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真柳誠「『医貫』解題」『和刻漢籍医書集成』第14輯所収『医貫』解説1-6頁(所在頁末尾を(-1-)のように表示する)、東京・エンタプライズ、1991年10月

『医貫』解題


真柳 誠


一、著者と成立

 本書の著者・趙献可の伝は簡略なものしかなく、正確な生没年や事跡等は一切不明である。いま披見できる伝では、最も早い康煕二十三年(一六八四)の『浙江通志』巻四二[1]に次のようにある。

趙献可は『医貫』『内経抄』『素問注』および『経絡考正』『脈論』『二朱一例』の諸書を著した。子の貞観も『緯雪丹書』『痘疹論』を著し、世に伝えられている。

 また乾隆五十三年(一七八八)の『{菫+オオザトヘン}県志』巻一八[2]には次のようにある。

趙献可は字を養葵という。学を好み博識で、もっとも医に精通した。その医論は火を養うことを主眼とする。つまり命門は人身の君子であるのに、人々は節度を知らず、この火を損じて発病している。医者が却って寒凉薬で火をけすならば、どうして生命を云々できようか、と論じた。そして『医貫』の一書を著し、論議には前人未発のものがある。のちに陝西や山西に游び、著述は甚だ多い。子の貞観は字を如葵という。また医に精通し、治療に利益を求めはしなかった。完治するまでは夜半でも自ら患家に往き、脈症を診察してから投薬した。その篤厚たること、かくの如きであった。

 ところで『医貫』には、年代を記さないが、趙献可の同郷の友人である薛三省による序文がある。薛三省は万暦二十九年(一六〇一)に進士となっており[3]、当序文末尾の署名でも肩書に「賜進士……友人薛三省拝譔」とあるので、序年は一六〇一年以降に相違ない。この序文の結尾では、次のように記している。

医無閭子の姓は趙氏、名を献可という。別号は養葵で、今これを称しているのは、献可の名を用いたくないからである。しかも本書は幽州(北方幽昧の地。その高山を「医無(巫)閭」という)での作なので、諸山に秘蔵し理解者を俟つということになる。これを刊行するのが、わが長兄の司馬公である。

 一方、本書の各巻頭には、著者名・趙献可の次行に「太子 春雷 薛三才 訂正」と記されている。この薛三才は薛三省の兄で、万暦十四年(一五八六)の進士である[3]。とすれば三省が序に記す司馬公とは三才と思われ、趙献可は薛兄弟と同郷者以上の親交があったらしい。当然ながら趙献可の年齢は薛兄弟と大差ないか、やや年長であったろう。

 他方、現存する『医貫』の最古版は万暦四十五年(一六一七)刊本で、これが薛兄弟の援助による初版本とすれば、当時まだ趙献可は存命している。現存第二の古版は崇禎元年(一六二八)に文安之が序を加え、刊行したものである。文安之は天啓二年(一六二二)の進士であるが[4]、彼の序に越献可との面識を窺える記述はない。この点からすれば、一六二八年に献可が存命していた可能性は低いと思われる。したがって現在の中国では趙献可を万暦〜崇禎間(一五七三〜一六四四)の人とする説が多いが、それより少し早い可能性が高い。

 以上を勘案すると、趙献可の伝および『医貫』の成立はおよそ次のように整理できよう。(-1-)

趙氏は名を献可、字を養葵といい、医無(巫)閭子と号した。浙江{菫+オオザトヘン}県(今の寧波市に相当)の出身で、隆慶〜天啓間(一五六七〜一六二七)頃の人。万暦間の進士、薛三才・三省兄弟と交遊があり、彼らの助力で『医貫』を刊行した。その成立年と初版年は、一六〇二〜一七年の間である。子の名は貞観、字を如葵といい、また医を業とした。

 献可の著述は多いが、伝存するのは『医貫』六巻と『胎産遺論』一巻(図1)のみである。後書は貞観の校訂であり、図のように見返しに「邯鄲(趙氏のこと)遺稿」とも記す。つまり献可の産科に関する遺論を、その没後に貞観が『医貫』の補遺としてまとめたものと考えられる。因みに先の『浙江通志』が、貞観の書として挙げる「緯雪丹書』は『医貫』巻三の巻名なので、何かの誤認であろう[6]。また貞観の『痘疹論』も伝存は知られていない。

