するためである。また馬宗素が重編した年代も不詳だが、前述の元版『(校正)「素問精要宣明論方』には「大定乙亥古唐馬□□序」も前付すると記録されている[6]。もしこの「馬□口」が馬宗素ならば、彼が三巻を九巻に重編したのは「大定乙亥」と近い年代と推測されよう。ただ困ったことに、大定年間には「乙亥」の干支年がない。つまり「大定」か「乙亥」のいずれかが誤記であり、本来は大定「己亥」(一一七九)か「嘉定」乙亥(一二一五)であったとも思われる。ともあれ、これ以上の憶測を重ねてもさほど意義はあるまい。

『黄帝素問宣明論方』

 本書(以下『宣明論』と略す)の現存最古版は前述の元刊本(中国中医研究院図書館所蔵)である。その自序には大定十二年(一一七二)の記年があるので、本書の成立はその年となる。また『保命集』自序(一一八六)には、「刊于世者。已有『宣明』等三書」と述べるので、本書の初刊はこれ以前と知れる。なお本書の書名と巻数は現行本まで数度の改変を経ているが、これについては後に詳述したい。

『習医要用直格』

 前述の『原病式』程道済序(一一八二)には[5]、「而又述『習医要用直格』並薬方。已板行於世」の記述がある。したがって、本書は一一八二年以前に刊行されていたと分かる。しかし本書に自序は伝わらず、他の序文等も本書に言及しないので、その成立も一一八二年以前としかいえない。もちろん、この金の初刊本も現存しない。

 本書の現存最古版は、元の皇慶二年(一三一三)に妃山陳氏書堂が刊行した『(新刊)劉河間傷寒直格』全六巻(静嘉堂文庫所蔵)に収められる三巻本である。それには劉完素の弟子と思われる無名氏(一説に{櫂−木}公)の序がある。これによると、完素は当書を十巻としたかったがはたせず、未刊としていたが、太原の劉生という書店の求めにより刊行することにしたという。するとこの無名氏序は、もと金の初刊本のものであろう。さらに当序の後には「臨川葛雍校正。建安虞氏刊行」とあり、前半五巻の巻頭には「臨川の葛{癰−ヤマイダレ}(字は仲穆、号は華蓋山樵)編校(又は校正)」と記されている。なおかつ、当書の構成は前半三巻が『習医要用直格』、第四巻目は「新刊劉河間傷寒直格後集」と記す{金+留}洪著『傷寒心要論』一巻。第五巻目は「新刊劉河間傷寒直格続集」と記す馬宗素著の『傷寒医鑑』一巻。そして第六巻目は「直格別集」と記す『(新刊)張子和(傷寒)心鏡』一巻で、これだけは張子和の門人・常仲明の編となっている。

 以上の構成・書式および序から見て、当元版に至る経緯は以下のように考えられる。一一八二年以前に劉生が刊行の『習医要用直格』三巻を基に、完素の弟子の著作二書を「後集」「続集」として付加し、葛雍が『劉河間傷寒直格』全五巻に編集し、建安の虞氏より刊行。さらに妃山の陳氏書堂がこれに張子和の『傷寒心鏡』一巻を「別集」として付加し、一三一三年に刊行したのが当『(新刊)劉河間傷寒直格』全六巻ということになる(2001,3,14補記 天理図書館所蔵の元版(戊辰-1328?仲冬建安翠巖精舎刊)『傷寒論直格』も同様の編成)。この元版は明代にも二度翻刻され、また『医統正脈全書』(一六〇一)にも全体が収められている。しかしそれ以降、本来は叢書名である『傷寒直格』が『習医要用直格』の代わりに通用し、現在に至っている。

 なおわが国でも本書は享保十一年(一七二六)翻刻されているが、上述の『医統正脈』本を底本とするので、書名を『傷寒直格』に作っている。

『保命集』(図2)

