←戻る
真柳誠「『仲景全書』解題」『和刻漢籍医書集成』第16輯所収、エンタプライズ、1992年3月(2007,11,23追記)

『仲景全書』解題

真柳 誠


 『仲景全書』には構成書目を異にする三種がある[1]。各々の成立と関係はこれまでほとんど注意がはらわれていなかったため、しばしば誤解を生じ、現在に至っている。ついては各『仲景全書』の書誌から話を進めたいと思う。


一、明刊『仲景全書』
    
〔構成と刊行経緯〕
 当版本は明の趙開美が万暦二十七年(一五九九)に「刻仲景全書序」を付して刊行。次の四書計二六巻から構成される。

  成無己『注解傷寒論』一〇巻
  張仲景『金匱要略方論』三巻
  張仲景『(翻刻宋板)傷寒論』一〇巻
  宋雲公『傷寒類証』三巻

 各書を個々に呼ぶとき、とりわけ前三書を他の版本と区別するため、ふつう仲景全書本〜や趙開美本〜という。厳密には後述の別版『仲景全書』本とさらに区別するため、明仲景全書本〜や明趙開美本〜と呼ぶべきかもしれない。いささか繁にすぎるとは思うが。

 さて『仲景全書』と名づくのは、この明の趙開美刊本が最初である。「刻仲景全書序」には、趙開美が本全書を刊行するに至った経緯が述べられている。

 すなわち万暦二十三年(一五九五)に流行した疫病から趙開美の家人を救った名医の沈南ム氏は、開美に『注解傷寒論』を見せた。しかし虫食いや誤字で読みにくいため、開美は同書を数本もとめて校訂。沈氏の意見でこれに『金匱要略』を合わせ、父の助言により「仲景全書」の名で刊行することにした。ところが両書が彫り上った時、さらに文章が完全な宋版『傷寒論』を入手したので合刻を決心。また仲景書の要点を簡潔に整理した『傷寒類証』も発見し、付録することにした。こうして全書が彫り上がり、刊行するための当序文を記した万暦二十七年は、開美の父が没してすでに四年後だったという。当全書の刊行は、趙開美にとって父の遺命であった。そして両人には『傷寒論』の最善本である宋版を世に伝えたい、という気持があったと思われる。ともあれ最もオリジナルに近い『傷寒論』は、今もって当全書の、『(翻刻宋板)傷寒論』が唯一である。その功績はまことに大きい。

〔趙開美について〕
 趙開美およびその父には医家としての活動や著述がないためか、中国でも近年になって簡単な紹介があるにすぎない[2]。また両人がこのような善本の発見や校訂、普及に尽力したことも斯界にはかつて知られていない。よっていま知りえた資料[3]〜[6]に基づき、概略を記しておこう。

 趙開美の父は名を用賢(一五三五〜九六)、字を汝師といい、定宇と号した。江蘇省常熟の出身で、広東参議の官であった趙承謙の子。隆慶五年(一五七一)に進士となり、官は吏部侍郎に至った。享年は六一。著書に『松石斎集』『三呉文献志』『国朝典章』『因草録』がある他、家蔵の善本より房玄齢『管子注』の刻工名もある版本を万暦十年(一五八二)に復刻している。

 趙開美(一五六三〜一六二四)は初名を埼美、字を元度といい、清常道人と号した。江蘇省常熟の海虞県出身。父の功徳により、南京都察院照磨から刑部貴州司郎中の官を歴任した。享年は六一。彼は終生、蒐書とその校訂を好んだ。同郷の高官である銭謙益(一五八五〜一六六四)が記した「趙君墓表」には、これを「近古いまだあらず」と評する。ちなみに同じ常熟に住んだ喩嘉言の『傷寒尚論篇』等にも、銭謙益が序を寄せていることは興味深い。

 趙開美は書室を脈望館と号し、著書に『脈望館書目』がある。脈望館は今も常熟の南趙弄一〇号に、明の建築そのままが現存するという。彼は蒐集した善本等を数多く復刻。『仲景全書』の他、以下の趙開美校訂本が現存している。

○『東坡先生志林』(一五九五刊)
〇『陳眉公雑録』(一六〇一刊)
〇『東坡先生艾子雑記』『漁樵間話』『仇池筆記』『雑纂』(一六〇二刊)
〇『酉陽雑俎』前集・続集(一六〇八刊)
〇『新唐書糾謬』『周髀算経』『同上音義』『数記遺』『鉄網珊瑚』(万暦間刊)
〇『太史升庵文集』(刊年不詳)

