←戻る
真柳誠「『金匱要略』解題」、鄧珍本『金匱要略』所収、東京・燎原書店、1988年10月。07-9-29修正

『金匱要略』解題

真柳 誠

一、成立

 一般に『金匱要略』は、現行『傷寒論』の序に記される『傷寒雑(卒)病論』十六巻の雑病部分が単離したもの、あるいはそれに由来する、などと通説されている。そして今の『傷寒論』は十巻なので、これを除く六巻が雑病部分であり、現行『金匱要略』三巻はそれを半分に節略したもの、と説明されることもある。しかし本書の成立に関する資料は『傷寒論』以上に少なく、それを前述のように単純化するのは相当に無理がある。

 そもそも『傷寒論』の張仲景自序とされる文に「雑病」の字句はあるが、「金匱」などの字句はどこにもない。また、そこに記す『傷寒雑病論』十六巻は「傷寒」と「雑病」の論が合編されたものとしても、各々が当時幾巻であったかは不明である。書物の巻数は伝写過程で往々に増減するので、今の『傷寒論』十巻が当時も十巻であったとは断定できない。ましてやそれらのことは、「張仲景自序」の記述を信用した上での議論である。やはり本書の成立・成書も、まず史実に照らして考察されねばなるまい。

 さて『金匱要略』の書名が正史に記録されたのは、元代に編纂の『宋史』芸文志に「金匱要略方三巻、張仲景撰、王叔和集」とあるのが最初で、それ以前の『隋書』や両『唐書』には見えない。むろん『宋史』に記録の書が、後述の北宋政府校正医書局による校刊、つまりいわゆる「宋改」を経たものであることは言うまでもない。したがって本書の成書はもちろん、成立も正確な意味では「宋改」以前に遡りえない。しかしその内容等の淵源と伝承は、ある程度の追求が可能である。

二、淵源と宋以前の伝承 

 現存の資料中、三世紀後半に成立の『脈経』第八巻と『甲乙経』第七巻に、それぞれ現『金匱要略』と対応する文が見られる。ただしそれらは後代の付加とも考えられ、必ずしも当時のものとは断定し難い面がある。

 最も信頼できる早期の記載は南北朝の劉宋時代、西暦四五四~四七三年の間に成立した『小品方』に見られる[1]。当書は日本に遅くとも奈良時代には伝来し、その写本が東京の尊経閣文庫に現存する。現存部の巻一前半は内容的に見ても後代の衍文はまずなく、原本の旧態を保存していると思われる。そこには現『金匱要略』所載と同一、もしくは酷似した方名・構成薬・主治条文が見えるばかりか、巻頭序文には引用書として「張仲景弁傷寒并方有九巻、張仲景雑方有八巻」と明記されている。『小品方』本文中の現『金匱要略』との類似文などが、その序に記す仲景の二書からの引用であるかは未詳だが、少なくとも五世紀後半頃には現『金匱要略』の内容のある部分が流布していたことはこれより確証される。

 七世紀初では、隋代の『諸病源候論』の婦人雑病等の諸篇に、「(張)仲景云」などとして現『金匱要略』の類似文が記されている。『隋書』経籍志にも「張仲景療婦人方二巻」の記録があるので、当時は仲景の婦人病に関する書も単行されていたことが窺える。次いで七世紀中頃では、唐初の『千金方』巻十・傷寒方下に、引用出典こそ記さないが「百合病」「狐惑病」「黄疸病」など、現『金匱要略』とほぼ一致する篇名に類別された対応条文や処方が記載されている。さらに同書の巻二十六・食治には、仲景撰「五味損益食治篇」の序とおぼしき文や、現『金匱要略』の第二十四・二十五篇とほぼ共通する「食禁」(食養上の注意・禁忌)の論が見られる[2]

 『千金方』より約百年後の唐中期(七五二)、王燾が編纂した『外台秘要方』には、『(張)仲景傷寒論』十八巻からの引用文が多く収載されている。恐らく当書は、『唐会要』に記す乾元三年(七六〇)に上奏された医官の試験料目中に、「張仲景傷寒論二道(問)」と指定される書と同一と思われる。その構成を『外台秘要方』の引用文より調べると、『(張)仲景傷寒論』十八巻の内、巻二~八・十が現『傷寒論』と対応。巻十一・十四~十八が、現『金匱要略』と対応している。巻一・九・十二・十三は、その巻次を注記した引用文がないので対応関係は不明だが、およそ前半十巻が現『傷寒論』、後半八巻が現『金匱要略』と対応する内容と推定できる。

