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真柳誠「『注解傷寒論』解題」『和刻漢籍医書集成』第16輯所収、エンタプライズ、1992年3月

『注解傷寒論』解題

真柳 誠


 本書の著者、成無己のもう一つの著作である『傷寒明理論・薬方論』は、すでに本シリーズの第一輯に収録した。『注解傷寒論』も合わせて復刻することも考えたが、その内容は和刻『仲景全書』の『集注傷寒論』にほぼ包含されている。当初それで本書の復刻を見送っていた。しかしこれまでの日本における漢方の発展、また今後の『傷寒論』研究にも『注解』の存在は無視できない。さいわい、その最善本は和刻版となっているので、当初の予定外ではあったが、特にお願いして本書を追加することにした。

 したがって、成無己(一〇六四?~一一五六~?)と本書の成立(一一四四)等については、第一輯の拙稿[1]を参照されたい。以下は主に筆者らの報告[2]によって述べたいと思う。


一、構成と内容

 本書全一〇巻は『傷寒論』の条文と、これに対する成無己の注釈文からなる。『傷寒論』の全条文、すなわち弁脈法・平脈法・痙湿暍脈証篇から三陰三陽病篇と陰陽易差後労復病篇、および可不可の諸篇にわたり注釈を加えたものとして、本書はおそらく最初の、少なくとも現存最古の文献である。ただし末尾の可不可計八篇については、条文の多くが三陰三陽の各篇に重出しているため、それらを省いてかなり簡略化されている。小曽戸洋氏の算出によれば[3]、当部分の『(宋板)傷寒論』と『注解』の文字数は以下のように相違する。


『宋板』 『注解』
不可発汗篇 八九三 四八二
可発汗篇 一四一四 一五二
発汗後篇 一一六九 二八
不可吐篇 一七〇
可吐篇 一六五 一〇八
不可下篇 二一〇〇 一一八四
可下篇 一六二五 二三七
発汗吐下後篇 三〇五六
(総計) 一〇五九二 二一九一

 このように『注解』は必ずしも『宋板』の全条文と構成を保持しているわけではない。三陰三陽病篇でも、『宋板』の各篇頭に一字下げで記される治法と処方条文の目次を、『注解』はすべて省く。あるいは各処方構成薬名下の分量・修治の指示に続け、その気味を『注解』は付加するなどである。しかし、これら省略や付加は逆に利用に便利なため、本書は成本『傷寒論』や単に「成本」とも通称され、『宋板』に代わるテキストとして用いられた。これゆえ後世に多大な影響と問題も遺した。

 例えば『注解』は『宋板』を底本とするにもかかわらず、同一条文でも字句の相違が多い。『宋板』が明の趙開美復刻本系として普及した江戸初期以降、この相違は条文解釈の大きな問題とされた。中国では日本の『傷寒論』研究が紹介された清末になって、問題視され始めている。ただし『宋板』系復刻本や『注解』系復刻本は、それぞれ同系の版本間でも字句の相違がある。加えて、いずれの系統も元来の初版は現存しないので、事態はいっそう複雑であった。

 『傷寒論』の条文は『宋板』を底本とし、『金匱玉函経』『注解』『金匱要略』などで字句に校勘を加え、はじめて解釈の基盤ができる。当然いずれの書も原本に最も近い善本を使用すべきであるが、ごく最近まで各善本は一般に利用できる状態になかった。筆者らは『注解』以外の各善本を一九八八年に影印出版(燎原書店)し、いま『注解』の最善本もここに影印された。これで懸案の字句については、必要な全文献が出そろったことになる。

 他方、『注解』の成無己注は内経系医書、とりわけ『素問』至真要大論など「運気七篇」の所説に立脚し、『傷寒論』の研究・解釈に革新的な一面を拓いた。しかも成無己注自体、あたかも『素問』の王冰注と同様、今や古典的性格すらあり、『傷寒論』研究に不可欠となっている。この成無己注にはいくつかの特徴がある[4]。

