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真柳誠「日中韓古医籍の特徴と関連」、文部省・学術情報センター共同研究『和漢韓医籍
国際総合目録の実行可能性調査1 所在調査と書誌調整(92/93)』31-54頁、 1993年11月

日中韓古医籍の特徴と関連

The characteristics and relations between old medical books
of Japan, China and Korea

真柳  誠(北里研究所附属東洋医学総合研究所医史学研究部)
Makoto MAYANAGI, Department for the History Medicine,
Oriental Medicine Research Center of ths Kitasato Institute

目次

1  医史学と古医籍情報                          2-3-1 平安時代
2  現存の古医籍                                2-3-2 鎌倉・室町時代
 2-1 漢籍                                      2-3-3 古活字版
  2-1-1 帛書・木竹簡                            2-3-4 江戸整版
  2-1-2 巻子本と残簡                            2-3-5 近世活字版
  2-1-3 宋版                               3  相互の関連−流通と復刻
  2-1-4 金元版                                 3-1 中国と朝鮮−韓版漢籍と中国版韓籍
  2-1-5 明版                                  3-2 朝鮮と日本−和刻韓籍
  2-1-6 清版                                  3-3 中国と日本−和刻漢籍と中国版和書
  2-1-7 その他                                 3-3-1 江戸前−渡来書と医書出版の開始
  2-2 韓籍                                      3-3-2 江戸期−中国医書の受容
  2-2-1 高麗時代                               3-3-3 明治期−医書の流出と中国版和書
  2-2-2 李朝版                               4  結語
  2-3 和書                                   * 文献
 

要旨

   韓国・日本の伝統医学は中国医学の影響下に発展しつつ、3国各々に固有の医学を築いてきた。その永い歴史において無数の医学文献が作成され、現代に様々な形で伝えられている。これら医書は各々の国ごとに、また時代ごとに顕著な相違がある。と同時に、渾然一体となって変化・発展してきた側面もある。本稿では医史学と書誌学の観点から、3国の医書の特徴と関連を考察した。
 

ABSTRACT

    Traditional medicine in Korea and Japan has been developed by leading of Chinese medicine, also three countries have made original one each other. In their long history, numberless medical documents were written and handed down to now by many forms. Those medical books have notable differrences by each country and each time. At the same time, they have some aspects which developed and changed forming a consistent whole. In this paper, the characteristics and relations between those medical books of three countries were studied by the history of medicine and a bibliographical point of view.
 

1  医史学と古医籍情報

   医史学は、医療・医家・医書・疾病など医学関連の諸分野における史実の解明を目的とし、分野的には歴史学に包括される。したがって近代以降のいわゆる西洋医学で、ふつう医史学は医学概論・倫理などと共に教養の一分野とされる。一方、伝統医学では教養分野であると同時に、臨床医学に直結する基礎医学ともされる。しかし歴史研究である以上、医史学も過去の文献記載の考証がまず前提であり、そのため古医籍に関する正確な書誌情報の蒐集は必須である。

   現代に命脈を保ち続ける伝統医学には、ギリシャ−アラブ由来のユナニ(グレコ・アラブ)医学、インドのアユルベーダ医学、そして中国系の医学などがある。このうち中国系伝統医学は文字・紙・印刷術ほかの理由もあり、古い段階から伝承された古医籍が多い。中国・日本・朝鮮半島の医書は刊本・写本をあわせ、19世紀までの書目総数で2万前後になるであろうか。それら古医籍の書誌情報は、これまでも少なからぬ書物にまとめられている。重要なものを以下に記そう。

1.中国歴代正史(二十四史)などの「芸文志・経籍志」方技部ほか
2.永  ほか『四庫全書総目提要』医家類(1789)
3.北京図書館ほか『中医図書聯合目録』(1961)
4.尚志鈞ほか『歴代中薬文献精華』(1989)
5.馬継興『中医文献学』(1990)
6.厳世芸ほか『中国医籍通考』(1990-)
7.中国中医研究院図書館『全国中医図書聯合目録』(1991)
8.藤原佐世『日本国見在書目録』医方家(891-897頃)
9.多紀元胤『(中国)医籍考』(1831)
10森立之ほか『経籍訪古志』医家類(1857)
11岡西為人ほか『宋以前医籍考』(1948)

12国書研究室『国書総目録』(1963)
13国文学研究資料館『古典籍総合目録』(1990)

14三木栄『朝鮮医書誌』(1956)
   1.から11は主に漢籍に関するもので、8.以降は日本人の編纂。それぞれ情報の範囲・質・量に相違はあるが、いずれも主に中国・日本と朝鮮総督府時代の所在記録に依拠しているため、欧米および戦後の台湾・韓国・北朝鮮の情報は少ない。これがために東アジア伝統医学と医史学の立場からも、本共同研究の推進が求められた。
 

2  現存の古医籍

  一般に医書は実用書であるが、書物である以上、ほかの和漢韓籍と形態や伝承の経緯に大差はない。そこで中国・日本・朝鮮半島の代表的伝存医書についてのみ、時代的特徴現存状況を概説する。

2-1 漢籍

  漢籍古医書は版本の差を除き、書目数のみで1万数千程度かと思われる(表1参照)。なかには和刻版・李朝版のみで伝わる書もあるが、ここでは中国版に限って記すことにする。
 

2-1-1 帛書・木竹簡

   紀元前から後漢時代にかけての書物。今後の発掘でさらに発見される可能性もある。現在まで以下の書が公刊ないし報告されている2)

○敦煌出土書:漢代の遺跡から1907年に出土の木簡。一部に薬方が記されている。

○居延出土書:漢代の遺跡から1930年に出土の木簡。一部に薬方が記されている。

武威出土書:後漢前期の墓から1972年に出土の薬方書(木簡・木牘、図1)。

○馬王堆出土書:前漢(-193)の墓から 1972-73年に出土。薬方・経絡・灸・房中・導引・養生などの計15書(帛書・竹簡)からなる。薬物も出土している。

○阜陽出土書:前漢の墓(-164)から1977年に出土(竹簡・木簡)。『行気』(釈文は未発 表)と、一種の薬物書『万物』の2書がある。

○張家山出土書:前漢の墓から1983年に出土。「馬王堆医書」4種の別伝本1書と、もう1種に関連する書の計2書(竹簡)からなる。釈文は未発表。なお満城の漢墓(-112年)から1968年に出土の医療器具にも、「医工」の文字が刻まれている。