 次に現『金匱要略』との対応関係を、その全二十五篇各々について精査すると、計十一篇との対応文がある。『外台秘要方』には『(張)仲景傷寒論』の全文が引用されたわけではなく、これを考慮すれば、当時の『(張)仲景傷寒論』には現『金匱要略』とかなり近似の内容が含まれていたと推定される。しかし両者は篇の順次において殆ど一致せず、したがって直接の伝承関係は認め難い。他方、現『金匱要略』中やや特異な内容の第二十三~二十五篇、つまり「雑療方」と「食禁」の対応文は『(張)仲景傷寒論』から一切引用されていない。代わりに別の『仲景(方)』や、それを引用した『張文仲(方)』からのみ『外台秘要方』に引用されている。このことからも、現『金匱要略』は唐代の『(張)仲景傷寒論』に直接由来するものではないことが傍証されよう。

 以上を要するに、後漢末頃に仲景が著したとされる『傷寒雑病論』十六巻の雑病部分に、現『金匱要略』が由来するという解釈はいまだ仮説にすぎず、現在のところ極く一部の内容が『小品方』の劉宋時代まで遡れるだけである。また相互の伝承関係を明らかにしえないが、『諸病源候論』『千金方』『外台秘要方』などに引かれた佚文より、六朝から唐中期にかけて仲景の雑病に関する論や処方の書が、引用や単離・統合などの複雑な伝承をくり返しながら、徐々に現『金匱要略』の原形に近い姿となってきたことが推測されよう。しかしこれとてわずかな現存資料からの推測の域を出ず、確定的なものではありえない。

三、北宋政府による校訂

 先に『金匱要略』の内容の淵源が五世紀中頃まではほぼ追求可能なことを述べたが、その成立は多段階にわたり、不詳とせざるをえなかった。しかし内容の成立時期ではなく、現『金匱要略』の成書とするならば、それは「宋改」により初めて『金匱要略』として刊行された北宋中期と確定できる。極端な表現をすると、『金匱要略』なる書は「宋改」により誕生した復元書、と言っても過言ではない。「宋改」の経緯は現『金匱要略』に前付の、北宋政府校正医書局の儒臣である高保衡・孫奇・林億の序文に明記されている。その関連部分は少々長いが、以下に現代語訳してみよう。

 張仲景は『傷寒・雑病論』計十六巻を著した。しかし今の世(北宋)にはただ『傷寒論』十巻が伝存するのみで、『雑病論』は世に見えず、その一・二割が諸家の方書に引用されているにすぎない。ところが翰林学士の王洙はある日、国家の図書館で虫損を受けた古書中に、仲景『金匱玉函要略方』三巻を発見した。当書は上巻に傷寒、中巻に雑病、下巻に処方と婦人病が記されたものであった。そこで転写して数人の学識者にのみ伝え、当書中に処方とその主治証が完備しているものを使用してみたところ、効果は神の如くであった。しかし当書のある部分は病証の記載のみで相応する処方が欠落していたり、逆に処方のみでその主治証がないなど、治療に使用するには不完全な書である。

 国家はわれわれ儒臣に医書の校訂を命じ、すでに『傷寒論』、次に『金匱玉函経』を校刊し、今また当書の校訂が完成した。当書の校訂では、下巻にあった処方を各々の相応する証候文の次に配置しなおし、救急の際に便宜をはかった。また諸家の方書中に散在する仲景の雑病に関する論説と処方の佚文を採取、各篇末に「附方」として補遺し、当書の治療法を広げた。しかし上巻の傷寒部分は(『傷寒論』と比較して)節略が多いので削除し、その他の雑病より飲食禁忌までは残し、全二十五篇とした。処方は重複を除き総二百六十二方、これを上中下の三巻本に再編成した。書名は(王洙発見書の)旧称を踏襲して『金匱方論』とする

  以上の記述より次の諸事実が知られよう。

①現『金匱要略』の底本は、王洙が政府図書館で発見した仲景『金匱玉函要略方』三巻である。王洙は『宋史』列伝五十三の伝によれば、北宋政府図書館蔵書目録の『崇文総目』の編纂(一〇三四年に勅命、一〇四一年完成)に参加している。この書は恐らくその際に発見されたものであろう。事実、『崇文総目輯釈』には「金匱玉函要略三巻、張仲景撰」と記録されている。