 本書には大定二十六年(一一八六)の劉完素自序[1]があるので、成立は彼がおよそ五十代後半の一一八六年とし得る。しかし当序文に「秘之篋笥。不敢軽以示人」と記すように、家秘とされ生前は刊行されなかったらしい。本書にはまた、憲宗元年(一二五一)に楊威(政亨)が記した刊行の序がある[8]。これによると楊威は天興元年(一二三四)に金に赴き、太医の王慶先宅にて本書を発見。早くより『原病式』『宣明論』『直格』の三書には親炙していたが、完素が没後の今も本書は未刊であるので、これを刊行すると述べている。したがって本書は成立の六十五年後、一二五一年の蒙古の時に初刊されたことが知れる。本書はその後、元・明・清の各代に亘り翻刻されている。とりわけ明の宣徳六年(一四三一)刊本は、明・太祖の第十六子、寧王の朱権が自ら序を草し、上梓させたことで著名である。なおわが国では本書の翻刻がなされなかったらしく、和刻版は現存していない。

 因みに本書は劉完素の著ではなく、自序も偽撰にかかり、本来は張元素(潔古)の著作であろう、とする説がある。これは李時珍が『本草綱目』の序例で初めて述べ、以後清末まで当偽書説は信じられていた。しかし当説は、『済生抜粋』(一三一五)所収の『潔古家珍』および李東垣(潔古の門人)著『活法機要』に、『保命集』と酷似する記述の多いこと。また『済生抜粋』には、『保命集』と類似名の雲岐子(潔古の子)著『保命集論類要』も収められていることで、李時珍が混乱し曲解したものといえる。当説に対し、多紀元胤はかつて『医籍考』に仔細な考証と反論を述べており、現在は中国でも元胤の非偽書説が支持されている[9]。

『三消論』

 本書の現存最古版は金刊『張子和医書』全十二巻(静嘉堂文庫所蔵)の書末に附刻の、『劉河間先生三消論』一巻である。当書はその書名下に細字双行で「図在前。此書未伝於世。恐為沈没。故刊而行之」と刻入され、末尾には錦渓野老が甲辰年(一二四四)に記した刊行の跋文がある。

 これによると、麻徴君(麻九疇、張子和の友人)は{サンズイ+卞}梁(今の河南省開封県)に劉完素の後裔を訪ね、そこで世に知られていない『三消論』『気宜病機(『保命集』?)』の遺著を得た。このうち『三消論』のみは巻首に「六位蔵象」の二図が増写されるだけで、特に潤色はされていない。徴君はそこでこれを友人の穆子昭(完素門人の穆大黄の子)に渡し、さらに子昭より私がこれを得た。その後、私は兵火でこれを失ったが、偶然に同郷の霍司承君宅にて再び録写できたので刊行する、という。

 当跋文より本書は一二四四年が初刊と分かるが、それが単行であったか、張子和の書に附刻されたかは定かでない。また跋文以外に資料がないので、その成立年は不詳である。

 本書はその後、明の『医統正脈全書』に収められる十五巻本『儒門事親』の巻十三とされ、以降に伝えられている。また清末の『周氏医学叢書』第二集(一九一一頃)には、本書の周学海注釈本も収められている。

『保童秘要』

 本書について『医籍考』は「劉氏完素 保童秘要 二巻存」[10]と記すが、他に説明等はない。ただし『躋寿館医籍備考』は本書に「医方類聚採輯本」[11]と注記するので、『医籍考』記載書は朝鮮の『医方類聚』(一四四五)所引の佚文を採録したものと知れる。

 いま『医方類聚』小児門の各処に見える『保童秘要』の引用文を験するに、完素の医説や方論の反映はほとんどなく、民間の験方と思われるものが主である。したがって、本書は劉完素に仮託した書の可能性も考えられる。しかし『医方類聚』には、現在すでに散佚の元以前の書が少なからず引用されているので、本書が劉完素の遺著である可能性も否定はできない。

『傷寒標本心法類萃』

 本書二巻は、明の呉勉学が編纂の『古今医統正脈全書』(『劉河間医学六書』を含む)に完素の著として収められ、今日に伝えられている。ただし序文等もなく、呉勉学がこれを完素の書とする根拠は不明である。内容は前述の『習医要用直格』(『傷寒直格』)と類似点が多く、門人の書が後に完素の作とされたもの、と一般に考えられている。本書は『医籍考』にも載るが[12]、多紀元胤はそこに著者名をあえて記していない。そして同書の『傷寒直格』条に附記し、「若『傷寒標本』味其旨趣。覚非完素所撰」、と疑いをかけている。以上の他、完素の作として『霊秘十八方』『河間劉先生十八剤』『治病心印』『劉河間医学』の書を挙げる記録も見えるが、真偽のほどは定かでない。
 