2-1-2 巻子本と残簡

   六朝から唐代の書物で、1900年以降の敦煌・莫高窟での発見品が最も多い3)。ほかの西域発見品4)、および遣隋・遣唐使などによる将来書の伝写本もある。

○敦煌出土:スタイン文書(大英図書館、図2)、ペリオ文書(パリ国立図書館)、オルデンブルグ文書(ロシア・エルミタージュ博物館)、大谷文書(竜谷大・大谷大ほか)、李盛鐸文書(北京大ほか)がある。このほか医書断片を天理大・杏雨書屋が所蔵し、羅振玉文書の現所在は不詳。

○トルファン出土:大谷文書(竜谷大・ソウル国立博物館ほか)、ルコック文書(ベルリン国立図書館)、ウイグル自治区博物館文書(1963-5年出土)。

○その他の西域出土:マスペロ文書(楼蘭・カラホト出土、パリ国立図書館)、コズロフ文書(カラホト出土、旧ソビエト科学アカデミー?)。

○日本の伝写本:仁和寺本(『新修本草』『太素』『明堂』−国宝、『太素』の一部は杏雨書屋が所蔵)、尊経閣文庫本(『明堂』−重文、『小品方』)。


2-1-3 宋版

   北宋の歴代皇帝は医学を重視し、974年以降、国定の本草書を勅撰・刊行。また1057年に校正医書局を設置して漢代から唐宋代の重要医学文献、すなわち『嘉祐本草』『図経本草』『傷寒論』『金匱玉函経』『金匱要略』『千金方』『千金翼方』『脈経』『素問』『甲乙経』『外台秘要方』『針経』を続々と校刊した。医書の印刷は唐末に開始されていたが 、北宋政府の校刊事業は大規模であったため、医学の理論的統合の基盤が形成され、金元時代の医学ルネッサンスの誘因となった。またこれら北宋版を底本に、以後の中国のみならず朝鮮半島・日本で復刻が繰り返されている。しかし北宋版医書はほとんど散逸し、現存宋版の大多数は南宋版(図3)である。

   宋版医書は次の機関に所蔵されている。中国では北京図書館、南京図書館、北京大学、台湾故宮博物院、台湾国立中央図書館など。日本では宮内庁書陵部、静嘉堂文庫、杏雨書屋、内閣文庫、米沢図書館、蓬左文庫、東京国立博物館など5)。現存書数は日本のほうがやや多いであろう。韓国・北朝鮮の所蔵は未詳であるが、可能性は少ない。

2-1-4 金元版

   金版医書の現存はきわめて少なく、北京図書館・静嘉堂文庫・台湾故宮博物院に各1〜2書の所蔵が知られているのみ。元版医書は比較的多く現存し(図4)、上述機関のほかに中国中医研究院、中国医学科学院、上海図書館、上海中医学院、台湾中央研究院歴史語言研究所、香港大学、天理大学、東京大学などに所蔵されている5)。なお元版と目録に記録されるが、実際は明初版の誤認であることがしばしば見られる6)。現存書数は日・中で大差ないように思われる。

2-1-5 明版

   現存書数は宋金元版よりはるかに多く、中国(台湾)・日本のみならず欧米各地の図書館にも所蔵されている。しかし洪武から嘉靖年間の版本はやや少なく、明版の中では貴重書の部類にはいる。とくに明初に地方政府が刊行した藩府本の医書は精善6)図5)。また日明交易の関係からか、熊宗立の刊行書など中国南方の刊本は日本に伝存書が多い。内閣文庫所蔵の明版医書は、質量ともに世界のトップクラスといえよう。なお明写本には孤本や散逸した宋元版の写しなど、善本性の高い書もままある。

2-1-6 清版

   もっとも現存書数が多く、伝存率も高い。多くが中国に所蔵されるが、まれに日本にのみ伝えられた書や版本もある。およそ清代と重なる江戸時代に、現存記録の範囲で長崎に輸入された医書は、筆者の統計で書目数が約 980に上った。当然その大多数は清版であり、刊行からおよそ数年〜数十年内に渡来していた。また渡来書の3分の1程度が復刻されており、輸入から和刻までおよそ数年〜数十年以内であった。鎖国体制下にもかかわらず、かくも迅速に日本に伝播・普及していたことは、医書が実用書であることも関連すると思われる。

2-1-7 その他

〇甲骨・金石文:中国最古の記述で、一部に医療関係の文字や文章が見えるが、書物の範囲には入らない。

〇拓本:書聖として存命中から名高い東晋・王羲之(332-79)の書簡類は、拓本につくられて後世に数多く伝えられている。その中には医薬に関する話題もある。直接伝存する唐以前の医書が極端に少ない中にあって、王羲之の書簡類は書物ではないが当時の状況を窺わせる貴重な史料といえる7,8)

   また洛陽郊外の竜門石窟には、唐初頃に薬方を刻した石室がある。現在は相当に破損が進行しているが、その明拓本が上海中医学院に現存しており、史料価値が高い。当薬方は平安時代の医書に引用されるので、明らかに当時の留学僧らが拓本を日本に持ち帰っている9)

   さらに北宋政府が経絡・経穴の標準テキストとして校刊した『銅人兪穴鍼灸図経』は、石碑にも彫られて一般公開された。これは明初に再建され、その明拓本が宮内庁書陵部と蓬左文庫に現存。また明代北京城趾から北宋原刻の残石5片が、1965-71年に出土している。『銅人兪穴針灸図経』は早くに散逸しているので、これらの拓本も価値が高い10)

