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真柳誠・小曽戸洋「漢方古典文献解説・34−元代の医薬書(その6)」『現代東洋医学』12巻4号103-109頁、1991年10月

元代の医薬書(その6)

真柳誠・小曽戸洋(北里研究所附属東洋医学総合研究所医史文献研究室)



 前号までに五回にわたり、元代に著された医薬書二八種について言及してきた。一三六八年、異民族王朝の元は破綻を来たし、洪武帝朱元璋による明朝の時代となる。その一〇年前の一三五八年には、わが国室町以降の医学にきわめて大きな影響を及ぼした朱丹渓が七八歳で没している。今回は朱丹渓の伝記とその著作について論じ[1]、元代医薬書シリーズのしめくくりとしよう。
 

朱丹渓の伝記

 金元4大家の一人、朱丹渓の事跡に関する史料は多い。主なものを挙げると『格致余論』の丹渓自序と宋濂序[2]、宋濂の「故丹渓先生朱公石表辞」(以下「石表辞」と略)[3]、戴良の「丹渓翁伝」(「翁伝」と略)[4]などがある[5]。いずれも本人や面識のあった者によるもので、『元史』や『新元史』に記される丹渓伝よりはるかに詳しい。各々には齟齬する点もままあるが、大筋をまとめると以下のようである。

 朱丹渓は{(務−力)+女}州義烏(浙江省金華県)の出身。姓は朱、名を震亨、字を彦修という。住居が丹渓と呼ばれる赤い渓流の傍にあったので、門人は丹渓(先生・老人・翁)の号で尊称した。元の前至元一八年一一月二八日(西暦一二八二年一月九日)の生まれ、至正一八年(一三五八)六月二四日の卒。享年七八。

 丹渓は幼い時に父を亡くしたが、学を好み、進士を志していた。三〇歳の時に母の腹痛を衆医が治せなかったことから、『素問』を三年間学習した。その二年後には母の病を丹渓自ら治療したという。しかしその以前、すでに弟や伯父・叔父などを庸医の手で失っていた。

 三六歳の時、東陽の八華山にて許謙(文懿)に就き、道徳性命の説など朱子四伝の学を数年修めた。久病に臥していた許謙は丹渓の非凡な才を認め、ある日、医道に進まないかと助言した。大いに悟るところがあった丹渓は、これにより挙人の道から医の道へ四〇歳にして転じた。

 当時は『和剤局方』流の医学がまだ南方で主流を占めており、丹渓も一心にこれを学んだ。しかしそれら古い処方では今の病に対応できず、医学は『素問』『難経』の諸経に基づかねばならないことを痛感した。そこで中国各地に師を求める旅に出、武林(杭州)にてその郡に羅氏がいることを知った。

 羅の名は知悌、字を子敬、世間は太無先生と呼び、南宋の理宗時代(一二二五〜六四)に(「石表辞」は宝祐中〔一二五三〜五八〕という)僧侶であった。医を劉完素(河間)の弟子である荊山浮屠(荊山の僧侶)に授けられ、羅は完素以外にも張子和・李東垣の説に通じていた。が性格はひどく偏狭で、その学を人に伝えないことで知られていた。

 丹渓は幾度(「石表辞」は一〇回)も訪問をくり返し断わられた末、ついに門前に立ちつくして面会を許された。その際、羅知悌は「子は朱彦修ではないか」と問い、すでに丹渓の医名を知っていたという。この時、丹渓は四四歳。そこで初めて劉完素・張子和・李東垣・王好古らの書に接し、知悌に師弟の礼を尽くし数年問学び、その学を伝えられた。

 帰郷した当初、丹渓の医説は『局方』医学にまだ拘泥していた当地の医家に潮笑され、排斥された。しかし師の許謙の久病を治療して以来、数年にして医名が高まり、諸医も丹渓に心服するようになった。医名が四方に鳴り響いてより患者のない日はなかったが、雨や雪の日でも往診を断わることがなかった。また貧者といえども往診し、無償で薬を与えた。