〔事跡〕

 劉完素については二つのエピソードが残されている。一つは友人の程道済が『原病式』の初刊に寄せた序文(一一八二)に初めて紹介されたもので、後に本人も『保命集』自序(一一八六)で簡単に触れている話である。両者の話を合わせると、大略は以下のようになる。

彼は幼年より千経百論の医書を読破したが得るものが少なく、いずれも道を極める書ではないことを知った。そこで二十五歳より「内経」に志し、三〜五年間(自序は「六旬」という)は寝食を忘れて『素問』一書に没頭し、必ずやその奥義に至らんことを期した。ある日、難解の義を静室にて沈思黙考していたところ、夢を見ているように意識がかすんできた。すると門より二人の道士(自序は「天人」という)がやって来て、とちの木の椀に似た小さな盃で美酒を勧める。飲んでみると盃にはまた酒があり、二三十回くり返しても飲みつくせない。すると道士達は笑って、「飲みあきたら盃に吐き出せばよい」といい盃の酒を瓢箪に注ぎ戻した。道士が出てゆくと突然意識が回復したが、顔は赤くてまだ酒の香も残り、フワフワとしている。急ぎ内外に道土を追ってみたが、その姿はもう見えなかった。その後、心霊は大いに開悟を得、治療は百発百中となり、また『内経運気要旨論』『宣明論』『習医要用直格』『原病式』などを著すことができた、という。
 いま一つは『金史』張元素伝などに記されるエピソードで、次のような内容である。
進士に失敗して医者となった張元素(潔古)がまだ無名の頃、誰かが大斧で胸を開き数巻の書を入れる夢を見て以来、医術に洞徹するようになつた.そこである時、劉完素が傷寒を八日も患い、なすすべもないことを聞きつけ、会いに行った。ところが完素は背を向けてとりあわない。だが元素が立腹したので脈だけ診せたところ、元素は「脈は云々、某薬某味を服したのでは」と問う。「然り」と答えると、元素はすかさず「子誤れり。その薬味は性寒。下降して太陰に走り、陽を亡すので汗を出せず、そのような脈となっているのである。これには某薬を服せば必ず効あり」と述べた。完素は大いに感服し、その通りにしたところ、病は遂に癒えた。そしてこれを契機に、張元素の医名が高まったという。
 以上の二話にいかほどの信憑性があるかは別として、当時を代表する劉完素・張元素の二人が、共に霊的体験から医術に開悟したと公言することは、彼らの医学思想の背景をなすものとして誠に興味深い。
 

〔家系および門人〕

 劉完素の後裔が一二四四年前に開封に居たことは『三消論』の跋文より知れるが、その名は記されていない。ところで李湯卿の『心印紺珠経』に寄せた朱ヒの序文によると[13]、その家系は劉完素−劉栄甫−劉吉甫と続いている。そして吉甫の門下に燔陽坡と太医の王東平があり、朱ヒの父は王東平と李湯卿に学んだという。このことから、劉完素の家系は、少なくとも三代目まで医家として門人を擁していたことが理解されよう。

 なお前述した完素の著書の序文等より、彼に直接師事したと分かる門人を挙げると以下のようである。

董系
 『原病式』の程道済序に見え、一一五四年頃に程道済の治療をしたというから、完素に早くから師事していたと思われる。完素の高弟であり、すでに一一五三年の時に医名が高く、百発百中の臨床手腕で三十余年山間に傷寒だけでも四、五千人を治したと記される。

程道済
 『原病式』の序によると、本職は官僚であり、一二八二年には安国軍節度使の職にあった。まず董系に就き、後に劉完素の友人となる。一一八一年に{(刑−リ)+(郁−有)}台へ出張の時、当地の医者に『素問』を講義したなど、出張の各地で『原病式』を使って教授していたというから、相当に完素の医学に通じていたと思われる。

馬宗素
 平陽(今の山西省臨汾県の南西)の出身。完素の『内経運気要旨論』三巻に図解等を加え、『図解素問要旨論』九巻に改編、序を草して刊行している。また自著には『傷寒医鑑』一巻がある。劉完素は『内経運気要旨論』の自序に馬宗素の名を記すので、直接の門人であろう。