2-2 韓籍


 現存の韓籍古医書に関する書誌・所在などについて、筆者は寡聞にして三木栄氏11)と沈 〓俊氏12)以外の研究を知らない。よって以下は主に両氏の報告に基づき記すことにする。なお朝鮮半島ではほとんどの時代で固有の年号を用いず、多くは中国の年号が使用された。この理由から中国の目録等では、韓籍を漢籍に誤認することが多々あるので注意しなければならない。印刷韓籍は特徴のある型押した表紙、大本が多く、紙の繊維が長く丈夫で和紙より厚め、全体に重く、独特な肉太の字体などに留意すれば、漢籍や和書と混同することはまずないだろう。

2-2-1 高麗時代

   古く韓籍医書に『百済新集方』『新羅法師方』のあったことを、日本の『医心方』(984 ) に引用される逸文より知ることができる。また10世紀からの高麗時代にも『済衆立効方』『御医撮要方』などの医書があり、多くは刊行されていたことが後代の引用文などから分かる。しかし現存するのは『郷薬救急方』だけらしく、唯一その李朝再版本が宮内庁書陵部のみに所蔵(図6)される。

2-2-2 李朝版

   14世紀末から近代までの李朝では、獣医などの関連分野を含めて 200以上の韓籍医書が知られている。調査が進み、写本でのみ伝わる書なども網羅されれば、実数はより増えるであろう。医書の出版は李朝の初期に多かったらしい。しかし後述のように豊臣秀吉の2度にわたる侵略で略奪ないし散逸したので、李朝初期の書の多くは日本に現存し、漢籍も含め総計70部以上に達するという。李朝医書の白眉は勅撰の『郷薬集成方』『医方類聚』『東医宝鑑』などで、『東医宝鑑』(図7)の評価はとりわけ高い。

   なお李朝時代は木版本(整版)とともに活字印刷が盛んに行われ、医書でも李朝古活字本は現存が少なく、きわめて珍重される。この活字技術も秀吉の侵略で日本に伝えられ、江戸初期の医書は活字本が多い。

   漢籍も含めて李朝版医書を所蔵する日本の機関は、宮内庁書陵部、内閣文庫、国会図書館、蓬左文庫、東京大学、京都大学、東洋文庫、静嘉堂文庫、杏雨書屋、大森文庫、岩瀬文庫、尊経閣文庫、大阪府立図書館、宮城県立図書館、金沢市立図書館などである。また個人蔵書にも多く、いまでも古書市にしばしば出品されている。韓国ではソウル大学に所蔵が多い。

2-3 和書

   和医書は写本を含めて書目数で1万に達する可能性もあるが13)、未集計につき実数は分からない。『国書総目録』と『古典籍総合目録』の精査が望まれるが(1998年11月、国文学研究資料館が試験公開した『国書総目録』と『古典籍総合目録』を連合したデータベースの検索結果によると、医学に分類される書は10439件、本草に分類される書は1803件、双方に重複する書は3件だった)、しばしば前書に和刻の漢籍医書がみられるのは難点といえよう。しかし和刻や日本写本でのみ伝えられる『黄帝蝦蟇経』『真本千金方』『集注八十一難経』など、普通の中国本より善本性のさらに 高い江戸幕府関係の復刻医書も少なくないので、和刻漢籍の価値を無視することはできない。

   一方、平安の医書と称しても、現存する『大同類聚方』『金蘭方』『薬経太素』『康頼本草』などは、みな後世の偽作である。また『康平傷寒論』『康治本傷寒論』のごとく、北宋版より以前の古写本に基づくよう見せかけた偽書も江戸中期以降に出現している。いずれも和医書に相違ないが、現在も誤解が広く流布しているのは遺憾きわまりない。

   日本固有の医書がいつ始まるか、正確には不明である。藤原京・平城京の遺跡から、薬方・薬名・医書名を記した木簡や削り屑も出土しているが、書物の体裁はない。もし『大同類聚方』『金蘭方』の真本が伝存するなら、あるいは平安以前に遡れたかも知れない。しかし現在の両書からはもはや不可能である。ともあれ和医書と呼べる現存の著作は、平安以降の作からといえよう。なお和書は所在や年代の確認が比較的容易なので、以下は代表的な書について記すことにする。

2-3-1 平安時代

   本来この時代の書は大多数が巻子か粘葉装であるが、原本の伝存は少ない。内容の大部分は唐宋までの医書から引用するが、日本むきの部分が引かれ、引用書のかなりは逸書のため史料価値が高い14)。また一部の書は江戸になってから刊本とされている。

 早期では類書『秘府略』(831)の巻864(巻子本は国宝)に本草の内容が記される。最古の医書と呼べるのは、一種の薬名辞典の『本草和名』(918年頃、図8)で、江戸末期の精写本が台湾故宮博物院ほかに所蔵されるが、古巻子本や古写本は伝わらない。『和名抄』(922年頃)も本草的部分が多く、『弘決外典抄』(991年)までは唐代の本草書や医書を引用。『香字抄』(1047年頃)や『香要抄』(1092年頃)からは宋代の本草書が引用され始 める。

   とくに『医心方』30巻(984年)はこの時代を代表する総合性医書で、200をこす引用文献15)は唐代までのもの。本書は全文が現存して史料価値がきわめて高い。その半井本(古巻子本)と仁和寺本(粘葉本)はともに国宝。当時代最後の医書には『長生療養方』(1184年) がある。

2-3-2 鎌倉・室町時代

   この時代まだ和医書では刊本がなく、『馬医絵巻』(1267年) のように巻子仕立もある。鎌倉中期頃からは新渡来の宋版医書の影響が本格的となり、南北朝までに宮廷医や僧医らにより『本草色葉抄』(1284年)、『医談抄』(1284年頃)、『医家千字文注』(1293年)、 『頓医抄』(1304年)、『万安方』(1315年)、『福田方』(1362-8年) などが著された。このうち『本草色葉抄』は日本で『傷寒論』を引用した最初の文献として、『万安方』は中国で散逸した北宋の精緻な解剖図(図9)を転載することで注目される。