 丹渓は粗衣・粗食につとめ、七〇を過ぎても顔色衰えず、精気に満ちていたという。晩年、弟子の張翼らに請われ、ようやく『格致余論』『局方発揮』『傷寒(論)弁(疑)』『本草衍義補遺』『外科精要新論(発揮)』などの書(他に「石表辞」は『宋論』『風水問答』の二書を挙げる)を著した。臨終に際し丹渓は甥の朱嗣氾を呼び、「医学亦難矣。汝謹識之」とだけ言い、端坐して卒した。

 丹渓の父の諱は元、母は某氏。妻は戚氏・道一書院山長象祖の女で、丹渓に先立つ三五年前に卒。嗣衍と玉汝の二男があり、嗣衍は先立つ三年前に卒。また四女があり、それぞれ傅似翁・蒋長源・呂文忠・張思忠に娶いだ。孫は男が一人、女が二人あり、一人は丁楡に娶ぎ、一人はまだ幼い。

 丹渓は没した五ヵ月後の一一月、某山の原(義烏より東に八里の朱村嘴岩山麓)に葬られた。


朱丹渓の著作と関連書

 現在に伝わる医書で、丹渓の名を冠したり、丹渓撰とされるものは三〇を下らない。およそ七〇歳前後の晩年になって著述を始めた丹渓に、もちろんそれだけの著作はない。確実な自撰書は先の「石表辞」「翁伝」に記された七書のみで、他の大部分は弟子や私淑者の撰、あるいは末裔が秘蔵していたと称するものや、丹渓の名を仮托した偽書などである。それらは明初から清代まで大いに流行したが、日本では後述の自撰二書のみが江戸初〜中期にかけて大流行した。ここに同じ流行でも、両国の相違を如実に見ることができる。
 

『格致余論』(一三四七成)(図1

 朱丹渓の撰になる医論書。治験例も記されている。諸版本で校訂者や巻数(一巻本・二巻本)に相違がある。しかしいずれも全四六篇(論四〇、箴・章句各二、箴序・章句弁各一)よりなり、個々の字句の異同以外、内容に大差はない。

 本書には前述のごとく丹渓自序(年代無記)と、至正七年(一三四七)の宋濂序がある。後者によると、丹渓は高齢にもかかわらず精気にあふれ、前人未発の論を多くなしている。そこで門人の張翼らに請われ、本書にまとめた。これに『格致余論』と名づけ、宋濂に示して序を求めた、という。したがって本書の成立は宋濂序の一三四七年、丹渓が六七歳の時である。書名のゆえんについて、丹渓は自序で「古人以医為吾儒格物致知一事。故目其篇曰『格致余論』」という。いかにも許謙に朱子学を学んだ丹渓らしい命名であり、本書中にも儒学を背景とした医論が多見される。

 本書の全篇は丹渓の医学認識を論説しており、それらは諸典籍・医書などを引用しながらもきわめて独創的で、「陽有余、陰不足論」「相火論」など当時としては画期的な医論に富んでいる。それゆえ明代への影響は金元四大家中の筆頭で、いわゆる丹渓学派が形成され[6]、さらにその影響はわが国の曲直瀬道三に及んだ。一方、本書への反論や非難も少なくない[7]。しかし本書末篇の「張子和攻撃注論」のように名指しで先人を非難したり[8]、各篇で『局方』流医学を強く攻撃するのであるから、批判的医論の流行は丹渓が口火を切ったともいえよう。

 本書は成立後、しばらくは刊行されなかったと思われる。宋濂の序は、この書は民を益すること甚だ大なので、三家(劉完素・張子和・李東垣)の書と世に並び伝えられるべきだ、と記す。これを以て本書の初版年を本序文の一三四七年の少し後と考えられなくもない。しかし丹渓の書が生前に刊行されていたなら、前述の伝などに書名だけでなく既刊の旨も記されたはずである。したがって本書ほかの初刊は、丹渓が没した一三五八年以降かと疑われる。現存版本では中国・鎮江市図書館に『局方発揮』と合刊の元版が所蔵されるが、未見につき当否は不詳。あるいは明初刊本の可能性も考えられる[9]。本書はその後、一三九九〜一四二四年間に初刊された『東垣十書』に収録されて以来、『十書』本として中国・朝鮮・日本で翻刻が重ねられた。図1は明の正徳三年(一五〇八)に熊氏梅隠堂が刊行した『十書』所収本。