 なお「医貫」という書名の所以を、薛三省の序文は献可の言葉として次のように記している。

医無閭子がいう。余の重視する先天の火というのは、ただの火ではない。人の命を立つ所以である。道家が煉じて丹となし、仏家が伝えて灯となし、儒家が明らかにして徳となすのは皆これであり、この一つに貫かれているのである。だから本書を「医貫」と命名した。


二、構成と内容

 本書には三巻本の版本も一種あるが、未見につき不詳。他はいずれも全六巻からなる。本書は巻一を玄元膚論といい計三論、巻二を主客弁疑といい計四論、巻三を緯雪丹書といい一論、巻四を先天要論上といい計一四論、巻五を先天要論下といい計一〇論、巻六を後天要論といい計六論からなり、全体で計三八論を収めたいわゆる医論書である。

 趙献可はおよそ五〇を越える医家・医書の説を引用しながら、自己の議論を展開させている。とくに前五巻までは主に薛己(一四八六〜一五五八)の『薛氏医案』の所説を発展させ、独特な命門論を主張する。すなわち命門の部位から始まり、その性質・機能・病理変化・治療原則および処方などで、全体として一貫した命門論の書となっている。

  例えば命門は左右の腎から各一寸五分の所にある無形の火と水で(-2-)、有形である左腎の陰水や右腎の陽水と対をなす、両腎間の動気であるとする。かつ命門は一身の大極、身体・臓腑の真君にして真主であるという。献可はこの命門の火の重要性を走馬灯にたとえ、「火が盛んならば回転は速く、衰えれば緩慢となり、消えると止まってしまう」(内経十二官論)と述べ、全身の原動力であることを強調する。

 一方、命門の機能を「先天の体を主宰し」「後天の用を流通させる」(補中益気湯論)という。すなわち先天の体である無形の水(真水、真陰、元精)と火(三焦の相火、真火、真陽)は、命門の左右より各々出ること。各々は後天有形の心火や腎水と異なること。そして無形の真火・真水を命門が全身に流通させ、後天の生命力を栄養しているという。

 本理由より命門内の水火の維持・均衡を治療の根本とし、六味丸・八味丸の広範囲な加減と応用を述べている。つまり六味丸で無形の水を補い、腎陰虚による火動を制する。八味丸で壮水と同時に水中の火を補うべきだ、という。さらに諸薬の作用を腎に導く沢瀉を両処方から去ることや、逆に脾胃に導く人参を加えることを批判。また知母・黄柏の苦寒薬は無形の火を鎮めることはできず、却って脾胃を損なうので、知柏地黄丸のごとき加法にも反対している(張仲景八味丸用沢瀉論〜陰虚発熱論)。

 六味丸・八味丸を常用する治療は『薛氏医案』に多見されるが、薛己は補中益気湯と合方することが多い。しかし趙献可は脾虚と腎虚の関連を子細に議論し、脾腎の両虚証に四君湯加地黄や八味丸加人参のごとき用薬は間違いとする。この場合「釜に水穀があっても、釜底に火がなければ煮えない」の比喩で、「補脾は補腎にしかず」と断言し、まず八味丸を投与すべきと主張する(補中益気湯論)。

 この他、出血症や痰証・鬱証、さらには中風・傷寒・温病までも六味丸・八味丸の運用が説かれる。もちろん左記のような格言も記すのであるから、六味丸・八味丸ですべての処方に代用可能と考えているわけではない。

もし傷寒の書を学んでも、東垣の書を学ばなければ内傷に暗く、人を殺すことが多い。東垣の書を学んでも、丹渓の書を学ばなければ陰虚に暗く、人を殺すことが多い。丹渓の書を学んでも、薛氏の書を学ばなければ真陰・真陽に暗く、人を殺すことが多い(傷寒論)。