   室町時代になると渡明した医家達により、金元医学と南宋医学を融合した明医学が導入され始めた。当時の和医書には『延寿類要』(1456年)、『三喜回翁医書』(1498年?)、『続添鴻宝秘要抄』(1508年)、『能毒』(1566年)などがある。以上の一部は江戸になって 刊行されている。なお漢籍ではあるが医書の出版(整版)はこの時代に始まる。

2-3-3 古活字版

   文禄の朝鮮侵略(1592年)でもたらされた活字技術で、医書の出版活動は一挙に盛行した。この古活字版医書は寛永年間の約1630年代まで続き、多くは漢籍であったが、医書を民間に広く普及させた文化的功績はきわめて大きい。嚆矢とされる1595年刊の『医方大成論』と『本草序例』は、ともに日本で漢籍から抜粋・改編したもの。のち両書は復刻が重ねられ、江戸初期に大流行した。

   初期古活字版(図10)の字体はもちろん李朝版に似るが、李朝活字も明の前期から中期の字体に影響されている。したがって字体が変化しつつ間接的に伝えられたことになるが、後期の古活字版はやや和風化する。なお古活字版の版面は全般にかなり幅広で、これも李朝版の影響であろう。

   一方、活字版は整版より誤字の訂正が容易なため、正確なテキストができる。それで江戸初期の医塾用に多種の医書が出版されたらしい16)。しかし訓点や送り仮名が付けられず、少数しか印刷できないので、のち医書も商業的な整版に移行していった。これらの理由で古活字版は現存率が低く、版本的にも孤本であることが多い。すでに江戸後期から珍重視されたらしいが、今日ではきわめて高価となっている。

2-3-4 江戸整版

   古活字版医書の時代は約40数年で終り、のち明治のごく初期まで医書の大多数は整版で出版された。その数をにわかに推定することはできないが、漢籍を含めるならば書目数のみで千をゆうに越すのは疑いない。一部の家刻本や官刻本を除き、これらの主流は数量ともに商業出版が占めている。その早い時期の出版は京都(京師)に多いが、まもなく大坂(大阪、浪花、浪華)と江戸(東都)でも行われ、3都の書店が合同で出版する例も少なくない。この場合は各書店ごとに刷るため、巻数が比較的少なくて版木の転送にかさばらず、よく売れた医書であるようにみえる。しかし江戸後期になると、出版の重心が江戸に傾いているようである。

   整版の最大利点は、復刻が安直なことにある。もとの書を裏返して貼り、そのまま彫って版木とするかぶせ彫りなら、基本的には寸分たがわぬ書ができる。それで江戸前期の整版には古活字版からの復刻が相当あり、字体や版面の特徴で失われた古活字版の存在を推定できることがある。ベストセラーの医書も多くこの方法で復刻され、書店名や刊年まで同じに彫った別書17)があれば、海賊版の可能性も疑われる。また書店にとって整版は売れる数だけ刷ればよく、版木が摩耗するまで出版し続けられる利点もあった。

   整版の第2の利点は、レ点などの訓点と送り仮名が刷り込めることである。古活字版では、本屋がそれらを書き入れて販売することもあったという。訓点は日本独自の方法で、一種の翻訳でありながら漢文がそのまま保持できる機能をもつ。漢文の和書ならば著者がふつう訓点を付けるが、漢籍医書には儒者が内職で付ける場合もあったようだ。ともあれ一定の基礎があれば、さほどの学医でなくとも訓点付きなら原典の字面は追える。さらに辞書を引かずにすむよう原典の欄外から欄内まで、徹底的に字句の注を彫り込んだ漢籍医書まで出版されている(図11)。もちろん注も訓点付きで。このような鼇頭注のある医書は日本独特のようで、むしろ研究書というより虎の巻と呼ぶのがふさわしい。

   さて寛永末の1640年代からは李朝版にかわり、明後期の万暦版の影響を受けた整版医書が徐々に出てくる。すなわち明朝体の要素が古活字の字体にまじり、1600年代後半の元禄前後からやや肉太の和風明朝体の医書が増加。同時に版面の幅広な書も減少する。この明朝体の影響は幕末まで続いた。一方、大福帳スタイルで小型の横本医書が寛永頃から出版されるようになり、字体に変化はあるが明治まで続く。小型の横本には座右でめくるための処方書・薬物書・重宝書が多く、これも日本独特であろう。

   他方、1750年代の宝暦前後より和風明朝体が肉細でやや右上りに変化した字体も医書に現れ始め、文化・文政頃の1800年代初めから定着。さらに幕末にかけて優雅な宋朝体が流行し、幕府医官らの書に好んで用いられた。この時代最後を飾る和刻医書の白眉は、古巻子本の『医心方』『真本千金方』などを、精写本とみまがうばかりに復刻した幕府医官らの一連の刊行物といえよう18)。なお薄様雁皮紙の医書が江戸中期以降に多いことなど、紙質にもいささかの時代的変化がみられる。

2-3-5 近世活字版

   江戸後期から明治初年に再流行した近世の活字版には医書が多く、多治比氏は所見書を99種まで報告している19)。再流行の理由は、量より質と低経費を求めた学術性の高い医書の刊行が、この時代になって必要とされたからといえよう。当然多くは自費的な非商業出版で、なかには小論文に類する書や趣味的といえそうな書もある。

   刊行年の明らかな最古の例は1777年に復刻した宋の『楊氏家蔵方』で、本書は宋以後に逸伝していた。近世活字版の漢籍・韓籍医書はさほど多くないが、このような孤本や善本の出版が大部分を占める。ヨーロッパ医書の訳本も少なくない。しかし過半数は和書で、蘭学研究書と幕府医官の伝統医学研究書などが多い。

   とりわけ多量に活字版を出版したのは、かつて幕府医官を任じた喜多村直寛である。彼は1851年から1873(明治6)年にかけて、17種もの書を自費出版している(図12)。しかも漢籍類書の『太平御覧』1000巻・153冊と韓籍医書の『医方類聚』 266巻・264冊という、じつに厖大な書もそれには含まれている。直寛が幕府から借金までして出版した『医方類聚』は、のち李朝政府との修好条約締結時に明治政府から献上され20)、後述のごとく美談を添えることとなった。なお近世活字版もおよそ私家版につき印刷部数が少なく、現存書はまれで貴重視されている。
 