 第一は条文の解釈に諸古典の記載を博く引用し、客観性を与えようとしていることである。引用回数の多い順に主な書名(カッコ内は回数)を挙げると、「内経」(一三八)・「経」(一○一)・『金匱要略』(三六)・『針経』(三〇)・『難経』(一五)・『脈経』(一四)・『千金方』(一一)・『金匱玉函経』(一一)・「本草」(五)・『外台秘要方』(五)・『聖済経』(三)などである。「経」は『傷寒論』の条文、「内経」は『素問』、『針経』は現在の『霊枢』[5]のこと。「本草」は『嘉祐本草』の引く陳蔵器『本草拾遺』序例文で、個々の薬物条からの引用はない[6]。

 条文の解釈に『傷寒論』の別条文を引くのは当然だが、『素問』の記述をこれ以上の回数引用して解釈するのは、際だった特徴といえよう。さらに引用文の多くは同書の「至真要大論篇」の文章で、それらは弁脈法・平脈法・傷寒例の三篇に集中的に引用(計五八回)されている。

 特徴の第二は、処方の解説で構成薬の気味を利用した薬理説の多用と、薬能・方能の簡称化が一貫してなされていることである[7]。

 その論旨には問題点が多々あるが、いわゆる「金元薬理説」のさきがけとして、劉完素・張元素・王好古・李東垣以下の諸家に与えた影響は注目されるべきであろう。論法の子細は『傷寒明理論』の解題[1]を見られたい。

  ところで本書の通行諸版には、いずれも運気論の図説が前付されている。ここに影印した和刻仿元版にはないが、和刻『仲景全書』の中にある。これが成無己の作か否か、今のところ確証は何もない。筆者はいくつかの理由から成無己以降の可能性を疑っているが、これを前付する元版が現存するので、比較的早い段階からあったものと思われる。


二、版本

 本書の初版は成無己の没後、金の大定十二年(一一七二)に出た。この金・初版本の影写本がかつてあり、それを記録した『愛日精廬蔵書志』に一一七二年の魏公衡序・王緯序・王鼎後序が転載され、みな本書を初めて刊行するという。また本書の成立を示す厳器之の序年は、金の年号を冠し「皇統甲子(一一四四)」と記される特徴がある[8]。当影写本の所蔵記録は以後なく、散佚の可能性もある。ただし後の復刻は多く、現存版本のみで三〇種を越す。本書が後代いかに歓迎されたかを物語ろう。よって以下には明代までの中国刊本、および江戸の刊本を紹介することにする。朝鮮刊本の記録は知られていない[9]。

[中国刊本]
  ①元初刊本 北京大学図書館蔵。李盛鐸が一九二一年に入手した書で[10]、李氏の記録[11]では書式が小字密行で、先の金刊本と相合するという。書名を「傷寒論注解」とし、運気図説を付すが序文等は一切なく、巻一〇末葉を欠く。

 ②元・大徳八年(一三〇四)孝永堂重刊本 孫星衍の『平津館鑑蔵書籍記』に著録される[8]。書名を「傷寒論注解」とし、「甲子(一一四四)」とのみ記す厳器之の序と運気図説、および各巻末に音釈を付す。他の序文はない。毎葉二四行・行二四字で、金刊本とは版式が違うという。その後の伝存記録はない。

 ③元・至正二十五年(一三六五)西園余氏刊本 北京図書館蔵。書名を「傷寒論注解」とし、運気図説を付す。毎葉二四行・行二四字で、小字の双行も二四字。

  ④元刊本 静嘉堂文庫蔵(図1)。当本は陸心源の旧蔵書。現存は巻四の途中から巻一〇末までの本文のみで、他は一切ない。巻九末葉のみ匡郭が大きい。毎巻頭・巻末の書名はみな「傷寒論注解」とし、毎葉二二行・行二〇字、双行の細字も行二〇字。この版式等は、後述の躋寿館仿元版(江戸刊②本)と一致する。(2009, 5, 28補:左図版の明初仿元刊本が国家図書館〔台北〕にあり、日本旧蔵本で後述の躋寿館刊本と酷似する。ただし躋寿館など多紀氏の蔵印記はないので別書だろう)