②この書には傷寒や雑病・飲食禁忌の論と方が記されていたが、節略・脱落・虫損があるばかりか、処方と主治条文がバラバラ、あるいは一方が欠けて使用に著しく不便となっていた。

③そこで高保衡らはこの書を校訂するにあたり、上巻の傷寒部分はすでに『傷寒論』を校刊ずみなので削除。中下二巻を再編、脱落部分を諸医書に引用されていた仲景の佚文を集めて補填、あるいは「附方」とした。この「附方」は現『金匱要略』を見ると計十篇に後付され、『外台秘要方』『千金方』『千金翼方』『肘後方』『崔氏方』『近効方』『古今録験方』など、六朝・隋・唐の医方書より、計二十二方が補遺されている。

④この輯佚・再編・校正により、全三巻二十五篇・計二百六十二方の書として新たに誕生したのが『金匱方論』である。

 さて現行の『金匱要略』は、まさしくこの序に記す『金匱方論』と同一の形態となっている。つまり現『金匱要略』は、上述の如く高保衡らによる大改訂の末に、仲景の雑病治療書として再編された一種の輯佚復元本なのである。したがって個々の内容はさておき、今われわれが見るところの『金匱要略』の成書は、正確にはこの「宋改」とされねばならない。

 なお現『金匱要略』にこのような複雑な成立・成書の経緯があることは、本文の解釈でも常に留意されるべきである。例えば主治条文の文体・表現法がやや後代的であったり、薬量単位に「分」などが使われていることなどで、それらを張仲景以後の衍文・付加などとして解釈の対象外とすることが往々に見うけられる。しかしそれらは、仲景の文が本書以前の段階で各書間に孫引・ひ孫引された結果、必然的に生じた変化にすぎず、本質的にはやはり張仲景の文なのである。時には、「崔氏八味丸」と記されていることより、八味丸を張仲景以後の処方としたり、張仲景が崔氏の八味丸を引用したかの如く錯覚する人もいる。これも、八味丸が『崔氏(纂要)方』に仲景の処方として載っていたので、「宋改」の際に「崔氏」と明記して附方の項に転載し、王洙が発見した書の欠落を補充したことの無理解による曲説と言わねばならない。

四、宋以後の伝承と版本

 王洙が北宋政府の図書館に発見した仲景『金匱玉函要略方』はもちろん現存せず、これを基に「宋改」を経た『金匱要略』系のみが現在に伝わっている。これらの祖版である北宋校正医書局刊・大字本『金匱要略』の刊行年は、現『金匱要略』に記されていない。ただその校訂にたずさわった儒官の名と官職名より、岡西為人氏は治平三年(一〇六六)の刊行と推定している[3]。その後、紹聖元年(一〇九四)から数年以内に、いわゆる小字本『金匱要略』が国子監より刊行されたことは『脈経』後付の牒文から知られる。しかしこれら北宋政府の刊本は、いずれも現存しない。また現存諸版の文字等より、次の南宋時代にも坊刻本のあったことが推測されるが、それも伝存しない。

 筆者のこれまでの調査によれば、『金匱要略』の現存版本は重刷・影印や全書所収本を含め約六十種にも上るが、すべてが元代以降・明代までの五版本より派生している。そこでそれら五版本の由来・関係等について簡単に説明しておこう。

①元・鄧珍刊本[4]

 今回、本書に影印復刻したのが現存最古の当版である。その現存と所在はかつて斯界に知られていなかったが、筆者らの調査により北京大学図書館に唯一架蔵されているのが発見された。当版に前付の鄧珍序によれば、彼は当時久しく通行していなかった『金匱要略』を入手し、これを刊行するため元の後至元六年(一三四〇)に序文を草している。ただ当版の巻上第三・四葉だけは匡郭および字体が他葉と異なり、明中期の補刻と判断される。これは当該部の版木が破損等のため彫りなおされたためなので、北京大学本の印刷年は明中期となろう。なお当本の巻上末葉の余白には、以下の楊守敬(一八三九~一九一五)による自筆識語が墨書されている。