3  相互の関連−流通と復刻

   すでに例をいくつか挙げてきたように、医書は多様な背景を伴いつつ3国間で流通し、それぞれで復刻も重ねられてきた。その永い歴史は現在に続き、ますます複雑な様相を呈し始めている。以下これを2国間ごとの流通を中心に概説しよう。

3-1 中国と朝鮮11,21)−韓版漢籍と中国版韓籍

   中国の唐代にほぼ相当する新羅朝では、692年に唐令にならい医学教育制度を制定して漢籍医書をテキストに定めた。いま、それらに由来する伝本はない。ただしその一つ、漢代の『針経』 9巻は中国で北宋代すでに失われていたが、高麗政府に現存していた。本書は北宋政府の1091年の求めで献上、1093年に中国で初出版されている。この北宋版『針経』9巻は南宋代に書名を『霊枢』と改められ、24巻本として復刻された。本書はこの系統のみ現在に伝わり、中国医学最基本古典の一つとして使用されている。

   ほぼ北宋から元代に相当する高麗時代では、1058年と1059年に『張仲景五蔵論』などの漢籍医書を出版。いずれも伝本はないが、李朝の『医方類聚』に一部の引用文が保存されている。『医方類聚』は唐・宋・元・明初の医書153種以上の引用文からなり、中韓日3国で最大の医学全書である。その所引書のうち40種ほどは佚書で史料価値が高く、幕末の医官らは所引文から30数書を輯佚している。

   中国の明初から清代にほぼ相当する李朝時代に復刻された漢籍医書(図13)は、書目数で80種ほどの現存が知られている。それらは宋代から清代までの医書で、なかには李朝版が伝存する最善本のこともある。とくに明の1425年に序刊された針灸書の『神応経』(おそらく藩府本)は、数奇な復刻経緯で現在に流布して興味深い。すなわち室町時代の1473年、畠山氏の使節が本書と日本の灸書を李朝に献上した。翌1474年に李朝政府は両書を復刻し、その李朝版が日本に渡来して1645年に和刻された。1990年には和刻版に基づく活字版が中国で復刻され、この中国版は日韓にも輸出されている。つまり本書は明版→日本→李朝版→和刻版→中国活字版という、550年以上にわたる3国間の伝承をたどり現代に流布しているのである22)

   一方、『医方類聚』『針灸択日編集』『東医宝鑑』『済衆新編』などの李朝医書には現代の中国版もあり、前3書については和刻版を介している。たとえば明治維新後に来日した清の羅嘉傑は『針灸択日編集』の写本(李朝版の存在は未詳)を入手し、それを日本で1890(明治23)年に復刻。さらに清国で翌年と翌々年に羅嘉傑本が再版され、この再版本は1987年に北京で影印復刻されて日本にも輸入されている22)

3-2 朝鮮と日本11,21)−和刻韓籍

   かつて百済・新羅などから、日本へ渡来してきた医人は多い。984年の『医心方』に『百済新集方』『新羅法師方』が引用されるように、渡来人のもたらした韓籍・漢籍の医書も少なからずあったろう。しかしそれは遣隋使以前の6世紀末頃までで、以後は中国との直接交易が主流となってゆく。

   のち大量の韓籍や漢籍・韓刻の医書が日本に伝入したのは、いうまでもなく1592〜98年間の2度にわたる豊臣秀吉の侵略による。1592年に秀吉軍が略奪した書籍は、船数艘・笥数十・車数台・数千巻ともいう。当理由で16世紀までのあらゆる書籍がほとんど失せ、却って日本に多く伝存している。さらに活字や印刷工まで連れて来たので、前述のごとく医書も急激に活字出版されるようになった。以上は書籍に限らず、医人も捕虜とされたらしい。1778年刊の『針灸極秘伝』の序には、慶長年間に李朝医官の金徳邦から永田徳本が授けられた術に由来する、と記されている。なお古活字医書の出版に関与した御殿医の曲直瀬玄朔は、秀吉の命で1592年に毛利輝元の治療に渡海。その地で韓版の漢籍医書『山居四要』を入手し、輝元の求めで抜粋書を和語にて作成している。

   このとき伝えられた相当量の医書が、御殿医の曲直瀬正琳(養安院)に宇喜多秀家や秀吉から贈与されたらしい。三木栄氏は養安院に所蔵されていた医学関係の韓籍と韓版漢籍を、諸史料より書目数で約50種リストアップしている。前述の李朝版『神応経』と『針灸択日編集』の写本、図13の李朝版『経史証類大観本草』も養安院の旧蔵書である。この李朝版『経史証類大観本草』は元版に基づく善本だったので、幕府医官の望月三英が1775年に復刻している。

   もちろん養安院以外のルートで伝存する韓籍医書も多い。たとえば『医方類聚』は1477年に30組印刷されたのが李朝唯一の出版で、それを加藤清正軍が奪ったという1組のみ宮内庁書陵部に現存する23)。前述のように本書を1861年に活字復刻した喜多村直寛は、1876年に李朝と明治政府の修好条約が締結されるとき、格好の礼品としてこの自家版『医方類聚』(図14)の贈呈を申し出た。自国に失われること久しい本書に接した李朝の医官らは 、直寛の義挙を大いに賛えたという。のち1965年に、ソウル市の東洋医科大学(いまの慶煕大学)は総計4983名を動員して直寛版を模写し、影印出版。ようやく『医方類聚』は本国に広く普及した。1982年には北京でも直寛版に基づき活字で復刻され、中国・日本に流布している。ただし北京版の妄改は目をおおうばかりで、本書の面目を失うこと著しい20)