 また父の『松石斎集』を晩年の万暦四十八年(一六二〇)に刊行している。なお朱丹渓の没後三百年にして出現した『丹渓手鏡』は偽書であるが、開美がこれを信じて綿密に校訂した手校本があったという銭曽の記録[7]もある。一方、張卿子の『集注傷寒論』一〇巻を趙開美が著したとの説もある[2][8][9]。発端は多紀元胤の誤認にあり[10]、他はこれの踏襲にすぎない。元胤が明刊『仲景全書』を未見の段階で、次に述べる江戸刊『仲景全書』の編成から趙開美と張卿子を混同した理由は分る。しかし明刊本の復刻もある現在、誤認が続けられるのは問題である。

〔現存本と復刻本〕
 趙開美の明刊『仲景全書』は、現在まで計六組の現存が確認されている[11]。すなわち中国科学院図書館・中国中医研究院図書館・中国医科大学図書館・中山医学院図書館に各一組(2005,8,23追記:2003年8月の実地調査により、中国中医研究院図書館本中国医科大学図書館本だけが正確な趙開美版で、中国科学院図書館本は後述の江戸刊(和刻)本、中山医学院図書館本は中山大学図書館に合併されたため梱包されていて調査できなかったが、清代の覆趙開美版の可能性がある。07,11,23追記:中山大学図書館本〔編号37837〕を07,9,3に調査したところ「丙申(光緒22、1896)二月羊城/文阩閣校刊」とある後述「光緒二十年(一八九四)崇文斎ケ氏刊本」の修刻本だった)、台湾国立中央図書館に一組[12]、日本の国立公文書館内閣文庫に一組である。内閣文庫本はもと幕府の紅葉山文庫架蔵書で、承応元年(一六五二)に入庫した記録がある[13]。
 2007,11,23追記:新たに趙開美版が上海図書館・上海中医薬大学図書館に確認された。これらと各版本の相違を検討した結果、趙開美初版(中国中医科学院(もと研究院)図書館・上海図書館・上海中医薬大学図書館)・趙開美修刻2版(中国医科大学図書館・台北故宮博物院〔もと台北中央図書館本〕)、および明末清初の復刻趙開美初版(内閣文庫)の計3版本が知られた。最善本は趙開美修刻2版である。

 この明刊『仲景全書』全体はその後、中国・日本ともに一度も再版などがなされていない(2005,8,23追記:中医研究院所蔵本の全冊が1990年代に北京の中医古籍出版社から線装で影印出版された)。ただし『傷寒類証』以外の所収三書は、個別の単行本として翻刻や影印出版されてきた。後述の別版『仲景全書』二種に収録の各書も厳密にはこれに該等しようが、それ等を除けば以下の各書がある。

『(翻刻宋版)傷寒論』[14][15]
@寛文八年(一六六八)岡嶋玄提翻刻本(およびその後印本)
A寛政九年(一七九七)浅野元甫翻刻本
B弘化元年(一八四四)稲葉元煕翻刻本
C安政三年(一八五六)堀川舟庵影刻本
D民国元年(一九一二)武昌医館翻刻本
E民国十二年(一九二三)商務印書館影印本
F民国二十年(一九三一)中医書局影印本
G一九五五年 重慶中医学会鉛印本
H昭和四十三年(一九六八)燎原書店影印本
I昭和五十九年(一九八四)広川書店影印本(『漢方医薬学』所収)
J昭和六十三年(一九八八)燎原書店影印本
K平成三年(一九九一)自然と科学社影印本

 以上のうち@ABDGは、程度の差はあれ明趙開美本の旧姿を失っており、今となっては価値がない。Cはほとんど忠実な影刻に返り点のみを付けたもの。これを影印したIK、および返り点を消去して影印したEとEを再影印したFHは、Cとともに明趙開美本と実質上の差はない。Jは明趙開美本そのものの影印であるから、底本(内閣文庫本)の刷りが不鮮明な点まで反映しているが、文献的に底本と同等の価値を持つ。

『注解傷寒論』系
 現在まで、北京の人民衛生出版社から影印縮刷版が一九五六年と一九八二年に出ている。いずれも同一で、各葉の版心を削除する点以外は、実際上の価値は明趙開美本と大差ない[16]。