 日本では慶長二年(一五九七)の小瀬甫庵古活字版以降、『十書』本として計五回復刻されたほか、単行本としても二〇回前後刊行されている。それらは江戸前期に集中しており、中には詳細な頭注が施された一六六五年刊本や、全文に振仮名の付いた一六九二年刊本まである。さらに撰者不詳『格致余論鈔』(一六三六、一六四四、一六六〇刊)、広田玄伯『格致余論疏鈔』(一六七九序刊)、岡本一抱『格致余論諺解』(一六九六序刊)などの解説書もあり、本書が当時きわめて広く読まれていたことを物語っている。なお江戸刊の『十書』本および頭注本は、『和刻漢籍医書集成』に影印収録したので披見は容易。
 

『局方発揮』(一三四七後成)(図2

 朱丹渓の撰になる医論書。全一巻。本書には序跋等がなく、成立年をそれから知ることはできない。ただ『格致余論』の宋濂序、また同人の「翁伝」の記載から見ると、『格致余論』に次いで本書を書き上げたと思われる。するとおよそ一三四七年より少し後の成立となろう。

 本書の諸版本はいずれも一巻本で、計三一条からなる。各条は「或曰」で始まる一字落ちの文と、「予曰」で始まる文が対になった問答形式の医論である。各論点はかなり多岐にわたっているが、『格致余論』が医学概論とするならば、本書は臨床に則した医論集といえよう。

 個々の論述では所々に治験例を交えながら、徐々に丹渓が主張する滋陰降火の具体的運用法を解説している。同時にそれは、『局方』の処方は燥剤が多く、内火を盛んにしてしまう、という批判であり、『局方』流の没理論の指摘でもある。これが本書名の所以となっていることは、巻頭の序に相当する文に強い口調で述べられている。

 もちろん『局方』に対する批判は『格致余論』にも多く、この点からすると両者はまさしく同工異曲といえよう。『局方』流への反発は金元の諸大家に共通するが、丹渓はそれを単に処方の固定的運用の非難にとどめず、滋陰という治療方針から論及する点では、李東垣などより徹底している。かつ張元素から承け、東垣でほぼ完成された理詰めによる処方の組み方を、丹渓は上手に導入している。が東垣流の温補ではなく、滋陰による火熱証の治療を主張する点では、劉完素や張子和の所説の発展が見られる。

 丹渓も自ら述べているが、この相違の背景には気候風土の差を無視できない。つまり東垣らは北方人なので温補をいい、丹渓は南方人なので滋陰をいうのである。中国南方と気候が似る日本で、東垣らより丹渓の書が格段に歓迎された理由の一つは、この点にあるかも知れない。とまれ前述のごとく、本書を含めた丹渓の説は歓迎の反面、また強い反論も張景岳などから受けたことは事実である。金元四大家随一の理論家ではあるが、師承関係からであろうか、丹渓は時にいささか強引な論理を展開させている。これに立腹するのは景岳一人でもなかろう。

 本書の初版年は前書と同様、丹渓が没した一三五八年以降かと思われる。現存版本では元版を上海中医学院図書館(黒口本)および鎮江市図書館(『格致余論』と合刊)が所蔵と記録される。しかし前書は『東垣十書』初版(一三九九〜四二四間)所収本であるのは疑いなく[10]、後書も同様に明初版の可能性が考えられる。本書はこのように『十書』所収本として、中国・朝鮮・日本で幾度も出版されている。図2は明の成化二〇年(一四八四)に刊行された第二版『十書』本である。

 日本では『十書』本として五回復刻されたほか、単行本として一〇回前後刊行されている。その中には詳細な頭注のある一六五九年刊本がある。また撰者不詳『局方発揮抄』(一六二八刊、古活字本)や、岡本一抱『局方発揮諺解』(一七〇八刊)などの解説書が別に出版されている。いずれも江戸前期に集中しており、『格致余論』と同じく当時の朱丹渓ブームの反映と考えられる。本書も『和刻漢籍医書集成』に、江戸刊の『十書』本と頭注本を収録した。
 