 趙献可がこれらの論説に共通して多用するのは、陰陽説と五行説である。朱熹以降の宋儒を医学解釈に大きく導入したのは朱丹渓(一二八二〜一三五八)が嚆矢であるが、明代中期からこの傾向が著しい。その背景には、王陽明(一四七二〜一五二八)以来の儒学に影響を受けた、儒医ブームを無視できない。当時の薛己、孫一奎(一五二二〜一六一九)、張景岳(一五六三〜一六四〇)らの医論には、儒家の理学が色濃く反映している。献可の主観唯心論的な命門の説も、この時代にあっては儒医として当然の議論だったといえよう。


三、後世への影響

 本書は命門の諸方面を、専門的かつ詳細に論説している。しかも前述のように独創的な議論が多く、現在にいたるまでとかく論評がたえない。

 彼の影響ないしは関連を疑える最も早いものに、張景岳『類経付翼』求正録中の「三焦包絡命門弁」があり、両者の論旨はほぼ一致している。しかし景岳と親交のあった黄宗羲(一六一〇〜九五)が『南雷文案』に記した張景岳伝は、末尾に「趙献可と張景岳は同時代であり、いまだかつて相まみえたことがないのに、議論は往々にして合うものがある」という(-3-)。したがって必ずしも景岳が献可の説を踏襲したともいえない。

 一方、高宗羲と交流のあった呂留良(一六二九〜八三)は朱子学者であったが、趙献可と同郷の名医・高斗魁(一六二三〜七〇)の影響から医も兼ね、献可や景岳を研究した。さらに呂留良は『医貫(趙氏医貫評)』を著し、献可の文章の各処にほぼ肯定的な論評を割注として加えている。しかし献可の「丹渓の書やまざれば、岐黄の道あらわれず」(血症論)のような言葉に対しては、「これ丹渓の言を知らず。丹渓を知らば、あえてこの語をなさず」と手きびしい評を加えている。

 ところで呂留良が評を加えたこの『医貫』は、いわゆる「文字の獄」の一つ、曽静(一六七九〜一七三五)の獄(一七二八)により禁書とされた。出家して清朝に仕えることを拒んだ呂の書に傾頭した曽静が、雍正帝に謀反を企てたためである。死後にもかかわらず連座させられた呂は棺をあばかれ、屍をさらされたという。図2は後に呂の門人らが刊行した天蓋楼版で、そのためか各巻頭に呂の名や序跋等もなく、唯一目録頭に「呂医山人評」とのみ記されている。本理由で『医貫』は『四庫全書』に未収録で、『四庫全書総目』にも項目がなく、『薛氏医案』等の中で言及されるにすぎない。

 なお未見であるが呂留良の『東荘医案』、高斗魁の『四明心法』『四明医案」、董癈翁の『西塘感症』にも趙献可の影響が見られるという[8]。

 さて『医貫』の評価に最大の痛撃を与えたのが、徐霊胎(一六九三〜一七七一)の『医貫砭』二巻(一七四一成)である。霊胎は『医貫』のほぼ全論説より文章を抜粋し、徹底的な反駁を割注に加えている。その批判は呂留良の評にまで及び(図3)、批注は計四百数十回に上る。かくも極端な医書はかつてなく、内容・量ともにまさしく空前絶後といえよう。

 霊胎がこのような書を公刊した背景には、当然ながら先の曽静の獄も関連したに相違ない。この書について、『四庫全書総目』は次のようにいう[9]。

献可は薛己の一部をとり挙げ、過度に主張している。遂には古人の経方をことごとく癈してしまった。……大椿(徐霊胎)が攻撃するのは無理もない。ただその語気は過激で、罵詈雑言をほしいままに(-4-)する。また一字一句まで欠点を拾い集めるのは、雅道にはずれるのを免れない。とはいえ、献可の説も多験できるわけではない。いま『医貫』がまったく行われないのは、また必ずしも霊胎の罵倒だけのせいではないだろう。