穆大黄
 『三消論』の錦渓野老跋文に、張子和の友人・麻九疇の友人である穆子昭の父、と記される。大黄は明らかに号で、大黄などの攻下薬を多用したことに因むと思われるが、名・字等は不詳。

荊山浮屠
 『明史』列伝に、「戴思恭(中略)受学於義烏朱震亨(中略)又学医於宋内侍銭塘羅知悌。知悌得之荊山浮屠。浮屠則河間守真門人也」とあるので、完素の弟子と知れる。なお「浮屠」は後に仏陀とも書かれるブッダの音写なので、仏僧であろう。

{櫂−木}公
 『習医要用直格』には無名氏の序があり、内容より撰者は完素に直接師事した門人と考えられる。また馬宗素の『傷寒医鑑』に引かれる{櫂−木}公の言葉は、当序文の「如宵行冥冥迷不知径。忽遇明燈巨火云々」と酷似している。したがって序文の撰者は{櫂−木}公で、完素の弟子かと疑われる。なお岡西氏は{櫂−木}公を大定年間初に尚書左丞を拝した{櫂−木}永固(字・仲堅)かと推測するが、その根拠は記していない[14]。

 以上の六名の他、『習医要用直格』と合刊された『傷寒心要論』一巻の著者である{金+留}洪、またそれらに馬宗素『傷寒医鑑』を加えて校刊した葛雍({癰−ヤマイダレ})も完素の門人かと目されるが、確定的資料は残されていない。

 なお任応秋氏は名著『中医各家学説』で、完素の学術に連なる医家達を「河間学派」と名付け、その系統図を作成している[15]。これに上述の内容を補足すると図3のようになる。

〔年譜〕

 以上、劉完素の生没年代・著者・事跡・家系と門人について述べてきたが、これらを年譜にまとめるとおよそ左記のようになろう。

 一一二六〜三二   〇出生。名・完素、字・守真、号・通玄処士、通称・河間。
           〇二十五歳で『内経』研究を志し、その後に霊的体験より開悟する。
 一一五四頃      ○『原病式』成立(二十代後半〜三十代前半)。
 一一七二以前     ○『内経運気要旨論』成立。
 一一七二       ○『宣明論』成立(四十代前半)。
 一一八二以前     ○『内経運気要旨論』初刊、『習医要用直格』成立・初刊。
 一八八二       ○『原病式』初刊(五十代前半)。
 一一八六以前     ○『宣明論』〉初刊。
 一一八六       ○『保命集』成立(五十代後半)。
 一一九六〜一二〇〇 ○金・章宗帝の徴召に出仕せず、高尚先生の号を受く。
 一二〇〇以後     ○没(享年六十九以上)。
 一二三四       ○楊威が『保命集』を発見。
 一二四四        ○『三消論』初刊。
 一二五一       ○『保命集』初刊。
 

二、『原病式』について

 先に述べたごとく、『原病式』は一一五四年より少し後には成立していたと目され、劉完素の最初の著作と考えられる。ただしその初刊は一一八二年で、『内経運気要旨論』や『習医要用直格』よりも遅く、この間に幾分の修訂等はなされたものと思われる。まず現代までの本書の版本を記す前に、本書の構成と内容について簡単に触れておこう。
 

〔構成と内容〕

 本書の自序末に、劉完素は「今特挙二百七十七字、独為一本。名曰素問玄機原病式。遂以比物立象。詳論天地運気造化自然之理。注二万余言。仍以改証世俗謬説」と述べている。すなわち、『素問』の五運六気による診察の枢要を二七七字のキーワードに整理し、それに二万余字の注釈を加えたのが本書である。

 現行本では序と本文の間に当二七七字を「素問玄機原病式例」と一括して、五運主病・六気為病の二類に大字で記され、本書の目次の役割もはたしている。これは五運の肝木・心火・脾土・肺金・腎水の五条と、大気の風・熱・湿・火・燥・寒の六条からなり、本文はこの計十一条の順に論説がなされている。

