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真柳誠「幻雲が引用した『東垣十書』」『「扁鵲倉公伝」幻雲注の翻字と研究』173-177頁、1996年3月、
北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部編集・発行 ※全文中国語訳「関于幻雲引用的『東垣十書』」
『中医薬文献研究論叢』47-49頁、 北京・中医古籍出版社、 1996年、8月

幻雲が引用した『東垣十書』 (図版省略)

真柳  誠

一  緒言

 室町時代の学僧・月舟寿桂幻雲(一四六〇〜一五三三)は南化本宋版『史記』に厖大な注を書き込んでいた。その「扁鵲倉公列伝」部分の注には佚書を含む中国医書が大量に引用され、室町時代の医史研究における価値が高い。引用医書の概略はすでに報告したが(1) 、そこには明初の一三九九〜一四二四年に初版が出た医学叢書、『東垣十書』(2) の収録本かと疑われる書も引用されている。

 『東垣十書』の和刻は一五九七年の小瀬甫庵古活字本が最初で、日本に伝来していた早期の確実な証拠としては、曲直瀬道三(一五〇七〜九四)が筆写した『東垣十書』本の巻首と『脈訣』が現存する(3) 。もし幻雲注に引用されたのが『東垣十書』本なら、それは『東垣十書』の日本伝来を示す道三より早い記録となろう。さらに『東垣十書』の書誌もほぼ解明しえたので(2) 、幻雲の引用が『東垣十書』本なら、底本とされた版本も解明できるかも知れない。その各々について検討を加えてみた。
 

二  幻雲が引用したのは『東垣十書』本か

   『東垣十書』は左記の計一〇書から構成されている。
崔嘉彦『脈訣』
李東垣『内外傷弁惑論』『脾胃論』『蘭室秘蔵』
王好古『湯液本草』『此事難知』
朱丹渓『格致余論』『局方発揮』
斉徳之『外科精義』
王履『医経溯{サンズイ+回}集』
 一方、幻雲注の引用書には『脈訣』『湯液本草』『此事難知』『格致余論』『医経溯{サンズイ+回}集』がある(1) 。この五書は『東垣十書』収録書と一致するが、はたして『東垣十書』本からの引用と判断していいのだろうか。幻雲注の所引五書が『東垣十書』本ではなく、それ以前の単行本を引用していた可能性も想定できるからである。

 ところで『東垣十書』が中国で刊行される以前に日本で著された『万安方』(一三一五)や『福田方』(一三六二)には、『東垣十書』本と同一書の引用がない(4) 。さらに幻雲注が引く『医経溯{サンズイ+回}集』は明代初期の成立で、本書は『東垣十書』に収録・刊行されて初めて流布したらしい(5) 。しかも「扁鵲倉公列伝」第九一頁の幻雲注には、図1A右行のように「幻謂、紫虚脈訣、東垣十書之一也」とある。また第一四八頁でも図1B左行のように、「幻曰、朱彦脩格致余論、乃東垣先生十書之一也」と説明する。すなわち幻雲は、『脈訣』と『格致余論』については『東垣十書』本と明言していた。以上から判断すると、幻雲がこの五書に『東垣十書』本を使用したことは疑いない。
 

三  幻雲が用いた『東垣十書』本の版本系統

 幻雲が『東垣十書』本を使用したのなら、それは初版以降の版本、あるいはそれら版本にもとづく筆写本に相違ない。筆者の検討(2) によれば『東垣十書』の版本系統は図2のようになる。これから幻雲が没した一五三三年以前に刊行の『東垣十書』をみると、次の六版が幻雲の用いた版本系統の候補である。
1.明・遼藩第一版(一三九九〜一四二四)
2.明・遼藩第二版(一四八四)
3.朝鮮内医院・乙亥活字版(一四八八)
4.明・熊氏梅隠堂版(一五〇八)
5.明・遼藩第三版(一五二九)
6.朝鮮・内医院整版(一五二九〜四四)
 さて以上のうち、幻雲はいずれの版本系統を使用したのだろうか。「扁鵲倉公列伝」第一三二頁の幻雲注には、図3のように「朱彦脩格物余論三十四丁、人迎気口論」という記述がある。むろん「格物余論」の「格物」は「格致」の誤写に相違ないが、これは幻雲の使用した『格致余論』の第三四丁に「人迎気口論」があったことを意味する。