   一方、江戸時代では李朝医書の渡来がまれだったという。それで李朝の1613年に初版が出た『東医宝鑑』の内容に注目した徳川吉宗は、医官に校訂させて復刻し、1724年と1730年に京都の書店から発売。これは江戸時代初の官版医書であった。1799年にも大坂で同版木にて後刷りされ、1811年と1837年にはその各一部が清国に輸出されている24)。明治になると同版木まで清国に輸出され、訓点等が削られた1890年の後印本も出版された。なお将軍の即位に応じて12回にわたり来日した朝鮮通信使は、良医や医員と呼ばれる医官を同行していたことが多い。彼らは鎖国下に来日した数少ない外国人医家だったので、各地で日本の医家が訪問。その医事問答などを集めた記録のいくつかは出版され、医書に関する質疑応答もまま見られる25)

   ところで李朝時代の古医書はいまも日本の市場に出ている。なかには日本の書き入れや蔵書印がなく、1910年の日本統治以降あるいは最近の伝来と目される書も少なくない。それらの大多数は個人蔵書として流転する運命にある。漢籍や和書に比較して韓籍医書の所蔵記録が極端に少なく、公的機関による購入もさほど期待できない現在、今後は市場品に調査をおよぼす必要もあろう。

3-3 中国と日本−和刻漢籍と中国版和書

3-3-1 江戸前−渡来書と医書出版の開始

   渡海して高句麗と戦った大伴連狭手彦は 562年に帰国のとき、呉人子孫の智聡を連れ来たった。そして智聡は「内外典・薬書・明堂図 164巻」などを将来したという。これが日本に医書が伝えられた記録上の最古とされている。602年には百済僧の勧勒が来朝し、「方術之書」などを持参している。702年の大宝律令では医生・針生・薬園生らのテキストに、『甲乙(経)』『脈経』『本草(集注)』『小品(方)』『集験(方)』『素問』『黄帝針経』『明堂』『脈決』『流注(図)』『偃側(図)』『赤烏神針(経)』を指定。752年には『太素』、787年には『新修本草』も追加されたので、それら漢籍医書が遣隋・遣唐使などで伝来していたのは疑いない。事実それらに由来する古巻本の『小品方』『明堂』『太素』『新修本草』も、前述のごとく現伝する。また藤原宮跡から出土した 703年頃の木簡には「本草集注上巻」ほかの文字があり、旧仁和寺本『新修本草』巻15(杏雨書屋所蔵)の巻末には 731年に田辺史がこれを書写した旨の奥書がある。

   このように平安前期までに伝来した漢籍医書は、相当な数まで蓄積されていた。そのことは先に記した『日本国見在書目録』の記録書や、『秘府略』『本草和名』『和名抄』『医心方』などの引用書から容易に知ることができる。漢籍はいずれも唐代までの書で、『隋書』経籍志や『旧唐書』経籍志に見えないものも多い。

   すでに言及したように、平安後期の11世紀からは宋本草を引く和書も著され、宋医書の伝来が知られるようになる。あるいは1159年に没した藤原通憲の『通憲入道書目録』は、新渡来と目される7医書を記録。鎌倉の1240年に宋留学より帰国の弁円が持ち帰った書、とされる『普門院蔵書目録』には約30の医書名が記され、その一つ1227序刊の宋版『魏氏家蔵方』は宮内庁書陵部にいまも伝えられている。また日本旧伝の宋版に「金沢文庫」の印が多見されるように、鎌倉時代に伝来した宋医書は相当数に上った。それらが刊行後さほどの時間へず渡来していたことも、『本草色葉抄』成立年および所引書の刊年との差から証明できる。

   さて室町の頃から明医学の影響が見えはじめ、いわゆる五山版の一種として明医書の復刻が1528年に始った。すなわち明の熊宗立著『医書大全』の和刻(整版、図15)で、これが日本初の印刷医書とされる。底本は1467年版の熊宗立刊本で、開版者は堺の豪商かつ医学にも通じた阿佐井野宗瑞、跋は学僧の月舟寿桂幻雲が記した。この阿佐井野版『医書大全』は江戸初期にも復刻されたらしく、小曽戸洋氏は計20余点の現存を報告している26)。ところで阿佐井野版は熊宗立の刊行木記まで忠実に復刻しているので、幻雲の跋部分が除去された場合、和本と唐本の相違を知らなければ明版に誤認するほどである。じっさい1987年に上海から影印復刻された本書は1467年の熊宗立版とうたうが、諸点より阿佐井野版たることは明らかである。

   日本第2の印刷医書は阿佐井野版の8年後、1536年に越前の一乗谷で開版された『俗解八十一難経』で、これも熊宗立が著述・刊行した書の復刻である。驚くべきことに、当越前版『俗解八十一難経』の版木は、いまなお一部が現存している27)。一方、一乗谷の朝倉氏遺跡から出土した医書の焼片も、熊宗立版『湯液本草』の模写であった。しかも越前版の校訂にあたった谷野一柏と開版を援助した朝倉氏は、ともに阿佐井野版に跋を記した幻雲と交遊があり、堺とも関連がある。このように日本初と第2の医書出版にとって、熊宗立の医書、堺の財力・文化と地方豪族の関係がおよぼした影響は無視できない28)。なお刊行年は不明であるが、この時代には宋の『察病指南』も復刻されている。

3-3-2 江戸期−中国医書の受容

  江戸期は前述のごとく、古活字版・整版・近世活字版により全時期にわたり漢籍医書の復刻がなされた。小曽戸洋氏の報告によると復刻年の明らかな漢籍医書は、書目数で 320種ある29)。また筆者らの集計で、江戸時代に輸入された中国医書は書目数で約 980、同一書の別名による重複を除くと 864種まで確認できた30)。そこで両書目の比較から、江戸期における漢籍医書の受容を考察してみた31)。まず単純に書目数を比較すると輸入漢籍に対する和刻の率は37%となる。分野別では針灸・内経・痘疹関連書の復刻率が群をぬいて高く、それら漢籍は日本で需要が高かったと推測される。恐らくその理由は、日本人にとって針灸が技術的に、内経が内容的に、痘疹が治療的に難しかったので、多くの中国知識を必要としたのであろう。