 ところで劉完素が当十一条二七七字に整理したキーワードは、主に『素問』至真要大論篇の「病機十九条」と呼ばれる部分を骨子としている。これは「帝曰。願聞病機何如」という黄帝の問いに岐伯が答える形式で記され、@諸風掉眩皆属於肝、A諸寒収引皆属於腎、B諸気鬱皆属於{月+賁}鬱皆属於肺、C諸湿腫満皆属於脾、D諸熱{(務−力)+目}{ヤマイダレ+キ+刀+心}皆属於火、E諸痛痒瘡皆於心、F諸厥固泄皆属於下、G諸痿喘嘔皆属於上、H諸禁鼓慄如喪神守皆属於火、I諸痙項強皆属於湿、J諸逆衝上皆属於火、K諸脹腹大皆属於熱、L諸躁狂越皆属於火、M諸暴強直皆属於風、N諸病有声鼓之如鼓皆属於熱、O諸病{月+付}腫疼酸驚駭皆属於火、P諸転反戻水液渾濁皆属於熱、Q諸病水液澄K清冷皆属於寒、R諸嘔吐酸暴注下迫皆属於熱、の十九条よりなる。

 以上を整理すると、五臓各一条・上下各一条・火五条・熱四条・風寒湿各一条であり、六気の燥については記載がない。そこで劉完素は燥について、「病機十九条」以外から別個にキーワードを作成している。なお完素が挙げるキーワード十一条は必ずしも「病機十九条」を忠実に引用しているわけではなく、省略や病症の増補はかなりに上る。

 さて本書の主眼は五蔵や六気の病症が、全て火熱証に帰結することの論説にある。したがって前半の「五運主病」では、解釈し易い肝木・心火の説明は多いが、解釈しようのない腎水については一行しか説明がない。ただし本書の主体は後半の「六気為病」にある。そして「六気」のうち、火・熱・燥により火熱証が生ずることは説明し易いが、風・湿・寒と火熱証の関係については五行の相生・相克や陰陽説を駆使した強引な解釈も少なくない。とはいうものの、例えば「風本生於熱。以熱為本。以風為標。凡言風者熱也。熱則風動」などのように、後世の温病理論に採用される説も提起している。劉完素はこれら六気による病症を述べる一方、治法についても言及している。ただそれらは原則の論説に止められており、具体的な処方運用等については『宣明論』にゆずり、本書をコンパクトな医論書にしようとした完素の意図が窺われる。
 

〔版本〕

 『原病式』の初刊本(一一八二)はすでに伝わらず、現存するものではおよそ以下の諸版が知られている。

中国刊本

(1)明・宣徳六年(一四三一)刊『河間全書(劉河間傷寒三書)』所収本 陜西省図書館・上海第二医学院図書館所蔵。刊年から見て当版は寧王・朱権の刊にかかるものであろう。

(2)明・嘉靖元年(一五二二)刊本 中国中医研究院図書館所蔵。

(3)明・嘉靖七年(一五二八)序、余氏正填堂刊本 国立公文書館内閣文庫所蔵。当版は二巻本である。

(4)明・嘉靖十四年(一五三五)刊本 南京図書館所蔵。

(5)明・嘉靖年間頃刊本(図4) 台北国立中央図書館・中国中医研究院図書館所蔵。当版には無記年の無名氏による刊行の序がある。また前述の「原病式例」を欠き、五運主病から六気為病の熱類までを上巻に、湿類以下を下巻に作る。

(6)明・万暦十三年(一五八五)刊『劉河間傷寒三書』所収呉継宗校本 国立公文書館内閣文庫・中国中医研究院図書館ほか所蔵。当版は書名に「新刊注釈」を冠する二巻本で、明の薛時平の注釈が加えられている。

(7)明・万暦二十九年(一六〇一)刊『医統正脈全書』中「劉河間医学六書」所収本 国立公文書館内閣文庫ほか所蔵。

(8)明・万暦年間懐徳堂刊『劉河間傷寒三書』所収本 上海中医学院図書館所蔵。

(9)清・新安程氏刊『劉河間傷寒三書』所収本 中国・鎮江市図書館所蔵。

(10)清・同徳堂刊『劉河間医学六書』所収本 上海中医学院図書館ほか所蔵。

(11)清・光緒三十三年(一九〇七)京師医局修補刊『医統正脈全書』所収本 中国中医研究院図書館ほか所蔵。当版は清の江陰・朱文震の翻刻版を修補したもので、現在は台湾の新文豊出版公司がその影印版を出している。
 