『金匱要略方論』系
@一九五六・一九八二年 人民衛生出版社影印本
A昭和六十年(一九八五)日本漢方協会影印本
 @は版心を除去した縮刷影印、Aは底本(内閣文庫本)そのままの原寸大影印である。いずれも明趙開美本と同価値を持つ[17]。


二、江戸刊『仲景全書』

〔構成書目〕
 当版本は江戸中に五版元から印行されている。見返しや刊記がそれぞれ改められている以外、基本的に同一版本で、次の三書計一六巻から構成される。

 張卿子『集注傷寒論』一〇巻
 張仲景『金匱要略方論』三巻
 宋雲公『傷寒類証』三巻

 すなわち明刊『仲景全書』から『(翻刻宋板)傷寒論』と『注解傷寒論』を除き、かわりに『集注傷寒論』が加えられているのである。ただし趙開美序・厳器之序・未詳氏後序・張機序・林億等序・元祐牒文・医林列伝、および『注解傷寒論』の目録と運気図解など、『集注傷寒論』にない部分は残されている。『集注傷寒論』については後述するが、当書は成無己の『注解傷寒論』を基本に、計二五医家と張卿子の注を追加した書である。『傷寒論』の本文と成無己注という実用部分を考えると、『宋板』と『注解』はほぼ当書に含まれている。この理由から江戸刊『仲景全書』の編成が生じたのであろう。

 本稿では前述の明刊『仲景全書』と区別する都合上、これを和刻版と呼ぶことにする。所収各書は和刻『集注』、和刻趙開美本『金匱』などと略称することにしたい。

〔刊行経緯〕
 和刻版は次の五種類が存在している。

@万治二年(一六五九)寺町弥兵衛ら刊本
A寛文八年(一六六八)秋田屋総兵衛蔵版本
B寛文八年(一六六八)上村次郎右衛門蔵版本
C宝暦六年(一七五六)出雲寺和泉ら京都十書坊再校本
D寛政元年(一七八九)芳蘭榭蔵版・林権兵衛ら印本

 @は刊記(図1)に「開板」とあり、和刻の初版と考えられる。ABは@の後印本。Cは@の補刻本。DはCの後印本。版本上@〜Dは区別されるが、文字や内容に本質的差はない。

 なおDの蔵版元と印刷書店名は荻野元凱が刊行した『外科正宗』(本『集成』十三輯所収)と一致するので、Dの印行にも元凱が関係していた可能性が疑われる。

 ところでこれら和刻版の見返し(図2〜4)を見ると、A〜Dのそれはいずれも「張卿子先生手定 仲景全書」と刻され、あたかも張卿子が『仲景全書』を編纂したごとくである。一方、@の見返しのみは「張卿子先生手定 傷寒論 成無己註附諸名家 聖済堂蔵版」と記され、誤解を招くことはない。しかも中国に現存の清初刊『張卿子傷寒論』七巻も、同じく「聖済堂蔵版」である[18]。かつ七巻本『張卿子傷寒論』[19]と一〇巻本『集注傷寒論』の巻一〜六はまったく同一。そして七巻本の巻七を、一〇巻本は巻七〜九に分巻。さらに七巻本にはない『注解傷寒論』の巻一〇をそのまま転録し、計一〇巻としている。また『注解』の序・目録・運気図のなども転録されている。以上の諸点より、和刻版の@は中国の聖済堂刊『張卿子傷寒論』七巻を一〇巻本に改編。これと明趙開美本『金匱』『傷寒類証』を底本とし、翻刻合印したものであることが分る。そしてA以降から見返しも「仲景全書」に改刻され、ついに別な『仲景全書』が出来あがってしまったのである。

 ちなみにこの改編は日本でなされている。それは本来の七巻本『張卿子傷寒論』にない、『宋板』『注解』による校異の頭注が、一〇巻本『集注傷寒論』の各所に@の段階から付刻されているからである。中国版を和刻する際、単に返り点などの刻入にとどまらず、このような改編と校異までなされていることは、江戸前期すでに『傷寒論』研究の下地が相当に醸成されていたことを窺わせよう。この校異は誰の指示によるのだろうか。まだ不詳であるが、@が出版された一六五九年は名古屋玄医の活躍より少し前である。あるいは曲直瀬玄朔に連なる人物であろうか。