 当記述と合致する位置に「人迎気口論」がある『格致余論』の版本に、4.版の熊氏梅隠堂本がある。すなわち図4のように、第三四丁一七行目〜第三五丁八行目に「人迎気口論」が位置していた。他方、この4.版本は毎丁二〇行・一行一七字の書式や巻数・丁数まで1.遼藩第一版本の忠実な模刻なので、1.版の『格致余論』は現存しないが(2) 、やはり同位置に「人迎気口論」があったと推定できる。ならば幻雲注が引用した『東垣十書』本は1.版か4.版の系統がとりあえず候補となろう。

 ちなみに「人迎気口論」以前の字数に注目すると、全行を文字で埋めるなら計一一四九二字になる。それで1.版や4.版より一行の字数が一字だけ多く、毎丁二〇行・一行一八字の2.遼藩第二版では「人迎気口論」が第三一丁一九行目からとなり、第三四丁から大きく離れてしまう。したがって幻雲が使用したのがたとえ写本でも、行数・字詰まで完全に同じでなければ「人迎気口論」は第三四丁の位置にならない。

 もちろん3.版(毎丁一八行・一行一七字)や5.版(毎丁二二行・一行二〇字)や6.版(毎丁二〇行・一行二〇字)では、第三四丁の位置からさらに大きく離れてしまう。それらに基づく写本で、偶然この位置に「人迎気口論」がある可能性もおよそ考えられない。幻雲注が引用した『東垣十書』本は1.版か4.版、ないしその行数・字詰を忠実に模写した写本に限られることが明らかになった。ではそのいずれの系統だったのか。

 ところで日本最古の印刷医書は熊宗立『医書大全』の復刻(一五二八)で、幻雲が刊行の跋文を記している(6)。日本第二の印刷医書も熊宗立『勿聴子俗解八十一難経』の復刻(一五三六)で、幻雲と親交のあった谷野一栢が一乗谷で刊行した(7、8) 。谷野一栢が自ら筆写した現存医書も熊宗立本が底本である(9、10)。

 さらに『東垣十書』収録書の一つ、『湯液本草』の写本焼片が一五七三年に焼き打ちされた一乗谷朝倉氏遺跡から近年出土し、その一乗谷への伝来に幻雲ら当時の知識人が関与していた(11)。この焼片写本も行数・字詰まで1.版ないし4.版に完全に忠実に筆写されていたので、図5のように残存位置まで4.版上で確定できた。そして焼片の筆写底本は4.版の熊氏梅隠堂本である蓋然性が高いと判断された。これらの史実は室町後期における熊氏本医書の流行と幻雲の関連を物語るとともに、幻雲の利用した『東垣十書』本が熊氏本系統だった可能性の傍証となろう。

 「扁鵲倉公列伝」の幻雲注は他にも熊氏本医書を引用する。たとえば第二頁の幻雲注には図6A右行のように「熊宗立医学源流云…」とあるが、この「医学源流」は熊宗立編刊『医書大全』に付録された書である。第四〇頁の注では図6Bのように『難経』二十三難を引き、続けて「熊氏注者…」と記すので、これは熊宗立編刊『勿聴子俗解八十一難経』の引用と分かる。第一五四頁の注では図6C右行のように「熊宗立脈訣俗解…」を引いており、これは熊宗立注『王叔和脈訣図要俗解』を指す。

 以上のように幻雲は熊宗立が編纂し、かつ熊宗立や熊氏一族が刊行した医書を各所で引用している。熊氏一族は沿岸地の福建で書物を出版して一般に販売したので、当時の交易ルート上でも日本に渡来しやすかったのに対し、1.版は中国内陸の地方政府が出版した藩府本のため日本へ伝来する可能性が低いことはすでに考察した(11)。とするなら幻雲が利用した『東垣十書』本も4.版の熊氏梅隠堂本、ないしその忠実な写本だったと判断していいだろう。

 なお4.版は一五〇八年刊行、幻雲は一五三三年没なので、4.版は刊行後二五年以内で日本に渡来し、幻雲が即座に利用していた。当時、日本が中国書物を受容した時間差を示す数字として注目していい。
 

四  幻雲注の「湯液本草三巻」の真偽

 「扁鵲倉公列伝」第一四八頁の幻雲注には、図7右行のように「幻按、湯液本草三巻、海蔵王好古所撰也」、と記す部分がある。この三巻は問題である。なぜなら4.版の熊氏梅隠堂本どころか、幻雲が没する以前に刊行された『東垣十書』全版本の『湯液本草』はみな上下二巻本で(6) 、巻数が合わない。のち下巻を分けて三巻本に改めた版本もあるが、これは周氏仁寿堂の一五八三年刊本からで(12)、幻雲が没した後のことである。