(12)清・宣統元年(一九〇九)千頃堂書局石印『劉河間医学六書』所収本 現存多数。

(13)中華民国二年(一九一三)上海・江左書林石印『劉河間医学六書』所収本 南京中医学院図書館ほか所蔵。

(14)中華民国二十四年(一九三五)商務印書館刊『叢書集成初編』所収鉛印本 現存多数。

(15)一九五六年北京・人民衛生出版社影印本(明版『古今医統正脈全書』所収本)。

(16)一九八三年北京・人民衛生出版社鉛印注釈本。

(17)一九八五年江蘇科学技術出版社鉛印校注本。

朝鮮刊本

(18)粛宗・英祖間(一六七五〜一七七六)頃刊本 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。当版は書名に「新刊注釈」を冠する二巻本で、本文巻頭に「河間劉守真撰集、魏博薛時平注釈、南州劉一杰校正、繍谷呉継宗重訂、金谿呉起祥刊行」と記す。恐らく中国の(6)刊本の系統を底本に、朝鮮で翻刻されたものと思われる。

日本刊本

(19)元和二年(一六一六)会通館刊古活字本 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。当版の本文巻頭には「河間 劉完素 守真 述/太医院医士 周紘済広 校正」と記されている。

(20)元和六年(一六二〇)刊古活字本 川瀬一馬『古活字版の研究』所載。刊記は元和二年に作るので、あるいは(19)本と同版か。

(21)寛永三年(一六二六)梅寿刊古活字本 前掲『古活字版の研究』所載。版式は四周双辺、無界、半葉十一行・行二十字。

(22)寛永七年(一六三〇)梅寿刊本 研医会図書館所蔵。当板は書名に「会通館翻印」を冠するので、(19)本を整版に翻刻したもの。

(23)慶安四年(一六五一)村上平楽寺刊本 研医会図書館所蔵。当版は饗庭立伯(東庵)が校訂・句読点・補注を加えた五巻本(補遺一巻)で、書名に「重校補註」を冠し、本文中には細字で割注が加えられている。慶安三年の東庵跋文によれば、当版は和刻旧版と医統正脈本を底本に校訂している。

(24)万治二年(一六五九)吉野屋権兵衛刊本 北里東医研書庫・武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。当版は前掲(22)の後印本である。

(25)延宝五年(一六七七)武村新兵衛刊本 北里東医研書庫・東京大学総合図書館ほか所蔵。当版は跋文(図5)によれば、浅井周璞(正純、一六四三〜一七〇五)が医統正脈本を底本に、訓点を施し翻刻したもの。浅井周璞は尾張医学館を主宰した浅井家の内経学の祖とされ、前掲(23)の校注者・饗庭東庵の弟子である味岡三伯に学んだ。同門には後掲(26)本の校注者・岡本一抱がいる。なお当版の版木による後印本が、後の『医家七部書』や『校正医家十部書』に収められている。

(26)元禄三年(一六九〇)秋田屋五郎兵衛刊 国会図書館・東北大学附属図書館・武田科学振興財団杏雨書屋・神宮文庫所蔵。当版は前掲(25)本を校訂した浅井周璞と同門の岡本一抱(為竹)が、鼇頭注を欄外に加え校訂した二巻本である。

(27)元禄八年(一六九五)吉村吉左衛門刊本 東京大学総合図書館所蔵。当版は書名に新刊注釈」を冠する二巻本で、薛時平の細字割注があり、劉完素序の他に程道済の序も前付する。したがって中国版の(6)本の系統を底本に翻刻したものと思われる。

(28)元禄八年(一六九五)芳野屋徳兵衛刊本 国立国会図書館・大阪府立図書館所蔵。

(29)宝永八年(一七一一)芳野屋作十郎・吉野屋権兵衛刊本 岡山大学図書館・国会図書館(「医書七部書」の内)所蔵。当版は書名に「会通館翻印」を冠する前掲(22)本の後印本である。

 以上、中国版十七種・朝鮮版一種、日本版十一種の計二十九版種の現存を数えることができたが、中国版にはあと数種の版本があるかもしれない。これらは大きく分けて無注の二巻本、無注の一巻本、薛時平注の二巻本の三系統があり、いずれも本文は同一であるが各々に程道済序と「原病式例」の有無が相違する版本がある。なお本書の刊行は明代と江戸初期に盛んであり、それらの時期に本書が流行したことを物語っている。