三、清末・民国刊『仲景全書』


〔構成書目〕
 清末民国間には、明版とも和刻版とも構成書を異にする『仲景全書』が幾度も刊行されている。それぞれ版式等の細部は相違するが、構成書は同一で、以下の五書計二〇巻からなる。

 張卿子『集注傷寒論』一〇巻
 張仲景『金匱要略方論』三巻
 宋雲公『傷寒類証』三巻
 成無己『傷寒明理論・薬方論』三巻
 曹楽斎『運気掌訣録』一巻

 つまり和刻版に『傷寒明理論』と『運気掌訣録』の二書が加えられた構成である。中国では明の趙開美版以降、「仲景全書」と称するのは本構成書のものしかない[20]。したがって、清民国版とでも呼ぶべきだろうか。これが和刻版を基本とする書目に編成されている理由には、興味深い逸話が秘められている。

〔刊行経緯〕
 清民国版は以下の五種が知られている。

@光緒二十年(一八九四)崇文斎ケ氏刊本(07,11,23追記:中山大学図書館に当版の修刻「丙申(光緒22、1896)二月羊城/文阩閣校刊」本〔編号37837〕がある)
A民国五年(一九一六)千頃堂書局石印本
B民国十八年(一九二九)受古・中一書店石印本
C民国二十一二年(一九三四)千頃堂書局再印A本
D民国六十一年(一九七二)台湾集文書局影印A本

 この清民国版には、胡乾元が光緒十八年(一八九二)に記した「重刊仲景全書叙」(図5)が前付され、刊行に至る事情が述べられている。すなわち胡乾元は長孫より、上海で開業している日本人の医家が和刻の『仲景全書』を所持していることを聞いた。これは中国に絶えてないものなので、長孫を通じ懇願して借り出した。そして成都のケ少如に翻刻依頼。この際、『傷寒明理論』『運気掌訣録』も増補したという。

 したがって@は和刻版を底本に増補・翻刻したもので、ABCDはそれを翻印したものであることが知られよう。事実これらの『傷寒類証』巻末には、和刻Cの刊記がそのまま載せられている(図6〜8)、さらに返り点は除去するものの、和刻版『集注』の頭注もそのまま踏襲されている。この点より、清民国版の底本は宝暦六年の和刻版と分る。

 ところで和刻版を所持していた日本人医家を、胡乾元は上海で医名が高いというが、残念なことにその名を記していない。当時、上海に居住していた日本人の名を知る資料も、筆者はまだ知らない(2004, 7,19追記:岸田吟香(一八三二〜一九〇五)の可能性もあるが、彼なら販売するはずで、「懇願して借り出」す必要もなかろう)。ただ胡乾元が序を記した光緒十八(一八九二)年は明治二十五年で、漢医存続運動の中心を担った温知社が明治二十年に解散するなど、運動が終焉を迎える頃である。一方、長崎の医家で多紀元堅の門に入った岡田恒庵は、明治五年に上海・蘇州を旅行。その紀行文『滬呉日記』を明治二十三年に刊行している[21]。このような雰囲気の中で、中国に医療の場を求めた日本人がいたことも不思議ではなかろう。


四、和刻版所収三書
 
〔『集注傷寒論』〕
 本書一〇巻は前述のごとく、本来の『張卿子傷寒論』七巻と本質的な相違はない。著者の張卿子については多くの地方志に伝があり[22][23]、報告もある[24][25]。これらから事跡をまとめると以下のようである。

 張卿子(一五八九〜一六六八)は名を遂辰、号を相期といい、卿子は字である。江西の出身で祖父が農民だったので、みずから西農とも称した。父について銭塘(杭州)に移り住み、当時その地は患者に「張卿子巷」と呼ばれたという。現在の杭州市横河橋の東北、大学路の付近に相当するらしい。

 幼時より聡明であったが病弱で、挙子を志す一方で医書も独学していた。万暦年間に国子監の学生となって南京に学び、大儒の董其昌らと詩を唱和。詩名は高く「湖上」「白下」「蓬宅」「衰晩」の四編があり、『張卿子先生遺集』(一六七〇刊)に収められている。また天啓二年(一六二二)に名画家の曽鯨が描いた肖像(図9)も、浙江博物館に現存する。このとき卿子は三三歳。