金匱要略、以明趙開美{イ+方}宋本為最佳、次則兪橋本、然皆流伝絶少。医統本則脱誤至多。此元刊本与趙本悉合、尤為希有之籍。光緒丁酉三月、得見于上海寄観閣、因記。宜都楊守敬
  これより北京大学本は、清末の著名な蔵書家・書誌学者の楊守敬旧蔵書で、彼が上海で入手したことが解る。彼は当本を元刊本と鑑定するものの、それが明初の修印であることは見落としている。しかも後述の趙開美本を{イ+方}宋本と誤認したため、当版との関係を完全に理解していなかったらしい。因みに当本の各処には計二十二種の蔵書印が押され、それより当本は袁廷梼・孫従添・寄観閣・楊守敬・李盛鐸・李滂などの手を約二百数十年にわたり流転した後、北京大学図書館の蔵に帰した経緯が知られる。

 さてこの鄧珍刊本には、現在通行の諸版には見えない宋版の旧態が多く保持されている。例えば書名の頭に「新編」の二字を冠すること。高保衡らの序文中で、「国家」「主上」「太子」の三字句に対し敬畏の書式が見られること。その序文後に四字低書で撰者無記の小序が付刻されていること。本文各巻頭に、撰編著名を林億・王叔和・張仲景の順に配し、通行版と正反対であること。本文の書式により、『金匱玉函要略方』の原文と「宋改」による補填文の区別が窺えること、などである。以上の特徴は鄧珍本の本文自体にも宋版の旧態が多く保たれていることを示唆し、かつその底本は南宋刊本、あるいは金・元初間の{イ+方}南宋刊本であったことを推測させる。

 しかし当版の書名に「要略」の二字を欠く点は、北宋の大字本・小字本および金初の通行本の書名記録にこの二字を欠くものがないため、鄧珍もしくはそれに至る間の所改と思われる。一方、当本自体は鄧珍刊の版木を用いた後代の修印本のため、版木の磨滅やひび割れで印刷の不鮮明な文字が多い。あるいは略字や俗字も各処に使用されている。とはいえ、誤字・脱文は後代の諸版よりはるかに少なく、兼ねて上述の諸点を考慮するなら、現存版本の最高位にある善本と認められる。

②明・無名氏刊本(図1)

 この版本も元・鄧珍刊本同様、昨今まで現存が危ぶまれていたが、筆者らにより北京の中国科学院図書館に刻本が一本、台北の故宮博物院に明治初頃の影写本が一本(欠下巻)発見された[5]。当版にも通行諸版にはない宋版の旧態が、版式上に色濃く保たれている。しかしそれと典拠としての使用に耐えうるかは別問題である。当版は字体こそいわゆる宋版のそれに似るが、本文中の誤字・脱文・俗字の夥しさは諸版中の最たるものである。したがって、あくまで『金匱要略』の書誌研究と校勘等においてのみ、価値の認められる版本といえよう。

③明・兪橋刊本(図2)

 当版は明の嘉靖年間(一五二二~六六)に兪橋が序を付して刊行したものである。当版それ自体の所在は現在確認されないが、一九二九年に『四部叢刊〔初編〕』第二版に影印収録され、かつて日本でも石原明氏の解題でそれが再影印されていた。また江戸中期頃に当版が翻刻され計四種の重刷本があるが、現存は極めて少ない。

 兪橋本は前掲の明・無名氏刊本と諸点で共通するが、相違点も多々見られる。したがって両版は恐らく共通の祖とする金~明初間の刊本または写本があり、それより派生したと想像されるが、正確なところは不明である。また当版も明・無名氏本ほどではないが誤字・脱文は枚挙にいとまがなく、やはり書誌・校勘以外の目的には適さない。

④明・徐鎔校刊本(図3)

 当版は明の万暦十三年(一五八五)に、徐鎔が古本・新本と称する少なくとも二種の『金匱要略』を校合し、万暦二十九年(一六〇一)に呉勉学輯の『古今医統正脈全書』に編入刊行されたものである。よって当版は医統本とも呼ばれ、かなり流布したらしく日中両国に多数現存している。近代にはその影印本が一九一九年に『四部叢刊〔初編〕』第一版に収められたほか、これに基づく数種の影印本が現在も中国や台湾より出版され、最も普及している。

 当版の版式・字句等を精査してみると、徐鎔が校合の底本としたのは元・鄧珍本の系統と、明・無名氏本および兪橋本の系統であることが解る。そして一見すると文意の不明な字句は少なく、書式も宋版の旧が保たれているが如くである。ところが前三版と比較すると、個々の字句には意を通りやすくしたり、宋版風を装うため恣意的な改変・省略などがなされた、としか思えない部分がしばしば見られる。また誤刻も多い。したがって当版の系統は広く流布しているが、内容研究のテキストにも校勘の底本にも甚だ問題が多いといえよう。