 今回の影印復刻にあたっては、訓点の刻された最古の和刻本として、研医会図書館所蔵の寛永七年・梅寿刊本を底本に選択した。
 

三、『宣明論』について

 前述のごとく本書の成立は一一七二年、初刊は一一七六年以前であるが、その後の翻刻・伝承により書名や巻数に変化が生じているようだ。そこで通行本の構成と内容および版本について述べる前に、まず本書の書名・巻数の変遷について考えてみたい。
 

〔書名・巻数の変化〕

 本書の通行本には劉完素の自序がないが、『拝経楼蔵書題跋記』に著録の元版に付された自序[6]には、「対病論証処方之法。本草性味猶恐後学難為駆用。復宗長沙太守仲景之書。廼為一帙。計十万余言。目曰素問薬証精要宣明論方云々」と記されていやる。また『原病式』の自序では、「乃為対病臨時処方之法。猶恐後学未精貫者。或難施用。復宗仲景之書。率参聖賢之説。推夫運気造化自然之理。以集傷寒雑病脈証方論之文。一部三巻十万余言。目曰医方精要宣明論云々」という。この『医方精要宣明論』の書名は、『原病式』の程道済序中にも見える。

 つまり本書を劉完素は『素問薬証精要宣明論方』と称する一方、『医方精要宣明論』とも記している。また当初のそれは十万余言の三巻本であったことが分かる。ところで中国中医研究院図書館所蔵の元刻本は書名を『(校正)素問精要宣明論方』に作る七巻本である。したがって金の初刊本からこの元版までの間に、書名がこのように変化し、巻数も三巻から七巻に改められたものと思われる。ただ元版を実見に及んでいないので、この段階で内容の増補があるか否かは不詳である。

 次に古い現存版本は明の宣徳六年(一四三一)刊の『河間全書(劉河間傷寒三書)』所収本で、当版は書名を『黄帝素問宣明論方』に作る十五巻本である。そして以後の現存版本は、全て書名・巻数ともにこの宣徳刊本と同様である。すなわち元の七巻本かち宣徳刊本の間に、内容もさらに増補されたものと思われる。『四庫全書提要』も指摘するように、当増補の痕跡は通行十五巻本の目次や本文の注記からも窺える。例えば目次では巻三の菊葉湯と薄荷白檀湯、巻四の妙功蔵用丸、巻十二の{艸+畢}澄茄丸・補中丸・楮実子丸の下に細字で「新増」の注記が見える。また本文では巻九の半夏瓜{艸+婁}丸・三黄丸と巻十五の一酔烏法上に「新添」の二字が記されている。これら以外にも増補はあるかもしれないが、ともあれ本書は初刊から明代の間に少なくとも二段階を経て書名・巻数が現行のように変化したことが知られよう。
 

〔構成と内容〕

 先に掲げた本書や『原病式』の自序に劉完素が述べるごとく、本書は初学者が病を論じて方を処す方法について、張仲景の方論を宗に『素問』『黄帝針経(今の『霊枢』)』などの説を引いて編成されている。

 『医統正脈全書』所収本など通行の十五巻本では、巻一〜二に『素問』所載の六十一病証に対する計六十九処方。巻三〜十五は風論から雑病門までの全十八門に分けられ、本書全体では計三百六十一処方が記載されている。このように病門別にまず医論、次いで処方を載せる形式は方書として特に珍しいものではない。ただし全ての医論部分に『素問』など「内経」医書を引き、その旨をさらに発展させて論述する姿勢は、治療処方がほとんど記されない「内経」を補充しようとする、完素独自の世界といえよう。

 さて完素は寒涼派の開祖と称されるが、本書の処方中で黄連解毒湯のような純然たる寒涼剤は三十九方、呉茱萸湯のような温熱剤は四十四方で、他は寒熱薬の併用や地黄飲子のごとき平和剤となっている。つまり必ずしも全てが寒涼剤ばかりではない。しかし当時広く用いられていた『和剤局方』に比べるならば、本書所載の寒涼剤は相当に増加している。そして完素が『原病式』で提起した火熱病論、またそれに対する本書の治療処方は、後代の温病学説形成の前段として歴史的意義が大きい。
 

〔版本〕

 本書の朝鮮刊本は知られておらず、現存本は以下の中国と日本の版本に限られている。

中国刊本

(1)元刊本 中国中医研究院図書館所蔵。当版は書名を『(校正)素問精要宣明論方』とする七巻本。『経籍訪古志』にはかつて浪華の木村蒹葭堂にも元版があり、柴田元篤がそれを借りて校定したと記録するが、現在の所在は不詳である。