 なお趙献可については現代中国でも論評が多く、引用文献[5]の書以外に、左記の諸論が各誌に発表されている。

○姜春華「趙養葵的学術思想」、『浙江中医薬』(一九七九、二)
〇盛燮蓀ら「試論『医貫』与『医貫砭』」、『浙江中医雑誌』(一九八一、四)
〇顧瑞生「追古論活鬱証−趙養葵鬱論的探討」、『上海中医薬雑誌』(一九八二、一二)
〇張覚人「略述趙献可治療老年病的学術思想」、『浙江中医学院学報』(一九八三、一)
○常存庫「趙献可的哲学思想与其医学理論」、『中医薬学報』(一九八四、五)
〇楊毓隽「『医貫』芻議」、『天津中医』(一九八五、三)
○郭貞卿「論『医貫』六味丸的治痰湿之理」、『山東中医雑誌』(一九八六、一)
〇徐淑文「孟子的性善論与趙献可」、『中医学与弁証法』(一九八六、二)
〇劉志英「簡述趙献可対命門学的貢献」、『吉林中医薬』(一九八六、四)
〇楊世権「趙献可腎命学説詳述」、『四川巾医』(一九八六、九)


四、版本
   
 本書の中国版は約二〇種ほどあるが、今その主なものを掲げておく。日本版は二種で、朝鮮版は知られていない。

〔中国刊本〕
@万暦四十五年(一六一七)歩月楼刊本 山東省図書館、南京中医学院図書館所蔵。
A崇禎元年(一六二八)序刊本 国立公文書館内閣文庫所蔵(図4
B同右年刊三巻本 南京図書館、重慶市図書館所蔵。
C不詳明刊本 中国医学科学院図書館、四川州図書館所蔵。
D清初刊・呂留良評本 中国科学院図書館所蔵。
E清初(一六六一前)敏秀堂刊本 中国医学科学院図書館所蔵。

〔日本刊本〕
@寛文元年(一六六一)中村長兵衛刊本 フランク・ホーレー旧蔵(平成元年「井上書店売立目録」所載)。
A寛文十年(一六七〇)積徳堂刊本 国立公文書館内閣文庫所蔵、平成三年「思文閣売立目録」所載。(-5-)

  本書の日本への舶載は一六五二、一六六八、一六八八、一七一一、一七二六、一七六三の各年に記録がある[10]。この内、一七一一年の舶載のみ中国E本であるとの記録があり、他は不詳。和刻@本も中国E本の翻刻で、和刻A本はその版元が移っただけの後刷本である。

 中国E・和刻@A本は、いずれも見返し中央に双行で「一附 殷九峰経験方/一附 官邸千金異方」と記される。ところが付録されている書は『増補医貫奇方』一巻と、『窮卿便方』一巻であり、書名が見返しの記載と合わない。恐らく「殷九峰〜」が『増補〜』、「官邸〜」が『窮卿〜』に相当するのだろうが、いずれも趙献可との関連は認められない。各巻頭に名を記す書賈の張起鵬(毓秀堂)が『医貫』六巻を復刻の際、付録したものであろうか。

 今回の影印復刻の底本とした内閣文庫所蔵本は、各巻頭に「養安院蔵書」「医学館寄宿寮書籍之記」の蔵印が押されるごとく、曲直瀬養安院家と多紀氏江戸医学館の旧蔵を経た貴重な書である。なお当書は付録のうち『窮卿〜』を欠いており、一方の『増補〜』にしても趙献可の作と無関係なので、あえて両書とも影印復刻には加えていない。


参考文献及び注
[1]郭靄春ら『中国分省医籍考』八六五頁、天津科学技術出版社(一九八四)。

[2]前掲文献、八六四頁。

[3]台湾中央図書館『明人伝記資料索引』八九九頁、北京・中華書局(一九八七)。

[4]前掲文献[3]、一六頁。

[5]裘沛然ら『中国歴代各家学説』一七六頁(上海科学技術出版社、一九八四)や裘沛然ら『中医各家学説』一一六頁(上海科学技術出版社、一九八六)など。

[6]本書の巻四吐血論の末尾に、「命另有絳雪丹書。専論血症」と記されるので、これが献可の作で、貞観のものでないことは明らかである。

[7]楊士孝『二十六史医家伝記新注』二七三頁、瀋陽・遼寧大学出版社(一九八六)。

[8]この四書は楊乗六編の叢書『医宗己任編』(一七二六)に一括収録されている。

[9]永kら『四庫全書総目』八八九頁、北京・中華書局影印(一九八五)。

[10]真柳誠・友部和弘「中国医籍渡来年代総目録(江戸期)」『日本研究』7号一五一〜一八三頁(一九九二)。 (-6-)