   次に復刻率の高い針灸・内経の書について、年代的変遷を統計してみた。すると輸入は江戸時代中期の初めに大きなピークがあり、これは両国政府がともに対外貿易を緩和した時代に一致する。一方、和刻は前期に大きなピークがあった。これは江戸時代前期に中国医学を積極的に受容したこと。そして中期以降は中国医学の日本化が進行し、日本人の著作が多く出版されたので、中国書の需要が減少したことの反映と考えられる。

   さらに江戸時代前期に需要があった内経と針灸の書を、輸入と和刻の時間差から検討してみた。すると古典の『素問』『霊枢』は輸入から和刻まで20年以上かかっているが、それらの解説書や針灸の解説書などは、いずれも輸入から10年以内で和刻されている。すなわち古典は難解なので、解説書が当時の日本人にまず必要だった可能性が考えられよう。さらに漢籍医書全体でみると、大部分は中国の出版後ほぼ数十年以内で日本に輸入され、多くが輸入から数十年以内に復刻されている。当時の日本が鎖国体制にもかかわらず、比較的短い時間差で和刻版が出版されているのは、積極的に最新の中国医学知識を導入していた状況の反映とみられよう。

   では漢籍医書全体で江戸時代どのような書が好まれ、受容されていたのだろうか。そこで輸入と和刻の回数が多い上位10書をみると、『本草綱目』のみ共通し、他は完全に異っている。ところで中国商船の船主は、中国での流行情況から日本でも売れると判断し、輸入書を選択している。つまり当時の中国で流行した書は輸入回数が多く、逆に日本で流行した書は和刻回数が多い。したがって輸入回数が多い書と、和刻版の出版回数が多い書の明瞭な差は、中国での流行に左右されず、日本の視点で中国医学知識を選択したことの反映といえる。この日本の視点を、復刻率の高い内経・針灸関係書の巻数で比較してみた。すると輸入回数の多い書は『素問』『霊枢』が各24巻など、いずれも10巻以上の大部な書であった。一方、和刻の回数が多いのは、いずれも3巻以内の小部な書であった。相違は明瞭であろう。輸入回数が多い書は中国で流行していたと同時に、大部で高価なため利益率が高い書。和刻回数が多い書は小部なため、漢語の読解が困難な日本人にも、通読しやすい書なのである。

   さて江戸中期からは復古を唱えた古方派と呼ばれる人々により、伝統医学の日本化が顕著に進行した。彼らは漢代医書の『傷寒論』『金匱要略』の処方をとりわけ重視し、両書はのち爆発的に流行した。筆者らの知見によると、『傷寒論』は19種の和刻版があり計50回ほど印刷。『金匱要略』は9種の和刻版があり計25回ほど印刷されている。両書の解説・研究書も漢籍・和書にかかわらず、おびただしく出版されている。一方、江戸後期頃からは近世活字版に象徴されるごとく、善本古医籍の復刻や研究書の出版も盛んとなる。その中心を担ったのは江戸医学館などの医官らであった。彼らは清朝考証学の手法を医学古典の研究に導入し、数多くの高度な研究書を著述。同時に古医籍を蒐集して善本を復刻するのみならず、『医籍考』『経籍訪古志』に代表される書誌研究も重ねていった。

  以上の江戸時代を総括すると、第1に輸入書の相当部分がすみやかに復刻され、積極的に中国医学を受容していた。第2に、内容や技術的に難しい分野ほど中国の知識が必要とされた。第3に、解説書や実用書が最初に求められた。第4に、巻数が少なく読みやすい書が流行した。第5に、漢籍医書の復刻は江戸時代前期に多い。第6に、江戸時代中期以降の伝統医学の日本化で、まず『傷寒論』『金匱要略』が熱心に研究・出版された。第7に、江戸後期以降さらに広い範囲の古医籍が研究・出版されたことである。

3-3-3 明治期−医書の流出と中国版和書

   1868年からの明治政府は伝統医学を公認せず、のち植民地とされた朝鮮半島・台湾でも同様の政策が実施されたが、中国大陸はかろうじて伝統医学を存続しえた。そのためほとんど無価値となった伝統医学文献の多くは急速に散逸し、国外ではおもに清国人の購入するところとなった。その蒐集により消滅を免れた貴重文献は少なくない32)

   当時来日し文献を蒐集した中国の学者には、1890年に来た楊守敬、1898年に来た李盛鐸、1901年に来た羅振玉、1909年に来た丁福保らがいる。このうち楊守敬のコレクションが最大で、現在は台北の故宮博物院に大部分が保存されている。李盛鐸コレクションはこれに次ぎ、いま北京大学図書館にある。羅振玉が入手した多くは考証学者の森立之の蔵書で、一部はすでに中国から復刻された。一方、丁福保は1910年に出版された和田啓十郎の『医界の鉄椎』を翌年の1911年に中国で翻訳出版するなど、日本の新しい伝統医学研究を続々と紹介33)。それらを通じ伝統医学と近代医学の結合を提唱し、中西医学の表現を中国で最初に使用した人である。

   中国に流出したのは医書のみならず、その版木にも及んだ。たとえば江戸医学館が1849年に宋版を復刻した『千金要方』の版木は、上海に輸出されて1878年に印刷。それを1955年に北京で影印し、現在もこの版本が広く利用されている。このように当時の中国で、日本の版木を購入し印刷した医書は23種。日本で入手した漢籍医書を復刻したのは10種。日本の文献から復元した漢籍医書は4種。また和医書は46種も出版されている34,35)

   以上のごとく日本は江戸時代の約 300年間、独自の視点で中国医学を受容し、日本化していた。そして江戸時代までに蓄積された文献や研究の一部が、皮肉にも暗黒の明治時代に日本を離れ、ようやく近隣国のかつての学恩に報いたのである。
 