『本草衍義補遺』(一三四七後成)(図3

 朱丹渓の撰になる薬物書。現1巻。「翁伝」「石表辞」ともに本書を丹渓の著として挙げ、後者は若干巻と記す。現存本は浙江図書館に嘉靖一五年(一五三六)刊本一巻がある。比較的多いのは方広の『丹渓心法付余』(一五三六序刊)の巻首にある一巻本であるが、丹渓の序などはない。図3は一五七二年刊本で、注5)所引文献。これには石鐘乳以下の一五三種と、新増補として防已以下の四三種、計一九六種の薬物が収載されている。

 『本草衍義』は宋の政和六年(一一一六)に寇宗{大+百+百}が、『嘉祐本草』『図経本草』(一〇六一)の不備を補う目的で編撰した書。計五〇二種の薬物を載せ、各薬の解説では所々にいわゆる金元薬理の萌芽といえる論が見える[11]。それゆえ丹渓がこれに補遺を加えたものと思われる。しかし『本草綱目』巻一「歴代諸家本草」は丹渓のこの書について、「二〇〇種近くを載せる。発明する所が多いが、蘭草を蘭花としたり、胡粉を錫粉とするなど旧説の誤りを踏襲している。また諸薬を五行に分配している点は牽強に失する」と論評する。
 

 以上のほか、朱丹渓には次の著作があった。

『傷寒弁疑』:戴良の「翁伝」が丹渓の著として挙げるもので、宋濂の「石表辞」が『傷寒弁』若干巻と記す書と同一であろう。これ以外の記録や該当する現存書は見当たらず、早くに佚伝したと思われる。

『外科精要発揮』:「翁伝」「石表辞」ともに丹渓の著として挙げ、後者は若干巻と記す。書名からみて、陳自明の『外科精要』(一二六三)に関する書と思われるが、現存等の記録はなく不詳。

『宋論』『風水問答』:「石表辞」は丹渓の著として前者一巻と後者若干巻を挙げる。該当する現存書はなく、早くに散佚したと思われる。しかし丹渓友人の胡翰による「風水問答序」が『皇明文衡』巻三八に収録されている。これによれば『風水問答』は医書ではなく、理学関係の書と思われる。『宋論』も同類の書であろう。

 なお丹渓の作ではないが、弟子[12]らの著作などが混合され、紛らわしい以下の書がある[13][14][15]
 
『(丹渓先生)金匱鉤玄』:丹渓の高弟で明・太祖の侍医も任じた戴元礼(思恭、一三二四〜一四〇五)の作。全一巻。一三五八年頃の成立。『医統正脈全書』本、『丹渓心法付余』本、『四庫全書』本、『周氏医学叢書』本などがある。『平治薈萃』と書名を改められた叢書本(『薛氏医案』本など)もある。

『丹渓心法』:一種の叢書。景泰年間(一四五〇〜五六)に楊楚玉が編刊したのが原形らしい。これに王季{王+獻}が方剤を増加して成化の初め(一四六五〜八〇頃)に刊行。さらに程充が校訂を加え、成化十七年(一四八一)に序刊した五巻と付録から、種々の現行本が派生した。『平治薈萃(金匱鉤玄)』『丹渓語録』『丹渓薬要』など、丹渓門下の趙以徳・劉叔淵・戴元礼および私叔者の著作からなる。しかし全文を載せるのは『金匱鉤玄』のみで、他は乱雑な寄せ集めとなっている。現存版本は多い。曲直瀬道三は本書をよく利用しており、彼の『啓迪集』には一九二回も引用されている。

『丹渓先生医書纂要』図4):『丹渓纂要』『医書纂要』ともいう。廬和の作で、成化二十年(一四八四)の成立。版本により二〜八巻本がある。丹渓の原著と『丹渓心法』から七八病門に再分類し、注疏を加えたもの。中国・朝鮮の各種版本があり、日本でも一六二一年と一六四五年に復刻されている[16]。曲直瀬道三は『啓迪集』に本書をしばしば引用し(二二回)、また巻子本に仕立てられた道三の筆写本は『啓迪集』の前駆をなす特有の形式で整理されており(図4)、興味深い。