(2)前掲『原病式』の(1)所収本。当版以後は全て十五巻本である。

(3)明・正統間(一四三六〜一四四九)刊本 中国中医研究院図書館所蔵。

(4)明・隆慶三年(一五六九)保定知府・賈大夫刊本 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。当版の馮惟敏序には、賈大夫が保定に着任した後、俸金して施策し人身を救ったが、あるとき馬志坤という医者から本書を入手したので、校正を命じて捐俸し刊行したと記されている[16]。

(5)明・万暦十三年(一五八五)金陵・呉諌刊本 南京図書館所蔵。当版は前掲(3)本を底本に、呉継宗校定の『劉河間傷寒三書』中に『原病式』『保命集』と共に収められたものである。

(6)前掲『原病式』の(7)所収本(図6)。

(7)前掲『原病式』の(8)所収本。

(8)清初・繍谷呉氏刊本 上海図書館所蔵。

(9)前掲『原病式』の(9)所収本。

(10)前掲『原病式』の(10)所収本。

(11)清・光緒二十六年(一九〇〇)上海・千頃堂書局石印『三朝名医方論』所収本 中国中医研究院図書館ほか所蔵。

(12)前掲『原病式』の(11)所収本。

(13)前掲『原病式』の(12)所収本。

(14)清・宣統三年(一九一一)寧波・汲{糸+便}斎石印『三朝名医方論』所収本 中国中医研究院図書館ほか所蔵。

(15)清・年代不詳刊本 北京中医学院図書館・重慶市図書館・東北大学附属図書館所蔵。

(16)前掲『原病式』の(13)所収本。

日本刊本

(17)元文五年(一七四〇)植村藤右衛門等刊本 矢数道明氏・東北大学附属図書館・国立公文書館内閣文庫・北京大学図書館所蔵。当版は上掲(6)の医統正脈全書本を底本に、田中素行が訓点と元文三年の序を加えて刊行したもの。この序によると、本書はかつて日本で翻刻されていなかったが、京都の書店・植村玉枝軒がこれを入手。翻刻するために、田中素行に訓点を付すことを求めてきた。ただしそれには誤刻などで意味不通な部分も多々あったが、後世に臆改の愚を残さぬようそのままにして手は加えなかったという。

田中素行(常沢、得中堂)は浪華の人で、汪昂の『医方集解』に同じく訓点を施し、享保十一年(一七二六)に吉野屋博文堂より翻刻している。また植村玉枝軒は入手した古写本の『厳氏済生方』を基に、甲賀通玄に請いて校訂と訓点を施し、享保十九年(一七三四)に刊行したことで知られる。
 以上『宣明論』の版本について、中国版十六種、和刻版一種を数えることができた。したがって今回の影印復刻にあたっては、唯一の和刻である元文五年版を用い、矢数道明氏蔵本を底本に選択した。なお同書には序文・目次を欠くので、それらは他本により補った。
 

参考文献

[1]岡西為人ら『宋以前医籍考』七二頁、台北・古亭書屋、一九六九。

[2]李聡甫ら『金元四大家学術思想之研究』一頁、北京・人民衛生出版社、一九八三。

[3]裘沛然ら『中医歴代各家学説』六六頁、上海・上海科学技術出版社、一九八四。

[4]丁光迪『中医各家学説・金元医学』九九頁、南京・江蘇科学技術出版社、一九八七。

[5]前掲[1]所引文献、八二〜八四頁。

[6]前掲[1]所引文献、八七頁。

[7]前掲[1]所引文献、六九頁。

[8]前掲[1]所引文献、七二〜七三頁。

[9]前掲[2]所引文献、二〜三頁。

[10]多紀元胤『(中国)医籍考』一二八四頁、台北・大新書局、一九七五。

[11]前掲[1]所引文献、一〇七三頁。

[12]前掲[10]所引文献、五二五頁。

[13]前掲[10]所引文献、九四一頁。

[14]岡西為人「劉完素」、『漢方の臨床』一四巻九号、一九六七。

[15]任応秋『中医各家学説』三九頁、上海・上海科学技術出版社、一九八〇。

[16]前掲[1]所引文献、八八〜八九頁。