 ⑤明・正徳四年(一五〇九)熊氏種徳堂刊本[12] 宮内庁書陵部蔵。毛利高標が文政年間に幕府へ献上したもの。巻一と二を欠く。

 ⑥明・嘉靖二十四年(一五四五)汪済川刊本 東北大学付属図書館ほか蔵。当版はかつて『四部叢刊』に影印収録(図2)され、現在それに基づく鉛印本が中国・香港・台湾より出版されており、入手は容易。『経籍訪古志』は当版の底本を元版(④に相当するか)と認め、当版には誤謬が多いという。版心下部には刻工名があり、『名医類案』の編者で、汪済川と同郷の江瓘の序も付けられている。

 ⑦明・嘉靖三十九年(一五六〇)熊氏種徳堂春軒刊本 国立公文書館内閣文庫、武田科学振興財団杏雨書屋蔵。内閣文庫本は江戸医学館の旧蔵書。『訪古志』は当版の底本を前掲の⑥とする[13]。しかし同じ熊氏種徳堂刊の⑤といかなる関係にあるかは未詳。(2009, 5, 27補:隆慶庚午(四年、1570)熊氏種德堂春軒刊本もあり、台北故宮に所蔵される)

 ⑧明・万暦二十七年(一五九九)趙開美刊『仲景全書』本 江戸幕府の紅葉山文庫旧蔵本が内閣文庫に架蔵されているほか、中国と台湾にも現存する。『訪古志』は当版の底本は元刊本であり、当版も誤謬が多いという。北京・人民衛生出版社の影印本があり、入手は比較的容易。

 ⑨万暦二十九年(一六〇一)呉勉学編刊『古今医統正脈全書』本(図3)『傷寒明理論』などと一括して同時に単行もされており、現存本は多い。『訪古志』は当版を元版の翻刻とするが、⑧の『仲景全書』本で添付された「医林列伝」を転録するので、⑧も参照されたと思われる。『訪古志』はやはり誤謬が多いと評する。版心下部に刻字数を記す葉もある。

 ⑩明・崇禎(一六二八~四四)頃・程衍道刊本 台湾国立中央図書館蔵(図4)。程衍道は『外台秘要方』の刊行でも知られる明清間の医家。各巻頭などの校訂者に程衍道の名を刻す以外、他はすべて⑥の汪済川本と同じ。すなわち⑥の版木の一部を補刻し、印刷したのが当版である[14]。汪済川も程衍道も安徽省歙県の人なので、同地に版木が伝わっていたのだろう。

〔江戸刊本〕
 ①元和寛永前期頃(一六一五~三三)古活字本 小曽戸洋氏蔵(図5)。当版はかつて小島尚真が『医籍著録』(台北・故宮博物院蔵)で渋江家蔵本、川瀬一馬氏が『古活字版之研究』で安田文庫所蔵本を報告している。いずれも現存は不詳で、これまで斯界では『宋板』の岡島玄亭本(一六六八)が日本初の『傷寒論』印刷本と考えられていた。しかし小曽戸氏が当版を再発見し、報告したことで[15]、通説は覆された。底本は中国⑥の汪済川本で、序と運気図説の部分のみは整版で刷られている。

 ②天保六年(一八三五)躋寿館刊本 内閣文庫、矢数道明氏ほか蔵。当版は多紀家所蔵の元版(実は明版らしい)を底本とし、多紀元堅の代に躋寿館で模刻したもの。『注解』としての序は、厳器之が年を「甲子」とのみ記すものだけがある。運気図説はない。巻一~三の巻頭・巻末は書名を「注解傷寒論」とし、巻四以下はみな「傷寒論注解」とする。毎葉二二行・行二〇字、双行の細字も行二〇字。版心上部にその一葉の文字数(大字十細字)が刻される葉もある。これは彫板工賃の目安で、底本にもともと付けられていたもの。

 さて和刻の『注解』は右の二種だけであるが、②は彫板の精緻さにおいて底本のそれを上回るものがある。江戸後期の刻板技術の真骨頂といっても過言ではなかろう。これにもまして、②の底本は現存諸版の筆頭に掲げられる善本であった。これを『訪古志』[16]は次のように説明する。