4  結語

  東アジア3国の永い伝統医学の歴史は、日中韓の各種医学文献として現在に伝えられている。その総数は厖大といってよい。なによりも問題を複雑にしているのは、伝承に伴う書誌の多様な変化といえよう。なぜなら医書は実用書の側面が大きく、経書などよりはるかに自在に変化するからである。ひとつひとつの文献について検討を加えるならば、当分野の情報不足に気づかざるをえないだろう。刊本ですら、書名・著者・成立年・刊行年・刊行者・印刷年・巻数・冊数・所在・内容のいずれにも、完全な情報は望みえないのが現状である。

   しかしながら和漢韓の医書は固有の特徴を持ちつつ、現在も渾然一体となって変化・発展している。そこで本小稿では医史学と医学文献学の観点から、多様な変化にかいまみえる歴史背景を中心に、3国の医書の特徴および関連を考察してみた。
 

文献と注

 1) 真柳誠「中国所在漢方関係図書、著作者、出版の国別分類表」、『漢方の臨床』31巻2号73−75頁(1984)。

 2) 小曽戸洋「古代中国の医学史料」、『現代東洋医学』 6巻 3号85−92頁(1985)。

 3) 小曽戸洋「敦煌文書中の医薬文献  その2・3」 、『現代東洋医学』 7巻 3号87−93頁・同 4号79−86頁(1986)。

 4) 小曽戸洋「敦煌文書中の医薬文献  その4・5」 、『現代東洋医学』 8巻 1号80−86頁・同 2号92-101頁(1987)。

 5) 阿部隆一「宋元版所在目録  医家類」、『阿部隆一遺稿集』第1巻 109-119頁、汲古書院(1993)。

 6) 真柳誠「『東垣十書』解題」、『和刻漢籍医書集成』第6輯解説2-18頁、エンタプライズ(1989)。

 7) 源川進「王羲之の疾患と療薬について」、『二松学舎創立 110周年記念論文集』711-734頁、二松学舎(1987)。

 8) 岸田知子「王羲之と薬」、『密教文化』 172号71−86頁(1990)。

 9) 真柳誠「竜門薬方洞碑文−明拓本」、『漢方の臨床』35巻 2号 120-122頁(1988)。

10) 小曽戸洋「針灸銅人形と『銅人兪穴針灸図経』残石」、『漢方の臨床』35巻 9号868-870頁(1988)。

11) 三木栄『朝鮮医書誌』、学術図書刊行会(1973)。

12) 沈〓俊『日本訪書志』、韓国精神文化研究院(1988)。

13) 石原武「明治前日本鍼灸関係古書目録」、『経絡治療』72号8-45頁(1983)。本目録は『国書総目録』を中心に明治前の針灸関係書(針灸、経絡・経穴、針灸関係古典研究書など)をリストしており、総書目数は約750 ある。和医書の総数はこれから推計して、1万に近い可能性がある。

14) 真柳誠「『医心方』巻30の基礎的研究」、『薬史学雑誌』21巻 1号52−59頁(1986)。

15) 小曽戸洋「『医心方』引用文献名索引」、『日本医史学雑誌』32巻 1号89-118頁・同3号 333-352頁(1986)。

16) もちろん整版に比較し素人でも出版が容易で、経費が格段に少ない理由もある。

17) 版木を購入した後刷や同版元の復刻(かぶせ彫り)など、合法的な出版ならば刊記や見返しを彫り直すのが普通。かぶせ彫りの復刻本は、糊付けで紙が伸びて版面が若干大きくなるので、子細に比較すると分かる場合もある。

18) 序や跋の写刻体を見るまでもなく、江戸後期からの彫り師と版下書き職人の技術は一般的に高く、幕末前後は中韓日の史上でも最高の域に達していたといえる。

19) 多治比郁夫「近世活字版の医書・本草書」、『大阪府立中之島図書館紀要』第20号30−51頁、大阪府立中之島図書館(1984)。

20) 真柳誠「喜多村直寛による『医方類聚』の復刊」、『漢方の臨床』39巻12号1488−1490頁(1992)。

21) 三木栄『朝鮮医学史及疾病史』、思文閣出版(1991)。

22) 蕭衍初・真柳誠「中国新刊の日本関連古医籍」、『漢方の臨床』39巻11号1431−1444頁(1992)。

23) 真柳誠「現存唯一無二の『医方類聚』初版」、『漢方の臨床』39巻10号1248−1250頁(1992)。

24) 福井保『江戸幕府刊行物』80−83頁、雄松堂出版(1985)。

25) 吉田忠「朝鮮通信使との医事問答」、『日本文化研究所研究報告』第24集27−69頁、東北大学(1988)。

26) 小曽戸洋「『名方類証医書大全』解題」、『和刻漢籍医書集成』第7輯解説2-16頁、エンタプライズ(1989)。

27) 真柳誠・小曽戸洋「現存する日本第二の医書印刷の版木」、『漢方の臨床』37巻 4号360-362頁(1990)。

28) 真柳誠「一乗谷の本草書」、『物のイメージ  本草と博物学への招待』、朝日新聞出版局(近刊)。

29) 小曽戸洋「和刻本漢籍医書総合年表」、『日本医史学雑誌』37巻 3号 407-415頁(1991)。

30) 真柳誠・友部和弘「中国医籍渡来年代総目録(江戸期)」、『日本研究』第 7集 151 -183頁、国際日本文化研究センター(1992)。

31) 真柳誠「日本における中国医学の受容−江戸期の輸入・復刻書」、第7回国際東洋医学会招待講演(1992、11、
20)、未定稿。

32) 真柳誠・関信之・肖衍初・森田傳一郎「中国に保存される日本伝統医学文献の孤本」、『日本医史学雑誌』38巻2号 19-21頁(1992)。

33) 高毓秋・真柳誠「丁福保与中日伝統医学交流」、『中華医史雑誌』1992年 3期 175-180頁(1992)。

34) 真柳誠「清国末期における日本漢方医学書籍の伝入とその変遷について」、『矢数道明先生喜寿記念文集』643-661頁、温知会(1983)。

35) 真柳誠「中国において出版された日本漢方関係書籍の年代別目録」、『漢方の臨床』3巻 9号47−51頁・同10号32−41頁(1983)。