『丹渓心法付余』:方広の作で、嘉靖十五年(一五三六)の序刊。全二四巻。『丹渓心法』をもとに、その付録内容を正文に入れ、さらに方広の按語等を加え計二四病門に再分類したもの。前半に『本草衍義補遺』『丹渓十二見証』『丹渓論』などの付録がある。二〇数種の中国版があるほか、日本では一六七一年の和刻本がある。

『丹渓治法心要』:丹渓門下の編纂した書を、高賓が校訂し嘉靖二十二年(一五四三)に序刊したもの。全八巻。内容は『丹漢先生医書纂要』と大同小異。

 その他:丹渓の名に托した書で、現存するものを以下に掲げておく。

『丹渓手鏡』三巻、呉尚黙等校訂。
『丹渓脈因証治』二〜八巻、王世仁撰。
『丹渓心法類纂』四巻、楊{王+旬}撰。
『丹渓薬要』、趙良仁撰。
『丹渓心要』、趙応春校訂。
『丹渓要刪』、適々道人校訂。
『丹渓医案』一巻、撰者等不詳。
『丹渓摘玄』二〇巻、撰者等不詳。
『丹渓衣鉢』、撰者等不詳。
『朱震亨産宝百問』五巻、銭国賓撰。
『脈訣指掌病式図説』一巻、明の書店の偽作。
 

文献および注

[1]本稿は、真柳誠「『格致余論』『局方発揮』解題」、『和刻漢籍医書集成』第六輯、エンタプライズ(一九八九)に基づき、改訂を加えたものである。

[2]『和刻漢籍医書集成』第六輯(同上)所収の『格致余論』による。

[3]宋濂『宋文憲公全集』巻五〇(『四部備要』所収、中華書局)。

[4]戴良『九霊山房集』巻五(『叢書集成初編』所収、商務印書館、一九三六)。

[5]「石表辞」と「翁伝」は、隆慶六年(一五七二)山東布政使施篤臣刊『丹渓心法付余』(台北・新文豊出版公司影印、一九八二)の末尾にも付録されている。

[6]任応秋ら『中医各家学説』、上海科学技術出版社(一九八六)、p.八四。

[7]本書の内容を論評したものでは、愈弁『続医説』の巻一「格致余論」、張介賓『景岳全書』の「伝忠論」、孫一奎『医旨緒余』などがある。

[8]本篇は丹渓の自撰ではないという説もある。丁光迪ら『中医各家学説・金元医学』、南京・江蘇科学技術出版社(一九八七)、p.三五〇。

[9]本書など『東垣十書』に収められている書で、元版と記録された書は多いが、その図版を確認できたものは均しく明初の刊本と審定された。注[2]文献所収、真柳誠「『東垣十書』解題」。

[10]劉翰怡『嘉業堂善本書影』(一九二九)は東垣『内外傷弁』と『局方発揮』の図版を載せ、同書目録にいずれも元刊本と記す。しかし両書は明初の『十書』第一版本であることが注[9]所引文献にて確定された。嘉業堂の両書は革命後、上海中医学院図書館が所蔵している(朱偉常「封面小識」、『上海中医薬雑誌』一九八六年一期、p.三五)。したがって『上海中医学院中医図書目録』(一九八〇)が記す元版『局方発揮』は元版でなく、明初刊本である。

[11]真柳誠「『本草衍義』に見られる宋代薬理説の発展」、『第一〇五回日本薬学会口演要旨集』(一九八四)、p.三六四。

[12]方春陽「朱丹渓弟子考略」、『中華医史雑誌』一四巻四期(一九八四)。

[13]岡西為人『中国医書本草考』、南大阪印刷センター(一九七四)、p.一六五。

[14]程宝書ら「丹渓著作真偽考」、『中医薬学報』一九八六年六期、p.五四。

[15]冷方南ら『倡導養陰的朱丹渓』、北京・中国科学技術出版社(一九八八)、p.六。

[16]小曽戸洋「和刻本漢籍医書総合年表」、『日本医史学雑誌』三七巻三号(一九九一)、p.四一二。