⑤明・趙開美校刊本(図4)

 当版は明の趙開美が、万暦二十七年(一五九九)に刊行した『仲景全書』中に編入されている。それで仲景全書本とも呼ばれる。この趙開美版は中国・台湾に計五部が現存し、その影印本が中国で縮印出版されている。日本には明末清初の復刻版があり、近年に日本漢方協会より原寸大で出版されて容易に入手できる。この他、江戸中期以後および清末・民国間には編成を一部異にする別本の『仲景全書』中に編入され、多次に亘り刊行されていた[6]

 当版には前述の元・鄧珍の序文が前付されることより、鄧珍本を底本に翻刻したことが知られる。また仔細に見ると、少数の字句は明・無名氏本と一致している。しかし徐鎔本の如き臆改は殆どなく、ほぼ忠実に両版の字句が踏襲され、誤刻も少ないほうである。とはいえ両版に見られる宋版の旧態は完全に失われており、系統の異なる両版の字句が混在する点からも、当版の善本性は鄧珍本よりはるかに劣る。

五、内容概略

 現『金匱要略』は全三巻二十五篇より成り、二百六十二方と約百九十一の薬物が記載されている。この巻数は『傷寒論』の十巻よりはるかに少ないが、本文の字数はやや少ない程度である。

 第一篇の臓腑経絡先後病脈証は、『霊枢』逆順篇にも見える「上工治未病」の句より始まり、以下五行説を利用した診断に関する総論となっている。ここでの所論は「内経」系医書の論と近い。ただ相当な錯乱を経た形跡もあるが、これは当篇のみに限らない。当篇では病因を内因・外因・不内外因に分ける雛形が述べられており、後の宋代に『三因方』が著述されるもととなっている。

 第二篇より第十九篇は各種疾病別の論説と治方で、この編成を「経」とするならば、『傷寒論』の三陰三陽による編成は「緯」の関係にある。両書に共通の処方は少なくないが、その応用範囲は異なることが多い。病名・症候治療という点、また慢性病が網羅されている点などから、『金匱要略』の応用価値はむしろ『傷寒論』を上回っている。事実、今日頻用される仲景処方のうち、重複を相殺すると『金匱要略』出典の処方がより多い。

 第二十~二十二篇には、婦人科疾患の論と処方が記述されている。『隋書』経籍志に記録の「張仲景療婦人方二巻」は、その書名と巻数より、あるいは当該篇の前身より単行されたものかもしれない。ただ第二十二篇の末にはわずか一方、「小児疳虫蝕歯方」なる小児科処方がある。これには「疑非仲景方」と細字注文が付されているが、『脈経』巻九には小児雑病の篇もあるので、仲景の書には本来より多くの小児病に関する論や方があったのかもしれない。

 第二十三篇は救急治療、第二十四・二十五篇は飲食禁忌と食中毒の治法が述べられている。これら三篇はそれ以前の諸篇と相当に趣きを異にするので、もとは『傷寒論』『金匱要略』の本文と別系にあった内容で、のちに合編されたと考えられる。

 このような理由から当三篇は仲景の本文ではないとして、往々にして解釈の対象外とされるが、その内容を張仲景以降のものとするのは恐らく正しくない。とりわけ第二十四・二十五の二篇は『千金方』に記す仲景撰「五味損益食治篇」との関係が考えられ、一説には『漢書』芸文志が記録の『神農黄帝食禁』まで淵源が推測されるほど、そこにはかなり古い時代の伝承が残されていると思われる[2]

〔文献〕

[1]小曽戸洋「『小品方』序説-現存した古巻子本」、『日本医史学雑誌』三二巻一号、一九八六。

[2]真柳誠「『医心方』所引の『神農経』『神農食経』について」、『日本医史学雑誌』三一巻二号、一九八五。

[3]岡西為人『中国医書本草考』一九二~一九九頁、南大阪印刷センター、大阪、一九七四。

[4]真柳誠ら「『金匱要略』の文献学的研究(第一報)-元・鄧珍刊『新編金匱方論』」、『日本医史学雑誌』三四巻三号、一九八八。

[5]真柳誠ら「『金匱要略』の古版本二種についての新知見」、『日本医史学雑誌』三〇巻二号、一九八四。

[6]真柳誠「別本『仲景全書』の書誌と構成書目」、『日本医史学雑誌』三四巻一号、一九八八。
 

(筆者所属:北里研究所附属東洋医学総合研究所・医史文献研究室)