注解傷寒論十巻元代刊本 聿修堂蔵
 この本には刊行年月が記されていない。『愛日精廬蔵書志』は金刊本の影写本を載せて厳器之の序に「皇統甲子歳中秋日」と題すが、この本では「皇統」の二字がない。器之が宋の遺民のため金の年号を記さないこと(『明理論』の序も同じ)を考えれば、この書は成無己の旧本を元代に復刻したものと思われる。〔森立之が案ずるに、この本は紙・墨・字体をよく見えると元版ではない。元版を明代に翻刻したものである。…〕。

 すなわち版本関係は、成無己旧本→元刊本(静嘉堂文庫蔵④に相当か)→明仿元刊本→躋寿館②本となる。鑑識眼に優れた書誌・考証学者の見解であるから、従うべきだろう。とすれば②は、最も成無己原本の旧態を留めた『注解』ということになる。事実、他の明版と比較すると、本文・注文とも文字の相違が多い。そのほとんどは、②本に文字の妥当性が認められる。ただし三度の刻板を介しているので、全文字が成無己の旧というほどではあるまい。少なくとも、現在入手し得る限りで最善版本の一つ、と言うことができよう。

  なお②の底本とされた明仿元版は、その後の伝存は不詳だが、明初の仿元版で多紀氏本ではない日本旧蔵書が国家図書館〔台北〕(旧中央図書館 )の書号05897(左図)にある。今回の影印復刻は前述の理由で、矢数道明氏所蔵の②本を底本とした。


三、日本への伝来と受容
 
 『傷寒論』はいつ日本に伝来したのか。従来より諸説は多いが、最近いくつかの新知見が得られている。

 現在のところ最も早い記録は、惟宗具俊の『本草色葉抄』(一二八四成)に引かれた『傷寒論』である[17]。ここでは「連軺」という薬名の出典に『傷寒論』を挙げる。この文字で記す連軺は『傷寒論』の麻黄連軺赤小豆湯が唯一で最初。また『色葉抄』が引く他の文献に、『傷寒論』の当部分は引用されていない。したがって『色葉抄』は『傷寒論』から直接引用しており、その成立の一二八四年以前に伝来していたと知れる。平安後期から鎌倉の当時、渡宋僧や宋船の来日は多く、これらによって将来されたのであろう。

 『色葉抄』は連軺の下にさらに「連翹根也」と記している。これは『傷寒論』の宋臣注に由来し、『宋板』では「連翹根是」、『注解』では「連翹根也」となっている。是と也の草体は大差ないが、『色葉抄』の草体は也に近い。したがって即断はしかねるが、『色葉抄』が引くのは『注解』系の可能性が考えられる。とすれば、それは『色葉抄』の成立した一二八四年以前に刊行された『注解』か、その伝写本であったろう。

 鎌倉末期の梶原性全『万安方』(一三一五成)巻八にも『傷寒論』が引用されている[18]。この引用文は『注解』と合致せず、『宋板』と完全に一致するので、性全が『宋板』に基づくものを利用したのは疑いない。南北朝時代では、有隣『福田方』(一三六二成)に『傷寒論』が引用されている。そこには「注云」として成無己注まで引かれるので[19]、有隣が『注解』の版本か伝写本に拠ったことも明らかである。

 さて江戸の前半、最も流布したのは『注解』系の『傷寒論』であった。その嚆矢は先の古活字版『注解』。これに次ぐ万治二年(一六五九)初刊の和刻『仲景全書』所収『集注傷寒論』も、『注解』に基づく。同じく万治頃の活字本『傷寒論』も、『注解』から成無己を削除したもの[20]。江戸の中期以降、最も広く用いられた香川修庵の小刻本『傷寒論』も、この活字本と同類である。