 しかし清が北京に入城した順治元年(一六四四)からは文人を捨て、医に隠れた。その治験は康煕の『仁和県志』に載る。医学著作では『集注傷寒論』以外に、『易医合参』(『海州府志』)と『経験良方』(『杭州府志』)があったという。前書は現存記録がない。後書は『張卿子経験方』または『秘方集験』(一六五七成)と名づけられる書に相当すると思われるが、これは王夢蘭纂、張遂辰鑑定となっている[27]。著名な門人に『傷寒論集注』を著した張志聡、『傷寒論直解』を著した張錫駒があり、二人は「銭塘二張」と称された[28]。また『仁和県志』は弟子に張元之と沈亮辰(晋垣)の名を挙げる。なお喩嘉言の弟子である徐彬は、その著『傷寒一百十三方発明』(本『集成』十五輯所収)に、最晩年の張卿子より序文(一六六七頃)を受けている。卿子は年七九で卒した。

 本書の成立年は不詳。張卿子はその手がかりとなるべき年号等をどこにも記さない。中国に現存する明末版や清初の聖済堂版も刊年不詳である。したがって確たる根拠もないが、およそ医に転じた順治年間(一六四四〜六一)で、かつ和刻が出た一六五九年以前の成立と想定するしかないだろう。

 本書はその名のごとく、諸家の注を集めたものである。本書の「諸家評注姓氏」には張卿子自身を含め、計二六名の名が記される。しかし最も基本とするのは『注解傷寒論』の成無己注で、全文を転録している。各人の注は皆一字下げて本書に記されるが、そのうち文頭に「〜云」とないのが成注である。なお各巻頭には趙開美の名を記すので、張卿子が本書の底本に用いたのは趙開美本『注解』であったと分る。

 当時は方有執以来、喩嘉言らが王叔和・林億・成無己を仲景の賊臣と非難していた。これに対し張卿子は成無己注を評価し、初学者が任意にこれを捨てるべきではないと「凡例」の第一で強調する。また「弁脈法」から「可不可」諸篇までの全篇も、旧本の順次に変更を加えていない。これ故、任応秋は彼を「維護旧論派」の筆頭に挙げる[29]。しかし、成無己注の全てに盲従しているわけではなく、各所には理にかなった反論も少なからず見える。だからといって、喩嘉言の如く妄りに削除したり改変するのは思慮に欠ける、という張卿子の姿勢こそ儒の「述而不作」に則ったものといえよう。この点があって、本書はわが国での『傷寒論』の受容に特異な価値を発揮できた。なぜなら『注解傷寒論』の和刻本は、江戸初の古活字版と幕末の仿元版の二度しか出ていない。いずれも部数が少ない上に返り点がないのに対し、本書は『注解』の全てを収め、返り点があり出版部数も多かったからである。明刊『仲景全書』から『注解』と『宋板』を除くかわりに、本書を入れた江戸刊『仲景全書』の編纂目的は、こうして十分にはたされていたと思われる。

〔『金匱要略方論』〕
 本書三巻は張仲景の雑病治療書に由来し、北宋の高保衡・孫奇・林億がその節略写本に大幅な校訂を加えて面目を改め、治平三年(一〇六六)に初版が出た一種の復原書である[30]。現存本では元のケ珍刊本が最古で、明・兪橋刊本や明・無名氏刊本等のルーツともなっている[31]。趙開美本はケ珍刊本を主底本に翻刻したもので、ケ珍序も転載している。また少数の字句は無名氏刊本に拠って直した形跡がある。

 これを更に翻刻したのが和刻趙開美本であるが、当然いくつかの字句には誤刻等が生じている。『経籍訪古志』は次のようにいう[32]。

和刻版は趙開美本の旧を、まま失っている。例えば臓腑経絡先後病篇の首条で、「心火気盛」の下に更に「心火気盛」の四字が付加され、「肝気盛」の下にも「故実脾」の三字が付加されている。痙湿暍篇の林億注で「一云其脈{氵+含}」の「{氵+含}。」を「滄々」に誤り、防已黄耆湯の方後文「腰下如氷」の「氷」字を「水」に誤る。また歴節病篇の桂枝芍薬知母湯主治文「身体魁臝」の「魁」字を「尫」に改作する類である。