 そこで、幻雲が使用したはず4.版の『湯液本草』二巻をみると、上巻は二八丁なのに対し、下巻は図8のように一五二丁もある。一方、4.版と完全に同一編成の1.遼藩第一版本『湯液本草』二巻ではどうだろうか。これが北京の中国中医研究院図書館に明代の装丁のままあり、一五二丁ある下巻は二分冊されて計三冊本となっていた(13)。

 ならば4.版の熊氏梅隠堂本ないしその精写本の『湯液本草』二巻でも、同様に三冊本に装丁されたあって何も不思議はない。これを幻雲が「湯液本草三巻」と記述したと理解すべきであろう。
 

五  結論

 幻雲が南化本『史記』の「扁鵲倉公列伝」部分に書き込んだ注には、『脈訣』『湯液本草』『此事難知』『格致余論』『医経溯{サンズイ+回}集』の引用もあり、この五書は『東垣十書』の収録書と合致していた。しかし、それらは『東垣十書』が明初に編刊される以前の単行本から引用された可能性もある。

 これらについて検討し、以下の結論が得られた。

(1)幻雲は間違いなく『東垣十書』本から前記五書を引用している。当然その利用は幻雲が没した一五三三年以前で、これは現在までに知られた日本への『東垣十書』伝来を示す最古の記録である。

(2)幻雲が使用した『東垣十書』本は、明の一五〇八年に刊行された熊氏梅隠堂版、ないしそれを行数・字詰まで忠実に模写した写本だった可能性がきわめて高いと判断された。これは熊氏本『東垣十書』本が刊行後わずか二五年以内で日本に渡来し利用されていたことを示し、室町後期に熊氏本医書が流行・受容された時代風潮の背景をも物語る。

(3)熊氏梅隠堂版の『湯液本草』が二巻であるのに、幻雲注に「湯液本草三巻」の記述があるのは、一五二丁もある下巻が二分冊されて計三冊本となっていたため、と理解された。
 

[本稿は一九九五年六月の日本医史学会総会で真柳誠・宮川浩也・小曽戸洋が同一題目にて発表した要旨(『日本医史学雑誌』四一巻二号、一〇四〜一〇五頁、一九九五)を敷衍・訂正したものである]
 

引用文献と注

 (1)関信之・小曽戸洋・真柳誠「国宝宋版『史記』扁鵲倉公列伝におけける幻雲注の引用医書について」『日本医史学雑誌』三六巻一号、二三〜二五頁、一九九〇

 (2)真柳誠「『東垣十書』解題」、小曽戸洋・真柳誠編『和刻漢籍医書集成』第六輯解説二〜一八頁、エンタプライズ、東京、一九八九

 (3)個人蔵。

 (4)小曽戸洋「『万安方』引用書名人名索引」(未発表)と小曽戸洋「『福田方』引用文献名索引」(未発表)による。

 (5)小曽戸洋「『医経溯{サンズイ+回}集』解題」、小曽戸洋・真柳誠編『和刻漢籍医書集成』第六輯解説五六〜六二頁、エンタプライズ、東京、一九八九

 (6)小曽戸洋「『名方類証医書大全』解題」、小曽戸洋・真柳誠編『和刻漢籍医書集成』第七輯解説二〜一二頁、エンタプライズ、東京、一九八九

 (7)真柳誠・小曽戸洋「現存する日本第二の医書印刷の版木」『漢方の臨床』三七巻四号三六〇〜三六二頁、一九九〇

 (8)真柳誠・小曽戸洋「福井三崎家の宝蔵品−越前版『俗解難経』」『漢方の臨床』四二巻七号七九四〜七九六頁、一九九五

 (9)小曽戸洋・真柳誠「一栢自筆の『難経抄』」『漢方の臨床』四二巻八号九二二〜九二四頁、一九九五

(10)小曽戸洋・真柳誠「一栢の研究した熊宗立本『内経』古鈔本」『漢方の臨床』四二巻九号一〇五〇〜一〇五二頁、一九九五

(11)真柳誠「朝倉氏遺跡出土の『湯液本草』」『日本医史学雑誌』三九巻四号、五〇一〜五二二頁、一九九三

(12)台北・国立中央図書館所蔵。

(13)これは中国中医研究院図書館『館蔵中医線装書目』(北京・中医古籍出版社、一九八六)七七頁『湯液本草(三巻)』項目(子21-1298)に「2  明刻本」と記される版本である。このように目録では他版本と一括して(三巻)といい、単に「明刻本」としか記載しない。これを一九九五年四月二七日に実見したところ、明代装丁の二巻三冊(上巻一冊・下巻二冊)本で、料紙は白綿紙、毎半丁一〇行・行一七字、黒口の巾箱本により、1.の遼藩第一版本と認めた。

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