 こうして江戸後期には『注解』から成無己注を除いた奇妙な『傷寒論』のみ横行し、成無己注自体は古方派の排撃もあり埋没してしまった。この現象に対し出版されたのが、先の多紀氏躋寿館による元版系『注解』の影刻である。しかし『注解』全体の和刻は、古活字本と躋寿館影刻本の二版しかない。中国は清代だけでも十数版をゆうに上回り、その差は両国の『傷寒論』研究の相違を端的に物語るものといえよう。


文献および注

[1]真柳誠「『傷寒明理論』『傷寒明理薬方論』解題」、『和刻漢籍医書集成』第一輯、エンタプライズ(一九八八)。

[2]真柳誠・小曽戸洋「漢方古典文献概説25 金代の医薬書(その一)」、『現代東洋医学』一〇巻三号一〇一~一〇七頁(一九八九)。

[3]小曽戸洋「『傷寒論』『金匱玉函経』解題」、『元鄧珍本 金匱要略』一七一~一九五頁、東京・燎原書店(一九八八)。

[4]任応秋『中医各家学説』九四頁、上海科学技術出版社(一九八○)。

[5]友部和弘・小曽戸洋・真柳誠「『霊枢』の古版-『針経』の刊行事実」、日本東洋医学会第四一回学術総会口演抄録・『日本東洋医学雑誌』四〇巻四号二九三頁(一九九〇)。

[6]成無己は各典籍から自説につごうのよい部分のみいく度も引用する傾向があり、牽強付会ともとれる点も少なくない。また引用文には字句の省略や改変も多々みられるが、まれには所引文献の校勘に利用できるものもある。

[7]真柳誠「『傷寒明理論』『注解傷寒論』に見る薬理説の検討」、日本薬学会第一〇五年会口演抄録(一九八四)。

[8]岡西為人『宋以前医籍考』三六三~三六五頁、台北・古亭書屋(一九六九)。

[9]ただし『医方類聚』には「傷寒論注解」の書名で『注解』が引用されているので、朝鮮に金版ないし元版が当時つたえられていたのは疑いない。

[10]かつて筆者は文献[2]の注で、北京大学図書館の蔵書分類から当書を李氏の旧蔵ではない判断して記した。誤認であったので、今ここに訂正する。

[11]李盛鐸『木犀軒蔵書題記及書録』一五頁、北京大学出版社(一九八五)。

[12]岡西(『中国医書本草考』二三三頁)は、熊氏(宗立)の活躍年代と当版の刊年に隔たりがあることから、「正徳」が「正統」の誤りでなければ、当版は熊宗立が以前刊行したものの再刻ではないかと疑う。

[13]上掲文献[8]三六六頁で、岡西は当版の存在に気づかず、このため『訪古志』の記す熊氏明(種の誤植)徳堂本を正徳四年刊本と誤認し、正徳刊本が後の嘉靖刊本を底本とするはずがないので、『訪古志』には何か間違いがある、と失考している。

[14]かつて筆者は文献[2]で、当版に刻工名があることや字様・版式等が嘉靖頃の宋板に似ることから、これを程衍道の作為と記したが、誤認であった。

[15]小曽戸洋「日本最古の『傷寒論』の版本-古活字版」、『漢方の臨床』三七巻三号二~四頁(一九九〇)。

[16]森立之ら『経籍訪古志』、『近世漢方医学書集成53』三九三頁、東京・名著出版(一九八一)。

[17]真柳誠・小曽戸洋「日本における『傷寒論』の渡来期について」、『日本東洋医学雑誌』四〇巻四号一一五頁(一九九〇)。

[18]龍野一雄氏は「『万安方』は傷寒の治療は唐宋の医方によって行われ、『傷寒論』の伝わった形跡はまだない」(「傷寒論の研究 第二篇 傷寒論研究史」、『日本東洋医学会誌』一巻三二頁、一九五〇)と断定するが、これは早計にすぎる。

[19]小曽戸洋「『福田方』組成文献の解析」、『日本医史学雑誌』三三巻一号三二頁(一九八七)。

[20]当版は国立公文書館内閣文庫に、多紀氏旧蔵本が一本現存する。処方の薬名下に気味を記す点などより、『注解』系から作製されたことが分る。