 ここで指摘されるうち、前二点の付加に類する例は他にそうはないと思う。というのは字形等の一致から、和刻版は明版のかぶせ彫りに近いと判断されるからである。それでも底本とした明版の印刷が不鮮明なら、後半に指摘される類の誤刻は処々に生じるだろう。ただし以上の指摘に限れば、相違点はいずれも兪橋本、とりわけ和刻兪橋本の特徴と一致している。その仔細は省くが、趙開美本を和刻する際、不鮮明な文字等を兪橋本系で判読したのは明らかである。

 ともあれ幕末になって幕府の紅葉山文庫から明版『仲景全書』が借り出され、ようやくこのような相違に『訪古志』の編者らが気付いたのである。その以前は和刻趙開美本も、幕府医官らによる『金匱要略』の校勘によく利用されていた。中華民国時代、政府の西医一本化政策に抗し、中医の科学化を唱えた上海の陸淵雷はこれに気付いた一人だった。彼はその著『金匱今釈』の序文(一九四〇)で次のようにいう。

近頃、趙開美原刻の『仲景全書』を見る機会を得た。ところがその『金匱』より、巷に出ている『仲景全書』(清民国版)の『金匱』のほうが良い。そして多紀父子の趙本による校勘(『金匱輯義』など)を見ると、原刻の趙本『金匱』とはかなり違う。すると多紀の使用した趙本は明の原刻ではなく、巷の『仲景全書』本と同じものであろう。

 清民国刊『仲景全書』本は和刻版に基づくのであるから、この推定どおりである。ただ明版と和刻版系の文字の良劣は、元のケ珍本が出現した今となっては比較しても意味がない。とは言うものの、ある一点で和刻趙開美本『金匱』は現在も価値が認められる。それは返り点が唯一つけられた和刻『金匱』という点である。他系統の版本も合わせ、江戸中に『金匱』は二〇回以上刊行されているのに、趙開美本以外はなぜか返り点がいずれもない。タイプはやや違うが、雲林院作了の『金匱要略国字解』という例外もあるにはあるが。

 『集注傷寒論』のみを本『集成』に収録する当初の予定を変更し、『仲景全書』全体を復刻することにしたのは本理由もある。文字にいくらか難点があるとはいえ、これを是とされたい。

〔『傷寒類証』〕
 本書には、宋雲公が金の大定三年(一一六三)に記した序文がある。それによると宋雲公は、かつて張道人より本書を得た。張道人も異人よりこれを得たが、世上にはないすばらしい書である。よって刊行し、広く永久に伝えたい、という。本書にこのような金版があったか否かは、他に記録がなく不詳。現存も諸『仲景全書』本しかない。

 本書は『(宋板)傷寒論』を、病証別に利用するための一種の索引である。すなわち全体は嘔吐門から雑門までの計五〇門に分けられ、各病証に適合する処方名と、『宋板』における処方番号が検索できるよう、各処方の冒頭に「辰中三」などと表記されている。辰は太陽病・卯は陽明病、寅は少陽病、丑は太陰病、子は少陰病、亥は厥陰病のこと。例えば「辰中三」とあれば、『宋板』太陽病中篇の第三処方として該当処方が載ることを表示している。

 当然、研究書としての価値はなく、「発明がない」などと評判は芳しくない[33]。しかし『宋板』とペアで用いるならば、臨床家にとって索引機能は便利なはずである。趙開美が『仲景全書』に本書を加えたのは、およそ本意図からであろう。和刻『仲景全書』には『宋板』がないので価値は半減しているが、昨今は前述のように『宋板』の復刻本も多い。今後いく分かは、本書の索引機能が認められるべきかも知れない。

 なお、本書に前付の「傷寒活人略例」末尾も少し利用法に触れる。脈症を略記したその前半は、朱肱の『(傷寒類証)活人書』巻一からの抜粋にも思えるが、書名の類似も相俟って本書は朱肱の書に誤認されることもある。注意すべきだろう。

 以上の理由を以て、江戸刊『仲景全書』の全体を影印復刻することにした。主底本には小曽戸洋氏所蔵の万治二年初版本を用い、運気図・音釈部分と『金匱』巻上のみ筆者所蔵の宝暦六年本を用いた。


参考文献および注

[1]真柳誠「別本『仲景全書』の書誌と構成書目」、『日本医史学雑誌』三四巻一号二八〜三〇頁(一九八八)。

[2]方春陽「趙開美対祖国医学的貢献」、『上海中医薬雑誌』一九八三年七期四八〜四九頁。

[3]張廷玉ら『明史』巻二二九・六〇〇〇〜六〇〇二頁、北京・中華書局(一九七四)。

[4]台湾中央図書館『明人伝記資料索引』七五六・七六三頁、北京・中華書局(一九八七)。

[5]杜信孚『明代版刻綜録』巻六第八〜九葉、江蘇広陵古籍刻印社(一九八三)。

[6]王重民『中国善本書籍提要』八四・二九三・五九三頁、上海古籍出版社(一九八三)。

[7]多紀元胤『(中国)医籍考』七〇〇頁、北京・人民衛生出版社(一九八三)。

[8]李経緯ら『中医人物詞典』四三九頁、上海辞書出版社(一九八八)。

[9]馬継興『中医文献学』一二五頁、上海科学技術出版社(一九九〇)。

[10]前掲文献[7]、三三五頁。

[11]小曽戸洋「『傷寒論』『金匱玉函経』解題」、『元ケ珍本 金匱要略』一八一頁、東京・燎原書店(一九八八)。

[12]筆者は台湾国立中央図書館に二組あるのを見たとかつて記憶し、前掲文献[1]に七組の現存を報告した。いま目録で確認できる一組のみにこれを訂正したい。なお中国一級の書誌学者の王重民は、『善本医籍経眼録』(楊家駱増補『四部総録医薬編』付録所引)に明刊『仲景全書』および北宋治平刊大字本『傷寒論』の影写本を所有するという矩庵の題識を引用する(07,11,23追記:この題識はいま台北故宮博物院にある旧北平図書館本『仲景全書』修刻2版にある。その北宋治平刊大字本『傷寒論』の影写本とは、小島尚真の紅葉山文庫本〔いま内閣文庫本〕による影写本を、楊守敬が切り貼りして作製した武昌医館本『傷寒論』の版下〔いま台北国家図書館蔵〕による写本の可能性が疑われる)。

[13]真柳誠・友部和弘「中国医籍渡来年代総目録(江戸期)」投稿中。

[14]前掲文献[11]、一八三〜一八七頁。

[15]前掲文献[9]、一二六頁。

[16]しかし『経籍訪吉志』は元版と比較し、「誤謬殊多」と寸評する。

[17]趙開美本は他系統の『金匱要略』よりかつて善本性が認められた。しかし趙開美が翻刻の主たる底本とした元のケ珍本が世に出現(燎原書店影印、一九八八)した以上、他版同様さしたる善本性は認められない。真柳誠「明刊趙開美原刻仲景全書本『金匱要略』解題」、『仲景全書 金匱要略方論』所収、東京・日本漢方協会(一九八五)。真柳誠「『金匱要略』解題」、『元ケ珍本 金匱要略』所収、東京・燎原書店(一九八八)。

[18]北京図書館ほか『中医図書連合目録』二二〇頁、北京図書館(一九六一)。

[19]いま香港宏業書局、一九八○年再印本による。

[20]呉謙らの『医宗金鑑』(一七四二刊)巻一〜二五は「訂正仲景全書」の名が付けられており、巻一〜一七の『傷寒論注』と巻一八〜二五の『金匱要略注』からなる。その凡例で趙開美『仲景全書』の名を挙げはするが、各々の内容編成は完全な別書である。

[21]安西安周『明治先哲医話』二五五頁、東京・竜吟社(一九四二)。

[23]陳夢雷ら『古今図書集成博物彙編芸術典』影印版一二五〇九頁、台北・芸文印書館(一九五八)。

[24]郭靄春『中国分省医籍考』一〇二六頁、天津科学技術出版社(一九八四)。

[25]王吉民「晩明医人張卿子像」、『中華医史雑誌』一九五四年三号一七四〜一七五頁。

[26]董志仁「晩明杭州医人張卿子事蹟」、『浙江中医雑誌』一九五六年試刊号四四〜四五頁。

[27]前掲文献[18]、一六二〜一六三頁。

[29]任応秋『中医各家学説』一〇五頁、上海科学技術出版社(一九八〇)。

[30]前掲注[17]所引文献。

[31]真柳誠・小曽戸洋「『金匱要略』の文献学的研究(第二報)」、『日本医史学雑誌』三五巻四号四〇八〜四二九頁(一九八九)。

[32]森立之ら『経籍訪古志』、『近世漢方医学書集成53』三九四〜三九五頁、東京・名著出版(一九八一)。

[33]前掲文献[7]、三二四頁。